史料 近代における赤沢銅山鉱毒水問題

目次──鉱毒水問題|経過|史料 1〜25


鉱毒水問題

史料1 明治10年10月3日 赤沢
銅山廃坑につき廃跡危害手当指令
の旨茨城県達

鉱山の採掘・製錬の過程で有害物質(重金属)が河川に流れだし、水田に流れ込んで農作物の成育をさまたげ、あるいは河川の水を飲料水にしていると人体に害を及ぼす。そのため宮田川の流域住民(この場合、宮田地区の住民)は江戸時代から鉱毒水に社会問題として取り組んできた。そして20世紀に入ってまもなく、日立村の赤沢銅山の経営が久原房之助の日立鉱山に移ると急速に鉱毒水問題は沈静化する。しかしその数年後、多賀郡豊浦町の海岸で鉱毒水による磯焼けが生じた。

本項には(1)赤沢銅山及び日立鉱山の事業(採掘・製錬・樹木伐採)による鉱毒水問題、(2)鉱山事業休止中における官有林伐採問題、(3)(2)にともなう助川地区の用水枯渇及び水害問題、(4)鉱毒水問題収束後の多賀郡沿岸の磯焼け問題、にかかわ史料を収録した。

茨城県多賀郡日立村の鉱毒水問題については、いろんな文献・論文でふれられている。相沢一正「日立鉱山創業期の鉱毒水問題と土地占有」(『茨城県立歴史館報』第14号 1987年)が最もくわしい。また、橋本治「鉱毒水と地域」(鉱山の歴史を記録する市民の会編『鉱山と市民—聞き語り日立鉱山の歴史』 1988年)は流れを押さえるに便利である。また関連記事と史料をこのサイトの 近現代|日立鉱山鉱毒水問題| に載せているので、どうぞ。

赤沢銅山鉱毒水問題位置図 大日本帝国陸地測量部編 1906年(明治39)1/5万地形図を加工

経 過

本ページに掲載した史料以外にもいくつかの文献で史料が紹介されています。それらを含めて経過を年表ふうにまとめました。〈 〉内に出典を示しました。〈赤〉は当サイトに掲載している 赤沢銅山沿革誌 です。

 
時 期内     容史料
寛永年間
1624-43
多賀郡宮田村字赤沢の山中で銅の採掘がなされる
正保2年
 1645
宮田村の田2石4斗が赤沢銅山の鉱毒により収穫皆無となり、免租となる 15
正保3年
 1646
宮田村の田60石5斗余に鉱毒被害、免租 15
承応2年
 1653
宮田村の本田47石余が鉱毒のため新田に位下げ。以後鉱毒は沈澱し、水口になる田の2〜3枚は収穫が半分となり、江筋(用水路)の土砂をあげる場所は草も生えない状態となる 15
享保15年
 1730
[宮田村の]坂下に流有、赤沢山より落也。むかし此川にて銅を製候故、今に銅気とれす魚なし。此水田町へかゝり蝗なしと云
〈川上櫟斎「岩城便宜」古文書学習会編『道中記にみる江戸時代の日立地方』〉
明和2年
 1765
水戸藩鋳銭の原料として銅の採掘と製錬が宮田村赤沢で行われ、そのおり製錬燃料として周辺の立木が伐採され、河水が低下、ために水田用水が不足し畑地となり、2年後には荒蕪地となる 14
天保13年
 1842
宮田村の荒地と化した田は水戸藩の検地により畑地へ地目変更 14・15
文久元年
 1861
6月に多賀郡大塚村(北茨城市)の大塚源吾衛門が藩に採掘を願い出て許可される。9月中旬採掘を始める〈赤沢銅山沿革誌、以下〈赤〉と略〉
元治元年
 1864
9月、水戸藩の内乱で大塚の施設・設備が破壊され、事業中止
 
