史料 帝国議会における日立鉱山鉱毒水質疑
1908年
茨城県日立村の江戸時代からつづく鉱毒水問題は、1905年(明治38)久原房之助の登場によって急速に収束に向かった。日立村の鉱毒水問題に当事者として、リーダーとして取り組んだ佐藤敬忠の「赤沢銅山沿革誌」によれば、1906年(明治39)6月30日には「妥協成立」した〈こちら 橋本治「資料紹介 赤沢官有地立木伐採問題」〉。久原が赤沢銅山を買収してから半年後のことである。この収束期における帝国議会での日立鉱山鉱毒水に関する質疑を紹介する。
根本正(茨城県那珂郡出身)議員の質問にあるように、政府にとって、また日立鉱山経営者の久原房之助にとっても、足尾鉱毒事件が日立の鉱毒水問題解決に大きく影響していることはたしかである。
日立鉱山から西へ一つ山を越えた久慈郡中里村大字入四間は煙害の激甚地であった。その煙害調査委員長であった関右馬允は、鉱毒水問題が日立村にもたらした影響について、「日立鉱山としては、河川流域の小区域は全部耕地を買収しても大した金額でもなく、却って耕地──殊に水田に嫌気が差した宮田、助川の灌漑区域を比較的捨て値で買収して了ったので、年を経るに従って、従業員住宅や工場敷地に益々土地を要する鉱山としては全く開いた口に牡丹餅と云った思わぬ巨利を獲得して、現在の様な大面積の地積を握って素晴らしい資産を作り上げた」と回想する(『日立鉱山煙害問題昔話』p.24)。
「開いた口にぼたもち」。この表現に関の日立鉱山と日立町への皮肉を感じる。煙害問題では地域と企業の「共存共栄」を求めた関のなかに矛盾があるように思えてならない。煙害の激減地の入四間に久原は何をもたらしたのか、という関の自問である。しかし日本における近代化(鉱工業化)過程とはそうした矛盾を抱えながら歩んできたということなのであろう。そして日立市という地域もまた鉱工業化の矛盾のうちに存在する。
なお、赤沢銅山および日立鉱山における鉱毒水問題の全体像については、橋本治「鉱毒水と地域」(『鉱山と市民』第1部 通史編>第1編 赤沢銅山のころ>第2章 明治の銅山経営>第2節地域社会の動向)を参照されたい。
史料について
- (1)史料1は「第二十四回帝国議会衆議院議事速記録」(国立国会図書館>国会会議録検索システム>帝国議会会議録検索システム)によった。
- (2)史料2は「公文雑纂 明治41年」(国立公文書館デジタルアーカイブ)からとった。
- (3)掲載にあたって、縦書きを横書きに、原文にはない句読点を付し、一部の漢字を常用漢字にあらためた。[ ]は編者註
[本文]
史料1 衆議院議員根本正の日立鉱山鉱毒水についての質問速記録
一 根本正*君外一名ヨリ鉱毒ニ関スル質問趣意書ヲ提出セラレタリ
〔左ノ質問趣意書ハ朗読ヲ経サルモ参照ノ為茲ニ掲載ス〕鉱毒ニ関スル質問趣意書
右成規ニ拠リ提出候也
明治四十一年三月十四日
提出者 根本 正 加瀬禧逸
賛成者 浅野陽吉 外二十九名
- 鉱毒ニ関スル質問趣意書
- 一 日立銅山ハ茨城県多賀郡日立村大字宮田字赤沢ニ在リテ、宮田川ノ水源此鉱山ニ発ス。而シテ同村民ハ此宮田川ニ拠ルノ外別ニ灌漑ニ供スルノ水利ヲ有セス。然ルニ該銅山ハ除害ノ施設ナクシテ鉱業ニ従事スルヲ以テ鉱毒ノ宮田川ニ流出スルコト甚タシク、為メニ同川ニ添フ宮田区ノ水田ハ挙ケテ不毛ニ帰スルノ惨状ヲ呈スルニ至リタリ。政府ハ何故ニ鉱業人ニ対シテ之ヲ防遏スべキ除害ノ設備ヲ命セサルヤ
- 二 同村大字宮田区ノ水田ハ總計五十一町六段七畝十一歩ナルニ、鉱毒被害ノ為メ植付ヲ為シ能ハサルモノ四十町九段五畝五歩ニ及フト。今ニシテ完全ナル除害方法ヲ施サヽレハ区民挙ケテ飢餓ニ沈マントス。政府ハ未タ斯ノ被害状況ヲ知ラサルヤ
- 三 明治三十七年八月中宮田区民ハ情ヲ具シテ除害工事ノ急施ヲ命セラレンコトヲ当局ニ申請シタルニ、害未タ甚タシカラサルノ時ニ於テ其工事ヲ為サシムル要ナシトノ下ニ該申請ヲ排斥シタリト。果シテ然ル事実アリヤ
