長山佐七と寒水石

常陸多賀駅前に1898年(明治31)に建立された大理石製の「下孫停車場紀年碑(日立市指定文化財)がある。この碑を彫工したのが、国分村大字下孫(現日立市多賀町)の長山佐七である。

佐七の父儀平、そして祖父の佐七、三代にわたる寒水石(大理石)の採掘と工芸品制作について紹介する。

参照文献

目次


事歴概要

「史料1 長山佐七の寒水石工場」にもとづいて年表ふうにまとめる。

寛政6年(1794) 初代長山佐七が寒水石の採掘と工芸品制作業を開く。そのきっかけは助川村にやってきた信濃国の石工について学んだことにある。

—— その後水戸藩から命じられて佐七はさまざな器をつくるようになる。
佐七の作品で広く知られたのは富士石である。これは寒水石のなかで白と青が交じったもの選び、雪を頂き中腹に雲がたなびく富士山の形に作ったものである。

『郷土ひたち』第41号表紙から

 文化6年(1809)9月28日、水戸藩中村与一左衛門から石神組郡奉行加藤孫三郎へ次のような通知があった。
 細工人の太田九蔵に贈答用の寒水石製花瓶を制作するよう命じたが、九蔵から久慈郡大森村(常陸太田市)あたりの山で寒水石を探したが良品がみつからず、そこで再び諏訪村の水源地近辺で採取することにしたと申出があった。採取にあたっては助川村の石切職人を使いたいと言うので、この件承知しておいてほしい。(この記事の史料本文はこちら 石灰石と寒水石 に収録した「石神組御用留」の記事を参照)
 この通知は佐七との関連を直接示すものではないが、寒水石が工芸品の石材として注目されていたことを示す。

  1. *中村与一左衛門:寛政5年(1793)「水戸藩御国武鑑」(茨城県立歴史館史料部県史編さん室編)によれば奉行三人の内の一人、天保年間の『江水御規式帳』茨城県史編さん近世史第1部会編)によれば、御用達5人のうちの一人。
  2. *細工人:「武家名目抄」(『故事類苑』)に「凡工匠のうち、屋舎をつくるものを大工といひ、器材をつくるものを細工といふ、……共に闕べからざる有用な職なるが故に、幕府より大名諸家にいたるまで、皆此両職を扶持し置て事を辨ぜしなり」とある。
  3. *太田九蔵:実名歳永。天明2年(1782)3両2人扶持の細工人となる。文化13年(1816)59歳で歿す(「太田氏系図」 2023年4月5日閲覧)

嘉永5年(1852) 佐七歿、80歳。子儀平、業を継ぐ。

—— 水戸藩、普請方太田倉吉*に命じて幕府献上品として金魚鉢をつくる。佐七、その制作を請負う。

  1. *太田内蔵吉歳就のことか。歳就は天保10年(1839)12月4日細工人となる(前出「太田氏系図」)

明治7年(1874) 寒水石採掘のため借区を申請。

 明治6年日本坑法が制定される。鉱物資源は国の専有物とされ、民間鉱業者は15年と期限として鉱区を借用し請負稼行する制度となった。
明治13年と14年の坑業一覧表によれば、儀平と佐七の名で大久保村と滑川村に借区している(史料5)

明治8年 佐七家業を継ぐ。34歳

明治9年 工部省大鳥工部大輔と「伊太利人ランクサ」らの大理石調査に佐七が案内役として随行。ランクサから小型鑿器(のみ)の使用を奨められる。

「大鳥工部大輔」とは大鳥圭介のことか。大鳥は明治10年(1877)に工部大書記官に任じられている。「ランクサ」とは工部省営繕課雇のイタリア人彫刻師V.ラグーザのことか。明治10年5月1日から11日にかけて、ラグーザは仮皇居内謁見所に使用する石材調査として諏訪村と真弓村を訪れる。 「史料 工部省イタリア人彫刻師による諏訪村と真弓村の寒水石調査 2」
 明治政府は明治9年11月6日工部美術学校を開設し、画学と彫刻の2学科を設置し、イタリア人3人を招き教師とした。そして同年11月25日、彫刻学科生徒に限り官費によって就学させることとした。その理由は西欧に比して日本において彫刻が芸術としての価値を認められていないからだと以下のように説明する(『工部省沿革報告』明治22年刊)

抑も本邦の彫鏤師と称するものは概ね傭職の賎業に属し、絶て上流人士の之を学ひ以て身を立て名を顕すの技藝と為すものなく、欧州に在て貴重せらるヽ彫刻学の如きも亦其世に裨益あることを了知する者なし、是此法規を特設して之を奨励する所以なり