明治6年
 1873
    8月 副田欣一(長崎県)が赤沢銅山の採掘許可を得る
明治7年
 1874
  • 9月 副田欣一は事業用の坑木と薪炭確保のために周辺の松と雑木の伐採を茨城県に願い出たものの、県は水源地だとして却下
明治10年
 1878
副田欣一経営の赤沢銅山は廃坑となる
  • 10月3日 閉鎖後に村に危害が及ばないように指令したと茨城県から宮田村に達がある
1
明治11年
 1879
副田欣一が赤沢銅山の採掘を出願したさい、赤沢は水源涵養林であるので伐木しないよう宮田村は茨城県に求めたが、鉱山の仕法だとして受け入れられず、やむなく鉱区内に限定して伐採を受け入れたという経過があった。しかし鉱山が休止となっても伐採を続けていたので、宮田村は伐採の差止めを県に願い出る 2
明治22年
 1889
多賀郡豊浦町折笠の大津彰らによる耕牧事業が赤沢とそ周辺の官有林で許可を得て開始。大津らは耕牧に支障をきたす立木の払下げを受ける。しかし耕牧事業に着手せずに、立木三千本を炭焼業者に売却。さらに払下げを受けていない立木の伐採を開始。これに日立村宮田の住民は伐採禁止を県に願い出る
  • 12月27日 多賀郡長、大津らに伐採中止を命令
13
その後、赤沢官有林伐採事業は日立村の大字宮田が引き継ぎ、大字委員28人の決定により根本龍四郎(日立村滑川)を代表とする3人が伐採事業を継続することになる(時期不明)が、根本龍四郎らには事業の経験がなく、青柳縫男(水戸市)ら4人に伐採をゆだねる(時期不明)14
明治26年
 1893
  • 12月1日 多賀郡高鈴村助川(日立村宮田の南)の住民19人(代理岡部環)は、最近赤沢に多数の杣職人や木挽職人などが入り込み、炭焼竃も多数造られており、用水を失うだけでなく水害の原因ともなるので、伐採を停止してほしい旨の知事あて願書を県庁に出向き提出
  • 12月11・12日 助川の住民が伐採停止を1日に願い出たにもかからず、県の対応がないため伐採が進んでいるとして再願する
  • 12月18日 助川の住民は多賀郡役所で郡長に面会。25日地元日立村宮田の関係者の取調べと26日実地検分を行なうとの口達を郡長からえる
  • 12月19日 助川の住民が赤沢官有林の伐採・炭焼状況について実地調査。日増しにその規模を大きくしていることに驚く
  • 12月21日 助川の住民は19日の調査結果、このまま過ぎれば御用納めになってしまう、いそぎ県の実地検分を願うとの上申書を多賀郡長宛提出
  • 12月26日 助川の住民、赤沢で郡吏を待つも派出なし
  • 12月27日 助川の住民は郡役所へ出頭し、郡長と面会。26日に郡吏の出張がなかったことの理由について、根本龍四郎の答申書と口頭説明に(1)支障木を少しばかり伐採しているだけである(2)炭竃については記載がなかった、ことによるとの説明を受ける
3〜6
明治27年
 1894
  • 1月10日 助川の住民19人(代理大津彰・岡部環)は26年12月からの動きをまとめ、根本龍四郎らによる赤沢官有林伐採の差止めを求める県知事あて上申書を県庁を訪問して掛官に提出
  • 1月18日 助川の住民、多賀郡役所で郡長に面会し、現地調査を求める
  • 1月24日 助川の住民の要請に応え、郡役所は職員を派遣。住民と共に現地調査
  • 1月31日 助川の住民は、24日の現地調査の結果にもとづき根本龍四郎が郡役所へ提出した「答申書とは名実相反」し、「虚言」とする上申書を県知事宛提出
6・7
この年、高橋元長と城野琢磨(いずれも熊本県)が赤沢銅山の鉱業権を取得
明治28年
 1895
  • 3月 赤沢官有林伐採事業をゆだねられた青柳縫男らも樹種などの条件が厳しく伐採は進まず、兵藤祐三郎(茨城県新治郡志筑村)外1名に日立村大字宮田から譲渡された
14
明治29年
 1896
  • 10月23日 高橋元長ら農商務省へ赤沢銅山の増区を出願。そのおり茨城県知事から日立村に支障の有無について照会がある
  • 12月1日 日立村長根本兼松名で以下のように答申。当該地は(1)田の用水源である(2)以前より銅気が田に沈澱し、上流では稲が成熟しない(3)宮田川では魚が棲息していない(4)増区すれば流域の水田50町歩に被害がでる(5)増区地は官有地であり、現在耕牧事業地である
明治30年
 1897
  • 昨年12月1日の日立村の答申に基づいて東京鉱山監督署は実地調査を行なう。調査復命書に基づき監督署は公益に害なしと判断したとして、復命書を添えて県に再度照会
  • 3月18日 県は多賀郡役所を通じて復命書写を添えて日立村に具申を求める
  • 4月6日 日立村は復命書の記載事項にことごとく反論する答申書を県知事宛提出
明治31年
 1898
  • 5月11日 東京鉱山監督署は高橋元長らに対し鉱毒防設計書を提出するよう指示〈赤〉
  • 7月10日 「赤沢銅山鉱業中止運動 附官有地禁伐林請願」の見出しで新聞報道〈史料11〉
  • 7月15日 高橋らは鉱毒予防設計書を作成し、東京鉱山監督署へ提出〈赤〉
  • 11月4日 多賀郡役所は高橋元長らから鉱毒予防設計書が提出されたので、それにより操業を認めたいが、意見がほしいと日立村へ照会〈赤〉
明治32年
 1899
  • 4月9日 前年11月4日付多賀郡役所からの照会に日立村は、(1)飲料水としている家には井戸を新設すること(2)水田に被害が出たら損害賠償に応ずることを条件に承諾
8
明治33年
 1900
  • 春 鉱業権は高橋元長から松村常蔵・小林啓助(いずれも横浜市)、さらに横浜市のアルポース社へ譲渡される。ドイツ人のシウヲールセンが代理として赤沢銅山の鉱山業務にたずさわる〈赤〉
10月 赤沢鉱業合資会社(以下、赤沢鉱業と略)設立〈日立村諸表綴〉
明治34年
 1901
この年、赤沢銅山の実質的経営権を大橋真六(栃木県)が手にする
明治36年
 1903
  • 12月 兵藤祐三郎らは植林事業に力を入れていたが、国からの借地にある立木すべてを赤沢鉱業に売却し、事業を中止
14
明治37年
 1904
  • 3月 宮田の住民は兵藤祐三郎の事業中止と赤沢鉱業への立木売却を知る。これにより宮田の住民は「赤澤鉱毒除害立木禁伐請願期成同盟会」を結成
  • 5月18日 日立村の鉱毒水被害について新聞報道
  • 5月19日 期成同盟会委員は兵藤祐三郎の代理人土屋醇三郎と協議。委員は規約を無視した売却の取消しを求めるも、土屋から返答はなかった。一方、赤沢鉱業は炭焼と敷木及び製錬燃料として伐採を開始
  • 7月7日 宮田の住民210余人が赤沢鉱業の事務所に伐採中止を求めるため字杉室にある大雄院境内に集会。警察が出動し、その説得に応じ代表として12人の委員が事務所へ向かい、高橋元長設計による鉱毒除害法の実施など3項目を要求
  • 7月10日 7日の宮田の住民らの行動を新聞が報道〈史料11〉
  • 7月11日 日立村民代表根本兼松ら多賀郡役所へ赴き請願書を提出〈赤〉
  • 7月19日 赤沢鉱業の大橋真六から日立村長にあてて2項目の回答がある〈史料12〉
  • 7月28日 日立村長佐藤仙三郎、郡役所へ出頭し、請願書に対する郡長の添書を要求〈赤〉
  • 7月28日 鉱毒除害工事完成までの採掘・製錬の中止要求が無視されたとして、期成同盟会は県を通じて請願書を農商務省に提出〈史料12〉
  • 8月1日 期成同盟会は請願書の説明書として陳情書2種〈史料14・15〉を提出
  • 8月2日 多賀郡長、字赤沢の鉱業地と立木伐採の地を視察〈赤〉
  • 8月5日 県林業技師現地調査〈赤〉
  • 8月8日 高萩小林区署、赤沢鉱業に対し赤沢国有林の伐採停止を命令〈赤〉
  • 8月11日 茨城県は日立村の赤沢官有地立木伐採中止及鉱業中止請願書を農商務省へ進達〈赤〉
  • 8月22日 日立村長・期成同盟会請願人総代ら上京〈赤〉
  • 8月24日 日立村長ら内務省に出頭、鉱山監督署に陳情書提出、東京鉱山監督署長らと面談。大林区署へ出頭、署長と面談〈赤〉
  • 8月25日 東京大林区署から部分的に伐採の中止を命じるとの電報が日立村役場に入る〈赤〉
  • 9月5日 東京鉱山監督署、赤沢鉱業へ鉱毒予防命令を発す
  • 9月6日 日立村、字赤沢ほか3ヶ所に保安林設定を申請〈赤〉
  • 9月9日 東京鉱山監督署から監督官を現地に出張させると通知
  • 9月11日 鉱毒除害工事監督として監督官補が日立村役場へ、その後現地赤沢へ。9月5日付の東京鉱山監督署長名の赤沢鉱業への鉱毒予防命令書に接する〈赤〉
8〜15
明治38年
 1905
  • 3月4日 赤沢鉱業は赤沢国有原野払下願いでる。宮田の住民らによる保安林設定の動きに対抗〈史料16〉
  • 12月20日 赤沢等に保安林設定のための茨城県森林会開催〈赤〉
  • 12月22日 森林会の調査委員と県林業技師が現地を調査〈赤〉
  • 12月24日 森林会が開催され、赤沢国有林140町歩余の保安林編入が決定〈赤〉
  • 12月11日 久原房之助、赤沢銅山を大橋真六から買収し、26日日立鉱山を開業〈日立鉱山史〉
明治39年
 1906
  • 6月6日 久原房之助より根本龍四郎を通じて「相互ノ利益ヲ謀リ将来親密ノ交際ヲ為シ度」いと宮田の住民に申し入れがあり、条件を付して受け入れる
  • 6月30日 宮田の住民、字赤沢ほか3ヶ所の保安林編入申請を廃棄したい旨の上申書を県に提出。理由は赤沢銅山の経営者が久原房之助に代わってから「村方トモ充分意思疎通シ将来水源ノ涸渇セシムル等ノ憂モ有之間敷」と考えられたからであるという
17
明治40年
 1907
  • この年から多賀郡沿海の漁場の磯焼けがはじまる
24
明治41年
 1908
24
明治43年
 1910
  • 5月25日 鉱毒水が多賀郡平潟(北茨城市)から東茨城郡磯浜(大洗町)の漁業に影響を及ぼすことを危惧する新聞報道
22
  • 6月23日 多賀郡豊浦町(日立市)の海岸で日立鉱山の鉱毒水が海に流れ込み、海藻が枯死するなど磯焼けが生じていると新聞報道
23

