下孫停車場紀年碑


 2016年撮影

日本鉄道磐城線(現常磐線)の水戸・平(現いわき)間が開通したのは、1897年(明治30)2月25日のことである。このとき開設された下孫停車場(現常陸多賀駅。1939年4月1日河原子町・国分村・鮎川村合併により多賀町発足にともない同年10月1日下孫から改称)の設置経過を記したものが、この碑である。

目次


碑文現代語訳

日本鉄道会社[2]の磐城線[3]は水戸市より海に沿って走り、陸前国岩沼に達する。その長さ220キロメートル余、多賀郡国分村と河原子町はその路線中にある。鉄道が社会に利益をもたらすことは論をまたない。停車場が遠くにあるか近くにあるかはその地の利害に大いに関係する。このために両町村の有志は、村内への停車場の設置を望み、誘致に奔走してきた。たまたま停車場が国分村大字下孫に決定したことを聞き、よろこんだ。それは国分・河原子両町村の中間に位置するからであった。

この停車場位置決定より先に多賀郡中の線路敷は決まり[4]、鉄道会社との賣買契約は済んでいた。田の買収価格は地價[5]の2.5倍[6]、畑は3倍であった。ただ停車場敷地については契約が未だなされていなかったため、地主の中には線路敷を上回る價格を要求して賣却を拒否する者さえ現れた。

有志は、これを憂えて、その線路敷買収価格と地主の要求額の差額を補助し、それによって工事の工程を進めようとした。両町村の有志は協議して用地買収交渉委員を選び、郡役所の役人も支援にやってきた。明治29年3月13日、交渉は整い、停車場敷地となる田は地價の6倍、畑は地價の7倍ときまった[7]。線路敷との差は七百余円におよんだ。この資金は有志だけで出しあえるものではなかった。そのためさらに国分村内に寄附委員三十余人を設け、河原子三四人の有志とともに日夜尽力した。有志は各々少なからざる額の金を寄附し、停車場隣接の地主は地價金の2倍を寄附し、これによって補助額のすべてを集めることができた。

これによって障碍は取りのぞかれ、停車場の設置工事はすみやかに完了した。これは河原子町と国分村の交渉委員の斡旋が成功したことによる。いま鉄道が開通し、人や物の出入が盛んとなり、河原子町や国分村に大きな利益をもたらしている。

これまでの経過を記した碑を建てて長く伝えたいと、役場の吏員から私に撰文の依頼があった。私が鉄道用地の土地の賣買の状況を聞くところ、円滑に進んだところはまれである。はなはだしい場合には停車場の位置を変更させたところもあった。そこでは開通後にとてもくやみ、残念がっているが、元に位置に戻すことはかなわない。しがしながらたとえば国分村などは費用をだしあうことにして、ついに当初の位置での開設をはたした。背後に山々を擁し、大海を前にするこの地において、水陸の生産、すなわち漁業と農業が盛んになることが期待できる。国分村と河原子町の有志は地方百年の計を知っていたと言うべきである。撰文の求めをあえてことわらずに、重要なことがらを記し、後世に伝えるものである。

明治三十一年二月       北巖 野口勝一撰文・書ならびに篆額[8]
彫師 長山石雲[9]

[註]

  1. [1]紀念:『日本国語大辞典』によれば、後日の思い出として残しておくこと。語誌には「表記については明治・大正期の辞書類などに「紀念、記念」の併記も見られるが、実際の用例としては、「紀念」の方が圧倒的に多かった。「記念」が一般化するのは昭和になってからのことである」と。
  2. [2]日本鉄道会社:西南戦争後の鉄道建設停滞に1881年(明治14)11月に設立された私設の鉄道会社。しかし政府から利子補給、利益補償を受け、建設・営業は国の鉄道局が代行するという運営形態をとっていた。現在の東北本線や高崎線を敷設。水戸・両毛鉄道を買収し、北関東以北の鉄道網を整備。1906年(明治39)11月国有化。
  3. [3]磐城線:水戸・岩沼間。これが全線開通するのは1898年(明治31)のこと。磐城線(1898年水戸・岩沼間全通)は、その後、水戸線(水戸鉄道として1889年-明治22-小山・水戸間全通。1892年に日本鉄道に譲渡され水戸線)・土浦線(1896年田端・友部間全通)とつながる。これら3線と隅田川線(1896年)を統合し、1901年(明治34)日本鉄道海岸線と改称。国有化後の1909年に常磐線と改称。
  4. [4]磐城線の路線が町村に示されるのは、1893年(明治26)9月のことである。多賀郡長から日立村長に「鉄道布設地略図」を見せるとの知らせがあった。その通知文を次に紹介する。なおこの通知の本文と日付、差出人名は印刷されているので、多賀郡内の他の町村長にも同時に通知されたと考えられる。
     兼テ御咄申置候鉄道布設地略図、日本鉄道会社ヨリ内示有之ニ付即チ入御内覧申候、尤モ此線路ハ鉄道廳之調査ニ有之候得バ、実測上多少ノ変更ハ難免モ大体ハ之レニ依ルトノ事ニ有之候条右御了知、尤人民ヘハ必ス御示シ無之、全ク該路当ル調印之御参考迄ニ供スルモノト御承知被致度、此段申達候也
     明治廿六年九月二日     篠多賀郡長
          根本日立村長殿