明治10年 第一回勧業博覧会に寒水石を出品、入賞を逃す

 この年の8月から11月にかけて東京上野公園で開かれた博覧会に儀平は大久保村で採取した寒水石を出品。茨城県からは次表のとおりの6件の寒水石・大理石の出品があった(『明治十年内国勧業博覧会出品目録2』国会図書館デジタルコレクション)

種類産地出品者
縞寒水石久慈郡真弓村太田村 江幡富重
縞寒水石多賀郡諏訪村諏訪村 鯨岡次八郎
寒水石同郡大久保村下孫村 長山儀平
寒水石同郡諏訪村諏訪村 小野三一郎
寒水石同郡大塚村上相田村 近藤忠平
斑紋大理石久慈郡大森村新治郡土浦町 川辺審吾
 そのほか日立市域を採取地とする石類の出品は以下の通り
銅礦石・荒銅多賀郡宮田村助川村 長山万之介
銅礦石助川村 長山万之介
備後砂砂沢村砂沢村 鈴木良介
石灰多賀郡助川村助川村 神永信明
水晶砂多賀郡水木村字泉ヶ森河原子村 鈴木誠蔵
砥石多賀郡成沢村成沢〈ママ〉村 助川三之允
硯石多賀郡諏訪村諏訪村 助川三之允

明治11年 東京の石問屋小川仙太郎とともに工部省から謁見所用石材(大理石)の調達を命じられ納入する。

  1. *小川仙太郎:1979年(明治12)に皇居謁見場に用いる大理石の納入を請負い、諏訪村の寒水石を会瀬浜から廻船によって運びだそうとしたが、破船し、大理石は海中に沈む。 「史料 諏訪村の寒水石、輸送中に海の底へ」

明治12年 東京の石工山崎喜三郎らと宮内省はじめ東京からの御用石材の注文に応ずる。

  1. *山口喜三郎:1895年(明治28)10月竣工の旧帝国京都博物館建設に石彫刻工として参加する(旧帝国京都博物館建築資料>棟札 e国宝 2023年4月5日閲覧)

明治18年 水戸常磐神社前の水神社に八角の井筒を作る。

明治19年 儀平歿、73歳

明治22年 ロシア公使館建築資材を供給

明治23年 工業振興(石材彫刻)に功績があったとして県知事から奨励金20円を下付される。

同年 天皇・皇后の水戸行幸啓のおり、佐七制作の寒水石皿を買上げ

明治25・26年 軍艦装飾用石材を横須賀鎮守府へ納入

明治28年 第四回内国勧業博覧会に寒水石による作品4点を出品。うち桐葉型平皿が褒状をえる。

 明治28年4月から7月にかけてに京都の岡崎公園おいて開催されたこの博覧会に佐七は寒水石の皿1点、花瓶2点、香炉の計4点を出品した。茨城県からは寒水石による作品を出品したのは佐七のみである。
 審査員の評価は「桐葉文様の平皿は薄くて形もよく、かつ廉価であることは勉労のたまもので評価できる。だが磨きが不足し、また葉脈の彫りが弱い。この2点が改善されていれば、さらに上の賞をとれたであろう」とする。そのほか花瓶・香炉についても改善点をあげる。 とはいってもこの展覧会に佐七が出品した分野(工業>石材製品)で有功賞が二人、褒状がほかに6人のみであった。
 審査員評の原文はこちら 史料2 1895年(明治28)第四回内国勧業博覧会 審査評

明治31年 前年の常磐線開通にともなう下孫停車場(常陸多賀駅)紀年碑を彫る

昭和7年(1932)3月 81歳で没する(墓碑)

史料

史料のテキスト化にあたって

史料1 明治35年(1902) 長山佐七の寒水石工場 

[本文]

