永井久之助

私費を投じて女子中等教育の場をつくる

慶応2(1866)年4月3日、越中国新川郡松倉村(富山県立山町)生まれ。小学校尋常科を4年で卒業し、家業である農業に従事。24歳(明治22年 1889年)のとき郷里を出て、足尾銅山(栃木県)で製錬用薪炭の請負納入の仕事を始める。37歳のとき(明治35 1902年)に日立村大字宮田字赤沢に来住し、足尾同様の事業を請け負う。

赤沢銅山が久原房之助の手に移ると日立鉱山の作業請負に従事し、傍ら土木建築など多角的に事業を広げる。昭和2(1927)年現在の県立日立第二高等学校の前身である私立東海女学校を設立する。昭和5年11月28日没。享年65。

輸送を核とした事業の多角化

(1)鉱山の輸送請負

鉱山電車が開通する以前は助川駅から本山まで、以後は大雄院製錬所から本山までの輸送を請け負う。製錬所と採鉱所との間は鉄索が通っていて、小さなものは鉄索に載せて運ぶ。大きなものは牛車で運び上げるほかなかった。助川駅での鉱石おろし作業について息子の新之助さんは次のように語っている。

七番(ホーム)の仕事は単価が安かったもんだから、何人もやったんだが、全部赤字で投げだしちゃったんです。とううちのオヤジが、鉱山からやってくれって言われてやり始めた。まず利益というものはなかったですね。利益は現場で働いている人の分を支払うと一か月で何十円しか残らなかったですね。店で勘定を計算している人の手間賃はぜんぜんでてこない。鉱山からはいろんな恩恵をこうむってきましたからね。自分勝手なことはできないですよ。

(2)石灰石採掘と消石灰づくり

助川山根の石灰石とセメントを入れる樽を常陸セメントへ納入。品質の悪い石灰石は焼き、漆喰および肥料、カーバイドとして販売。

(3)運送業

山久運送店(丸運・日立地区通運の前身)を始め、のち助川合同運送株式会社を他社と合併し設立し、社長に就任。

(4)建築請負

橋梁・道路、学校、鉱山・日製の工場と社宅建設を手がける。

建築やっててもよそから物は買わないんです。まわりの山を買って樵を入れて木を伐る、生皮をむく、杉皮は屋根に使えますしね、それを馬車で運ぶ、製材工場もこさえて経営してましたからね。建具も工場の中に職人がいて全部作ってたんです。…土瓦は焼く、レンガも焼く。粘土はまわりの畑からとってくんです。まわりの地主から畑を買って、何尺って掘るわけね、それを運んできて。一度に二万枚のレンガが焼ける窯なんです。(永井新之助さん)

(3)炭坑経営

土瓦とレンガは、石炭で焼くんですけど、福島県で石炭も掘ってたんです。広野というとこで炭礦をやってたんです。(永井新之助さん)

(6)永井町

鉱山の合宿所の払い下げを受けて、店をつくり、その裏に長屋とクラブを建てる。一帯を町の人が永井町と呼ぶようになる。

(7)映画館「日活館」の経営

昭和のはじめに依頼を受けて経営を引き継ぐ。

家族が見た久之助

体は大きい人でしたね、体重は100キロ、5尺7寸はありましたね。酒は飲めないし、たばこもすわない。働くこと一辺倒の人でしたね。おまえら寝すぎるから頭が悪くなる、二時間寝たらたくさんだと。私が起きるころには散歩から帰ってくるんですから。瓦、レンガ工場、製材工場、建築現場、これを二時間ほどかけてまわってくるんです。帰ってきたとき寝てたら大変ですよ。とにかく恐かったもんです。あまりそばに近よれなかったです。

個人経営でしたからね、たいした組織もないんですよ。…多角経営がなかなかできなくなったんです、オヤジが死んでからはね。オヤジの半分も働けないし、たいていの頭では展望することもできないですから。(永井新之助さん)

東海女学校を創設

永井久之助は大正15(1926)年、当時日立製作所徒弟養成所(昭和3年に日立工業専修学校)主任であった芥川雄介(昭和3年に校長)に女学校の開設について相談をし、賛同を得た。

久之助は次女を大正3年17歳で、長女を大正8年に26歳であいつでなくしていた。当時女子の中等教育の場は日立にはなく、水戸市か太田町まで1時間以上をかけて通うほかなかった。また当時男子の中等教育機関として、県立日立中学校の設置が決まりかけていた(昭和2年に開校)。

こうした中で日立での女子の中等教育機関の必要性を感じていた久之助は、私財を投じて女学校の設立に向かった。

昭和2(1927)年2月、県の許可が下り、永井町のクラブを臨時校舎とし、30畳敷の畳の部屋で授業が始まる。本科65人、別科25人。別科は夜間部で、生徒は昼は工場で働き、学校において夕食をすませ9時過ぎまで授業を受けた。

新校舎は5月25日に完成。建坪175坪、敷地1400坪、ほかに運動場1600坪。その後増築を重ね、昭和3年、定員200人、修業年限4年の本科、修行年限2年の実科をそなえる高等女学校に昇格する。昭和5年に久之助が没したのち、この地域での女子中等教育機関の必要性が認識され、公立化への道を歩む。昭和9年に日立助川組合立東海高等女学校、昭和11年には県立となり(日立助川高等女学校)、昭和14年9月日立市の成立とともに日立高等女学校と名称をかえ、昭和23年に茨城県立日立第二高等学校となる。

浄土真宗への篤い信仰心をもっていた永井久之助。彼にとっては最後の事業、それはけっして利益を生むものではない女子中等教育機関設立への私財を投じた取り組みは、こうしてたしかなものとなった。そして学校の運営が軌道に乗るのを確かめたかのように、開校から3年して他界する。

参考文献