    宮田根本家文書193-8(日立市郷土博物館蔵)

  5. [5]地價:明治の地租改正において新しい地租賦課の標準として地価を定め、地価の3%(のちに2.5%)を地租とすることになった。地価は課税標準として定められたものであって、現実の土地の賣買価格とは一致するものではない。
  6. [6]2.5倍:原文には「一倍有半」とある。これは当時の表記で、現代の1.5倍ではなく2.5倍と考える。
  7. [7]停車場用地価格は線路敷の約2倍。その事情については後述する。
  8. [8]野口勝一:嘉永元年(1848)、常陸国多賀郡磯原村生れ。自由民権運動に参加し、茨城県会議員、衆議院議員を務める。1905年(明治38)没。北巖は号。野口の撰文になる碑は日立市内に数多く残されている。日立市金沢町2丁目長福寺境内にある「照山修理碑」も野口の撰文。
    篆額:題額の文字「下孫停車場紀念碑」を篆書体で書いたのも野口勝一。野口は一人で文章と本文の書とさらに題額の文字も書いている。通常石碑の制作にあたっては文章を書く人(撰文)と書家とは別におり、さらに題額を書く人はまた別である。文章→書→題額の順に地位が高くなる。つまり題額を書く人が一番偉いのである。野口は一人三役。よほど自信があるのだろう。
  9. [9]長山石雲:国分村下孫のひと。石雲は号、通称は佐七。大理石の加工を業とする。1932年81歳で歿する(長山賢「長山石雲のこと」『郷土ひたち』第63号)。

磐城線開通経緯

これについてはネット上にたくさんの記事があるので、そちらを読んでいただくとして、常磐地区とりわけ磐城地区の炭礦業者の強い働きかけがあったことを記しておきます。

有志たちの美談

日本鉄道会社の停車場用地買収単価は線路敷とおなじ。それに不満をもつ停車場予定地の所有者。買収を拒否すれば停車場は開設されないか、他の村へ移ってしまう[10]。これに不安をいだいた「有志」は、鉄道会社の買収価格に寄付金を加え、約2倍の買収額を示し、所有者へ売却をうながした。

みずから寄附し、募金活動を行なった有志を「地方百年の長計を知っていたと言うべきである」と野口は称賛する。その通りであろうが、線路敷より数倍高い譲渡金を手にした停車場用地の所有者を一方でおとしめることにならないか。

停車場用地所有者の要求は正当だと考える。

なぜなら停車場が設置されることで利益を得る人々がいるからである。たとえば、停車場には人と物があつまる。それを目当てに新規に事業をおこしたい人々が現れる。商店や事業所ができる。それらの地主たちは相対で売却や賃貸できる。停車場敷地価格(=線路敷価格)よりは高くなることは容易に想像できる。

線路敷と停車場用地の違いはここにある。

耕作地を停車場用地として失うことは農民にとって大きな痛手である。土地売却は一時的なことである。一方で停車場ができることで継続的に利益をえる人たちが停車場隣接地に現れる。ひいては長い目でみて地域の利益となる。利益がひろがるのだからと犠牲をしいる。これは不公平である。