- 四 鉱毒ノ波及既ニ全区水田ノ十分ノ八ニ亙リ国家ノ蒙ル損害尠少ナラス。敢テ問フ、政府ハ之ニ對シテ如何ナル處置ヲ為サントスルヤ
- 右及質問候也
[中略]
〔根本正君登壇〕
○根本正君 諸君、鉱毒ニ関スル質問ノ趣意ヲ簡単ニ述べマス
[根本は前出の質問趣意書を讀み上げる。同文につき略]
此四箇條ノ鉱毒ニ関スル質問デアリマスガ、此茨城県多賀郡ノ日立村ニ在ママストコロノ銅山ニ於キマシテハ、近来非常ナル鉱毒ヲ蒙ッテ居ル訳デアリマス。之ニ對シテ政府ハ此鉱業人ニ何故ニ此除害工事ト云フモノハ命ジナイカ、是ハ既ニ規則ニ定マッテ居ルコトデアリマスガ、政府ハ之ヲ等閑ニシテ置ク、故ニ非常ナル損害ヲ来シテ居ル訳デアリマス。実ニ此日立村ノ人民ハ将ニ飢餓ニ沈マントシテ居ル訳デアッテ、非常ナル困難ヲ来シテ居ル。殊ニ政府ニ聴キタイノハ、明治三十七年八月中ニ人民ガ除害工事ヲシテ貰ヒタイト云フコトヲ申請シタ、所謂出願シタケレドモ、其時分ノ政府ハ未ダ害ガ及バヌカラ、共除害工事ヲスルニ及バナイト言ッテ其請願ヲ却下シタ。是等ハ最モ甚ダシイコトデアッテ、害ガ及バナイ中ニスルノガ、即チ除害工事デアッテ、既ニ今日ノ如ク五十町幾ラト云フ段別ノ中デ、四十町歩モ害ノ及ンデ、未ダセザルト云フヤウナ、病人ニナッテシマッテ、今将ニ死ナントスルトキニ漸ク医者ヲ頼ムト云フヤウナ訳デ、実ニ政府ノ方針ト云フモノハ迂濶ノミナラズ、人民ノ蒙ッタ損害ハ非常ナモノデアリマス。此事ヲ殊更ニ政府ニ聴キタイノデアリマス。此ノ如ク此ノ地方ハ実ニ此水田ト云フモノハ、十ノ八九ト云フモノハ、植付ケルコトモ出来ズ、此儘ニ置キマシタナラバ、ヤハリ此栃木県ノ谷中村ノ二ノ舞ヲ履マンケレバナラヌト云フヤウナ有様デアリマス。実ニ此ノ如キコトハ、独リ農商務ノ手落ノミナラズ、私ノ見ル卜コロニ依リマシテハ、内務省ニ於キマシテモ甚ダ牧民ノ任ヲ缺イデ居ルト思フコトデアリマス。ドウカ是ニ付テハ農商務大臣及内務大臣ハ慎重ニ調査ヲシテ、速ニ之ニ對スル答辨アランコトヲ望ミマス
1908年(明治41)3月14日開催 衆議院本会議議事速記録第15号
- * 根本正:嘉永4年(1851)常陸国那珂郡東木倉村生れ。茨城県久慈郡を地盤として、1898年(明治31)から1924年(大正13)まで衆議院議員
史料2 根本正の質問に対する農商務大臣答弁書
- 衆議院議員根本正外一名提出鉱毒被害ニ関スル質問ニ対スル答辨書
- 一 日立銅山ノ除害設備ニ付テハ、曩ニ赤沢銅山ト称シ赤沢鉱業合資会社ノ経営ニ係リシ際、明治三十六年十一月十八日東京鉱山監督署ハ予防命令ヲ発シ、其後鉱業人ノ変更アリ、且設計不完備ノ点アリシヲ以テ重ネテ明治三十七年七月廿二日命令ヲ発シ、同年九月五日其豫防設計書ヲ認可シ、同三十八年一月廿二日工事ヲ完成セリ。然ルニ昨四十年ニ於テ苗代ノ発育不良ヲ来セシヲ以テ鉱毒ニ原因セシヤ、或ハ其際ニ於ケル激甚ナル降雹ニ原因セシヤ原因不明ナリシモ、鉱業主ニ於テ一部ノ水田ニ対シテハ別ニ用水路ヲ設ケ、字三作ノ渓流ヲ以テ其灌漑用水ニ充テ、其他ノ部分ニ付テハ土地所有者ニ対シ借地料ヲ支払ヒ、又ハ損害ヲ補償シ、実際灌漑用水トシテ宮田川ノ水ヲ使用セサルノ事実ナリ。然レトモ尚ホ政府ハ時々署員ヲ派シテ監督ヲ励行シ、被害ナカラシメンコトヲ期ス
- 二 第一項ニ説明シタルカ如キ事実ナルヲ以テ質問書ニ謂ヘル如キ困厄ノ状態ヲ認メス
- 三 明治三十七年八月中宮田区民ヨリ陳情書ヲ提出シタルコトアルハ事実ナリ。然レトモ第一項ニ於テ説明セルカ如ク、当時東京鉱山監督署ニ於テ除害設備命令中ニ属セシヲ以テ該陳情書ハ其儘留置タルモ、之ヲ排斥シタルコトナシ
- 四 第一項ノ説明ノ通
- 右及答辨候也
- 明治四十一年三月廿四日
- 農商務大臣 松岡康毅
1908年(明治41)3月26日
「根本正外一名提出鉱毒被害ニ関スル質問ニ対シ農商務大臣答弁書衆議院ヘ回付ノ件」