史 料

翻刻にあたって

史料1 明治10年(1877)10月3日 赤沢銅山廃坑につき廃跡危害手当指令の旨茨城県達  宮田佐藤(茂)家文書
              多賀郡宮田村
                  村 長
其村字赤澤銅山礦所長崎縣士族副田欣一へ借區坑業
許可之處、今般廢坑出願ニ付聞届、廢跡危害無之様
手當可致趣及指令候条、此段為心得相達候也
 明治十年十月三日     茨 城 縣「印」
  1. [1]副田欣一:「赤沢銅山沿革誌」は佐賀県の士族とするが、長崎県の誤りであろう。副田は明治4年に小野組が借区した秋田県の阿仁鉱山を一時経営したことがあった(宮本又次『小野組の研究』第3巻)ことから、小野組の一員と考えられる。
史料2 〈明治11年(1878)〉 宮田村赤沢銅山伐木差止願書  宮田佐藤家文書

本史料は年次を欠いているが、大区小区制が布かれたのは明治8年9月から11年7月までのこと、かつ史料1をふまえて作成されたものと考えた。

   鉱山仕法之木柄私用に致候儀御差留之願
                    第三大区一小区
                        多賀郡宮田村
赤沢銅山当村水源之地、前々副田欣一銅山出願之砌、田方干損場数[薮]地有之候故、伐木不致様再三再四出願仕候所、鉱山之法方義有之向□督責ニ付不得止及示談、本人ヨリ出願之上御許可ニ相成候場所ニ於イテ、今般鉱山休之折柄木挽等入山伐木致、板戸、さん等数出来致居候。右田方用水要用之場所候間、右様私用ニ伐木被致候而者、村中之地主一同難渋仕候。全ク鉱山仕法之タメ御許可ニ相成候儀ニ相違無之候。何卒実地御検査之上伐木御差留之程奉懇願候。尚右銅山休之内留守居トシテ無籍者壱名差置候段、山内伐木勿論、万一不所業之者差置、悪行致候モ難計候。誠ニ村中之者共痛心罷在難渋仕候間、此儀モ定実御汲取、御調之上御差立之程奉再願候。以上

   鉱留守居の者私売伐等御指留之儀願
 [以下欠]
史料3 明治26年(1893)12月1日 赤沢官有林伐木差止め高鈴村助川住民願書  宮田佐藤家文書
   字赤沢外四字官有地伐木
   御差留之儀願
多賀郡日立村大字宮田字赤沢外四字官有地之儀樹木欝蒼之水源ニ候処、前年右官有地耕牧之為メ御貸下ニ相成、拝借人共ニ於テ樹木伐採に着手候ニ付、一ツハ用水ヲ失シ一ツハ水害ヲ来スノ憂モ有之、容易ナラザル儀ニ候間、耕地所有者ヨリ伐採御差留之儀上申仕、御採用ニ相成、大ニ安堵罷在候処、今般猶又伐採ニ着手仕、前年ニ比スルニ尚幾層之規模ヲ広メ、杣小屋数箇ヲ建テ、杣職、木挽職等数十名入込ミ、一方ニハ又炭竃数十ヲ設ケ、盛ニ炭焚ヲ為スカ如キ、目下該地ニ人民之入込ミ居ルモノ百有余名有之候処、右ハ樹木伐採之儀御解除ニモ相成候儀ニ候哉、然ニ下流ニ耕地所有之者共難渋仕候理由ハ前年上申之通ニ御座候間、何卒従前之通最急御指留被成下、耕地数十町歩之所有人民安堵仕候様御処置被成下度、此段奉願候也
                 多賀郡高鈴村大字助川
                    鈴木栄介外十二名代理
 明治二十六年十二月一日              岡部  環
                          大都[津]彰
  茨城県知事 高崎 親章 殿
史料4 明治26年(1893)12月12日 赤沢官有林伐木差止め高鈴村助川住民上申書 宮田佐藤家文書
   上申書
本月一日付ヲ以テ多賀郡日立村大字宮田字赤沢外四字官有地立木伐採之義ニ付、水源涵養ノ故ヲ以テ右伐木指留方出願仕候処、□□何等ノ御所置無之為メ、伐採方ハ日々盛大ヲ□メ、其儘御指置キニモ候ハヾ日ナラズシテ全山ヲ切リ尽スノ勢ヒニ御座候。斯テハ我々下流ニ耕地ヲ所有スル者難渋容易ナラズ候間、一日モ早ク安堵致シ候様御所置被成下度委任状写相添へ、此段上申仕候也
                 多賀郡高鈴村大字助川
                    鈴木栄介外十八名代理
 明治二十六年十二月十二日            岡部  環
  茨城県知事 高崎 親章 殿
史料5 明治26年(1893)12月21日 赤沢官有林伐木差止め高鈴村助川住民上申書 宮田佐藤家文書
   上申書
御所属日立村大字宮田字赤沢官有地伐木御指留之義ニ付、過日□□ニ接シ事情陳述仕候得共、尚又去ル十九日実地取調べ候処、日々増シ規模ヲ押シ広メ、盛ニ伐木致シ居候為メ、下流ニ耕地ヲ所有スル者驚愕一方ナラズ。既ニ本日ハ一同御所へ出頭請願スベキ旨ヲ以テ小生宅へ参集候ヘ共、如斯挙動アリテハ却テ不穏当ノ義申諭シ、一トマズ解散致シ候間、何事至急実地御取調べ被成下度、左モ無之候上ハ何程我々周章県庁へ出府候モ水泡ニ帰シ、無益ニ日□ヲ費ス之巳ニテ困難ヲ□メ候之巳ナラズ、最早年末ニモ余日無之、其儘御差置キニモ御用仕舞ニモ相成リ候ヘバ、其レ□容易ナラザル次第ニ付実情御深察被成下、実地御検分願度該地ノ如キハ意外ノ広場ニテ炭竃ノ如キモ各所ニ散乱致シ置キ候ヘバ、万一御取調落モ無之哉ト乍□□推察仕候為メ、御参考書トシテ御手先迄別紙呈供仕置キ候間、最急御取調被成降、此段上申仕候也
                多賀郡高鈴村鈴木栄介外十八名代理
 二十六年十二月廿一日              岡部  環
  多賀郡長 篠  有隣 殿

