史料 日立鉱山煙害問題新聞記事一覧

目次


煙害と新聞記事

1914年(大正3)7月27日付の『いはらき』新聞記事

9月6日に「おそらく見落しがあるだろう。完全を期す時間がないので、とりあえず今手元にある記事をならべておく。」と書いていたが、今回、2018年9月22日に増補改訂して、1908年(明治41)1件、09年3件、10年6件、11年23件、12年(大正元)6件、13年7件、14年18件、21年1件、計65件の記事を紹介する。とは言ってもまだまだ見落としがあるだろう。たとえば、久慈郡中里村大字入四間では、1906年(明治39)、製錬所が本山にあった時期に被害が現われ、翌07年には煙害賠償交渉委員の選出が行われているが(関右馬允『日立鉱山煙害問題昔話』)、それらに関する記事は見出せなかった。しかしひとまず新聞記事探索は終えることとする。

いずれにしても、ここに集めた新聞記事は、煙害問題─被害と補償と対策がどのように社会問題として報道機関の意識にのぼり、提供されたかがうかがえる優れた史料であることに違いはない。

記事見出と要約

凡例

時期掲載日付  記事見出[内容摘記]新聞名備考
1908年
明治41
4月9日 多賀郡鉱山近況(上) 日立銅山
…先頃帝国議会に於て根本代議士の質問せる如く[註]鉱毒と煙毒との附近農作物に影響すること夥しきものあり。鉱毒豫防に就ては多少の設備なきに非ずと雖も単に形式に過ぎずして未だ見るべきの効果を収むるに至らず、煙毒に至りては其害毒に真に恐るべく附近農作物□□萎縮し、或は枯死するものすくなからず、山林立木の如き亦自然煙毒を蒙りて発育充分ならず中には枯死に瀕せるもの尠なからざるを以て農民の苦情頗るかまびす
[註]この年3月の帝国議会衆議院会議録を見ると、根本正が質問したのは鉱毒水問題であって(3月14日質問趣意書提出)、煙害については触れていない。ただし「鉱煙毒予防ニ関スル建議案」が3月14日の議事にのぼっているが、こちらは別の議員(石井信外1名)が提出したもので、秋田県小坂鉱山における煙毒被害(煙害)を問題にしている。記者は日立と小坂を混同して書いたものと考えられる。
いはらき
[11月29日、日立鉱山で大雄院新築溶鉱炉吹入れ]
1909年
明治42
6月14日 日立鉱山煙毒一段落
多賀郡日立・高鈴村民との鉱毒水・煙害賠償問題は交渉の結果5月下旬合意。この後、日立村と日立鉱山との間の鉱毒水・煙害問題は新聞記事に登場しない。鉱毒水と煙害はセットとして決着をみたのであろう] ▼記事1
いはらき
10月22日 被害民等郡衙に押寄す 日立銅山煙毒被害民百卅名 松原町入口にて喰止めらる
[10月21日に被害状況陳情のため多賀郡役所にむかった被害民は郡役所のある松原町花貫橋で警官に阻止され、代表者を選んで再陳情することとなる] ▼記事2
いはらき
10月30日 日立銅山煙毒事件 風雲愈々急なり
[10月28日、多賀郡の被害農民は日立鉱山に「返答によりては茲に愈々竹槍蓆旗を翻して最後の手段に出でん意気込」で会見を求めたため、松原警察署は警戒にあたった] ▼記事3
いはらき
1910年
明治43
3月9日 日立鉱山の補償
多賀郡坂上村大字水木・森山の山林補償について合意]
…立木損害として一反歩当四円とし内速金一円五十銭授受、残額は枯損木に到り受渡しの約、山林一反歩に付年補償として二十一銭宛毎年支払ふ事に決定す
いはらき
4月10日 助川号 自家の権利を擁護し 他人の権利を尊重す 庶務兼会計課長 角弥太郎氏談
自家の権利を擁護し 他人の権利を尊重す 庶務兼会計課長 角弥太郎氏談
僕の意見——イヤー——廿分間位はお話しの余暇があります、ハア当所の分課は採鉱、製錬、工作、調度、庶務、会計、医院の七つに分れて居ます、而して僕の管理に属する庶務課は警察、衛生、教育、住居、外交、地所等の事を掌る中々五月蝿場所です、ハア——煙害問題——これは大問題で当所は被害者諸君の意見に重きを措き慎重の調査をなしつゝあり、現に鏑木林学士を主任として試験場を設け農作物や山林の煙害程度や豫防法を研究しつゝあり、附近の山林へは大島桜アカシア等煙害に堪へる薪材の繁殖を奨励して苗木は原価以下で山林主へ譲與することにして居ます、現に本年植え付た苗木は六十餘萬本です、而して当所の意見は自家の利権を擁護すると共に他人の利権も亦尊重なる主義で、煙害問題に付ては自他の折合をつけるに苦心しつゝあります、
いはらき
4月26日 煙毒脱漏[硫]器新案
農商務省にては今回有力なる煙毒脱漏器を案出し既に四阪島に発送し、来月上旬頃には据付けを了し実地脱漏[硫]試験をなす運びに至る可く当局者は同器装置に非常なる希望を嘱し居れり
いはらき
4月27日 煙毒除去試験 脱硫機械の発明
鉱毒調査会にては煙害の除去方法に関し種々研究を重ねたる結果、最近に至り先完全を認むべき脱硫方法を発明したるに付東京にて該機械を製作し両三日前四阪島に向け発送したるが来月一日頃同地着と共に直に装置に取掛り、同月中旬頃より実地試験を施行する由、而して機械の内容は全然秘密に附せられ居るも、当局の語る所によれば構造は至つて簡単にして装置に要すべき経費も比較的僅少なれば実験の結果良好なるに於ては先づ理想的の方法たることを失はずと
いはらき
5月19日 日立煙毒防止運動 大林区署長の実地踏査
[5月14日、有田東京大林区署長、太田・大子・高萩営小林区署管内の煙害状況を調査、18日帰京。同月25、26日にも実地踏査の予定] ▼記事4
いはらき
5月22日 日立煙毒被害問題 姑息の策は不可ならん
久慈郡機初村大字高貫・田渡・幡ではそれぞれに委員を選び、共同して22日に鉱山との補償交渉をする]
日立鉱山の製錬益す盛んに他方面より購入の鉱石も日々助川駅に積堆するより被害の区域も漸次拡がり来り…
いはらき
5月25日 論壇 本県鉱毒問題の将来
[この時期は鉱煙毒(鉱毒水と煙毒)の被害はまだ惨状を呈しておらず、被害補償について鉱山側の誠実な態度により煙害問題は「目下のところ小康」状態である、という。しかし鉱煙毒の性質として、年をおうごとに「皮膚より血肉に、血肉より骨髄に漸次深入りし、終に全く全身糜爛し」ていくことは、足尾、小坂、別子をみれば明らかである。鉱煙毒の有無はもはや問題ではなく、その予防法、軽減法、賠償方法であると主張する] ▼記事補遺2
いはらき 県史
9月6日 日立鉱山煙毒補償
多賀郡黒前村山部の山林150町歩について補償金で決着]
いはらき
9月30日 日立鉱山の煙毒補償
多賀郡日高村の山林250町歩への補償額決定と黒前村山林50町歩の補償交渉] ▼記事5
いはらき
10月19日 煙毒防禦植物発見
[日立鉱山庶務課の対煙性植物試験の結果、赤柏・大島桜に対煙性があることが判明。那珂郡石神村大字舟石川字亀の甲山の7町歩の開墾地で苗木育成を準備中]
いはらき
[11月9日、別子銅山煙害問題、農商務省大臣裁定により決着]
1911年明治44 1月10日 日立煙毒除害請願大会
多賀郡豊浦・櫛形・黒前・松岡・松原の2町3ヶ村は松原町長、多賀銀行頭取の発起により13日に鉱山の除害工事実施を求める請願書を貴衆院両院に提出するための会議を予定]
いはらき
1月15日 日立煙毒除害運動
多賀郡松原町(高萩市)町長と多賀銀行頭取が発起人となって黒前・櫛形・松岡町と・松原・豊浦町の2町3ヶ村の日立煙毒協議会が1月13日に開催。除害設備の設置を日立鉱山へ命じるよう貴族院・衆議院・農商務省に請願すること、ならびに鉱山への補償を求めることを決した] ▼記事補遺3
いはらき 県史
1月23日 日立鉱山煙毒請願 廿一日貴衆両院へ提出
[13日開催の多賀郡内2町3ヶ村による煙毒除去工事実施を求める請願を約千人連名で1月21日に農商務省に提出] ▼記事6
いはらき
1月25日 煙毒賠償の協定▽二町八ケ村の協議
多賀郡の櫛形村以南の2町8ヶ村の町村長、郡会議員、被害地主が1月下旬(22日か)に協議会を開催。(1)除害工事命令請願書を貴衆両院農商務省に提出、(2)従来の賠償は低いので改訂する、(3)愛媛県の別子銅山四坂島製錬所を視察すること、(4)そのほか四項目を議決] ▼記事補遺4
いはらき 県史
2月5日 耐煙性樹の試植 日立鉱山煙害豫防
[日立鉱山排出の亞硫酸ガスに耐性があり、かつ製炭に適した樹木の研究に、鉱山ばかりでなく茨城県も取組みをはじめた。その県による製炭研究の中間報告]
いはらき
2月10日 貴族院採択三請願
[日立鉱山煙毒救済など茨城県関連3請願は8日の貴族院請願委員会にて採択]
いはらき
2月22日 煙毒運動屁古垂れ 河原子外三ケ村の
多賀郡南部の河原子町以下三ヶ村の煙害補償と除害工事請願の動きに、日立鉱山は日立村の根本龍四郎[註]を介して工事請願の中止を働きかけた。その結果多賀郡南部村々は他の地域より多くの補償金を得ることで請願を取り下げることになったことを伝える。新聞社は河原子町などの態度を「へこたれ」と評したのである] ▼記事補遺5
[註]根本竜四郎:『茨城人物評伝』(1902年刊)によれば明治元年(1968)生まれ、「多賀郡日立村大字滑川の人、今現に平潟町に住」し、『多賀郡史』によれば1911年9月〜1915年9月茨城県会議員。1911年11月30日の茨城県通常県会の煙害問題質疑で「本員ハ此日立鉱山ト地方民トノ間ノ立ツテ三十四年以来鉱業ト農業トノ間ノ調和ヲ取リ来ツタ」と発言している。関右馬允は『煙害問題昔話』において「根本竜四郎氏は、その後補償問題に関しては、鉱山と被害地の中間に立って、長く補償の調停に当たり相互の激突を避けた功労者であったが、素晴らしい美屋を高松台の西南側に新築したりしたので、不平党からはあらぬ風評を立てられた」と述べている。
