史料 野口勝一「多賀紀行」(6)

川尻から水戸へ

[解説]

会合の目的 多賀紀行(1)の冒頭に「余本郡多賀の有志士懇親会を同郡川尻村に開くか為折簡来会を促さる」とある。この懇親会の目的がようやく本号で明らかにされる。それは第3段落にある「此会たる多賀郡有志者の発意に成り…」で始まる文章である。第一は「全郡の結合固ふして、其志気を養」うことであり、第二は多賀郡の「海陸物産を興し…全郡の富裕を図」るための議論をすることにあった。この会合に県令と勧業課長の参加があり、「将来の目的を談話するの便を得」ることができた、というのである。

この会合での議論が、翌明治15年(1882)4月の県会通常会で「宮城県街道」の改良・整備推進にかかわる野口勝一の発言となっていくのである。この件については、他日紹介する。

[凡例]

縦書きを横書きに改め、漢字は常用漢字があるものは常用漢字に直し、ないものはそのままとした。仮名遣いはそのままとした。□は判読不明文字である。原文にはないが、適宜句読点と改行を施した。[ ]は編者註。

[本文]

(前号の続き)

壮士数人衣を解き水に入り遊泳を誠[試ヵ]み、舟夫相呼ひ綱を投、魚を捕ふ。頳尾[1]細鱗潑剌舟に上る。此海を蚕養の浜といひ、断岸海に突出し、其上に蚕養神社あり。岸外奇石磊々立つ如く、跪如く、龍虎のごとく、獅子の如く波浪と勢を争ひ波や碎ても亦合し、石や没ても又た出つ。恰も韓蘇の文章[2]其の変化を極め、人をして其の端倪を窺ふ可からざらしむるか如し。□巖剣の如く岸と海気を隔て、其高き仰きて望むべきあり。老松倒に垂て海水を吸はんとするあり。頗る奇観なり。

又た舵を転して外に向い、縄漁暈試むれは須臾にして釣魚籠に満つ。此の時或は船を発するものあり。本船岸に帰る。余移て漁船に止まり、猶幾尾を漁獲して團々楼に帰れは宴席正に設く。即時得たる魚を斫[き]り、或は膾[さき]し、或は煮、献酬[3]数次各其歓ひを尽す。人見殿席上團々楼の三字を書して楼主に与ふ。其他各揮毫あり。夜に入り火戯[4]を演す。

此会たる多賀郡有志者の発意に成り、一にしてハ全郡の結合固ふして、其志気を養ひ、一にしては海陸物産を興して全郡の富裕を図らんと欲してなり。志気の結合は人々奮て之を興すへく、何そ行政官の干渉を受けん。海陸物産に至つてハ自然官と交渉せさるを得さるものあれは、幸に県官隣席ありて将来の目的を談話するの便を得た。夫れ此会にしてこれ今日に止み再ひすを得されは一の遊宴に過きさるなり。若し此会の精神を続て志士互に和会する再三四に及ほさは、我郡の元気は之より伸ひ、我郡の物産も之れより興るへき也。余不省と雖も籍を本郡に有するものなり。志士諸君の後に従て将に前途を計画する所あらんとす。

同十五日晴る。川尻を出て大久保専介[5]氏と共に歩して助川駅に至り、岡部正[6]氏を訪ふ。佐藤、小泉の二氏座に在り。是皆な本郡の名望家なり。事故あつて昨日会に出席せす。依て其の塡末を告げ、猶相続て一大会を催さんことを約し、盃酒歓飲、別を告けて発し、車上昏睡、大沼に至り大江氏を訪ひ、石名坂を降り、夜を侵して水戸に帰りし時、夜正に十二時なり。 (了)

明治14年(1881)8月25日付『茨城日日新聞』掲載

[註]

  1. [1]頳尾:テイビ 魚の赤い尾
  2. [2]韓蘇の文章:韓愈と蘇軾(蘇東坡)の文章、という意か
  3. [3]献酬:ケンシュウ 杯をやりとりする
  4. [4]火戯:カキ 花火
  5. [5]大久保専介:大窪専助のことか。大窪専助であるなら、明治後期に国分村長・村会議員を務める(『多賀郡史』)
  6. [6]岡部正:明治12年(1879)に多賀郡書記、明治22年から26年高鈴村長、25年から村会議員を務める(『多賀郡史』)

<前号

[1]水戸青柳から石名坂まで      [2]森山から折笠まで
[3]川尻から赤浜まで         [4]小野矢指から磯原まで
[5]荒川から川尻まで         [6]川尻から水戸へ