[別紙]
   取調書
一 炭竃                参拾弐個
    但、多賀郡元高原字黒田須田甚五兵衛、久慈郡東河内村字水世佐田関之丞、多
     賀郡元小木津村字沢平椎名金蔵、久慈郡元入四間村字笹目根本新五衛門、仝
     所吉成新五郎外十三名、外新治郡族籍姓名共尋ネニ応セザル者十名計
一  炭竃                               拾五個
      但、目下竃築造中三分ニシテ、今ヨリ四五日ヲ経バ焚始メル分
  合計四十七個
一 木挽小屋              三個
    但、杣職、木挽職三十五名程
  其外炭木根切リ之者六七名
右本月十九日[行間書入:該地ニ入込居ル人民凡百有余名ヲ]取調べ候処、前記之通
リニシテ、炭竃等モ逐ヒ逐ヒ増加之模様、殊ニ炭荷並ビニ板木材等運送ノ為メ駄
馬入リ込ム等実ニ意外ノ暴勢ヲ極メ居ル也
  明治二十六年十二月廿一日           岡部  環
史料6 明治27年(1894)1月10日 赤沢官有林伐木差止につき高鈴村助川住民上申書  宮田佐藤家文書
 官有地伐木御指留之義上申
多賀郡日立村大字宮田字赤沢外四字官有地立木伐採御指留之義ニ付、客年十二月一日我々出庁、掛官へ事情開陳ノ上願書捧呈仕、更ニ仝月十一日掛官岡部□ニ面会ノ上、速ニ御指留之義請願仕候処、目下郡役所へ照会取調中トノ御口達ニヨリ、仝日上申書ヲ捧呈シ帰村、仝月十八日郡役所へ出頭、篠郡長ニ面会、事実申述候処県庁ヨリ照会モ有之候ニ付、地元関係人来ル廿五日ヲ以テ呼出置キ候ニ付、一応取調之上、廿六日実地検分トシテ出張致サセべキ旨御口達ニヨリ帰村ノ上、仝月十九日我々共現場ヘ罷越伐採方取調候処、日増ニ基礎ヲ押シ広メ案外ノ暴勢ヲ□□ニ付一同驚愕仕、斯□テハ万一ニモ地元関係人郡役所へ対シ不実ノ答申ニ及等哉モ難計ト存ジ、我々共実地目撃シタル調書ヲ認メ、廿一日付ヲ以テ参考書トシテ郡長手元マデ進達致シ置キ、廿六日我々共登山、郡吏ノ出張ヲ相待チ候処遂ニ派出無之、因テ仝廿七日亦々郡衙ヘ出頭、篠郡長ニ面会シ、郡吏ノ派出無キ理由等相尋ネ候処、御口達ニ地元本人根本龍四郎[2]出頭ニ付伐採ノ有無相尋ネ候ニ、其答申ニハ伐採ハ致シ居リ候ヘ共、開墾予定区画中ニアル第一期、第二期、第五期ノ三ヵ所ニ点在スル支障木ヲ聊カ伐採スルトノ申立ニ付、其旨県ヘ回答ノ上必要書類ヲ取リ寄セ、然ル上更ニ予定書ト実地相違スル哉否ヤ郡吏派出取調ベキ旨、尚我々ガ廿一日付ヲ以テ指出置キ候参考書ト本人根本龍四郎ノ申立ト付合致シ居リ候得共、炭竃数ノ如キハ龍四郎ノ答申書ニ記載無之由、元来我々ニ於テハ伐木致シ居リ候事実判然致シ候ハヾ敢テ御見分ヲ請フノ必要無之、之巳ナラズ関係人則チ龍四郎等ガ主張スル予定書ニアル方法云々ニ到リテハ、是レ亦我々共与リ知ラザル処ニシテ、只其願意ハ樹木ヲ伐採候テハ、単ニ用水ヲ失スル之巳ナラズ水害ヲ来スノ恐レアレバ、至急伐採方御指留ヲ願フニ止リ、前年先キノ拝借人共ニ於テ樹木伐採ニ着手致シ候際、耕地所有者ヨリ水源涵養ノ害ヲ以テ指留之儀上申仕候処御採用ニ相成リ、当時ノ事情ト同一之理由ニテ、地元拝借人ノ予定区画中ニアル支障木ヲ之巳伐採セシ旨ノ答申ハ、最初前願人カ伐木着手中ニモ申陳タル由ナレトモ其ノ効ナク、終ニ今日マデ伐木ハ御指留相成リ居リ我々共安堵罷在候処、前件ノ伐採方ニ至リテハ片時モ指置キ難ク、折返シ出県請願致スベキ心得ニ候処、年末休暇ニ際シ□為メ遺憾ナカラ空シク差控ヘ居リ候共、伐採方ハ日増シニ盛大ニシテ、別紙取調書ノ通リ炭竃並ニ杣職、木挽職等□慮百数十人入リ込ミ居リ、前年ニ比スレバ幾倍モノ規模ヲ広メ、日々数百本ノ伐木ニテ耕地所有ノ我々共憂慮一方ナラズ、一日モ安堵ノ思無之、斯ノ荏苒御指置キニモ相成候ヘバ日ナラズ全山伐リ尽ス哉モ難計、実ニ容易ナラザル事情ニ差迫リ候間、迅速伐採方御指留被成下度、実地取調書相添ヘ、此段上申仕候也
                多賀郡高鈴村大字助川
                   鈴木栄介外十八名代理
 二十七年一月十日                大津  彰[3]
                         岡部  環
  茨城県知事  高崎 親彰 殿
 