寒水石工場 附其事歴

眞弓山ニ在リ國分村字下孫長山佐七君ノ獨力主宰スル所ナリ、夫レ世上寒水石ノ産出地之レナキニアラズト雖モ、各地ニ比シテ尤モ優等絶品ナルハ普ク内外人ノ確知スル處ナリ、現ニ年々ノ輸出夥シキニ徴スモ販路ノ極メテ廣大ナルモノアルハ知ルヘキナリ、曾テヨリ現ニ大阪府ニ支店ヲ設ケ又タ、東京京橋區木挽町ニ並ニ横濱市ニモ各支店ヲ置キ、専ラ内外人ノ需用ニ応シツヽ在リ、聞ク長山佐七君ハ年稍ヤ老タレトモ公共ノ爲メニハ一身ヲ挺シテ奔走盡力毫モ倦ム處ナシト、 盖シ今日ノ國益ハ外國市塲ニ輸出シテ其利ヲ収ムルヨリ急ナルハナシ、区々内國人ヲ相手トシテ利益ヲ争フガ如キハ、取モ直サス蝸牛角上ノ一私事タルニ過キス、思フニ寒水石ハ欧米商界ノ注目ヲ惹ク已ニ久シ、近來ハ英人佛人遥々來テ實地ヲ視察スル者アリト云フ、此際天然ノ富源ヲ利用シ以テ與國ノ公利公益ヲ企画セバ獨リ一長山君ノ爲メノミナランヤ、洵ニ國家ノ一大富源タルヤ智者ヲ待ツテ知ラサル也、吾人ハ聊カ由來ヲ記シテ以テ参考ニ供セントス、
産地製造塲
茨城縣常陸國多賀郡國分村大字下孫五十七番地ニ於テ製造ス
素質
常陸國久慈郡世矢村大字眞弓字屏風ヶ嶽寒水石
開業沿革
今明治三十五年ヲ距ルコト百九年前、寛政六年中三代ノ祖長山佐七始メテ開業ス、初メ信州石工某來テ同郡助川驛ニ住シ、寒水石ヲ以テ巧ニ種々ノ器品ヲ製ス、佐七幼年ヨリ石工ヲ好ミ此匠ニ従テ業ヲ習ヒ、年廿二家ニ歸リテ製作ヲ専ラニス、水戸家御用ノ名ヲ蒙リ諸器ヲ作リ、年々此レヲ納ムル者頗ル多シ、遂ニ良工ヲ以テ名アリ、水戸烈公弘道舘ヲ設ケ、舘記ノ碑ヲ建ツルニ方リ、佐七年老テ工ニ従事スル能ハス、弟子黒澤常吉命ヲ承テ石ヲ山中ニ採リ業ヲ終ヘスシテ止ム[碑ハ他人ノ手ニテ成功セリ]佐七寒水石中ニ青白交繍シテ白然ニ雲煙ノ狀ヲ顕ハスモノヲ擇ヒ富士山ノ形ヲ作ル、上方雪ヲ戴キ中腹雲ヲ横ヒ、雅致頗ル愛スヘシ、四方争テ之ヲ購ヒ富士石ノ名大ニ高シ、今ニ至ルマテ隣近之レヲ作ルモノハ皆佐七ノ遺法ナリ、嘉永五年九月死、年八十才、二代儀平父ノ業ヲ襲キ水戸家御用ヲ勤ム、水戸家金魚鉢ヲ幕府ニ献セント欲シ、普請方太田倉吉其事ヲ擔當シテ儀平ヲシテ之ヲ作ラシム、藩家其巧ヲ嘉ミシ金百疋ヲ賜フテ之ヲ賞ス、明治七年始メテ寒水石借區ヲ出願ス、儀平明治十九年死ス年七十三、
三代佐七石雲ト號ス、父ニ習フテ石器ヲ製ス、明治八年家ヲ嗣キ家業ヲ修ム、翌年大鳥工部大輔、伊太利人「ランクサ」氏ト共ニ寒水山ヲ調査センカ爲メニ當郡ニ來ル、佐七案内シテ山ニ登ル、「ランクサ」氏佐七用ユル處ナル舊形ノ鑿器ヲ見テ、其疎大ニシテ石ヲ損スルコト多ク工事ニ不利ナルヲ告ケ、而シテ小形ノモノヲ用ユルノ利ヲ説キ、其製ヲ授ク、是ヨリ工夫ヲ凝ラシ其教ノ如キ鑿器ヲ作ルニ工程ヲ進ムルモノ他日ニ倍ス、
十一年東京石問屋小川仙太郎ト俱ニ工部省御用ヲ命セラレ、謁見所御用石材ヲ調進スルモノ大小角材二千四百挺ナリ、十二年ヨリ東京石工高橋太助、山崎喜三郎ト俱ニ宮内省ヲ始メ有栖川宮、北白川宮、伏見宮、閑院宮、御用石材ヲ納ムルモノ十七ヶ年間ナリ、
