史料 野口勝一「多賀紀行」(3)

川尻から赤浜まで

[解説]

路上細沙車輪を縈む 石滝村の坂道を下ると、安良川・高萩宿駅である。野口は街道沿いの柳や桜の美しい風景をほめながらも、人力車の車輪に砂がからんで困ったと言う。石名坂から石滝までは坂道の石に悩まされてきて、安良川からは平坦な道となったのものの車輪が砂にとられて思うように進まないことを嘆く。翌日、野口は生家のある磯原村に徒歩で向かうが、砂道に靴がとられ歩くのに困った、とここでも言う。野口が新聞紙上で陸前浜街道(宮城県街道)の悪路を強調しているのは、翌明治15年(1882)4月の県会において、陸前浜街道の改良工事の推進者となったことと関連していよう。

[凡例]

縦書きを横書きに改め、漢字は常用漢字があるものは常用漢字に直し、ないものはそのままとした。仮名遣いはそのままとした。原文にはないが、適宜句読点と改行を施した。□は判読不明文字。[ ]は編者註。

[本文]

十三[十二]日晴、大津氏と同行。川尻村に至り団々楼に至る。山方千介氏共に至り、余に懇親会の三大字を書せんことを請ふ。依て墨を命し少休の間、鮮松魚を さしみ [1]して酒を酌み、而して揮毫。雲烟を巻と称せんと欲すれとも得す。 鹿角菜 ひとき [2]様の拙筆強顔以て之をなす。此楼ハ乃ち有志懇親会場なり

午食。車を雇て出て寿王阪[3]を上り、伊師より荒川[安良川]、高萩に至る。高萩は郡役所設置の地、一小駅なり。荒川と連接して街中一小流あり。流を挟て柳樹、桜木其他を植並べ、風致あるを覚ゆ。之に反して路上細沙車輪を縈[4]むハ甚た嫌ふべきなり。

高戸村より左に折れ、田間を過ぎ、下手綱村に至り、車行一店前を過ぐれは背後に声あり。余を呼ぶものハ誰ぞ、島本氏なり。依て松本某の家に投す。手綱は中山備中守の旧城下にて、山間の一村に過きされ共城下なるを以て自ら其風を存し、且つ士族依然旧第家に住し、各就産の道を得て、水戸の如く貧困の態を見る稀れなり。交益社[5]あり。士族の結社に係り、親交社[6]あり。中野泰氏の支社なりと。共に商業を営むの社なり。

後五時頃に至り討論会を小学校に開き、賭博ハ法律上禁すへきや否の題にて会員十三人各討議あり。右終て学術演説会あり。島本、邊見、渡邊、大津、柴田等諸氏雄辨を揮ひ、演説せしかは、聴衆漸々来集して堂の内外に充満し、見るところ五六百人と思ハる。多賀郡中是迄演説会のあるを聞かさりしか、此会は実に第一者たるならん。此夜有志数十人と懇親会を開き各歓を尽して散す。

十三日陰る。島本氏等帰途に上り、余北た生家に向て発す。車輪雇ふへからず。歩して赤浜村に出て阪路行尽て細沙履を没し、歩行尤も困難なり。村端は乃ち古人長久保赤水先生の故宅招月亭の遺址なり。子孫于今其家を守る。先生の墓は屋後海辺松樹の中に在り。

(以下次号)

明治14年(1881)8月20日付『茨城日日新聞』掲載

[註]

  1. [1]軒の文字に「さしみ」とルビがある。『言海』(1904年版)には、刺身を魚軒とも書くとある。
  2. [2]鹿角菜に「ひとき」とルビがある。現代では「ひどき(酷き)」か。鹿角菜は、海藻のツノマタあるいはフノリのこと。
  3. [3]寿王阪:十王坂のこと。十王坂の初出例か。
  4. [4]縈む:からむ。
  5. [5]交益社:明治13年(1880)8月、下手綱村(高萩市)に設立された銀行類似会社。明治22年解散。
  6. [6]親交社:久慈郡小菅村(常陸太田市)にあった銀行類似会社。明治12年設立。その支社が下手綱村に明治13年6月に設立された。

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