 [別紙]
   多賀郡日立村大字宮田字赤沢
   外四ヶ所官地樹木伐採取調書
一 炭竃              四十弐個
   外ニ目下新設ニ係ル不日落成スベキモノ数十個
一 木挽小屋            三 棟
   但、杣職四十名余
一 炭元木根切人          十余名
右客年十二月十九日ノ調ニ係ル実況ヲ該地ニ入リ込ミ居ル人民百余名、炭竃等モ逐
テ増加ノ模様、炭荷及ビ木材運搬ノ駄馬往復頻繁ナリ
右ノ通リニ候也
  1. [2]根本龍四郎:『茨城人物評伝』(1902年刊)によれば明治元年(1968)生まれ、「多賀郡日立村大字滑川の人、今現に平潟町に住」す。『多賀郡史』によれば明治44年9月〜大正4年9月茨城県会議員。44年11月30日の茨城県通常県会の煙害問題質疑では自ら「本員ハ此日立鉱山ト地方民トノ間ノ立ツテ三十四年以来鉱業ト農業トノ間ノ調和ヲ取リ来ツタ」と発言している。関右馬允は『煙害問題昔話』において「根本竜四郎氏は、その後補償問題に関しては、鉱山と被害地の中間に立って、長く補償の調停に当たり相互の激突を避けた功労者であったが、素晴らしい美屋を高松台の西南側に新築したりしたので、不平党からはあらぬ風評を立てられた」と述べている。
  2. [3]大津彰:豊浦町折笠の人。天保14年(1843)生れ、明治32年(1899)歿。父政則は折笠村の庄屋。のちに衆議院議員・貴族院議員となる大津淳一郎の兄。彰は明治11年(1878)に自宅に新聞縦覧所を開いた。墓石の碑文は、ひたちの碑の会編『日立の碑』に所収。
史料7 明治27年(1894)1月31日 赤沢官有林伐木差止めにつき高鈴村助川住民上申書 宮田佐藤家文書
   官有地伐木御指留之義上申
多賀郡日立村大字宮田字赤沢外四字官有地伐木御指留之義ニ付テハ、曩キニ願書並ニ上申書等呈供致シ置キ候ニ付、去ル十日出県、野村掛官ニ面会、指留ノ事情陳述仕候処、事業人カ答申書之通リ開墾場ニ点在スル樹木、亦ハ新道路敷ニ当ル支障木ヲ伐採スルハ、格別水源ニ被害モアル間敷旨、掛官ノ御諭達モ有之候ニ付、一応帰村之上耕地所有者一同協議仕候処、兎ニ格答申書之通リ相違無キ哉否ヤ実地検分ヲ受ケ、果シテ水源ニ害無キ限リハ如□レトモ示談スベキ旨衆議一決シ、去ル十八日郡役所ヘ出頭、郡長ニ面会、実地見分之事ヲ請求帰村仕候。去ル廿四日郡役所ヨリ大石通正氏出張ニ付キ関係者一同登山、現場取調ベ候事実左ニ
前条申述候有様ニシテ名実相反シ、決シテ真実ノ事業ニ無之コトハ我々ノ贅弁ヲ要セズ。既ニ出張官ノ目撃スル処ニシテ、最早乱伐タルコト刻然致シ居リ候間、至急伐採方御指留被成降度、此段上申仕候也
                多賀郡高鈴村大字助川鈴木栄介
                      外十八名代理
 二十七年一月三十一日               岡 部  環
  県知事宛
史料8 明治32年(1899)7月 鉱毒予防設計に対する多賀郡長宛日立村意見書  川崎松寿「赤沢鉱毒問題に関する若干の史料」『郷土ひたち』第24号
本史料は 赤沢銅山沿革誌 にも見える。本文の文言が若干異なるほか、差出月日が4月9日となっている。
   鉱毒予防設計に対する意見書
                   東京都日本橋區蛎殻町三丁目十三番
                          大庭大琳斎方寄留
                          熊本県士族
                           鉱業願人総代
                               高橋元長
右出願人より提出したる鉱業予防設計に拠れば、水田に於ける害毒は稍減少するものの如しと雖も、然とも該河流を以て飲料水に供する字五ヶ所の人家あり。之れみな衛生上最も有害を免がるべからざるものなり。尤も同人上申書中に各字に井戸壱個つゝを新設すへき旨有之候。依ては上申書之旨趣乃予防設計の全部を履行するに於て異議なきものと見認め此段意見答申申候也
  三十二年七月
史料9 〈明治37年(1904)3〜4月〉 赤沢山の禁伐及び鉱業中止を求める日立村宮田の住民による期成同盟会規約書  宮田佐藤家文書
   規約書
今回本村大字宮田字赤沢耕牧事業者兵藤祐三郎[4]外壱名が大字との規約を無視し、全山立木を悉皆売却したるに依り、再三面会を索め賣買の取消を要求するも、怗として応せざるを以て、水源涵養の古例に法とり禁伐林を請願し、尋いて鉱山[5]に対し当初彼れか設計の如く鉱毒除害法を履行し、該工事竣成迄は鉱業中止を同時に請願する事に協議す。然れ共当大字に対しては、至重至大之問題にして、各鋭意団体の組織を鞏固ならしむるを緊要とす、依て左に規約を定む
  1. [4]兵藤祐三郎:茨城県新治郡志筑村(かすみがうら市)の人。元志筑藩士。大正4年(1915)当時、志筑村農会長。村内屈指の大地主という。(富岡福寿郎編『茨城人名辞書』1915年)
  2. [5]鉱山:赤沢鉱業合資会社。明治33年10月創業。明治36年末時点で資本金8万円・払込済額8万円、最近損金3,500円・益金0円、職工男123人・女40人、計163人。採掘量1,103トン、銅生産高(販売高)78トン、35,490円(『茨城県統計書』、明治36年「日立村諸表綴」)
史料10 明治37年(1904)5月18日付新聞記事 多賀郡の鉱毒問題 『いはらき』
   多賀郡の鉱毒問題
多賀郡赤沢銅山は昨今益々好況を呈し、一日の製銅一千四五百貫目に上るに至りし為め製焼より生ずる鉱毒四方に流下し附近水田の被害少なからず。且つ従来赤沢より流出する河水を飲用に供し居りたる日立村字松平、加性、蛇内、国木崎、万城内、関根、田中、山王、橋本、柴内等にては鉱毒の為め河水を飲用する事能はず、被害年々激甚を加ふるより同村民は適当の方法を講じ之を防止せんとて頻りに奔走中なりと云ふ
史料11 明治37年(1898)7月10日 赤沢銅山鉱業中止運動報道記事  『いはらき』
   赤沢銅山鉱業中止運動 附官有地禁伐林請願
屢々記載せる如く多賀郡日立村大字宮田赤沢銅山鉱毒被害は益々顕著なるを以て、盛農中にも係はらず大字宮田村民は寸時も捨て置くべからずとて當局者にも諮る處あり。先頃辻郡長は大石郡書記を従へ佐藤村長及ひ大字有志七名と共に登山し一応の踏査を遂げし由なるが、當初鉱業者が設計の如く鉱毒除害法の励行せらるゝまで該銅鉱採掘中止を請願し、又一方赤澤耕牧事業者兵藤祐三郎氏外一名が大字との規約を無視し、仝地宮田水源涵養林たる全山の立木を仝銅山請負者たる永井久之助[6]なるものに賣却したるを知りたる村民は當局者及び有志をして耕牧業者に談ずる處ありしに、兵藤氏は言を左右に托し村民の申立てに応せざるを以て一層の激昂し伐採中止を求むるの他あらすとて大字村民一致を以て字赤澤鉱毒除害立木禁伐請願期成同盟会事務所なるものを設置し、請願委員を選定して上京の途に就かしめ、尚ほ村民二百有餘名は去七日何れも腰弁當にて大雄院に集合せしを、松原署にて早くも探知し六名の部長、巡査を配置し途中に於て之を差止めんとせしも、村民は更に聞入れずして大雄院に集合せしを以て警官は又々説諭を加へ、又役場員等の盡力により委員十名を選定して登山せしめ、他一同は一と先づ帰宅することゝなり、委員十名は警官と共に銅山事務所に至り談判する處ありしに、所長不在なるも立木伐採は一時中止すべきことゝなり、無事同盟事務所に引きあげたりと
  1. [6]永井久之助:明治22年 1889年)24歳のとき郷里富山県を出て、足尾銅山で製錬用薪炭の納入の仕事を請負う。明治35年に日立村大字宮田字赤沢に来住し、足尾同様の事業を請負う。詳しくはこちら 永井久之助 を参照
史料12 明治37年(1904)7月19日 宮田の期成同盟会要求への大橋真六[7]回答書  川崎松寿「赤沢鉱毒問題に関する若干の史料」『郷土ひたち』第24号
  1. [7]大橋真六:明治5年小野組の手代、明治6年5月時点で小野組の信州長野及び上田店の支店長をつとめ(『小野組の研究』第3巻)、さらに小野組古河市兵衛の下で明治8年開業の長野県埴科郡関屋村(松代町)赤芝銅山(翌年休業)を経営したことがあった(古河鉱業株式会社『創業百年史』)。そして明治41年6月12日付『いはらき』新聞に「栃木県人足尾銅山採鉱課長たりし大橋真六氏赤沢銅山と名つけ」とあるように古河市兵衛の足尾銅山系列の人物であった。
史料13 明治37年(1904)7月〈28日〉 宮田の住民による赤沢官有林伐木禁止願書  宮田佐藤家文書
   赤沢官有地禁伐之儀願
                茨城県多賀郡日立村大字宮田
                        願人  根本  兼松外
                             弐百拾弐名
奉請願候