いはらき 県史
4月2日 坂本村の煙害
久慈郡坂本村大字南高野と石名坂における麦の被害]
いはらき 太田
5月13日 被害民鉱山を憤る 久慈郡の損害要求
久慈郡久慈・東小沢・坂本(日立市)・世矢・西小沢・機初・太田・佐都・河内(常陸太田市)の2町7ヶ村の麦作に被害が出て、日立鉱山に交渉するも「音沙汰」なし。さらに坂本村大字大和田の鹿島神社境内山林260町歩と畑400町歩の麦作に被害。被害民は日立鉱山に補償要求に出向いたが、角庶務課長不在につき帰村]
いはらき
5月17日 四坂島銅山視察
多賀郡の有志数人は愛媛県の別子銅山四阪島精錬所を十日間の予定で煙害の状況と損害賠償について視察のため18日出発の予定]
いはらき
5月27日 日立煙毒協議
多賀郡松原町大字島名・石瀧・秋山の煙毒被害地主十数名人は25日松原町役場において山林立木被害補償方法について協議。6月1日に島名の個人宅で鉱山の責任者と交渉を予定]
いはらき
[5月、日立鉱山神峰煙道竣工]
6月3日 松原町の煙害補償 被害民総代との協定
[5月27日付報道にあるように6月1日に煙害補償について多賀郡松原町の被害者と鉱山との話合いがもたれ、補償方法について妥結し、協定を結んだ] ▼記事7
いはらき
6月6日 久慈郡煙害問題 日立鉱山役員の談
久慈郡佐竹・誉田両村の代表(委員)が鉱山を訪れ交渉。鉱山役員とは庶務課の鏑木徳二のこと、その鏑木が語った鉱山の煙害問題に対する方針] ▼記事8
いはらき
6月14日 櫛形村の煙害補償要求
多賀郡櫛形村大字友部の山林原野の煙害補償について、地主らはこれまで鉱山と交渉し、昨年8月までに被害区域を実測し、賠償する約束にもかかわらず、履行されていないとして12日に代表が鉱山を訪問]
いはらき
1911年明治44
7月4日 松原山林煙害問題 目下鉱山と交渉中
多賀郡松原町(高萩市)大字島名・秋山・石瀧における山林被害補償について、7月1日に被害者代表と日立鉱山職員が交渉。生産補償に関しては妥協成立したものの、生木補償については決裂]
同地の被害山林は一般に黄色を呈し、漸次枯衰の状態…所有者側に於ては若し相当の補償なきに於ては有志大会を開きて其筋に迫るか或は民事上の訴訟を提起せんなどいきまきおれりと云ふ
 〃
7月7日 日立鉱山煙毒問題 多賀郡南部十ヶ町村有志大会
多賀郡坂上・河原子・国分・鮎川・高鈴・日立・日高・豊浦・櫛形・黒前の10ヶ町村長と郡会議員、地主は、5月下旬に愛媛県の住友別子銅山四阪島製錬所に被害状況と損害補償方法について実地調査のため、豊浦町長・国分村長ら4人を派遣。その視察報告会を開催]
[四阪島精錬所における]精錬の制限及び損害賠償等頗る妥当にして、之を日立鉱山に比すれば実に雲泥の相違…日立鉱山が従来子供騙し的態度を以て被害民に対し居たるを…
太字の指摘の部分つまり住友の別子銅山における煙害対策について、本表の末尾で簡単な説明を加えた]
いはらき 太田
7月9日 日立鉱山煙毒問題 別子銅山視察報告会
[6日、多賀郡豊浦町長らの別子銅山視察報告会が開催] ▼記事9
いはらき
7月16日 煙毒補償運動 今度は県廳へ陳情
[13日に多賀郡内被害10ヶ町村長が国分村役場に会合し、別子銅山の事例をふまえ、18日に郡役所、その後県庁に出向き知事に陳情することに決定]
いはらき
7月19日 煙毒陳情と郡長
多賀郡南部の10ヶ町村の村長ら代表者が、別子銅山の例を示して、18日に多賀郡長に県の斡旋を陳情したものの郡長は拒否]
いはらき
7月22日 郡民の激昂
[18日の多賀郡長の態度に憤慨した坂上村長ら多賀郡南部10ヶ町村長は代表者12人が21日に郡長を訪問。郡長は面会を拒否。25日に再度郡長を訪ねることに]
いはらき
7月22日 久慈郡の煙毒補償 生産補償一町歩三円
[松林の煙害補償のため日立鉱山と久慈郡被害町村委員が共同調査を実施。補償することで合意]
いはらき
7月23日 郡長不信任の聲 多羅間氏に対する批難
多賀郡長の失政6項目をあげる。その上で、坂茨城県知事と久原房之助、そして久原の支援者井上馨とは長州出身、知事と郡長は姻戚関係にあると指摘し、そのことが県と郡が煙害問題に対して消極的である理由とする。] ▼記事補遺1
いはらき
7月24日 多賀郡長不信任に就て▽注文に応ぜぬ迚批難の声
多賀郡長の多羅間政輔(明治41年10月〜大正3年6月)への被害民の不満は、実は有志数人の不満からでていることを伝える。その不満とは(1)別子銅山視察旅費の日立鉱山負担(2)煙害補償金の増額、この2点を多羅間郡長に仲介を依頼したものの断られたことにあるという] ▼記事補遺6
いはらき 県史
7月27日 煙毒被害総代と多羅間郡長 知事へ陳情するに決す
多賀郡南部の煙毒被害地域の坂上村長らは25日に郡役所において郡長を訪問。郡長は謝罪し、請願書を28日に知事に提出することを約する。記事に請願文あり] ▼記事10
いはらき
8月25日 煙害試験場設置計画 久慈郡下に二町十ケ村▽当局試験成績秘密露現
久慈郡の久慈川下流域の村々(とくに佐竹・世矢・西小沢・東小沢・坂本の5ヶ村)は煙害が激しいという。その中で蔬菜の被害について、煙害か露菌病かをめぐって被害民と日立鉱山が争う。露菌病であるとする鉱山の主張について郡及び県が説明をしないことに被害民は不信感をもつ。記者は「確なる方面より漏れ聞く」ところでは、県の技師の試験は露菌病、農商務省の調査は露菌病だと伝える。 ▼記事補遺7
露菌病:べと病とも。ベトカビが起こす。キャベツ・ハクサイ・ホウレンソウ・ウリ類・ネギ・ブドウなどの葉に寄生する。葉の表面に黄色の多角形の斑点ができ、裏面に菌糸が密生する。ぬれるとべとべとになり、乾くと枯れて落ちる]
いはらき 県史
9月13日 煙毒被害民の激昂 幸久村民鉱山に迫らんとす
久慈郡幸久村(常陸太田市)の村長らが日立鉱山に出向いて被害交渉を行ない、8月24日に鉱山職員の調査がなされたが、その後鉱山側の動きがなく、それに対し村民大挙して鉱山に交渉に出向くための協議を行なった] ▼記事補遺8
いはらき 県史
9月14日 国分村民煙害補償談判 六百の被害民鉱山に押寄す
多賀郡国分村は水田の少ない地域で、畑作物の商品化によって農家の経営が成り立ってきた。この国分村の麦、野菜、果樹被害について鉱山と補償について交渉してきたものの進展しないので、9月12日明け方、村民600人が鉱山に出向いた。これに驚いた警察が代表者による交渉を求め、受けいれた被害民は委員を選び、角庶務課長との話合いに臨んだ] ▼記事11
いはらき
11月16日 煙毒問題と本省
[一昨年度から農商務省内に設置された煙毒調査会は問題解決の引き延ばし図っている]
いはらき
12月3日 県会お土産決議 日立銅山煙毒調査
最終日の県会は例に依てお土産案簇出し例に依て何れも満場一致の議決を経たるが、一昨紙記載以外の分左の如し…
▲日立銅山煙毒調査 縣当局者は…煙害の範囲、程度の試験調査及び救済の方法を立つべきを至当なりとす
いはらき
1912年
大正元
7月17日 鉱山煙毒補償交渉
多賀郡松原町の山林所有者が日立鉱山角弥太郎庶務課長と補償交渉]
いはらき
8月8日 佐竹村煙害交渉
久慈郡佐竹村大字磯部で蔬菜類に被害。耕作者は村長に日立鉱山との補償交渉を要求]
いはらき 市史
8月10日 煙毒損害調査会
那珂郡額田村(那珂市)では村民大会を開き、煙毒調査会を組織することに決定。会長に村長、副会長に助役らを選出]
いはらき
8月23日 日高煙毒問題解決
多賀郡日高村では委員を選び、畑作物の被害の補償交渉中だったが、20日に合意に達した。畑170町歩の夏冬作物に2500円、蒟蒻・葉煙草・桑・蕎麦については別途協議]
いはらき
8月24日 久慈郡の煙害
…日立銅山の葉煙草賠償金は本年分金四万円四千余円なりと云ふ
常総新聞
8月25日 煙害試験場設置計画 久慈郡下に二町十ヶ村 当局試験成績秘密露現
久慈郡東南部での野菜被害が煙害か病害によるものか。茨城県は県技師の試験結果を公表しなかった。しかし「技師の試験成績は被害百分中露菌病八十、虫害十、残り七八は風水害にて、其他の二三は植物生理状態上不明」だったことが判明し、さらに農商務省に試験を依頼したその結果も病害と認定された。こうした試験結果に納得しない農民たちは、郡農会と鉱山共同運営の煙害試験場の設置が進んでいないことに不満を募らせる] ▼記事12
いはらき
9月11日 河原子煙害補償 麦作一反歩九十銭
多賀郡河原子町の本年の麦作104町歩の被害補償に農会長ら委員を選び、日立鉱山と交渉中だったが、9日昨年の倍の一反歩90銭で合意]
いはらき
9月23日 本年の煙草成績 平野支局長談
[水戸専売支局管内における葉煙草生産状況についての支局長談話。平年作130万貫に対し大正元年は150から160万貫と良好だが、久慈郡と多賀郡の煙害の影響について言及。下記のとおり。太字は引用者]
太田管内の中里、賀美、河内、佐都の小里郷一帯は煙毒被害にて幹は真ツ黒く、葉面は白色の斑点を生じ、折角の良葉も等級下劣となりたるもの実に百五六十町歩の多きに渉りたるは甚だ遺憾に堪えざる処、従来此種の被害は多賀郡助川地方の耕地にありて敢て稀らしからざりしも、本年は反対に久慈の産地に多大の害を蒙むりたるは専賣当局として返す返すも遺憾の次第なり。若し夫れ本年度においてかかる被害無かりせば、百七十万貫以上の収穫見込み十分なりしなり
いはらき
1913年
大正2
