史料 野口勝一「多賀紀行」(5)
荒川から川尻まで
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[8月]十三日黄昏、雷雨、時に注く。荒川村端なる一小店に休すれば、一老人の風骨常に異なるありて来り休す。少時卒然余が姓字呼ぶ。余其姓名を問へば便[1]是れ善射[2]を以て名を轟かせし下手綱の士族島村氏なり。依て契濶[3]の情を述て別る。
車夫甚た雷を忌み、一電閃めけば一驚を喫し、一雷震へば一歩を進む。電光雷声する毎に走て人家に近つかんとし、疾きこと飛ぶが如し。是れ雷公余が為め車を送るといふも亦可なり。
川尻に至れば、一大楼上紅球燈[4]を掲げ團々楼[5]の三字を書す。此楼ハ新築にて水戸より磐城平に達するの間には其比を見す。多賀街道第一の大楼とも称すべし。棟梁木材の美に比すれば、惜哉構造布置未た田舎店の習気を免れさるを。
時に楼上諸有志士相会し宴正に闌[6]なり。手綱に別れし島本氏等坐にあり。既に席上演説を了せし所なりといふ。会員凡そ五十名計、郡の南邊より北隅に至るまで多くは来会し、其中通達の行渡らす或は事故を以て会せざるありと雖も、会意は郡中皆な之を嘉みすと。唯た事を創する甚た急劇に出つるを以て或は聊か齟齬会期を違ふの人なきにあらずといふ。
同十四日晴る。余等未た寝処を出てざるに忽ち報し言ふ。我県令人見[7]殿、高畠勧業課長君巡回の次来て会に臨まると。席未た整ハさるを以て別楼に小休を請ひ、本日泛舟の用意既に備ハりしを以て、人見君、高畠君等を迎へて舟に上る。舟を出すこと四艘、一の本船にハ碧海青天の四大字を書する幟を掲けて標とす。互いに波を破て発す。岸を距ること数町、本船の樋栓何れの隙に抜けしや、海水船に入て殆と席を浸さんとす。舟人争いて之を禦き、沈没の患を免る。殆ど我県令をして矢口渡上の新田義興[8]とならしめんとすとて相與笑せり。
明治14年(1881)8月24日付『茨城日日新聞』
[註]
- [1]便:すなわち
- [2]善射:射をよくする、つまり弓術にすぐれている、の意か
- [3]契濶:ケイカツ ひさしくあわないこと。無沙汰
- [4]紅球燈:コウキュウトウ ガス灯
- [5]團々楼:「本叶とも称す。町内最も適当なる位置を占め、構造は瓦葺土蔵二階建にして、広壮完美、貴顕紳士の投宿なるは言ふまてもなく、学生に宜しく商人に宜しく器物清潔、待遇懇篤、価格低廉、割烹巧妙なるは此家の特色として人のよくしるところなり。此家は兼ねて鰹肉醤、骨たゝき、鰹塩から等の製造に従事し、叶屋塩からと云へは、都鄙共に嘆賞措かざるの声価あり」(『豊浦誌』1910年刊より)
- [6]闌:たけなわ
- [7]県令人見:人見寧。天保14年(1843)、幕臣の子として京都に生まれる。通称勝太郎。慶応3年(1867)遊撃隊に入隊し、将軍慶喜の護衛にあたる。1876年(明治9)新政府に入り、東京裁判所判事となる。1879年茨城県大書記官、1880年茨城県令。養蚕の振興や弘道館公園の開設、利根川運河の開削をすすめる。85年加波山事件の責任をとわれ事件の終息をみないまま免官。1922年歿。80歳。(森田美比「知事の履歴書(5)」『茨城県史研究』第15号)
- [8]新田義興:にったよしおき(1331―1358)。南北朝時代の南朝方の武将。義貞の子。足利方の混乱に乗じ、越後、上野の一族とともに上野に挙兵。尊氏に敗れ、越後に逃れる。正平13・延文3年(1358)尊氏の死後再度挙兵したが、武蔵国多摩川矢口渡で謀殺される。