抑本村[日立村]大字宮田字赤沢元原野は大字に対する水源涵養之地にして、古来立木の伐採を厳禁し来りたるは今更言を竢たずして、現に欝蒼たる林相を視るも明かなり。然るに去る明治廿二年中本郡豊浦町大字折笠士族大津彰外三名か耕牧事業の名義を以て、仝字外四個所之原野を拝借し、加之ならず耕牧使用の場処に限り障碍木として、立木参千本余、代価百八拾余円を以て払下け、是を名として払下げ外之立木をして濫伐を始めたるに由り、早速伐採を差止め、直ちに県庁に向ひ支障木の外伐採の禁止を請願し、速かに聴許せられ、村民堵を安んじ、爾来拝借人名義変更之都度一層規約を鞏固にし、事業を為し来りたるも何ぞ図らん、今回事業者本県新治郡志筑村大字中志筑士族兵藤祐三郎外壱名が従来の規約を無視したるのみならず、素より、払下けをも為さざる仝字全山之立木をして、悉く売却したるに依り、村民之激昂大方ならず、茲に於て委員を設け、理事者に諮り、仝人より事業者兵藤祐三郎へ面談を需めたるに、五月十九日代理として、土屋醇三郎出頭に付き会見を為し、該事業に就ては従来厳確なる規約を締結したるにも拘はらず、些の協議もなく、剰さへ全山の立木全部売却し、規約を破りたるは如何なる理由ありて斯の如き所為に出てたるかを詰問せしに、彼れは毫も自己の行為を顧みるの色なく、恬として言を左右に托し、要領を得ざるに由り、結局売却全部を取消すべきを命したり
然るに之れに対しては、彼れも関係者へ協議の上確答すべき旨にて壱週間の猶予を申出に付、期日に至り督促するも、書面を以て尚延期之請求に止まり、于今何等之回答なきに拠り村民益憤怒し、到底取消に応ぜざるものと断定し、事小なりと雖村民休否之係る処に候得ば、今にして濫伐の防遏を講ぜざれば、年一年に水源減少し、被害之惨状を招くや大なり。然れ共、如何せん其筋へ訴ふるの外道なきをや、蓋し如上の事実に於て須臾も黙止する能はざる所以にして、官之御都合をも顧みず、今遽かに奉請願候も甚だ恐多き次第に候得共、字赤沢之地は永久禁伐林に御改め被下、保存林と相成候はば、従来伐採の跡も自然繁茂し、水源涵養の空しからざる地と相成、本村の光栄之れに過ぎざる儀に候間、幾重にも村民の窮状御憐察被成下、後難御救助あらん事を切に奉請願候、恐惶敬白
 明治三十七年七月              右願人総代
                          根本  兼松 印
                          福地  豊蔵 印
                          沼田  与市 印
                         [以下一六名の氏名略]
史料14 明治37年(1904)8月1日 赤沢官有林立木伐採中止請願に関する陳情書  宮田根本家文書
   赤澤官有地立木伐採中止請願に対する陳情書
本村[日立村]字赤沢は(元原野にして明治三十一年より國有林に編入となる)水源涵養の地たるを以て古来立木の伐採を禁したるは疑ふべからさる理由を存す。如何となれは遠く明和二年中久慈郡太田町小澤九郎兵衛なるもの鋳銭座を居村へ開設し、燃料の為め舊水戸藩より仝所水源地たる字□め銅谷に於て立木を拂下け仝字の全部を伐採したり。然るに河水漸々減少し、下流の水田字駒王作外壹字にて田高四拾三石餘は乾田と化し、仝四年に至り遂に荒蕪に帰したり(因に仝年より天保十三年土地改正迄七十六年の間は依然として荒蕪の地へ田租を納め、改正に依り畑に変換し仝年度より畑租となる。当時官民の無責任には驚の外なし)斯の如く樞要なる地なるに由りて、爾来一層伐採を厳禁し来りたるを本願に明記する如く去る明治廿二年三月中本郡豊浦町大字折笠士族大津彰外三名の者耕牧事業の名義を以て仝字外四ヶ所の原野を拝借し、加之ならす耕牧使用の場処に限り支障木として立木三千本餘代價百八拾円餘を以て拂下け、是を奇苛[貨]とし事業へは着手せすして一時の利を博せん為め炭焼を営まんと欲し俄かに人夫数拾人を雇ひ炭竃数拾個を築造し、払下外の立木をして濫伐を始めたるを認め直ちに伐採を差止め縣廰に向つて伐採の禁止を請願したり。然るに縣属鹿打直五郎殿出張実地臨検を遂げ、且つ郡役所よりも一課長古沢茂寿殿の臨検あり。而して仝年十二月廿七日付を以て多賀郡長雨宮廣厚殿より伐採中止の命令に接したり。依て彼れ等は甚た目的を失し(素より耕牧の事業を為すの意にあらすして将に立木を伐採して薪炭を輸出し一時の利を博せんとしたるなり)、他に講するの道なく当大字へ譲渡さんとの交渉あり。且つ官の内諭もあり(因に本村にて事業を採るときは水源を保護し濫伐の弊なきを謀り官の内命も有りたるなり)て大字宮田に於て譲る受くる事に決し、大字を代表して根本龍四郎外弐名にて譲受けたりと雖とも然れ共該事業に就ては技術に富めるものなきを以て止むを得す是を青柳縫男[7]外三名へ交渉し、委員廿八名を挙けて鞏固なる契約を締結し「樫松樅欅」四種の外雑木を伐採するに到りては、廿八名の委員へ商議を遂け承諾を得ざれば伐採する能はさるを誓約して譲渡したり。然るに彼等も事業の難きを以て維持する能はす終に兵藤祐三郎外壹名へ譲渡したり。然れ共従来の契約は依然継続して履行すへき承諾書を作り前事業者へ前々事業者(当大字なり)へ対し差出したり。時に明治廿八年三月なりき。斯の如く轉遷して今日に至り、殆と十ヶ年之間彼れは事業を変更して専ら植林事業に力めつゝありしか何ぞ圖らん今回拝借地全部の立木を悉皆代金三万一千五百円を以て仝所鉱山事務所へ賣却し、尚且つ事業をも中止したり(実は客年十二月中実行したるを本年三月に至りて発覚せり)と聞き、甚た其所為を怪しみ理事者に詢り、事業者兵藤祐三郎へ対し面談を索めたるに荏苒遷延漸く五月十九日代理として土谷醇三郎出頭に付委員等相會し村長佐藤仙三郎立會の上會見し、該事業に付ては従来鞏固なる規約を締結しあるを一應の協議もなく全山の立木を賣却し、規約を無視したる理由を問ふに、彼れは恬として言を左右に托し要領を得ざるに由り結局賣却全部を取消すへきを命したるに彼れも確答する能はす、猶豫を乞ふて退出し、爾来数旬を経るも回答なきを以て村民益憤怒し、到底取消の請求には應せさるものと断定したる上は、一日も黙視する能はす。遂に連署して請願書捧呈となれり。如上開陳する処の事情なるを以て当村民は請願を名とし事業を妨碍するの野心を抱くものにあらず、唯将来に向かつて村民の不幸を悲しみ村民の利益を保護せんとの誠意に出てたるものにて、嗚呼是れ止むを得ざるの請願なり
 明治三十七年八月一日               請願委員 根本兼松
                                  外三名
  1. [8]青柳縫男:水戸市下市の人。合資会社青柳銀行を創立(弘文社編纂部編『茨城人名辞書』1930年)
史料15 明治37年(1904)8月 農商務省宛請願書附属の陳情書  宮田根本家文書
     陳 情 書
明治三十七年七月廿八日付を以て字赤澤鉱毒に対し地方廰を経て農商務省へ提出したる請願書に対する陳情左の如し
然るに七月十九日付を以て左の回答に接したり 以上の回答にては一として要領を得る能はす、剰さへ要求中除害法工事竣成迄は採掘及製煉共中止すへき件に対しては黙居に附し此の如き不義悖徳の輩に向かつては最早交渉の必要なきものと認め、断然請願の挙に出てたる次第に候
史料16 明治38年(1905)3月4日 赤沢鉱業による赤沢国有原野払下願  明治38年5月7日付『常総新聞』
   国有原野払下願
 一 前記の地所は当鉱山の附属地として使用するは他の如何なる方法により使用するより大なる利益ある事
 二 該地は古来一個の住民なし。只鉱山開始したる為め幾多の住民を生したるは事実なり
 三 耕牧者と称する者も耕牧者と称するは只虚名にして真実当鉱山の為め生活しつゝあるものなり。四月鉱山の目下は一ヶ月精約一万八千斤以上を産出しつゝあるも、政府の命令によりて着手しつゝある予防工事を完成し、且つ既に政府の認可を得て着手しつつある設計を具備するに至れば一ヶ月精約十万斤以上二十万斤以内を産出し得可き事は請願者並に技師の確證する所なり(未完)
史料17 明治39年(1906)6月 宮田の住民からの赤沢官有林保安林編入申請廃棄上申書  橋本治「資料紹介 赤沢官有地立木伐採問題」『会報 鉱山と市民』第9号
   上申書
去ル明治三十七年八月六日水源涵養ノ目的ヲ以テ本村大字宮田字赤沢外三字地内ニ保安林設定之儀及申請置候処、当時赤沢銅山鉱主及同地予約拂下ケ者ガ猥リニ水源地ノ樹木ヲ伐採シ村方ヨリ水源涵養上ニ関シ交渉ニ及ビタルモ頑トシテ応ゼザルニ付、水源枯渇ノ憂慮ヨリ不得止ムヲ右申請ニ次第ニ有之候。然ルニ昨三十八年末同所鉱業権ハ久原某(房之介)譲受ケ爾来村方トモ充分意思疎通シ、将来水源ノ涸渇セシムル等ノ憂モ有之間敷ト存候。且ツ本件ニ関シテハ豫テ御示シノ次第モ有之、旁以テ該申請之儀ハ御廃棄相成候御詮議相成度、此段及上申候也
                      茨城県多賀郡日立村大字宮田
                      保安林編入申請人総代
    明治三十九年六月三十日                  根本 兼松 印
                               仝 上 佐藤 敬忠 印
                               仝 上 福地 豊蔵 印
    茨城県知事 寺原長輝 殿