6月27日 日立鉱山鉱毒視察
[愛媛県別子銅山鉱煙被害4郡代表4人が25日に日立鉱山の煙害状況を視察]
いはらき
[6月、命令煙突竣工]
7月6日 煙草の煙毒被害 久慈郡農会の調査
久慈郡中里・佐都・誉田など日立鉱山に近い6ヶ村は本年も6月末から被害が現われ、2日夜には一部地区で葉煙草に枯死が発生。鉱山に職員の派遣を要請する一方、郡にも報告] ▼記事13
 〃
7月11日 煙草の煙毒調査 鉱山派出所設置要求
[7月6日報道の関連記事。久慈郡太田町の被害状況報告および水府煙草生産共同組合から日立鉱山に対し、被害発生に即応した調査ができるよう被害の激しかった中里・河内・佐都・太田に鉱山員出張所の設置を求める]
いはらき
7月12日 煙害被害百廿町 耕作代表者の交渉
久慈郡1町9ヶ村の煙害調査終了。水府煙草生産共同組合代表ら11日日立鉱山で賠償交渉。被害面積120町歩のうち約4割が全滅]
いはらき
7月18日 煙草の煙毒交渉 組合提出の八条件
[12日に久慈郡の水府煙草生産共同組合代表者が日立鉱山角弥太郎庶務課長に除害工事の実施など8項目を要求したものの回答がなく、その一方で鉱山は染和田村の一部の生産者と賠償交渉に入り、協定をかわしていたことが判明し、問題化] ▼記事14
いはらき
11月26日 日立鉱山所見(一) 一、はしがき
◯七月十七日曇、本野男爵、野村子爵の両先輩に従ひ、午前十一時廿分上野駅を発車、日立鉱山視察の途に上る。……翌十八日微雨、午前九時斎藤、角両氏の案内に依り助川駅を起点とし日立村大雄院製錬場に至る約一里間に買鉱并ニ需用品運搬(沿村住民も無賃便乗随意)の為め布設せられたる電車にて大雄院事務所に至り、休憩の後俥にて約一里半の山路を登り本山採鉱場に向ふ。製錬場煙筒より吹き来れる硫気鼻を襲ひ咳嗽頻りに起り、沿道の山岳満目粛條、偶ま枯樹の点在する已!詩客如電「山樹不生芽、野草不看花、寒温認風物、無乃是仙家」の句は蓋し此辺の光景を咏じたるものならんか。
讀賣新聞 神戸
12月2日 日立鉱山所見(五) 三、製錬(續き)
背後の山腹には数條の延蜿たる隧道ありて何れも数百間を隔たりたる山巓の煙突に連續し居りて金鎔炉より迸り出づる硫気と煤煙とは右の坑中を伝ひて山上に噴出し、四方の数里に跨れる天地を掩ふ。其雄壮の光景に至りては筆舌の尽くし得る所にあらず。
 〃  〃
12月11日 多賀郡煙毒調査 郡会調査委員設置
[9日、多賀郡会は議員提案の煙害調査機関の設置を全員賛成し、議長は7人の委員を指名]
いはらき
12月16日 煙毒問題昂勢 珂北三郡の提携
[16日、多賀郡会は煙害調査機関の設置を県へ報告し、別子銅山と同様に県が主体となって被害調査と被害者救済にあたるよう陳情の予定。かつ久慈・那珂両郡会との連携を模索]
いはらき
1914年
大正3
1月10日 煙毒問題運動 多賀町村長の凝議
[10日、多賀郡会は煙害問題で郡内町村長と連携のため高萩で協議予定]
いはらき
1月12日 多賀郡煙毒協議 郡議町村長の会同
[10日報道通り多賀郡議と町村長の協議がなされ、郡議から調査機関と救済組織の設置が提案。15日に再度協議の予定]
いはらき
3月20日 久慈浜煙害陳情 魚附林の荒廃か
久慈郡久慈町の揚繰網漁が不振。それは煙害による魚附林荒廃が原因だとして、漁業組合員15人が19日に県に出向き技手と協議]
いはらき
3月25日 多賀煙害協議会 煙害救済会の組織
多賀郡会議員と町村長ら合同して煙害救済会について30日に協議の予定。さらに煙害問題に取り組む姿勢に地域差がある]
…某有力家は語りて曰はく、煙害問題勃発当時は全郡挙つて解決に努力せしも、日を経るに従ひて種々の流言蜚語は或一部の者を惑はすに至り、殊に日高村以南即ち鉱山附近の者が比較的冷淡なのは一般の異とする所なり。尤も地元及びその附近と鉱山とに一種の関係あるは世人の熟知する所なれば、冷淡は寧ろ当然ならんも、事は一町一村の問題にあらずして、郡全体若しくは国家の大問題なるは区々たる情実に囚はれ一般他郡町村多数民の苦痛迷惑を対岸の火災視し居るは実に遺憾とする所なり云々
いはらき
6月2日 瑞龍区民日立鉱山に押寄す 報償金支出保證
[5月31日、久慈郡誉田村大字瑞龍の農民80人が鉱山事務所に向かうが、鉱山派出所の警官に阻止され、代表を選ぶよう説かれ、6人の委員を選び、角庶務課長と交渉。4日に係員を現地に派遣し調査をし、そのうえで賠償することになり帰村]
いはらき
6月16日 煙害調査総会 二町十村総務会
久慈郡の久慈・東小沢・坂本・西小沢・世矢・機初・幸久・佐竹・太田・誉田・佐都・金郷の2町10ヶ村の被害民が組織した日立鉱山煙害調査会は6月14日に太田町役場に総務委員会を開催。常務員4人、理事3人を選出。補償交渉のため日立鉱山に対し17日に太田町来訪を要請]
いはらき 太田
6月22日 久慈郡煙毒交渉 第一回の会見終る
久慈郡太田町外1町11ヶ村からなる日立鉱山煙害調査会は、6月17日、太田町役場にて鉱山との第1回交渉。被害農民は委員の中に鉱山に「抱き込まれ」た者がいると指摘]
いはらき 太田
6月24日 久慈煙害交渉 被害村聯合談判
久慈郡佐都・機初・誉田・久米・山田村において6月17日から葉煙草・野菜・桑葉に被害。とりわけ佐都村の里の宮・白羽・春友の葉煙草に被害が顕著。委員の交渉の巧拙によって賠償額に差がでるので、各村聯合して交渉することになる]
いはらき 太田
7月22日 煙毒現場視察(一) 黄煙濛々棚曳く いはらき 太田
7月23日 煙毒現場視察(二) 煙害調査会の活動 いはらき 太田
7月24日 煙毒現場視察(三) 機初村の被害状況 いはらき 太田
7月25日 煙毒現場視察(四) 各村の有志訪問 いはらき 太田
7月26日 煙毒現場視察(五) 一致點発見の困難 いはらき 太田
7月26日 煙毒調査会議 鉱山当局者と会見
[7月24日開催された久慈郡水府煙草生産同業組合地区理事会で25日開催予定の調査会に提出する日立鉱山との補償協定案を決定。鉱山との協議が不調に終わったときの手順についても案を示す] ▼記事15
いはらき 太田
7月27日 煙毒現場視察(完) 鉱山事務所襲撃? いはらき 太田
7月27日 銅山誠意無し 調査会の憤激
[7月25日太田町法然寺で開催された久慈郡2町11ヶ村日立鉱山煙害調査会と日立鉱山との第5回協議の結果を伝える] ▼記事16
いはらき 太田
7月28日 煙毒交渉の其後 莨耕作人の集会
[(1)7月25日に久慈郡太田町水府煙草生産同業組合の調査会は、日立鉱山職員と協議したがまとまらず、26日に幹部の来訪を要請したが出席なく、「一先づ同山との交渉を絶つ」こととした。
(2)27日に久慈郡誉田村にある農商務省の煙草試験場の技師を訪問し、被害葉煙草の煙害有無の鑑定を求めた。
(3)26日に久慈郡機初村の葉煙草耕作者約30人は「郡技手が煙害を是認し居れるにも拘らず鉱山調査員は全然そを否認した」として郡長に陳情] ▼記事17
いはらき 太田
7月29日 鉱山幹部と会見 久慈煙草耕作者
久慈郡葉煙草耕作者は27日に誉田村にある農商務省の煙草試験場の技師を訪問した。技師からは「責任ある鑑定」を断られたが「決して病害のみにあらざる事は、之を認別した」として、郡役所を介して鉱山幹部との交渉を郡書記に要望すると、郡役所は日立鉱山に対し29日の調査委員会に幹部の出席を求めた]
いはらき 太田
8月9日 多賀煙毒協議 救済会組織の計画
多賀郡における煙害問題については、郡内から7人の実行委員を選定し、各種陳情や煙害救済会の組織化についての検討を委ね、昨年から活動してきた。今回救済会の組織化案がなり、8月12日に松原町松風館における協議会にはかることになる]
いはらき 太田
8月12日 煙毒被害交渉 補償率増加要求
久慈郡の日立鉱山煙害調査会は8月10日太田町法然寺に総務委員会を開催。麦作補償の増額を要求]
被害率は鉱山回答率より五分増加し、一反当り収穫量に二石七斗五升、補償歩合単価は既往三ヶ年の平均價格七円四十三銭の標準にて補償すべく、十六日迄に其回答を要求したるが、若し応ぜざれば更に会見交渉すべしと
いはらき 太田
8月26日 久慈煙害解決方針 縣技師派遣申請
久慈郡の水府煙草生産同業組合の調査会は、専門知識がないことが交渉に不利だとして、県に専門家の派遣を申請]
いはらき 太田
10月3日 久慈煙毒交渉 鉱山の要求承認
[1914年度の麦作について、久慈郡太田町外七ヶ村聯合煙害調査会と日立鉱山の「妥協」成立し、補償金の受渡しが終わる。作物試験地5ヶ所要求は4ヶ所に減じて設置することで鉱山が承認] ▼記事18
いはらき 太田
10月4日 煙毒損害金要求
[9月28日、多賀郡高岡村大字大能の被害民は日立鉱山に損害賠償金を要求]
いはらき 太田
1915年
大正4
3月1日 大煙突使用認可。この年の煙害問題新聞記事は見あたらなかった。つまり、大煙突により社会問題としての煙害は消滅したと言ってよいだろう]
1921年
大正10
8月25日 日立の煙毒で農作物赤くなる 茄子はコロコロ落ちる 被害甚大
多賀郡日立村の滑川で「近来稀に見る」煙害が発生する。煙害発生の過程が知られる] ▼記事19
常総新聞
1931年
昭和6
6月27日 日立鉱山煙毒に悩む 久慈郡の煙草 機初、世矢一円が酷く 平均六分の減収か いはらき
1941年
昭和16
10月17日 日立鉱山煙毒で久慈秋繭五割減 養蚕家対策に腐心中
久慈郡の機初・誉田・佐都・佐竹・西小沢・河内・中里7ヶ村の桑葉が被害を受け、その桑葉を食べた蚕が生育不良をおこす]
いはらき市史

