史料 野口勝一「多賀紀行」(1)
水戸青柳から石名坂まで
史料について 著者の野口勝一は嘉永元年(1848)、常陸国多賀郡磯原村生れ。自由民権運動に参加し、茨城県会議員、衆議院議員を務める。明治38年(1905)没。本記事は、明治14年(1881)8月18日付『茨城日日新聞』(茨城県立歴史館写真版)に掲載されたものである。野口は以後、8月19、20、23、24、25日の6回にわたって水戸から磯原までの旅の記録を新聞紙上によせた。
旅程 野口は、8月11日水戸を出て、折笠浜(日立市)に泊まる。12日折笠を出て、川尻(日立市)に立ちより、下手綱(高萩市)で討論会に出席し、下手綱に宿泊。13日郷里磯原村(北茨城市)を訪ね、川尻に戻り宿泊。14日は川尻で船遊びをしたあと「多賀郡有志懇親会」に出席。連泊。15日川尻を出て、助川に立ちより、深夜に水戸に戻る、という旅程であった。
本号(1)において、野口は、8月11日の朝、水戸の自宅を朝の9時に出て、青柳(水戸市)から太田街道に入り、後台(那珂市)を過ぎて、東に折れ、陸前浜街道の宿駅佐和駅(ひたちなか市)に出て、久慈川をわたり、北に向かう。この日の記事は、大甕神社(本文では石明神)前の銚子屋で名物大甕饅頭を食べ、昼食をとるところで終わる。以下、いくつかの記述について、簡単に触れておく。
久慈川の土橋 久慈川には江戸時代橋は架かっておらず、渡し舟によっていたとされてきたが、明治14年段階で土橋がかかっていたことがわかる。「久慈川は粗造なる土橋を以て人を渡す」の記述がそれである。
久慈と多賀の堺 言われてみて気付くが、たしかに大甕は久慈郡と多賀郡の堺である。大甕神社境内の樹叢の北は多賀郡の森山村である。
石明神と石名坂 明治時代に入っても大甕神社は江戸時代からの通称「石明神」と呼ばれていた。石の由来について「石明神の山路西方に、天然の怪石が集合している。社をその石の上に戴き、一条の鎖をたらして、人はそれにすがって昇り降りする」という。怪石と石名坂が結びつき、石明神(大甕神社)が石名坂村の内にあると思われやすいことがわかる。
石明神からの風景 石明神(大甕神社)社殿から見る風景である。野口のこの風景表現は、田山花袋が大正6年(1917)に出版した『山水小記』や江戸時代の紀行文や道中日記(古文書学習会編『道中記に見る江戸時代日立地方の日立地方』所収)にある石名坂からの眺望と同じである。私はこれらの眺望は、石名坂を登りきった地点からの眺望と理解していたが、怪石の上に置かれた石明神社殿からの眺望であるのかもしれない。
凡例
- ◦縦書きを横書きに改め、漢字は常用漢字があるものは常用漢字に直した。仮名遣いはそのまま。
- ◦□は判読不明文字である。
- ◦原文にはないが、適宜句読点と改行を施した。
- ◦[ ]は編者註。
[本文]
余本郡多賀の有志士懇親会を同郡川尻村に開くか為折簡[1]来会を促さる。是より先に同郡下手綱村に学術演説会の催ふしあり。水戸の弁士島本猛馬太、邊見行修、渡邊昇の三氏聘せられて之に赴く。余依て三氏に相伴ひ、八月十一日午前九時水戸の寄寓[2]を発し、青柳渡口より路を後台に取り、溜池の辺に至れハ、渡邊氏の車夫病発、進むこと能はす。茶店に小休、渡邊氏は菅谷に走て車を求め、余等は転て佐和駅に出つ。
時正に日午炎熱焼の如く、腕車上、其苦に堪へ難く、昏々[3]殆将に睡らんとす。忽見一路凉傘樹微風蝉聲人意を快するを覚江、石神外宿駅に出つ。同所小学校門は当時近傍無比の大門なり。しか今は柱礎傾𣏓見るに堪す。虚飾の門は姑舎き、校内の教育も思ひ遣らる。
久慈川は疎造なる土橋を以て人を渡す。土木内、大和田等の村落は槿籬[4]竹落[5]鶏犬相聞江[6]、稲田豆圃[7]眼界甚た広く、西し山脚[8]臥蚕[9]簇々[10]たる人家は、是れ太田駅北た一帯の山脈紆餘[11]相延ひ、山上の樹木歴々[12]数ふへきものは真弓高鈴の諸山なり。
一橋を過き路一折長坂前に当る。是則石名坂なり。元治甲子水戸内乱の際、戸祭某等土兵を率て山邊主水[13]を遮り坂上坂下頗る苦戦せしか、山邊の兵坂を奪て上る。其後又た二本松兵坂に拠り、武田の褊裨[14]大津彦之進を激撃せしに却て大に之に敗られ、二本松兵死するもの十数人、一坂再回上なるもの必す敗るは険を恃むの故か、将武を用ゆるの地にあらさるか。坂北を坂上とし、坂南を坂下と称え、此近郷諸人皆な郡名を呼はす、上下を唱て各相通す。
坂上一村は石名坂村にて村中井水なく、皆な山泉を引て井に充つ。天旱すれは水涸れ住民大に苦むといふ。村中央に一の榎木あり。此木ハ金砂山の神社大祭の日、木を伐て神輿を其切口に安し、祭事を□ふために植ゆ。大祭は七十五年を経るごとに一回なりと。今此の直径尺に満たさるの樹は、二十余年前神事の後老樹の株上に植ゑし所、他年神会の日に及はゝ其大必す五斗臼を製するに余あるへき也。
久慈多賀の郡界なる大甕は、東道着称の勝地にして、石明神[15]山路西に立ち、天然の怪石集合して一社を上層に戴き、一条銭鎖人を縋して昇降す。社山老松鬱々として有名の官林なり。社頭より東に望めハ、一碧万頃東洋の波天に接し、風帆沙鳥水烟浩芒の中に隠見し久慈・那珂の海岸松洲白沙極る処、磯前の岬海波に突出し、樹林緑を曳て几の平なるか如く西に亘り、其上に筑波の隻峯を棒け出す等風景絶佳凉吹衣に入て秋暑の苦を忘るゝに至る。同所の銚子屋に入れハさきに別れし渡氏先てあり。相與に此店の名物なる大甕饅頭を食ひ午餐を喫し、暫く凉を納れて去る。
(以下次号)
明治14年(1881)8月18日付『茨城日日新聞』
[註]
- [1]折簡:セッカン 小さく切った紙に書いた略式の手紙
- [2]寄寓:キグウ 仮の住まい
- [3]昏々:コンコン うつらうつら
- [4]籬:マガキ 竹や柴などで目をあらく編んだ垣
- [5]竹葉:チクヨウ 枯れ落ちた竹の葉
- [6]鶏犬相聞江:ケイケンアイキコエ 鶏と犬の鳴き声があちらこちらから聞こえて来る。つまり集落が家つづきになっている様子
- [7]圃:ホ はたけ・菜園
- [8]山脚:サンキャク やますそ
- [9]臥蚕:ガサン 湾曲して、眠期にある蚕(かいこ)の様子
- [10]簇々:ゾクゾク・ソウソウ むらがり集まるさま
- [11]紆餘:ウヨ うねり曲がる
- [12]歴々:レキレキ つぎつぎとつらなるさま
- [13]山邊主水:ヤマノベモンド 山野辺義藝。水戸藩家老。助川海防城第3代館主
- [14]褊裨:ヘンビ 副将
- [15]石明神:現在の大甕神社