[以下は、上申書に続けて覚として記録されたもの]
右ハ鉱主久原房之介ヨリ根本龍四郎ヲ以テ前鉱主ガ当大字へ対シ不感情ヲ惹起シ置タルヲ焦慮シ相互ノ利益ヲ謀リ将来親密ノ交際ヲ為シ度旨ヲ以テ明治三十九年六月六日(旧閏四月十五日)同人ヨリ申入ニ依リ、評議員二十名ヲ会同シ協議ノ結果、該条件トシテ本年ヨリ毎年旱損予備費トシテ弐百宛ヲ寄贈スルコト、尚赤沢川流ヲ従来飲用ニ供シタル字ヘ井戸拾五個所ヲ穿ツ為其費用トシテ参百円ヲ支出スルコトニ妥協成立シ依テ本文ヲ提出スル所以ナリ。文ハ捺印ノ上根本龍四郎へ渡ス、時ニ明治三十九年六月三十日ナリキ
史料18 明治40年8月14日(1910) 鉱毒水補償に関する新聞報道  『いはらき』
[相沢一正前掲論文が言及。後日掲載]
史料19 明治40年12月28日(1910)鉱毒水被害補償に関する契約証  相沢一正前掲論文及び鉱山の歴史を記録する市民の会例会配布資料(1984年8月27日)
                      多賀郡日立村大字宮田
     明治四拾年十二月廿八日              水田地主 佐藤國太郎
[以下、小澤啓蔵・沼田與市郎・滑川繁松・篠塚其太郎・沼田幸作・沼田辰次郎・滑川作七・佐藤仙次郎・篠塚平吉[死亡篠塚其太郎代権]・鈴木初太郎・田所ふて・滑川繁蔵・沼田福次郎・田所平八郎・田所亥之太郎・小澤松次郎・小澤熊次郎・鈴木勝重・鈴木巳之太郎ら19人の名がある]
                         日立鉱山鉱業人久原房之助代理人
                                  竹内 維彦
    