住友別子銅山煙害問題視察

上記表中の1911年(明治44)5月17日付の記事は多賀郡の有志が愛媛県の別子銅山の四阪島製錬所を視察のため18日出発すると伝えている。そして同年7月7日付記事で、愛媛県の四阪島鉱山つまり別子銅山における煙害対策について「精錬の制限及び損害賠償等頗る妥当にして、之を日立鉱山に比すれば実に雲泥の相違」と多賀郡の被害者は述べる。視察報告会は7月6日に開かれた。それが7月9日付の 記事9 である。

視察者は多賀郡豊浦町長桜山寿一、櫛形村長鈴木彬高、同村郡会議員樫村菊太郎、坂上村書記森山子之松らである。彼等は別子銅山四阪島製錬所において「米麦作の重要期間四十日は一日の製煉十万貫以上に出づるを制限し、尚四十日の内十日間開花結実の際は鎔鉱炉の作業を中止」すなわち制限熔鉱を行なっていることを知った。

実際はどうだったのか。末岡照啓「近代日本の環境問題と別子鉱山の煙害克服」(『住友史料館報』第48号)が明らかにしている。別子銅山の煙害問題解決のため、1910年10月25日から11月9日まで、東京の農商務省において大臣斡旋により煙害賠償協議会が開催された。出席者は愛媛県知事、東予の郡長4人、農民代表10人、住友側から総理事、理事、別子支配人の3人であった。会議の前日には農商務大臣主催の晩餐会が開かれている。会議の最終日11月9日に大臣裁定が下された。

主な内容は(1)賠償額の確定(2)年間の製錬鉱量を設定(3)製錬作業の制限(4)3年毎の見直し協議、の4点である。

(1)では過去3年間と今後3年間の賠償額を定め、(2)で年間の製錬鉱量を5500万貫(約21万トン)と限定し、(3)では米麦の開花出穂期40日間の処理鉱量を1日10万貫(375トン)、最重要期間に10日間の製錬作業休止することとし、(4)で技術や設備の進歩により煙害が減少したときのことを考慮して(1)から(3)について3年毎に協議してゆく、というものであった

多賀郡の南部の村ではこの別子における煙害について政府・県・郡の積極的関与と銅山側の制限熔鉱の事例を把握していたのである。

主要記事本文

[凡例]

記事1 日立鉱煙毒一段落   1909年(明治42)6月14日付『いはらき』

●日立鉱煙毒一段落
多賀郡日立鉱山事務所と日立、高鈴其他関係村民との間に於ける鉱煙毒被害賠償問題は、被害民側の委員と鉱山事務所代表者とが屢々会見交渉を重ねたる結果漸く妥協成立し、去月下旬を以て一先づ円満なる解決をみるに至れり。今其条件なるものを聞くに、山林の部にありては煙毒の最も激甚なる山上の官有地百二十町歩を借り入れ、民有地百町歩を買収し、其他は被害の程度の異なるに従ひ差等を付して所有主に賠償金を提供するものにて、其平均額は一反歩に付一ヶ年二十銭、此全面積八百町歩の広きに亘り、更に煙毒の附近に飛散する程度を軽減せんがため大雄院製煉所の煙筒を高さ三百尺と為すに決せり。次に耕地方面は毒素の流失し去る赤沢川[註]沿岸の中、被害の程度最も甚だしき上流地帯十町歩の田畑を全部事務所にて買収し、下流の比較的激甚ならずと目される地帯は、所有主より高き歩合を以て一旦之を事務所へ小作に入れ付け、更に低き歩合を以て所有主の手に小作を為すの契約を取交はし、其差額を以て賠償額に充つる事と為したり。以上の契約は何れも向ふ五ヶ年間の期限にして事務所にては此間に適当なる耐煙木を購入し、各山村の所有主に無代配付して栽培せしめ被害の程度を試験すると同時に、一方鉱毒の最も甚しき日立村の一地点を選んで農事試験場を設け、専門の技師三名を聘して農作物に対する被害の程度を試験し、五年の後試験の結果を標準として更に関係村民との契約を締結する筈なれば、未だ之を以て永久に解決を告げたるものとは見るべからざるも、相互の熱心と交譲とにより格別の騒擾をも醸さず平穏の間に茲に一段落を告げたるは喜ふべき現象と云ふべし
  1. [註]赤沢川:宮田川のこと

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記事2 被害民等郡衙に押寄す   1909年(明治42)10月22日付『いはらき』

●被害民等郡衙に押寄す
▽松原町入口にて喰止めらる
日立銅山煙毒被害民八十餘名は、被害状況陳情の為め本日午前十時多賀郡衙に押し寄せたるを松原町入口花貫橋にて警官の為喰止められて、續いて同十一時二十八分高萩着列車にて四十餘名押寄せたるを之れまた同所にて喰止められ、依て被害民等は更らに陳情委員を選挙陳情する筈(昨日午後零時十分高萩特派員発)

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記事3 日立銅山煙毒事件   1909年(明治42)10月30日付『いはらき』

●日立銅山煙毒事件
多賀郡高鈴村大字助川[日立村大字宮田]の煙毒事件に就いては従来屡々爆発せんとして大騒擾を極めたりしが、去る廿八日被害民一同は銅山側に対して手詰の談判を為し、返答によりては茲に愈々竹槍蓆旗を翻して最後の手段に出でん意気込にて会見を迫りしにより、何時不穏の暴動に出づるやも知る可らずと松原警察署長谷口警部は之が警戒豫防の為同所に出張せり

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記事4 日立煙毒防止運動   1910年(明治43)5月19日付『いはらき』

●日立煙毒防止運動
 ▽大林区署長の実地踏査
多賀郡日立銅山の煙毒問題に就いては近来益々其の被害の度を高め、遠近一帯の樹木日に月に茶褐色と変色し来るに従ひ之が陳情の叫び日に熾んなるを致しつつゝあるが、茲に久慈郡機初近郷即ち小里郷の区民有志の如きも過半来寄り寄り集会を催し煙毒防止に関して協議する処ありし結果、愈々実地調査となり、東京大林区署に向かつて陳情する所ありしかば有田同署長は属官数名を従へ十四日太田、大子、高萩の各小林区署管内に出張して、石井大子、広瀬高萩、小森太田の各署長等に案内せしめ日立鉱山附近を中心として花園、助川、入四間、太田、瑞龍等の森林に就て実地踏査をなし昨日 帰署したるが、視察の結果を聞くに、被害の程度は豫想外に拡大し苟くも軽視し得べからさる程度に達し居るものと認め銅山当局者とも種々協議を凝らし何等かの方法を以て今日の内に防止手段を講ぜずば茲数年を出でずして附近の樹木は一帯に枯死するに至らんと云ふにありて被害の範囲は今後必らずや桑園農作物にも及ぶべければ銅山にても近々実地を調査して可然方法を講ずる筈なりと云ふ。之に付て小里郷一帯の区民は即刻にも防止手段を講ぜしめざる可からずとて、又々昨今機初に会合して銅山及び県庁、大林区署に対し再び陳情すべしと熱心に協議しつゝあり。されば有田大林区署長も更に来る二十五六日頃を期し再び同地出張の上尚一歩進めて精細なる実地踏査をなすはずなりと云ふ