したがって停車場を目当てに新規事業を開拓しようともくろむ人々が線路敷との価格差をうめようとする寄附はあってもよい。美談でも何でもない。

停車場ができて周辺の土地の価格は上がった。1912年(明治45)1月17日付『いはらき』新聞の「銅山の助川駅」という記事に次のようにある。

停車場開設当時坪八九十銭の地價も之れが為一時に騰貴して、六七円を出してすら尚二ツ返事で買収されなかつた。

約七倍の上昇。日立鉱山を背後にもつ助川駅ならではであるが、下孫駅も程度の差はあれ同様の事態だったに違いない。

  1. [10]土地の買収ができなければ、買収可能な地へ移すか。そのようなことはない。1889年(明治22)7月31日に土地収用法が公布されている。国は公共用であるなら強制的に買い上げることができることになっていた。次項において紹介する史料にこの土地収用法が登場する。

線路敷用地買収の経緯 公平を実現

ここに紹介する史料は、日立村長の根本兼松が多賀郡役所の吏員に宛てた文書である[11]

鐡道線路土地買収モ既ニ結了スルモ、本郡ニ於テ土地収用法ニ依リシモノ無之候得共、他ニ収用法ニ據リ審査會裁決ノ結果ハ先ニ本郡ニテ賣買ヲ了シ候價格ヨリ幾分ノ高價ト相成候ニ就キ、本郡ノ如キハ最初賣買契約ヲ誠實ニ履行買収セシ地主ニ對シ田地ニ限リ更ニ地價ノ五割増付相成可申旨御照會ニ相成、就テハ大字毎計ヲ以テ反別地價五割増ヲ算出、別紙請求書トシテ提供仕候間御下金相成度候。各自ヨリハ増金引換受領證ヲ領シ進達仕候。尤モ來ル六月一日公納方ニ付敷橋書記出廳爲致候ニ付、其際御渡シ被下度此段申進候也
明治廿九年五月廿七日      日立村長根本兼松
第一課長 古澤重壽殿
第二課長 高橋種成殿

この史料からは次のようなことがわかる。

鉄道の線路敷の買収は終ったものの、多賀郡内で土地収用法が適用されたことはなかったが、他の適用地域での事例と比較するならば、当初の買収価格はその後の土地収用法による買収価格にくらべて幾分か低くなっていた。それでは不公平なので、水田に限ってさらに5割上乗せして支払うこととなった。

そのため日立村長の根本が日立村の分について多賀郡役所の二人の吏員に請求したものがこの史料である。これは日立村に限ったことではなく、多賀郡全体について補償がなされた。

土地収用法適用地では割増価格で買収がなされた。「賣買契約ヲ誠實ニ履行」した多賀郡の所有者への対応を求めたことへの日本鉄道会社すなわち国(鉄道局)の回答が5割増の支払いだった。

このときの政府は民衆に対し誠実に公平さを実現したのであった。

  1. [11]「鉄道敷地ニ関スル書類」宮田根本家文書193(日立市郷土博物館蔵)
     宛先が多賀郡の吏員である理由は、註2にあるように日本鉄道会社の建設・営業は国の鉄道局が代行していたからである。国の窓口は県であり、県の窓口は郡庁であった。

停車場誘致運動

停車場の誘致運動があった。停車場位置がきまりかけていたものの、用地買収に困難をきたしていた高鈴村助川に、これを機に日立村宮田へ誘致しようとする兵藤祐三郎の動きを次に紹介する[12]。史料は兵藤祐三郎の手紙である。宛先は日立村長の根本兼松。時期は1895年(明治28)末のこと。

貴村停車場存否ハ小生事業之損益ナルノミナラズ、御村民之子孫ニ至ル迄大利害之関スル次第ニモ有之候得バ、可及丈力ヲ尽サント奔走、従テ不少運動費ヲ要シ候事ニ御座候間、停車場設置之上ハ、好便利之地壱反歩餘原價位ニテ買入相成候樣御盡力、猶約定書御渡シ被下候樣御手配願上候。小生ハ實ニ必至運動罷在候。目下陸軍部内人手ヲ廻シ申候、知事ニ托シ候トテ決シテ安神[心]難致、聞處ニ依レバ一旦定メタル停車場ヲ變更スルハ容易之事ニ無之、土地買収故障位ニテ變更スル者ニハ無之候、助川故障ハ好機會故、貴機ヲ失セサル樣致シ度候事儀ニヨリ、貴下之御上京ヲ煩シ候儀モ願出候事、委細ハ拜眉可申上候得共右、報道旁得貴意候也