史料20 明治41年(1908)6月22日 鉱毒水被害地補償解決報道記事  『いはらき』
   日立鉱山現況(三)
[前文略]
損害賠償 煙なり水なりの為め田畑山林に害を及ぼせし時は何時たりとも相当の賠償を為すの定めありて、宮田川の流域四十町歩の鉱毒被害地に対しては昨年約二万円の保償金を支出せし外、内十五町歩に対しては相当の出金を為して永久的の解決を告げ、二十五町歩の水田に対しては三千五百円を投じて延長千何百間かの灌漑水路を作り、以て抜本的の解決を為したり
史料21 明治42年(1909)6月14日 鉱毒水補償協議妥結報道記事  『いはらき』
   日立鉱山煙毒一段落
多賀郡日立鉱山事務所と日立、高鈴其他関係村民との間に於ける鉱煙毒被害賠償問題は被害民側の委員と鉱山事務所代表者とが屢々会見交渉を重ねたる結果漸く妥協成立し、去月下旬を以て一先づ円満なる解決を見るに至れり。今其の条件なるものを聞くに、山林の部にありては煙毒の最も激甚なる山上の官有地百二十町歩を借入れ、民有地百町歩を買収し、其他は被害の程度の異なるに従ひ差等を付して所有主に賠償金を提供するものにて、其平均額は一反歩に付一ヶ年二十銭、此全面積八百町歩の広きに亘り、更に煙毒の附近に飛散する程度を軽減せんが為め大雄院製錬所の煙筒を高さ三百尺と為すに決せり。次に耕地の方面は毒素の流失し去る赤沢川沿岸の中被害の程度最も甚しき上流地帯十町歩の田畑を全部事務所にて買収し、下流の比較的激甚ならずと目さる地帯は所有主より高き歩合を以て一旦之を事務所へ小作に入れ付け、更に低き歩合を以て所有主の手に小作を為すの契約を取交はし、其差額を以て賠償額に充つる事と為したり。以上の契約は何れも向ふ五ケ年間の期限にして事務所にては此間に適当なる耐煙木を購入し各山林の所有主に無代配付して栽培せしめ被害の程度を試験すると同時に、一方鉱毒の最も甚しき日立村の一地点を選んで農事試験場を設け、専門の技師三名を聘して農作物に対する被害の程度を試験し、五年の後試験の結果を標準として更に関係村民との契約を締結する筈なれば、未だ之を以て永久に解決を告げたるものとは見るべからざるも、相互の熱心と交譲とにより格別の騒擾をも醸さず平穏の間に護に一段落を告げたるは喜ぶべき現象と云ふべし
史料22 明治43年(1910)5月25日 鉱毒水の漁業への影響についての意見報道記事  『いはらき』
   論壇 本県鉱毒問題の将来
本県珂北一帯の海岸、沙白く松青き風光明媚の地に鉱煙毒の這ひ廻りて其の腐蝕を逞うしつゝある一事は十分の戒心を価せずと為すか、況んや鉱毒海に入つて沿岸の魚族を駆逐するに於ては、陸上の問題に加ふるに更に海上の問題を以てし、平潟以南磯浜以北の漁業に何等かの悪影響を及すべきは明了なり。事此に至つて愈々重大と成る。予輩は最も真摯に此問題に想到する毎に、本問題が近き将来に於て治水問題を並び立つて本県の二大難関と成るべき日有るを思はずんばあらず
 [この記事の前段には煙害についての記述がある。 こちらの記事 を参照]
史料23 明治43年(1910)6月23日 多賀郡豊浦町の磯焼報道記事  『いはらき』
   豊浦湾の鉱毒問題
多賀郡豊浦町漁業者及び海産物商は日立鉱山鉱毒流失の為め海藻の枯死甚だしきを認め、潜水器採鮑業者大坂辰之助、裸体採鮑組合員大内義博、外九名の連署を以て被害調査請願書を篠原漁業組合長に提出せしを以て、同組合よりは本県に技手派遣を要求し調査を請ふ事となりしが、調査の上果して鉱毒の為めなりとせば鉱山に談判し其善後策を求むべき由にて、同業者の調査せる被害の状況は左の如しと
史料24 明治44年11月13日(1911) 多賀郡沿海の磯焼報道記事  『いはらき』
   磯焼け調査の建議 多賀沿海の鉱毒問題
多賀郡沿海漁業組合の採飽並に採藻業者は、去る四十年来漁場の巌石が著るしく焼けたる為め産額を減じ来れるより、日立鉱山の鉱毒が直ちに近海に奔注するに起因するものならんとて、漁場の実地踏査を同鉱山事務所及び県当局者に懇請する所ありしも、未だ何等の運びに至らず当業者の困難一方ならざるに依り、本県沿海水産組合に於て技師の派遣を申請し、各支部内の磯焼を調査するは刻下の急務なるべしとて、河原子支部長鈴木健太郎氏より昨日の支部長評議員協議会に建議書を提出せり
史料25 昭和31年(1956) 角彌太郎日立鉱山庶務課長(当時)の鉱毒問題回想  「日立鉱山とわたくし」 日本鉱業株式会社創業五十周年記念『回顧録』(1956年)
 明治四十年の春、日立村宮田地内の苗代に、坑水の被害が見えた。直ちに調査して呉れとの申出でがあつた。早速其翌日昼過ぎ元山から降りて私が、現場に臨みて、調査した。苗代の関係者は、青年を交へて五、六十人の多勢が集まつて居つた。色々と被害の状態を訴へて、どうして呉れるかとの談判を受けた。私は村の多勢の人々と、会見するのは、之れが初であつた。坑水の被害であるか、どうかは今の所では判断が出来兼ねる。今後度々調査して見て、其結果坑水の被害と認めた場合には、必ず補償して断じて損害を与へぬ。皆さんも今後充分に手入れして耕作していただきたいと懇に話した。
 耕作側としては、自分等多年の経験から見れば、坑水の害に間違ひはない。此まま耕作すれば、土質に害を及ぼし、畑作としての耕作も出来なくなる。故に此水を入れて耕作することは断じて出来ないと頑強に言ひ張つた。又最後にこれまで赤沢鉱山主と度々交渉したことがあるが、何時も結構な話ばかりで、実行して呉れたことがない。だから君の今日話された要項を書面にして、鉱業主の委任状を添へて調印の上出して呉れ、とのことであつた。私はこれに対して、書面を出すことは別にこばみません、併し皆さんはこの書面をどうなさる積りかと、反問した。別に答は無かつた。そこで私は申しました。私は久原鉱業主の使用人として最近此地に来て住居してゐる者ですが、五年七年にて此地を去る者ではありません。殊に皆さんとは今後事業上なにかと、屢々交渉もあるし、亦御援助も受けなければなりません。随て私はどこまでも、誠実と信用を生命とする。既往は勿論のこと、今後と雖も断じて二枚舌をつかはない。万一後日に於て、私が話したことに間違ひがありましたなら、私は皆さんから、甘んじて、鉄拳の制裁を受けませう。但し御互に記憶の不備から、誤解を生ずるをそれもあるから、相互の手帳に話の要項を書き留め読み合せて置いて、今後の私の行動を見て居ていただきたいと話した。此日、夜に入つて皆と別れて、元山に帰つた。余程過ぎてあとで外から耳にしたのには、今度来て居る、角と云ふ男は、少し変はつて居る、兎もかく今後彼の行動を暫く監視しやうとのことであつた。其後何ごとでも言ふことに少しのちがひもないので、次第に信用されたと思ふた。おかげで、仕事は追々としやすくなった。けれどもどんな小さなことでも、引つ張り出されるには、聊か閉口した。
 此坑水問題は、其後数十回に亘り色々と、懇談を重ねた。当時の村長佐藤仙三郎氏を始め、村の重立つ方々も、大に好意を以て、円満なる解決に尽力された。けれども耕作者側は最初の主張通り、水田として耕作することには全然耳をかさなかった。そこで此問題も相当長く紛糾を続けた。結局此地域は、其大部分が、将来は鉱山用地となることを見越して、正当なる小作米を地主に支払ひ、全地区に借地権を設定して、何時でも使用出来ることにして一段落となつた。