十八年中、水戸常磐神社前ニ直徑四尺五寸ナル八角ノ井筒ヲ作ル、神社参拜人ノ之ヲ見テ寒水石ノ用ヲ知リ、遠近來テ諸種ノ器品ヲ注文スルモノ殊ニ多シ、二十二年露國公使館建築用石ヲ作リシニ、爾来販路次第ニ露国ニ廣マリ年々輸出スル者亦多シ、
二十三年一月、茨城縣知事ハ管内農工業者有功者十八人ヲ擇ヒ、金ヲ賜フテ此ヲ奨勵ス、佐七擇ハレテ其一人タリ辞令書左ノ如シ
 金貳拾圓
父祖ノ遺業ヲ襲キ寒水石彫刻ノ業ニ従事シ、爾后其技ニ長シ石材彫刻中其萃ヲ抜クニ至ル、依テ頭書之通リ下與候條益勵精スヘシ
  明治二十三年一月二十日 茨城縣知事 安田定則
仝年(23年)十一月
天皇陛下
皇后陛下水戸ニ行幸啓遊ハサルトキ、寒水石皿御買上アラセラルヽヲ以テ磯貝茨城縣書記官ヨリ左ノ書ヲ付與セラレタリ
 本縣勸業見本品陳列塲ヘ兼テ出品ニ係ル其許製造ノ寒水石皿、今般
 行幸啓ニ際シ行在所ニ於テ
 御親覽被遊尚御買上相成候ニ付テハ将來一層勵有之度知事ノ命ニヨリ此段申入候也
   明治廿三年十一月一日 茨城縣書記官 磯貝靜藏
        長山佐七殿
同月十勝石彫刻出來送附セシニ該品直チニ
皇后陛下ヘ献納シタル由ニテ左ノ書信アリ
過日御來訪被下別シテ忝ナク御禮申上候、陳ハ御賴ミ致候十勝石殊ニ御見事ニ御出來相成、幸兩陛下行幸啓ニ際シ直チニ皇后陛下ヘ献納仕候處、御親覽御滿足被爲在 皇太子殿下ノ御手遊品トシテ御持参被遊候、實ニ貴下ノ名譽此上モナキ次第ニ御座候、付テハ彫刻料御知ラセ給度、且別封粗品貳御高禮ノ印迄進呈致候、御笑留被下度候頓首
                   安 田
       長 山 様
二十五年軍艦装飾石材八個ヲ横須賀鎭守府ヘ納ム
二十六年同石材貳個ヲ同府ニ納ム
二十七年三月銀婚ノ大式ヲ祝シ奉リ、寒水石直徑五寸ノ玉貳顆ヲ献シ、左ノ書面ヲ下與セラレタリ
 一 白寒水石玉  貳顆       長山佐七
 右大婚二十五年御祝典ニ付献納候段
 御滿足被思召候事
  明治二十七年三月廿三日 宮内大臣子爵 土方久元
廿八年第四回内國勸業博覽会ヘ寒水石彫桐葉形平皿ヲ出品シ、左ノ褒狀ヲ授與セラレタリ
    第四回國内勸業博覽会褒狀
             茨城縣多賀郡國分村
寒水石〈彫〉桐葉形平皿           長山佐七
       審査官  河原徳立
            従六位工學博士中澤岩太
            勲五等 鹽田眞
       審査部長 正四位勲四等 前田正名
       審査總長 正三位勲二等 九鬼隆一
 審査總長ノ申告ヲ領シ茲ニ之ヲ授與ス
  明治廿八年七月十一日 総裁大勲位 彰仁親王
ママ三十三年 皇太子殿下御結婚ノ大式ヲ祝シ奉リ、寒水石製花瓶壹顆并同製桐葉形皿壹顆ヲ献ジ、左ノ書面ヲ下與セラレタリ
             茨城縣多賀郡國分村
                    長山佐七
 一 寒水石製花瓶     壹顆
 一 同製桐葉形皿     壹顆