停車場が村内にあるかどうかは、みずからの事業だけでなく、日立村民にとっても将来にわたって利益をもたらすだろう、と言う兵藤は茨城県新治郡志筑村(かすみがうら市)の人。当時日立村宮田の山林で植林事業を営んでいた。のちに宮田の赤沢銅山に向けて精錬燃料用薪炭あるいは坑木として周辺山林の立木を売却しようとして、村に強い反対運動をひき起こす[13]

線路によって村の中心集落が二分されても、後年1910年3月に村民の要望で設置される小木津停車場は、村の有志が停車場敷地買収費を鉄道院に寄付することで開設された[14]。下孫停車場の場合と事情は同様であろう。

下孫停車場のばあい、漁業がさかんな河原子町より広い畑地と山林、地下資源を擁する国分村の人々が熱心である様子がうかがえる。停車場設置を望む人々の性格を考える上で参考となろう。

  1. [12]日立村長根本兼松宛兵藤祐三郎書簡(宮田根本家文書200 日立市郷土博物館蔵)
     この史料の文面からは、停車場位置は決定していないことがわかる。また兵藤は日立村長根本に対し、宮田への誘致運動に少なくない額の経費をかけているので、停車場が設置できたときには、便利な地に1反歩ほどを安く入手できるよう約束してほしい、と見返りを求めてきている。しかし誘致に失敗する。これが後年日立村との官有林伐採紛争の火種になっていくのだろうか。
  2. [13]川崎松寿「赤沢官有地立木伐採問題について」
  3. [14]『日立市史』(1959年)644頁

停車場は漁港と炭礦の所在地に

水戸から以北茨城県内の停車場の開設状況をみておこう。まず全線開通時の1898年(明治31)の停車場名と停車場間の距離(km)を示す。

水戸—10.0—佐和(那珂郡佐野村)—12.1—大甕(久慈郡久慈町)—4.6—下孫(多賀郡国分村)—4.9—助川(高鈴村)—9.7—川尻(櫛形村)—5.9—高萩(松原町)—9.1—磯原(北中郷村)—7.1—関本(関本村)

停車場間の距離にばらつきがあることがわかる。12kmから5km、平均は約8km。これらの停車場が立地する地域に特徴がある。漁業の町がひかえているか、炭礦を背後にもっているかである。

大甕は漁業の久慈町、下孫も漁業がさかんな河原子町、助川も同様に会瀬、櫛形村友部に停車場があっても駅名となった川尻も漁業の町、高萩と磯原は炭礦、関本は大津・平潟の二つの漁港の中間地点。鉄道が運ぶ人と物が、この地域に集中していたということであろう。

ちなみに勝田停車場(那珂郡勝田村、現ひたちなか市)は1910年(明治43)、石神停車場(那珂郡石神村、現東海駅)は1898年(明治31)、小木津停車場(日高村・現日立市)と南中郷停車場(南中郷村・現北茨城市)は1910年の開設である。これらによって水戸駅以北の駅間距離は平均5.3kmとなる。

機関車の音に驚いて魚が逃げる?

河原子の古老から聞いた。機関車の音で魚が驚いて岸から離れ、魚が獲れなくなってしまうので、漁師の反対があって鉄道は漁村から遠いところに敷かれたと。漁師たちの頑迷さをわらう話として自嘲気味に語られる。

実際に漁村から離れて鉄道がしかれたのだろうか。

逆である。開業当初の停車場は漁村の近くにおかれたことは上述のとおりである。さらに実際に線路敷と港の距離をみてみよう。久慈町の港から線路まで1kmもない。河原子の場合は1.5km、会瀬は集落の中を線路が走り、港まで300mもない。大津と平潟では線路敷まで1kmもない。漁村をさけているように思えない。

線路敷は単純に技術的・経営的な理由で決まったものと考える。よく言われることだが東北本線に比べて常磐線は海岸部の平坦地を走るため、昇り降りが小さい。蒸気機関時代においては常磐線は燃料・速度の点において東北本線より有利だった。鉄道技術者たちはこの点を念頭において路線を設計しているはずである。いざとなったら国は土地収用法を適用すればいいのだから。

「機関車の音に驚いて魚が逃げる」は、頑迷固陋な前近代性に対比して新しい時代、近代を礼賛する目的で後追いでつくられたうわさ話でなかったか。

碑文読み下し

[凡例]