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記事 補遺2 煙害問題の深刻化   1910年(明治43)5月25日付『いはらき』

   本県鉱毒問題の将来
日立銅山の鉱煙毒問題は、近来漸く世の視聴を惹くに至り、会社に於ても地主直接の交渉に対しては、出来得る限りの好意を以て相談に応じ来りしが、鉱煙毒の侵害程度尚初期に属して、未だ甚だしき惨状を呈せざると、被害者に対する鉱山の態度比較的誠実なるとの二事に依りて目下の処小康を得つゝある状態なり、然れども現下に於ける鉱煙毒問題の如きはホンの口切りにして、其の被害の区域と程度とは左まで深大ならず、僅かに□小部分に於ける皮膚面に過ぎざるの観あるも、鉱煙毒其者の性質として、年を逐ひ日を閲し、皮膚より血肉に、血肉より骨髄に漸次深入りし、終に全く全身糜爛して収拾すべからざるに到れる者なることは近くは足尾銅山、遠くは小坂、別子各銅山の場合に徴して知り得る処なりとす、鉱煙毒の有無は既に問題に非ず、問題と成りつゝあるは其予防法、軽微方法、賠償方法の如何に在るのみ、而して当事者を監視して常に此等方法の考究を怠らざらしむる者、即ち監視団の急先鋒と成るものは言ふまでもなく鉱山所在地の地方人なるが故に、当該地方人は先づ鉱煙毒の及ぼす被害が如何なる範囲、如何なる種類、如何なる程度に迄及ぶか、其の最高点に於ける状態は如何に恐るべき者なるか等に就て、一通りの心得無かる可らず、露骨に言へば、本県民諸君、少くとも珂北三郡の郡民諸君が、日立鉱山の鉱煙毒問題に関して、余りに無頓着に失せずやと思はるゝ者無きに非ず、其の然る所以は予輩の所謂「一と通りの心得」無き結果ならんと信ず、換言すれば関係地方人は未経験事実なるが為めに、自己に関する利害関係を明了に知り得ざる結果ならんか、於此乎予輩に一策あり、関係地方人は須らく足尾銅山被害状況視察団を組織し、相当なる専門家の指導の下に実地に就て予輩の所謂「一と通りの心得」を得来らるゝ事は非常に必要なる事と思はる、此一事是れ医学生が臨床講義を聞く様な者なり、一たび細尾峠を越へて足尾町に入り、四囲寸碧なく、赭土禿山、徒らに突兀たる有様を見ては、吾人は慄然として肌に栗するを禁ずる能はず、他年毒煙に砥められて、十抱もあらんと見らるゝ大木が、葉を枯らし幹を腐らし、遂に根本までザクザクに摧け、翠微欝蒼たる山林が、一朝にして赤禿と成れるが如きは未だしもの事、鉱毒鉱煙の及ぶ山々は、先づ表面から剥落して、全山ボロボロに成り、宛も重症に陥りたる癩病患者が、日に月に肉落ち骨摧け去るの状態と一般にして、日夜に山崩れの音絶へず、唯僅に竹を編んで山の表面を覆ひ、以て一時の解崩を防ぐ膏薬たらしむるが如き悽惨極まれる現状なる事は衆人環視の事実なり、足尾銅山は日立銅山の運命を語る、足尾銅山無言の説法を聞きて、翻つて日立銅山の将来を想ひ遣るに於ては、人は果して如何なる感想を生ずべきや、そは言はずして明かなり。
日立銅山の製煉事業は纔に昨年より始り其煙突が悪魔の息の如き毒煙を吐き始めしより以来、未だ幾もならずして既に目下世上に知られたる如く、山林、桑園、田畑に対して彼が如き被害あり、而も製煉の斤数は日一日に増加し、他銅山採掘の分も同所に於て製煉せらるゝといふに非ずや、世界に於ける製煉事業の大勢を察するに、陸地と懸隔したる島地を以て之れに当て、現に愛媛県の如きは其実例を示しつゝあるに拘らず尚且つ製煉に伴ふ煙毒問題は囂々として地方人の口に上りつゝあるなり、[以下、鉱毒水問題の記述]本県珂北一帯の海岸、沙白く松青き風光明媚の地に鉱煙毒の這ひ廻りて其の腐蝕を逞うしつゝある一事は十分の戒心を価せずと為すか、況んや鉱毒海に入つて沿岸の魚族を駆逐するに於ては、陸上の問題に加ふるに、更に海上の問題を以てし、平潟以南磯浜以北の漁業に何等かの悪影響を及すべきは明了なり、事此に至つて愈々重大と成る、予輩は最も真摯に此問題に想到する毎に、本問題が近き将来に於て治水問題を並び立つて本県の二大難関と成るべき日有るを思はずんばあらず。

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記事5 日立鉱山の煙毒補償   1910年(明治43)9月30日付『いはらき』

●日立鉱山の煙毒補償
多賀郡日高村山林二百五十町歩に対する日立銅山煙毒被害に付き、去二十八日同村宇佐美吉郎、樫村滋、志賀純、茅根仙蔵、小貫豊吉、石川俊之助等は鏑木鉱山技手と助川眺洋館に会見し種々協議の結果、台帳記載反別に三割五分を増して実測反別となし、立木補償として一反歩四円、生育補償として一反歩四十銭を鉱山より出すことに決定したり。又同郡黒前村よりも樫村定男、樫村精一郎、樫村健三郎、樫村広助、岩間品之助等同二十八日鉱山事務所に到りて各自所有の山林五十町歩に対する損害補償を要求したるに、来月四日より鉱山技手出張して被害状態の実地調査を為せし上補償額を定むることに協議纏まりたりと

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記事 補遺3 多賀郡南部町村の煙毒協議会   1911年(明治44)1月15日付『いはらき』

●日立煙毒除害運動
多賀郡松原町長石平三郎、多賀銀行頭取樫村定男両氏発起に係る黒前、櫛形、松原、松岡、豊浦二町三ヶ村日立煙毒除害協議会は一昨十三日高萩松風館に開会したり。来会者被害大地主五十余名にて石、樫村両氏を委員長に推薦し除害工事施設を速かに当業者に命ずる事を貴衆両院及び農商務省に請願する事となり、一町村三名宛の委員を選定し、遅くとも来る二十五日迄に各町村調印を纏め委員を上京せしめ、大津根本両代議士の紹介を経て両院に提出する事に決し、尚ほ来る二十二日には今回参会せし被害地主は勿論欠席せる重なる地主とも協議を遂げ、日立鉱山に向ひ適当なる補償を強行的に迫る事に決定したるが、委員には左の諸氏選定されたり
▲豊浦町 桜山寿一、日渡和一郎、鈴木千蔵
▲松原町 金沢民弥、小蜂満男、宮田康
▲松岡村 作山民部、舟生又古、穂積竹次郎
▲櫛形村 樫村菊太郎、関勇肋、鈴木彬高
▲黒前村 樫村篤五郎、樫村精一郎、椎名亥之吉

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記事6 日立煙毒請願   1911年(明治44)1月23日付『いはらき』

●日立鉱山煙毒請願
 ▽廿一日貴衆両院へ提出
多賀郡日立村宮田日立鉱山の煙毒は事業の拡張に伴つて被害の波及著るしきより、此程同郡の元老多賀銀行頭取樫村定男、松原町長石平三郎の両氏発起となり過般松原町に松岡、松原、豊浦、黒前、櫛形の被害地主の大会を開き委員十五名を選任し、調印を取纏め中なりしが、二十一日各町村に於ける調印悉皆取纏まりしより樫村定男、樫村精一郎、石平三郎外一千名にて左記の請願書を貴衆両院並びに農商務省に提出せりと
 銅山製煉鎔鉱の煙毒の惨害は世人の善く知悉する所なり。然るに多賀郡の地たるや土地□岫にして比較的耕作地に乏しく且一南部地方に比し土地肥沃ならざるに依り農家の主要作物たる米麦の如き郡内を通ずれば却て他地方より輸入を仰ぐの状勢なりと雖も、由来豊富なる木材薪炭の産地として世に知られ年々の伐木價格は莫大の額に達し、林木を有せざる農民の如きは農間を利用し馬背の駄賃を得るなり、或は製炭製材諸種の副業に従事するなり。以て農家経済の平衡を維持し来りしも、茲に日立鉱山事業の開始以来未だ数年ならざるに其製煉所より噴出する煙毒は猛烈なる勢を以て附近各町村に飛散し、其害を逞ふし、先づ山林樹木中稍抵抗力微弱なる松栗櫟等は忽ち枯死し、杉檜の如き稍抵抗力強きものと雖も生育停止せられ、次で枯死するに至る。耕地に於ては小麦・大小豆・蕎麦・牛蒡其他の野菜又は煙草・桑園の如き皆孰れも多少の害を蒙むらざるなし、而して現今の被害区域たるや北は松岡村より南は久慈郡坂本村、西は同郡中里村に及ぼせるのみならず今日の勢を以てせんか益被害区域は拡大せられ、数年ならずして山林の荒廃は其極に達し、耕地をして荒蕪不毛の地たるに至らしめん事毫末も疑を容れざる所なり。然るに鉱山側に於ては被害物に対し提供しつゝある補償額たるや実際に適合せずして、到底被害民を満足せしむるに足らず。多数の被害人民は涙を呑み、怨を含んで鉱山の為すが儘に任すの現状に在り。実に地方農民に採りては前途容易ならざる大事と云ふべし。今にして之が害毒防止の途を講ずるにあらざれば農民は生計の資及副業を失ひ延て不穏の挙に出でざるなを保する能はず。吾人思を茲に致し、之が救済の道を求めざるを得ず