皇太子殿下御結婚奉祝ノ爲メ献納候段御滿足被思召候事
 明治卅三年五月十日  東宮太夫侯爵 中山孝麿

史料2 明治28年 (1895)第四回内国勧業博覧会 審査員評

茨城県長山佐七出品中桐葉式ノ白石平皿ハ稍薄製ニシテ形状佳ナリ、其價亦卑キハ勉労ノ製トナス、只惜ム磨□光滑ナラス、葉脉自カラ気力ニ乏キヲ、若シ此二闕點ナカリセハ優賞ニ上リタルヘシ、他ノ花瓶ノ四脚ナルハ洋燈臺ニ類シ長方形ノ香爐三足圓盤共ニ重厚ニ過キ室内用ニ適ス、而シテ是等ノ器物ハ概シテ白石ニ適セス、若シ墓前ニ供スルモノトセハ先ツ形式ノ改善ヲ要スルナリ

史料3 明治43年(1910) 茨城県特有物産紹介新聞記事

●本県特有物産の栞
本県は南西に筑波加波の連峰を控へ北に野州、磐城の連畳を背にし東南太平洋を擁して沃土汎く各種産物の饒多にして且つ品質の良好なるは夙に関東に鳴る、然るに事実は却つて他地方産の劣品にして價格不廉のものを以て尚本県産物の販路を抑壓されつゝあるは什麼の理由に依るか、之れ一は商業の錬磨足らざるに起因すと雖も又以て製造主の苦心を江湖に伝へざる為めならざるを得ず、茲に於て本社は本県各種産物の特長を紹介して聊か商業振作の一助となさんとす
 ▲松花酒と八醸酒 [略]

▲美術装飾品 寒水石 多賀郡国分村下孫 長山佐七氏 今を距ること百二十有餘年寛文六年中三代の祖長山佐七氏に始る、初め信州の石工某助川に住し寒水石を以て巧みに種々の器具を造る佐七氏此匠に就て学び家に帰りて斯業に従事す、以来水戸家御用を命ぜられ諸器を納むること年あり、良工の名遠近に鳴る、寒水石中青白交繍するものを擇び富士山を彫む、上方雪を頂くが如く中腹雲を横ふ雅致頗る妙、世人名づけて富士石と称し争ふて之を需め声價頗ぶる振ふ、隣近各地に伝ふるもの之皆佐七氏の遺法なり、二代儀平氏も亦父の業を継ぎ水戸家の御用を蒙むる、時に水戸家より幕府に金魚鉢を献納せんとし之を造らしめ其技の勝りたるを嘆賞し金百疋を賜はる、当主三代佐七氏は石雲と号し父に学んで技又た長ず、明治九年大鳥工部大輔伊太利人ランクサ氏と共に来り、教ふるに採掘の法を以てす、十一年工部省御用を命ぜられ石材を調進する実に二千四百挺、各官家の御用を蒙る、十八年常磐社前に直径四尺五寸なる八角の井筒を造る等数ふるに遑あらず、卅三年両陛下水戸行幸の砌り寒水石皿の御買上の栄を賜はり、内国博覧会、共進会等に出品して賞を受けざる事なく老て其技益々神に入る

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国産 寒水石(一名大理石) 礦区 真弓山・諏訪山・助川
 如何なる巨材如何なる多数にても御注文に応ず
稲田 花崗岩 数万坪の礦区あり
 本店 多賀郡国分村下孫 長山佐七
 支店 西茨城郡稲田   長山虎吉

史料4 1923年(大正12) 多賀郡内の寒水石

寒水石[大理石] 鮎川村大字諏訪及高鈴村大字助川より産す、諏訪より出づるは白寒水にして助川より出づるは鼠寒水なり。装飾的建築材、石碑、装飾器、配電盤、其他工藝品材料の用途あり、年産額七千三百五十才此價格一萬五千三百七十円に達す。今国分村大字下孫の長山佐七の拂下なり、寛政の初め信州より石工某来りて助川に住し、寒水石を以て巧みに種々の器物を製す。先代佐七従つて業を習ひ、後家に歸りて専ら其製作に従事す。当時水戸藩の御用の命を蒙りて良工の称あり。烈公弘道館記の碑を建つるに際し、命を受けて弟子某をして撰石せしめたり。佐七寒水石中に青白交繍して自然に雲煙の状を顕はすものを撰び、富士山形の置物を作る、雅致愛すべし、今尚之を作るもの皆佐七の遺法によるなり。現代佐七に至るの間諸種の器を製作し、之を貴顕に献じ又は博覧曾共進会等に出品し、或は之を海外に輸し、聲價大に揚り需用従つて増加するに至れり、華川村大字花園よりも質の粗なる寒水石を出す、寒水霰[人造石の材料]又は寒水製粉[磨粉又は米搗砂]となす、諏訪にも寒水製粉所あり。