日本鉄道会社磐城線路はこれ水戸市より海に沿って走り、ついに陸前国岩沼に達す。その長さ百四十マイル余、多賀郡国分村と河原子町はこれ実にその通路□。それ鉄道の世に益するは論をまたず。停車場の遠邇えんじはその地の利害に関繋かんけいすること最も大をなすなり。これがために両町村の有志の者、停車場を設置することを切望し、しきりに奔走するところあり。たまたまその位置の下孫に決するを聞き、みな欣然きんぜんとしてあいよろこぶ。これ両町村の中間に在るがためなり。これに先んじて郡中の軌道一帯の地、約束すでに成り、会社に売与す。すなわち田価は地価より一倍有半、圃価は地價より三倍為り。ただ停車場は未だかつて約するところにあらず。故を以て地主中、価を争ってこれを拒む者あり。有志の者、深くこれを憂え、その増金を補助し、以て工程を進めんと欲す。よって両町村あいはかり、交渉委員を選ぶ。郡吏もまた来たりて力を添う。明治二十九年三月十三日、交渉始めてととのい、田を以て地価の六倍となし、圃をもちて地価の七倍となす。その差金は実に七百有余円なり。この金は醵集きよしゆうを以てこれを弁ぜざるべからず。またさらに国分寄附委員三十余人を設け、河原子三四の有志とともに日夜尽力す。有志の者、各々金若干を寄附し、地主は地価の金の二倍を寄附し、以て満額を獲たり。これにおいてか、支障全てみ、停車場の土木、速やかに成功をみる。これすなわち町村の人□公儀委員の周旋よろしきを得たるによるなり。いままさに鉄道開通し、出入頻繁、町村の利益まさに大いにあずからんとす。胥者しよしやあり、謀りて碑を建て事をし、これを不朽に伝えんと欲し、余をして文を撰ばしむ。余、各路の鉄道の土地の売買を見るに、ごうも支障無きはほとんどまれなり。なおその甚だしきに至りては、あるいは停車場の位置を転ずる者あり。その開通後、はなはだ悔恨すといえどもまたこれを如何んするも無し。しかれども国分のごときは鋭意醵金きよきんし、遂に初志を全うす。連山うしろを擁し、大海は前にあり。水陸の生産、今より興起すること期して待つべし。有志諸氏、善く地方百年の長計を知るというべき哉。碑文の請いをあえて固辞せず。すなわちその要を記し、以て後人にぐという。

ひたち碑の会編『日立の碑』より

[語意]

  1. *哩:1マイルは約1.6キロメートル。したがって140マイルは約224km。
  2. *遠邇:遠近
  3. *欣然:よろこんで物事をするさま
  4. *醵集:費用を出しあって集める
  5. *胥者:下級役人
  6. *紀:事実を書き記す
  7. *罕:稀・希とも
  8. *醵金:費用を出しあう
  9. *諗:告げる。忠告する

碑文原文

[凡例]

[題額]
下孫停車場紀念碑
[碑文]
日本鐵道會社磐城線路之自水戸市沿海而走遂達陸前國岩沼其長百四十哩餘多賀郡國分村與河原子町之□實其通路矣夫鉄道益世不須論停車場之遠邇關繋其地利害爲最大也爲之兩町村有志者切望設置停車場頻有所奔走會聞其位置決下孫皆欣然相慶是爲在兩町村中間也先是郡中軌道一帯之地約束既成賣與會社即爲田價一倍有半於地價圃價三倍於地價惟停車場未曾有所約以故地主中有争價而拒之者有志者深憂之欲補助其増金以進工程因兩町村相議選交渉委員郡吏亦來添力明治二十九年三月十三日交渉始諧以田爲地價六倍以圃爲地價七倍其差金實七百有餘圓也此金不可以醵集不辨□又更設國分寄附委員三十餘人與河原子三四有志日夜盡力有志者各寄附金若干地主寄附地價金二倍以獲満額於是乎支障全息停車場土木速見成功是則由町村人□公義委員周旋得宜也今方鐵道開通出入頻繁町村利益将大與矣有胥者謀欲建碑紀事傳諸不朽使餘撰文餘見各路鐡道土地賣買毫無支障者幾罕矣尚至其甚或有轉停車場位置者其開通後甚雖悔恨亦無如之何而若國分鋭意醵金遂全初志連山擁後大海在前水陸生産自今興起可期而待焉有志諸氏可謂善知地方百年長計哉碑文之請不敢固辭即記其要以諗後人云
  明治三十一年二月          北巌 野口勝一 撰文書并篆額
                    彫工        長山石雲

ひたち碑の会編『日立の碑』より