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記事 補遺4 多賀郡南部町村の煙害賠償協定   1911年(明治44)1月25日付『いはらき』

  1. 多賀郡豊浦、櫛形、黒前、日高、高鈴、鮎川、国分、河原子、坂上、日立二町八ヶ村に於ける日立鉱山煙毒補償に関し町村長、郡会議員、被害地主等は二十□日川尻本叶旅館に於て協議会を開き、桜山豊浦町長を推して会長とし、今後此協議会には各町村より代議員三(内二名は町村長郡会議員、他一名は町村会より選出)を出す事、除害工事命令の請願書を貴衆両院農商務省に提出する事及び左の四項を議決し、尚ほ従来賠償は其額軽少に過ぐるを以て之を改訂する為め各町村より委員一名を選び協定せしむる事、四坂島鉱山視察員は次会迄に決定する事を協定し、次回は櫛形、黒前を当番幹事となし二月中旬櫛形村友部にて開会する事とし散会したるが、当日参会せしは左の廿五名なりしと
  2. 坂上村森山順孝、郡会議員菊地三之允、国分村々長大窪啓次、郡会議員大窪定七、河原子町々長白根沢栄四郎、鈴木光明、日立村郡会議員遠藤靖、日高村々長石川俊之肋、櫛形村々長鈴木彬高、会議員樫村菊太郎、黒前村々長大津博、椎名穠、豊浦町々長櫻山寿一、郡会議員森島浩一郎、日渡和一郎、松本丑吉、鈴木千蔵、松本浩、小林善八郎、小林長助、坂本常蔵、高津丈之助、金成棗坪、
  1. 一、各自損害を種類毎に鉱山に補償を求むるは非常の手数を要するのみならず鉱山側と被害民側と意見一致せず、為めに交渉に無益の日子及び費用を要し不利益少なからず依て根本的解決をなさし□たし(豊浦町提出)
  2. 一、現今協定の山林補償計算法(五朱複利法)を否認し現生産力に基き賠償を求むるものとす。但三ケ年毎に更新す(黒前村提出)
  3. 一、耕地補償額を協定する事、地価反別作物煙害の厚薄に依り三ヶ年毎に改定する事
  4. 一、煙害を受くる山林に付将来鉱山へ交渉すべき基礎として左記方法を鉱山側と地主側間に確定する事
    松杉立木は代採一期反当り才数を協定する事
    椚並雑木は棚数を定むる事(櫛形村提出)

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記事 補遺5 河原子町ほか3ヶ村の除害工事請願中止   1911年(明治44)2月22日付『いはらき』

●煙毒運動屁古垂れ ▽河原子外三ケ村の
多賀郡日立銅山煙毒救済運動に付河原子、坂上、国分、鮎川一町三ヶ村の有志は十七日鮎川村に集会し補償要求をなすの一方、除害工事の請願をもなさんとしたるが、銅山側にて之を聞くや根本龍四郎氏を介して請願見合せを交渉し、其報酬として他よりも多くの補償金を支出する事にて妥協成り、来る廿五日銅山より角庶務課長河原子に出張し補償の協議をなす事となれり

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記事7 松原町の煙害補償   1911年(明治44)6月3日付『いはらき』

●松原町の煙害補償
 ▽被害民総代との協定
多賀郡松原町大字秋山、島名、石瀧の煙毒被害者宮田重雄、大高馬次外三十余名は、去一日石松原町長立会の上小峰満男氏宅に於て日立鉱山庶務課長角弥太郎氏に会見し、小峰、宮田、大高の三氏被害民代表者として煙毒被害補償に就き種々交渉せし結果極めて円満の妥協成り、補償方法を左の如く協定したりと

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記事8 久慈郡煙害問題   1911年(明治44)6月6日付『いはらき』

●久慈郡煙害問題
 ▽日立鉱山役員の談
久慈郡各町村に於ける日立鉱山煙毒問題は将来益々重大を加ふるの形勢なるが、過般佐竹、誉田両村の委員鉱山に到り交渉せし結果、鉱山役員鏑木徳二氏は四日佐竹村、翌五日誉田村に到りて山林、農作物の損害補償を約して帰山したるが、当時鏑木氏は或人に語りて郡内二十ヶ村の山林に対する具体的詳細なる煙害調査は本年末までに決すべく、農作物の被害補償は現物調査の上決定するの方針なり。鉱山に於ても成可被害区域の減少を希望し、之が為め現在の高さ八十尺、筒口直径十八尺の煙突を丈低く口径小なる二三本の煙突に改め放煙を稀薄せんと欲し、来る八月之が試験的実行を為すの計画なり。又た鉱山にては可成被害山林の荒廃を防ぐことを期し、大島桜の如き耐煙樹を植付けはしめんとて既に那珂郡石神に之が苗圃を設置したり。要するに鉱山側に於ても煙毒被害者の事情に就いては充分注意し居る所なれば、被害者側に於ても鉱山を以て唯々貪欲無情なるものゝごとく誤解せざらんことを望む云々と謂ひたりと

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記事9 日立鉱山煙毒問題   1911年(明治44)7月9日付『いはらき』

  1. ●日立鉱山煙毒問題
     ▽別子銅山視察報告会
    既報の如く日立鉱山煙毒問題研究解決の目的を以て多賀郡豊浦町長桜山寿一、櫛形村長鈴木彬高、同村郡会議員樫村菊太郎、坂上村書記森山子之松の四氏の別子銅山視察の報告会を去る六日助川駅眺洋館に開会せり。其報告の要旨は別子銅山は日立鉱山に比し煙毒稀薄にして其害毒の有無を検する為めに薬品を塗布せる旗を所々に樹て置き、直ちに其徴候を知り得る様にし、耕作物就中米麦作に重きを置き、政府は勿論県郡当局者及警察署も頗る被害民に同情して其煙毒補償の解決遺憾なからしめるを期しつゝあることを本県と多いに類を異にし、千個所以上の試作地をも設け銅山及被害側の便に供するのみならず一面政府の参照たらしめ、農工業の衝突を緩和し、農業者をして銅山事業の犠牲たらしむるが如きこと断じて無からしむることを期し居れり。而して米麦作の重要期間四十日は一日の製煉十万貫以上に出づるを制限し、尚四十日の内十日間開花結実の際は鎔鉱炉の作業を中止せり。日立鉱山が毫も郡民の苦痛損害を顧みず、此地の産出のみならず各地よりドシドシ輸入し無制限に製煉し、害毒を激甚にするは大に猛省を要する所、然るに我政府及県郡当局者が之を冷眼に付するは大に遺憾なり。故に我々は充分当局者の反省を促し、之が救済の道を講ずべしと言ふにありて、近々国分村役場に委員を会同して今後は運動方法を確定する筈なり。尚ほ其当日日立鉱山庶務課長角弥太郎氏と会見し、被害区域及樹木損害基本調査の延引を責め、八月下旬までに実行する事を誓はしめ散会したるが、当日の参会者左の如し
  2. 豊浦町長桜山寿一、町会議員鈴木仙蔵、助役山形実、櫛形村長鈴木彬高、郡会議員樫村菊太郎、日高村長石川俊之助、小貫豊吉、黒前村長大津博、鮎川村長瀬谷豊蔵、海野三四郎、小野定男、黒沢酉之介、黒沢喜七郎、国分村長大窪啓次、大窪定七、窪木瀧太郎、河原子町助役永井哲次郎、鈴木光明、坂上村森山順孝、森山子之松
  3. 尚運動の一方法として南部十ヶ町村に一町村一名宛の委員及主査四名宛を置き、農商務、内務、貴衆両院に対し陳情し、救済方法の調査を請ひ、根本的に解決を求め、一面には日立鉱山に向つて補償の率を高むる事を厳談する筈なれば、該報告会は大に郡民をも刺激し、今後の行動は必ずや世人の刮目すべきものあるべしと

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記事 補遺1 郡長不信任の声   1911年(明治44)7月23日付『いはらき』

  1.  郡長不信任の声 ▽多羅間氏に對する批難
    多賀郡長多羅間政輔氏に對する一部郡民の反感が今回日立銅山煙毒補償問題を動機として勃発せしは昨紙所報の如くなるが、其因由する所は昨今の事に非ず、同郡長来任以来の面白からざる行動が積も積りて茲に到りたる次第にて、今同郡長の失政として郡民側の指摘する處を挙ぐれば
  2. 一、赴任以来部下と衝突勝ちにて、且つ小学校職員の轉免頻々たるより教員は安心して教育に従事すること能はざる事
  3. 一、昨冬郡会にて議決せる煙毒除害設備方政府に請願の件は、今に何等の處理を為さゞるは郡民の利害休戚を顧みざる不親切の事
  4. 一、郡長は曾つて貴族院議員某候補の為に運動をなしたる事あれば、不日行はるべき県郡会選挙に対しても公平を維持すること能はざるものと認むる事
  5. 一、郡長赴任以来何等事蹟の見るべきものなきのみならず却つて民業の発達を阻害する行動ある事。例へば郡有志の発起にかかわる電気事業或は鉱毒の為め礒草焼の調査妨害の如き是れなり
  6. 一、法令上許すべからざる不当支出を郡参事会を欺き敢行せしめし事
  7. 一、農商務大臣今春銅山視察の際故意に郡民の歓迎会を催すを妨げしのみならず町村長が煙毒状況の陳情を妨げし事
  8. 其他尚日立銅山の背後には井上侯あり。井上侯と坂知事とは同じく長藩出身にして、多羅間郡長は姻戚たる坂知事が態々九州より呼び寄せたる人なり。去れば此間自ら一種の関係ありと認るは当然なれば、郡民は此種の郡宰に対して信頼し難しなど説く者もあるやにて、楚歌漸く四面に起らんとするの形勢なりといふ

