史料 工部省イタリア人彫刻師による諏訪村と真弓村の寒水石調査 2

次に紹介するものは1889年(明治22)に刊行された『工部省沿革報告』(大蔵省発行)からぬきだしたものである(原文の片仮名は平仮名にし、適宜読点を入れた)。

史料の冒頭にあるように、1877年(明治10)5月1日から11日にかけて工部省営繕課雇のイタリア人彫刻師V.ラグーザ(Vincenzo Ragusa)と工部大学校の建築家カペレッティ(Giovanni Vincenzo Cappelletti)が 仮皇居内の謁見所に使用するための石材調査として諏訪と真弓村を訪れた。そのときの報告書の概要である。

五月十一日此より先五月一日假皇居内謁見所建築に資用すへき寒水石を茨城縣下多賀久慈二郡其他の各山に討檢せしめんと欲し少書記官石井忠亮をして工作局雇伊國人彫刻師「ラーグサ」及ひ「ビンセンソ」を携伴して討檢せしむ、此に至て歸京し其報告書を呈す
報告書の略に曰久慈郡真弓山坑場は滿山雜草繁茂し數十の石塊を顯す、其形狀地中に大岩石ありて其一端を露出するものヽ如く方今斫石の業を創めたるものあるも以て之を檢するに大なるものと雖長拾尺有餘に過きす其色白くして其質緻密なり、往々青斑あるものも亦あり、蓋大石を得んと欲すれは此斑痕は避くへからさるなり、而して運輸不便の地なり、多賀郡諏訪村に至り山谷の間を行くこと拾餘町にして字屏風嶽の坑場あり、山腰に重疊したる石塊は其色青白にして虎斑あり、其質眞弓山に比すれは稍々脆きか如し、又行くこと數町にして字唐津澤に至り坑場五ヶ所あり、第一第二第三は屏風嶽と大異なし、第三は斑石を産出し又白石をも産出すと雖純白にあらす、然れとも石塊は稍大なり、第四は高數十丈の斷崖岩石の突出する悉く寒水石ならさるはなし、第五は第三と稍々仝し、而して道路は渓流を左右にして迂曲なりと雖眞弓山に比すれは運輸大に便なるか如し云々

カペレッティ(シャン・ビンセンソ・カッペレッチーと『工部省沿革報告』では表記されている)は、本調査時には工部大学校の造家師(建築家)で、1879年(明治12)8月には営繕課に移り、80年9月に退職している。85年に離日。

参考:清水重敦「建築写真と明治の教育」『学問のアルケオロジー』 東京大学創立百二十周年記念東京大学展 学問の過去・現在・未来[第1部]

なお、江戸時代の寒水石に関する史料については、「石灰石と寒水石」を参照。