史料 野口勝一「多賀紀行」(2)

森山から折笠まで

[解説]

泉川の清泉 江戸時代の紀行文や道中日記にも泉川のことが出てくる。泉のほとりで手を叩けば、泉が吹き上がるとういうのである。野口勝一は「人有岸上に立て跳躍する時ハ、噴勢益々激する」が、これは「神霊」などではなくて、泉の周囲の岩盤に刺激を与えることで水が湧き上がることを助けているのだと言う。身も蓋もない話である。だが近代思想が確実に広まっていることを示すものであろう。

みかの原わきて… 百人一首にあるこの歌がこの地を詠んだものものとされていた当時、「あるいは非なりと」勝一は言う。

油繩子の米商 油繩子村には長さ22間、横3間の日立市域最大の御稗蔵があった。文化6年(1809)に水戸藩によって備荒貯蓄のために建設されたものである(『日立市史』)。油繩子の米市場が立っていたことは、古老から聞いたこともあり、また出典は忘れてしまったが、何かの文献で読んだ記憶がある。この御稗蔵と米市場が何かしら関係あるかと思っていたが、野口は米穀商が多く、それは「北ハ水田に富、南部は陸田<畠>多く、南の需要皆茲<油繩子>に仰く」からだと言う。油繩子村が南北の接点なのだろうか。推測をたくましくすれば、南つまり油繩子から石名坂までは平坦で、坂道はない。つまり物資の輸送が容易である。一方、北の成沢から石滝村までは坂が多い。その意味で平坦地と起伏の多い地の接点が油繩子村であると言える。御稗蔵が油繩子村に設置されたのも、こうした理由によるものだろうか。

四十八坂 成沢の坂道での記述である。石がたくさん落ちていて、歩くのに苦しむ。ここから北は坂道が多く、人力車に乗っては降りるを繰り返す。「土俗言ふ石名坂より磐城に至る四十八坂ありと。或ハ然らん」。

文明開化 田尻宿を過ぎて坂道にかかる。その峠の茶屋として上州屋は紹介されてきた。しかし上州屋は茶屋だけではなかった。店頭には洋品、洋酒、茶器の上等品が並んでいる。それを見た野口はこの地方にも文明「開花」が及んできていることに驚いている。

小木津宿から浜への急坂 当時の陸前浜街道は、現在の日高中学校の裏から松ケ丘団地の南側を通り(6号国道の切り通しになってしまった箇所は歩道橋で渡る)、小木津浜に降りた。この小木津浜に降りる直前の急な坂道を荷物の運搬に便利なように平坦な新しい道に付け替えた、と言うのである。この新道は、日高中学校と日高小学校のあいだを緩やかに浜にくだる道をさすのだろうか。調査を続けましょう。

[凡例]

縦書きを横書きに改め、漢字は常用漢字があるものは常用漢字に直し、ないものはそのままとした。仮名遣いはそのままとした。原文にはないが、適宜句読点と改行を施した。□は判読不明文字。[ ]は編者註。

[本文]

午後森山を過く。村東六七町水木村に泉川の清泉有。其水冷然として小池の中に噴湧細沙廻巻風雲の起るか如し。人有岸上に立て跳躍する時ハ、噴勢益々激するを以て人之を神霊ある者とす。何そ知らん。一面の岩盤人足の響激を與て以て湧勢を助くるにあらさるを。大甕の傍泉川の水は古歌の称する「みかの原わきて流るゝいつみかはいつみきとてか恋しかるらん」と詠せしは此処也と、或は言ふ非なりと。

此日は本路に従ひ泉川に遊ハす大沼金沢大久保等を過きて下孫に一休、油繩子に至る頃には日西に傾き、日光斜めに傘簷[1]内に入て、人を照し車上甚た困む。此村ハ米商殊に多きの処、郡の北部の産米ハ多来て茲に売るを常とす。是れ北ハ水田に富、南部は陸田多く、南の需要皆茲に仰くを以て是此地米穀の咽喉を扼するか為めなり。

一川あり。諏訪村の水洞より来り道を絶す。夫此の水洞は道より西に上ること二里一山の麓に有り。其洞穴深さ幾尺なるを知らす。古来其止処を窮むるものなし。土俗相伝、信濃諏訪湖水の漏るゝ処なりと。豈信ずるに足らんや。其水頗清冷、其山皆寒水石[2]なるは賞すへし。

一橋を過き成沢村に入る。石坂磊落[3]行歩甚た艱む。是より迤北一村を経、一林に入る毎に阪又阪、腕車[4]乗し過く可らす、一乗一下繁忙厭ふへし。土俗言ふ石名坂より磐城に至る四十八坂ありと。或ハ然らん。

助川ハ旧山邊主水[5]の館のある所山に拠り邸を構え城郭を成し、結構見るに足りしか。元治甲子水戸内乱の時、大津彦之進山邊を擁して之に拠り、而之を棄て又た田中源蔵之に拠り寺門登一郎等攻て之を陥り、兵焚の余荒残、維新の後に至り全く廃す。

宮田滑川田尻等を過き、日既に黄昏なり。海岸に栄蔵小屋あり。道より東五六町頗る景致の処とす。昔し栄蔵なる者の隠栖する処、其人の履歴余之を詳にせす。

田尻台に上州屋なる小店あり。善く茶を製し人に進むる。亦良品なり。故に旅人常に休するを楽む。店頭洋品洋酒又は茶器上等品等を列ねたるを以て見れハ、此地方も近来此の物品を売る家あるハ開花風の人心に入るを覚ゆ。

浜陸小木津の中間ハ長き松並木にて浜に下るの阪路ハ荷付馬なとの上下に苦しむ処なりしか、地方の有志家醵金して新道を開鑿、頗る平坦、里程も迂遠にあらず。行旅の便応に鮮にあらさるへし。余輩大いに此挙を賛美す。

折笠浜に至り大津彰[6]氏を訪ひ、島本氏等ハ是より夜を侵して手綱に赴き、余ハ止て大津氏に宿す。

(以下次号)

明治14年(1881)8月19日付『茨城日日新聞』掲載

[註]

  1. [1]簷:エン のき。ひさし
  2. [2]寒水石:カンスイセキ 大理石の地方名
  3. [3]磊落:ライラク 石の集まり、落ちるさま
  4. [4]腕車:ワンシャ 人力車
  5. [5]山邊主水:山野辺義藝。水戸藩家老。助川海防城第3代館主
  6. [6]大津彰:天保14年(1843)生れ、明治32年(1899)歿。父政則は折笠村の庄屋。のちに衆議院議員・貴族院議員となる大津淳一郎の兄。彰は明治11年(1878)に自宅に新聞縦覧所を開いた。墓石の碑文は、ひたちの碑の会編『日立の碑』に所収。

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