史料 野口勝一「多賀紀行」(4)
小野矢指から磯原まで
細沙松根を覆う 街道筋の松並木の根を砂が被っているので、人力車の車輪が砂に埋まり、ひっくり返りそうになったことが数回あったという。ここでも海辺沿いの悪路を強調する。
道の中央を流れる溝 足洗の宿には、以前街道の中央に溝があったが、今は両側に移されているとして、その工事を野口は高く評価する。しかし野口はその理由を述べていない。道路の中央の溝が不要となるような輸送方法に変わっていたのであろう。どのような変化だったのか。街道の中央に溝があり、水が流れているのは、宿駅の基本的な設備であった。伊師町宿では昭和30年代まで街道の中央に溝が残っていたことからすれば、明治14年(1811)段階で宿によってはこの風景がなくなっていたという事例である。
[本文]
小野矢指、粟野[北茨城市]等を過き、塩竈明神下に至り茶店に小休す。店は小川を隔てゝ海に枕み、眺望尤も佳なに、岩礁波を砕て雪花岸に飄り、涼気人に迫る。明神山、人之を矢指明神と称すといへとも、村標を見れは足洗村[北茨城市]に属するか如し。昨年神社改造の時巖上より蛇骨に似たる白骨を出せとも、其何の骨たるを知らすといふ。
細沙松根を覆ひ、車之に蹶き覆らんとする数回。足洗は往時小溝、道の中央を流られしか、今は分て二流となし道の左右に流す。土切[1]頗る宜きを得たり。
下桜井村に出つれは村中山茶[2]樹(俗に椿といふ)多く、児童其実を採り、殻中の肉を貪ふを見る。余車を止め一顆を乞ひ、試に児童の為る所を試みれハ他日油と成の肉ハ即今正に密の如く味談甘にして油気なし。其風味食物とするに足らす。
村落の薄葉[3]渡口は、大北川にて水を隔つれは、余か墳墓の里磯原なり。眼に当るの登高巖は丈人の姿をなし、人を迎る天妃山は美人の笑ふか如し。妃山の背に神磯あり。海波の中に立つ。源西山公[4]磯原の詩あり。其聯句に曰、神磯摧雪白薄葉染霜紅。又景山公[5]同所の歌あり。曰、四つの時かはらす波の花さきてなかめ尽せぬ磯原の里。景山公の書今猶余か家に存す。
舟を呼て渡り車を走らしめて、家弟[6]を訪ひ、茶を喫し、酒を酌み閑話事を移す。余か父[7]の筆弟輩数人来り会し、共に今昔を話して毫も隔意有ことなし。
余や少少より他郷に流寓、北は北海に入り南は火海を望み、飄蕩定処なきと茲十数年人間の辛酸自ら思謂す。具さに之を甞むと松島の夜月、富岳の烟雲、余か目を喜ハしめさるに非す。三府の壮観、五港の繁華、余か心を楽ましめさるにあらされとも、某水某丘余か曾て釣遊する処、某翁某媼ハ余か少時懐負せらるゝ人なり。一丘一水を望み、一翁一媼に対すれは、神情悠暢遙かに少時の昔に復するか如し。古人故郷忘れ難とは乃之を言ふか。余や常に他郷に在と雖も二三年にハ一回帰来、祖先の墳墓に上り、父老に会せすといふことなし。今や口に四海一家[8]を称するものも多少余と此感を同するものなからんや。
父老[9]懇ろに余を止め宿せしむれとも、余は此日川尻の懇親会に会するの約あるを以て共に愛を割きもし割かれもし、又の日を期して腕車に上れは、松風海声相送て渡口に達す。
(以下次号)
明治14年(1881)8月23日付『茨城日日新聞』
[註]
- [1]土功:ドコウ 道普請や堤防の築造など土に関する工事のこと。土工とも書く。
- [2]山茶:サンサ・サンザ 椿の漢名
- [3]薄葉:ウスバ 臼庭村のこと。大北川左岸。磯原村の南にある。大北川の渡船場があった。
- [4]源西山公:徳川光圀
- [5]景山公:徳川斉昭
- [6]家弟:カテイ 他人に対して自分の弟をいう語。舎弟
- [7]余か父:野口勝章。文化14年(1817)生れ。通称友太郎。号北川。弟に西丸帯刀。元治元年(1864)天狗諸生の争いで、諸生軍に捕らわれ、入獄。明治元年(1868)8月、仙台に赴く途中、佐幕派によって殺害される(野口勝一日記I解説 『北茨城市史 別巻5』)。
- [8]四海一家:シカイイッカ 世の中の人々を一つの家族のように見ること。
- [9]父老:フロウ 歳とった男子の敬称。老翁。一村一郷のおもだった老人。長老。