史料5 明治13・14年「坑業一覧表」から

礦名産地借区坪数
借区税
開坑年月掘出高
製品高
売高
代価
入費
人名
1880年(明治13年)
寒水石多賀郡大久保村
字誓立
500坪
50銭
8年10月13,170斤
 –
13,170斤
112円50銭
75円75銭
多賀郡下孫村
長山儀平
同郡滑川村
字白石沢
1,000坪
1円
8年10月 –
 –
 –
 –
 –
同上
同郡大久保村
字誓立外1ヶ所
1,000坪
83銭3厘
13年3月5,625斤
 –
5,625斤
45円
27円90銭
多賀郡下孫村
長山佐七
1881年(明治14年)
寒水石多賀郡大久保村
字誓立
500坪
50銭
8年10月11,250斤
 –
12,250斤
90円
58円
多賀郡下孫村
長山儀平
同郡滑川村
字白石沢
1,000坪
1円
8年10月 –
 –
 –
 –
 –
同上
同郡大久保村
字誓立外1ヶ所
1,000坪
1円
13年3月6,245斤
 –
6,425斤
50円
32円
多賀郡下孫村
長山佐七

史料補遺 明治43年(1910) 真弓の寒水石紹介新聞記事

●真弓の寒水石(下) 八幡太郎義家の古跡
▲寒水石の販路 寒水石材は如何なる方面にまで販路を拡めてゐるかといふに、お膝元の県内は至つて少なく東京、横浜、神戸、京都、大阪、北海道等が重なるもので、海外は満州、露西亜、天津、上海、香港等にまで販賣してゐる、此寒水石は至つて軟かい質であるから採掘を初めた当時は交通機関が不便のみならず道路の険悪であつたが為めに運搬上非常なる困難に遭遇したけれど、今日では運搬上大に便利を得る様になり、随つて需用の高も多くなつたのである
▲寒水石材の用途 此寒水石は如何なる所に用ゐらるゝかと云へば先づ建築用材柱、双盤、柱頭、敷石、階段、窓枠、床板、陳列臺、浴室、便所、洗面臺、化粧臺、配電盤、時計臺、灯籠、紀年碑、玉石、水盤、富士形石、其他装飾用具等が重なるもので、近年需用高却々多く、殊に美術彫刻用として諸所の博覧会共進会等に出陳され、前途有望の石材である
 *双盤:そうばん。ここでは礎盤(そばん)のこと。柱と礎石の間に用いられる石の盤
▲江幡氏の経営 太田町の江幡富重氏は真弓山の登り口弁財天臺七曲りといふ所の私有林を採掘してゐるが、氏は明治八年二月此寒水石の採掘を始め、如何にもして販路を拡めんものと日夜苦心経営したる結果十二年頃から販路を拡張し今日の如き盛況を呈するに至つたが、氏の採掘高を調べて見ると四十年三千五百切、四十一年四千七百切、四十二年五千八百切で即ち其の製造個数は四十年千二百個、四十一年千八百個、四十二年二千四百五十個に達している、氏はまた横浜市に支店を設けて販売してゐる人造石の原料にする為め寒水石の純白な所を砕いて叺に入れ輸出する高も亦尠くない
 *江幡富重の経営については、塙泉嶺『久慈郡郷土史』(1924年刊)の「世矢村之部」にもあり
▲採掘人の増加 横浜の日本石材株式会社は去る三十九年中真弓国有林内字富士山といふ所を数百坪拝借して職工人夫百餘人を使役したけれど捗々しくなく、日本銘石商会は字地獄沢の私有林より採掘を初め、字寺の沢といふ私有林にも亦一個所あつたが、これは青寒水石の為め思はしくなく、字内の有志四五名も寒水石合資会社を組織して採掘を始めたけれど縞寒水石でこれも賣口が少ない、那珂郡石神村大字竹瓦の根本といふ人と世矢村大字小目の田所孝太郎氏も字大流しに採掘を始め、大字真弓の高橋安衛門氏は国有林字長窪に数ヶ所を拝借し、久志田石材合資会社は国有林字地獄沢に採掘所を設けたけれど、新たに事業を起した人々は左程名が広まらぬので随つて販路も捗々しくなく、殆んど中止同様の非運に際会してゐる
▲人造石の原料 其中でも日本石材株式会社、日本銘石商会は人造石の原料として寒水石の霰石を製造してゐるが、此製造高は一ケ月各五十俵位は出来る、寒水石の採掘高所は十数ケ所あるけれども長山、江幡の二氏は前途有望である、石質を申せば先づ第一が屏風ヶ岳の長山氏、次が弁天沢の江幡氏、地獄沢の久志田石材合資会社、日本銘石商会等の採掘に係るものであろう(箕)


参考