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記事 補遺6 多羅間多賀郡長への不信  1911年(明治44)7月24日付『いはらき』

●多賀郡長不信任に就て
 ▽注文に応ぜぬ迚批難の声
多羅間多賀郡長に対し一部郡民より不信任の声あることは屢次報導せし如くなるが、右原因に関し今又た同郡よりの通信に依れば、偶々日立銅山煙毒補償問題を動機とし同郡長の赴任以来積りつもりし面白からざる行動の一時に爆発せしものなりと伝へらるゝも、実は某々三四の有志等が自己の欲望を充さんとして其注文に応ぜざりしに胚胎せるものにて、即はち過般有志連の別子銅山視察に赴むくや帰来該費用を日立銅山より支出せしむること及び従来より煙毒補償額を増加せしむること此の二案を提さげ、多羅間郡長を訪問し日立銅山への交渉方を依頼する処ありしに、同郡長は爾様なるユスリの相棒は真平御免蒙むりたしと膠なく峻拒せしにぞ、茲に郡長不親切の声漸やく高まり続て赴任以来の行動に関し囂々云為し、果ては不信任呼はり迄為すに至りしものなりといふ

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記事10 煙毒被害総代と多羅間郡長  1911年(明治44)7月27日付『いはらき』

  1. [註]南部十ヶ町村:多賀郡坂上村・国分村・河原子町・鮎川村・高鈴村・日立村・櫛形村・黒前村・松原町・松岡村

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記事 補遺7 久慈郡内に農会・鉱山共同被害調査試験場設置計画
     1911年(明治44)8月25日付『いはらき』

●煙害試験場設置計画
 ▽久慈郡下に二町十ケ村
 ▽当局試験成績秘密露現
久慈郡に於ける曰立鉱山煙毒被害区域は太田、久慈、中里、河内、佐都、誉田、機初、世矢、坂本、西小沢、東小沢、佐竹の二町十ヶ村にして就中世矢、坂本、東西小沢、佐竹の五ヶ村は殊に甚だしきものあり、蔬菜被害の如きは既報の如く去る十六日太田町木崎江幡屋に日立鉱山角弥太郎氏と前記五ケ村代表者会合したる其席上に、角庶務課長は蔬菜の枯死するは全然煙毒にあらずして露菌病害なりと主張し賠償金支出方を拒絶したるより、関係町村民は多少露菌病害あるやも計り知らざれど其過半は確かに煙毒に相違なしと之亦固く我を張りて応ずべくも見えざるより、羽田郡長其他有志等の仲介あり一先つ散会する事となり、一方被害の真相は果して虫害か煙害かを研究する為め関係各町村に試験場を設置すべき事を以てせしより、代表者等は今更改めて其要を認めずとて有耶無耶の間に散会したるが、当時被害民等は角庶務課長の露菌病害なりと主張するその理由及び本県技師山越金次郎氏の試験結果内容に就て問ふ処ありしも、何故か当局者はその内容を罹災区民に対し悉知せしむるを躊躇し、当分の間は内容説明の時期にあらずと体よく説明を拒絶し、一方今日の場合賠償金請求の騒擾を惹起するは寧ろ関係町村民に利あらずとて泣寝入りを諭示されて、代表者も手を引くの止むを得ざるに至り、その後空しく時日を経過するも、何故か当局は未だに内容を秘密に付しあれば、被害民は露菌病とのみにて深く其の内容を知る能はず、然れども今確なる方面より漏れ聞くに、山越技師の試験成績は被害百分中露菌病八十、虫害十残り十中の七八は風水害にて、其他の二三は植物生理状態上不明と云ふに過ぎざるなり。右試験の結果に徴すれば勿論煙毒は寸分の影響を蒙り居らざるものゝ如きも、多年の経験に徴すれば去る結果のものにあらずとは被害民の主張して止まざるより、郡当局者は近き将来に於て賠償の名目にあらずして何等か方法に基き鉱山側より多少の慰問金を支出せしむると同時に、二町十ケ村内に郡農会と鉱山協同の被害調査試験場を設置すべく目下計画されつゝあるに拘はらず、何故か鉱山側に於ては其後逃げ尻を構へ事捗とらざるを知りたる幸久村長寺門仁介、同助役人内幾之介其他十数名の委員等は卒先二十三日鉱山事務所に押し寄せ何等か交渉する処ありたるが、一方郡衙に於ても一両日中に交渉に関する督促を発する手筈なりと。因に同郡役所にて被害疏菜の試験方を農商務省に出願せしに、此程の同回答に依れば被害の原因は全部露菌病と認む。之れが予防は普通発病期よりも二三週間前より三斗式乃至五升式石灰「ボルドウ」液を撒布すべし。若し発病期早ければ葉の二三枚開展したるときより薬液の撒布を初むべし。又薬液の撒布期間に天気乾燥して発病の虞れなければ二週間隔の撒布期間を延長して三週間隔として可なるべしと云ふにありたり

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記事11 国分村民煙害補償談判   1911年(明治44)9月14日付『いはらき』

●国分村民煙害補償談判
 ▽六百の被害民鉱山に押寄す
多賀郡国分村にては日立鉱山煙毒の為め麦作、野菜、果樹類の被害年々激甚の度を加ふるより、大字金沢二十名、大久保十名、下孫十一名の委員を選び、去る三日より両度まで鉱山に向ひ交渉する所ありしも要領を得ざるを以て、去十二日払暁村民六百余名日立鉱山事務所に到り厳談せんとしたるに、松原警察署長谷口警部は部下の部長巡査を召集して之を鉱山内にて喰止め、煙害問題に関し法律の範囲内に於て行動するは妨げなきも、斯の如く多数集合して事を云為せんとするは、治安上黙許し能はざる所なれば、よろしく委員を選びて交渉せしむべしと説諭し、結局委員として金沢は鴨志田蔵次郎、同稲太郎、石川毅一郎、円井専十郎、大石国吉、石井歌吉、林万五郎、雨留之介の八名、下孫は長山虎男、同與太郎、同栄次、同亀太郎、石川浅太郎、長山勝蔵、久保木喜平、同保太郎、同福寿、黒沢万之助の十名、大久保は江尻万吉、山内昌太郎、富岡佐吉、大窪訓一、鈴木清一、同半蔵、根本虎太、和知米太郎、岡部新太郎、和地福松の十名を選び、角鉱山庶務課長と会見し、一反歩の麦作平均三石五斗に対し一割減と見積り、一石六円の相場として一反歩二円十銭の損害補償を得んことを要求せしに、角課長は煙害の程度を知るは容易の事にあらず、且つ気候、病虫風害などの関係にて場所に依り其の程度を異にすべきを説き、委員は現在の補償額の甚だ僅少なるを言ひ、課長は大字大久保百四十町歩に対しては七百円、金沢百三十町歩に対しては百五十円、下孫六十八町歩に対しては四百四十円の補償を為さんと言ひしも、委員らは一反歩平均一円五十銭を下ることを承諾せずと主張せし為遂に交渉不調に終り、被害民等は午後八時鉱山を退去したるが、飽まで其意志を貫徹せしめんとて目下其方法手段に就て評議中なりと

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記事 補遺8 久慈郡幸久村農民、鉱山との交渉へ   1911年(明治44)9月13日付『いはらき』

●煙毒被害民の激昂
 ▽幸久村民鉱山に迫らんとす
久慈郡幸久村にては日立鉱山の煙害激甚なる為め過般村長寺門仁介、宇野寿之外十余名の委員鉱山に到りて交渉の結果、去月二十四日宮下鉱山事務員幸久村に来り精細調査する所ありしも其後何等の処置をも為さゞるなり。村民一同其の緩慢を激昂し五百余名大挙鉱山に到り厳談せんとて目下其方法及時日に就き協議中なりと

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記事12 煙害試験場設置計画   1912年(明治45)8月25日付『いはらき』

●煙害試験場設置計畫
 ▽久慈郡下に二町十ヶ村
 ▽当局試験成績秘密露現
久慈郡に於ける日立鉱山煙毒被害区域は太田、久慈、中里、河内、佐都、誉田、機初、世矢、坂本、西小沢、東小沢、佐竹の二町十ヶ村にして、就中世矢、坂本、東西小沢、佐竹の五ヶ村は殊に甚だしきものあり。蔬菜被害の如きは既報の如く去る十六日太田町木崎江幡屋に日立鉱山角弥太郎氏と前記五ヶ村代表者会合したる其席上に、角庶務課長は蔬菜の枯死するは全然煙毒にあらずして露菌病害なりと主張し、賠償金支出方を拒絶したるより、関係町村民は多少露菌病害あるやも計り知らざれど、其過半は確かに煙毒に相違なしと之亦固く我を張りて応ずべくも見えざるより、羽田郡長其他有志等の仲介あり、一先つ散会する事となり、一方被害の真相は果して虫害か煙害かを研究する為め関係各町村に試験場を設置すべき事を以てせしより、代表者等は今更改めて其要を認めずとて有耶無耶の間に散会したるが、当時被害民等は角庶務課長の露菌病害なりと主張するその理由及び本県技師山越金次郎氏の試験結果内容に就て問ふ処ありしも、何故か当局者はその内容を罹災区民に対し悉知せしむるを躊躇し、当分の間は内容説明の時期にあらずと体よく説明を拒絶し、一方今日の場合賠償金請求の騒擾を惹起するは寧ろ関係町村民に利あらずとて、泣寝入りを諭旨されて代表者も手を引くのやむを得ざるに至り、その後空しく時日を経過するも、何故か当局は未だに内容を秘密に付しあれば、被害民は露菌病とのみにて深く其の内容を知る能はず。然れども今確なる方面より漏れ聞くに山越技師の試験成績は被害百分中露菌病八十、虫害十、残り七八は風水害にて、其他の二三は植物生理状態上不明と云うに過ぎざるなり。右試験の結果に徴すれば勿論煙毒は寸分の影響を蒙り居らざるものゝ如きも、多年の経験に徴すれば去る結果のものにあらずとは被害民の主張して止まざるより、郡当局者は近き将来に於て賠償の名目にあらずして何等かの方法に基づき鉱山側より多少の慰問金を支出せしむると同時に、二町十ヶ村内に郡農会と鉱山協同の被害調査試験場を設置すべく目下計畫されつゝあるに拘はらず、何故か鉱山側に於ては其後逃げ尻を構へ事捗どらざるを知りたる幸久村長寺門仁助、同助役大内幾之介其他十数名の委員らは率先二十三日鉱山事務所に押し寄せ、何等か交渉する処ありたるが、一方郡衙に於ても一両日中に交渉に関する督促を発する手筈なりと。因に同郡役所にて被害蔬菜の試験方を農商務省に出願せしに、此程の同回答に依れば被害の原因は全部露菌病と認む。之が豫防は普通発病期よりも二三週間前より三斗式乃至五升式石灰「ボルドウ」液を撒布すべし。若し発病期早ければ葉の二三枚開展したるときより薬液の撒布を初むべし。又薬液の撒布期間に天気乾燥して発病の虞れなければ二週間隔の撒布期間を延長して三週間隔として可なるべしと云ふにありたり

