史料 諏訪村の寒水石、輸送中に海の底へ

1879年(明治12)の諏訪と真弓村に産出する大理石(寒水石は地方名)についての新聞記事である。「工部省イタリア人彫刻師による諏訪村と真弓村の寒水石調査1」「同2」に関連する。

○多賀郡諏訪村久慈郡真弓村大森両村より産する寒水石検査として、東京工部美術学校彫刻教師イタリヤ人ガリヤルジ、同四等技手木村本五郎氏等去六日東京発足七日着縣、昨八日久慈多賀両郡へ出立、本縣より加藤木八等属同行
○今回皇居謁見場御用の石材、諏訪村より切出す所の寒水石、凡そ千箇、此代金千七百圓余、受負人東京新富町石問屋小川仙太郎なるもの七百石積の廻船大黒丸(安藝國豊田郡中野村超智禮次持船)に積込み、同郡会瀬の海岸より出帆せんとするに、順風ならざるに依り岩城國中の作の濱へ廻り、廿六日再ひ会瀬に碇泊する所に、廿七日に至り船底破壊し沈没せんとするより、船具は引上たれ共石材は引上兼たるに、九月二日の夜遂に破船に及び、岸を距ること僅七八十間斗りにして高價の石材は看す看す沈没せり、其後打つゝき風波烈しく殊に冷氣に赴きたれば引上方の手段六ヶ敷、所詮打捨るより外なしと聞けり

『茨城毎日新報』1879年(明治12)10月9日付

この新聞報道には、二つの事柄が示されている。東京工部美術学校彫刻師による諏訪村の寒水石調査が1879年10月8日に開始されたこと、ふたつめに諏訪村から切り出された皇居用大理石が同年9月2日会瀬浜沖合で船もろとも沈んでしまったというものである。

*『茨城毎日新報』は茨城県立歴史館の写真版で読むことができます。

追記

巨智部忠承『概測常北地質編』(1883年刊)の「追加」の項に次のような記述がある。

七夕磯ノ南ニ会瀬湾アリ、五百石内外ノ船舶ヲ容ルヽト雖モ沙浅ク岩礁四潜シテ港門濶ナレハ風浪ノ日ハ徃々破船ノ虞ヲ免カレスト云フ、但近傍所産ノ寒水石ハ漕運ヲ多ク此湾ニ取レリ

── 七夕磯のある会瀬浜は500石積みの船を入れることができると言うが、海底は浅く、岩礁が四方にひそんでいる。港の入口は広いが風があって波がたつような時はしばしば難破のおそれがある。ただし近くから採取される寒水石はこの浜から積み出される。

これは寒水石を積んだ船の難破報道の4年後の記述である。寒水石の会瀬浜からの積出しが継続されていたことを伝えている。