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記事13 煙草の煙毒被害   1913年(大正2)7月6日付『いはらき』

●煙草の煙毒被害
 ▽久慈郡農会の調査
久慈郡中日立鉱山に近き町村の農作物は殆んど毎年該鉱山の煙害を被らざることなく、本年も去月末より中里、佐都、誉田、河内、久米、山田の六ヶ村は被害の兆候現はれ、農作物中害の著しきは煙草にて、大字里の宮、白羽、根本、茅根の各字の如きは生育一ヶ月余にて葉茎の伸張したるに、二日夜の煙害にて忽ち枯死の状態に変じたるより、被害耕作者等協議の上委員百余名鉱山に到りて被害状況視察のため技師の急派を求め、一方郡に報告したれば郡農会弓削技手出張調査する所あり。尚ほ被害葉茎を採集して其の研究中なるが、各町村の被害は余程大なるべき見込みなり

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記事14 煙草の煙毒交渉   1913年(大正2)7月18日付『いはらき』

●煙草の煙毒交渉
 ▽組合提出の八条件
日立鉱山煙害につき水府煙草生産同業組合より顧問中郡猛夫氏、佐藤教師外七名の代表者を以て鉱山に談判交渉中なることは既報の如くなるが、十二日代表者等は角鉱山庶務課長と会見の際、除害工事の施設、煙害の為め遂に非産地となれる場合の救済の方如何、採集期に於ける被害調査方法、中里、太田、染和田の三ヶ所に作物被害調査出張所の設置及び今回の煙害補償等八条件提問せしに、同課長は問題重大なる為め速答する事能はず、今後一週日以内に回答すべきことを約したるが、昨日までは未だ回答到達せざる由、又た今回の被害反別は目下各委員の手に調査中にて其の程度軽微の作地までを合すれば約六百町歩に上るべく、佐都村大字白羽、茅根、機初村大字田渡等十二三町歩は全滅の状態に在り、而して当局に於ては太田収納所井上技手調査せる上十七日専売局より高林技師出張し、佐藤組合教師の案内にて直ちに機初村を視察し、本日は佐都村を踏査する筈なるが、一方鉱山にては所員を派遣して各耕作者に就き賠償を交渉し、染和田村大字和久、町田の耕作者とは既に協定成立せしやの噂あり。之に対し一般耕作者は今回の被害は組合全体に亘り此の際に於て煙害に関する根本的解決を為し置くの必要あるを以て、両字の耕作者が妄り鉱山の交渉に応じたることを憤り居れり

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記事15 煙毒調査会議   1914年(大正3)7月26日付『いはらき』

●煙毒調査会議
 ▽鉱山当局者と会見
水府煙草生産同業組合地区理事会は二十四日同事務所に開会し、繩菰取扱ひに関する件及煙害補償協定の件に就て付議したる後、煙毒調査会に移り、日立鉱山側より尾関、袖山の両氏出席し協議の結果、補償協定の根基は到底実被害の損害を償ふ能はざるより左の如き決定案を二十五日の調査会に提出することに決し散会したり

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記事16 銅山誠意無し   1914年(大正3)7月27日付『いはらき』

●銅山誠意無し
 ▽調査会の憤激
既記久慈郡二町十一ケ村聯合より成る日立銅山煙害調査会は二十五日正午より太田町法然寺に於て総務委員会開会、同会よりは中村、稲田、大津三常務委員を始め大内、平沢、小林、矢吹、五来の各総務員、菊池、小祝、棚谷三理事其の他東小沢、坂本、佐竹、金郷、久米の各町村よりも有志若干出席の上、銅山側と第五回会見の際同会より要求し置きたる麦作の補償歩合を齎し、出席せる鏑木、宮崎、袖山の三銅山員に対し回答を求めしに、銅山側は珂北三郡に設け在る四ヶ所の試験地に於ける本年度麦作被害を綜合し被害標準の基礎を立てしに、大麦一割七厘、裸麦一割五分ハ厘、小麦は多少被害を認め得ると説明し、会よりは久慈郡の麦作被害地は何処なりと認むるやと質し、銅山側は実地踏査せるに佐都、誉田、久米、太田、機初の一町四ヶ村は全部被害地と認め得たるも、他は軽微なりと頗る曖昧なる回答をなせるより、坂本、東小沢、西小沢、久慈の一町三ヶ村総務委員は被害調査を要求せざるを奇貨とし、被害なしと逃るかと一同憤激し、假令被害町村より調査の要求無きにもせよ調査するが当然なりと銅山の誠意なきを痛罵し、頗る不穏の状況なりしが、結局銅山側の補償標準歩合等は実被害と甚しき懸隔あるを以て聴くの要なしとし、同会は来月一日更に銅山側と会見し、総被害の反別及補償歩合等の案を立て改めて補償を要求し、銅山にして再び誠意を欠くの回答なる時は総務員各支会長及耕作人は、茲に最後の決心を定め断固たる方針を執るに到るべしとし六時閉会したり

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記事17 煙毒交渉の其後   1914年(大正3)7月28日付『いはらき』

●煙毒交渉の其後
 ▽たばこ耕作人の集会
太田町水府煙草生産同業組合調査会は二十四日委員全部出席の上協議会を開きたる事は既記したるが、更に二十五日は天下野調査会より根本酉次郎氏外数氏の来訪を受けて相互研究する処あり。
午後は鉱山より尾関、神山二氏来訪して会見を遂げしも要領を得ざるを以て、更に二十六日責任ある開山幹部の出席を要求したるも遂にその出席なかりしを以て、委員は□く同山の不誠意を憤り一先づ同山との交渉を絶つ事とし、一方誉田村馬場所在農務省煙草試験場に伊藤技師を訪ひ煙害に関する実地試験の状況を聴取し、而して各被害地より収集せる葉煙害は就て煙害有無の鑑定を請ひ、この結果により対鉱山の交渉方針を決定する事とし同組合和田副長、稲田委員、関根、和田両教師及弓削技手は二十七日同場に伊藤技師を訪問したるが、一方被害民側は水府組合及び煙害調査会を唯一の頼みとして一向ひたすらその解決如何を嘱望し居れるが、鉱山側の不誠意より交渉は何等著しき進捗を見ざるを以て日一日と鉱山非難の声を高め居るの状況にして、被害町村中機初村五大字の莨耕作民は郡技手が煙害を是認し居れるにも拘らず鉱山調査員は全然そを否認したりとて大にその態度に激昂し、就中被害もつとも甚しき長谷、高貫両区耕作民約三十名は二十六日突然郡衙を訪ひ、郡長に面接して陳情する処ありしが、尚幡区耕作民も一両日以来鎮守の森に会合協議しつつあり、其他田渡、西宮二大字にても寄々協議中の由なれば、是亦近日中には何等か具体的の行動に出るならんと云ふ

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記事18 久慈煙害交渉   1914年(大正3)10月3日付『いはらき』

●久慈煙害交渉
 ▽鉱山の要求承認
太田町外七ヶ村聯合煙害調査会は屢記の如く日立鉱山と数次交渉を遂げたる結果、本年麦作被害補償は此程妥協成りて補償金の受渡を了したるが、附帯要求たる作物試験地を五ケ所に設置する件も太田町及誉田、機初、佐竹、久米の四ケ村に反別五畝を限度として設置することを承認し、同時に該地所選定及耕作人選任の件を依頼し来りたるを以て、同会にては農商務省鉱務署より被害調査の為め派遣せし森島技師の被害地踏査状況報告を併せ、三日午後二時より同事務所に総務員各支会長の会合を為すこと

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記事19 日立の煙毒で農作物赤くなる  1921年(大正10)8月25日付『常総新聞』

 日立の煙毒で
  農作物赤くなる
          茄子はコロコロ落ちる
            被害甚大
多賀郡日立村滑川高臺、鎮守の森を中心として国道左右数十町歩に近来稀に見る著しき畑作物の煙毒被害あり。松葉は赤色を呈し、大豆小豆、牛蒡甘藷、陸稲の如きは一と霜をあびたる如く、殊に茄子は大小共ころころ落ち、其他の野菜も悉く枯萎の状を呈したるを以て被害民も其被害程度の甚だしきに驚き、直に之を日立鉱山事務所に通知し、目下銅山技師に依り調査中なるが、右は去る一日朝西南方より徐に吹きおくられたる一団の密雲□一時間程前記一帯の高台に低迷せしかば、之に日立鉱山煙毒混入し、折から枝葉に滴る朝露に附着し、斯かる被害を見たるものゝ如く全く稀有の事なりと

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