史料 赤沢銅山沿革誌

本史料は、江戸初期から明治末にかけての240年におよぶ茨城県多賀郡日立村宮田(常陸国多賀郡宮田村)の人々による赤沢銅山の鉱毒水との闘いの歴史を記録したものである。

史料について

翻刻にあたって


   赤沢銅山沿革誌

茨城県常陸国多賀郡日立村大字宮田字赤沢ハ、古来水源涵養ノ地ニシテ禁伐ヲ以テ成リ、大樹巨木欝乎トシテ繁茂シ、殆ント地ヲ余サズ、素ヨリ一定ノ字名モナク、単ニ奥山ト唱ヒ昼尚暗ラク、凄然トシテ人跡絶ヘ、僅々弐百余町歩ノ面積ナリト雖トモ本村ニ対シテハ、最モ愛スベキ尊ブベキ森林ナリキ
夫当時斯ノ如キ深山幽谷ノ地ニ於テ銅鉱ヲ発見シ、斯業ヲ興シタル人ヤ特ニ紀念トシテ嘆賞スベキモ、如何セン往昔ヨリ記簿ニ乏シク、其草創ニ到テハ起業者ノ氏名ハ更ナク、従テ年月詳ラカナラズ。然レトモ爾来赤沢ノ名ハ銅水ニ因シテ呼称シタリト伝フルヤ久シ。今其ノ著名ナルモノヲ左ニ輯録ス

[以下、片仮名は平仮名で表記する]
今を距る二百有六十年前に於ける公簿に拠れば

 正保二年割付帳の面
  田方弐石四斗七升壱合 銅水当りに付永引
 同三年割付帳之面
  田方六十石五斗五升壱合 同上に付永引
 承応二年割付帳之面
  田方四十七石三合 同上に付新田に改む

以上三ヶ年鉱毒被害の為免租或は取下け等の点より思推するときは、遥に其先の創業に係るや明らかなり。是に依て推測するときは遠く五百年以前なるべしとは最も推測に足る。然り而して稍採掘の判明したるは、今を隔る百三十有五年前に於て

安永二年八月、江戸の人石沢六衛門なるもの当時幕府よりの允許を得、役員及掘子等総人数七十人余を引率し、字赤沢へ入山し、字始め銅谷へ(創業の際此の処に於て開坑したるを以て始め銅谷と命名したるなるべし、然るを何時しか梶目銅屋と訛りたるものなれば、今にして復旧せざるべからず)同会所壱棟其他四棟を建築し、入口ヘ大門を構へ、其側らに「五町四方銅山御用地へ入るべからず」と筆太に標杭を建設し、漸々試掘に着手す。然れとも各古坑敷に就て採掘し、掘子等は銘々腰へ麻縄にて製したる「スカリ」を提け、銅石を納して運搬し、稍四ヶ年間従事したるも、鉱質粗悪にして結局多大の資金を投棄し失敗に帰し、退散したりと伝ふ。爾来鉱毒河流に汎濫し、年々水田の被害を増加するに至る(被害の状況は逐次答申書に詳らかなるを以て略す)之より八十有余年を経て

文久元年六月、茨城県多賀郡南中郷村大字大塚大塚源吾衛門なるもの、同所に於て銅鉱試掘の請願に依り許可を与へたる旨水戸藩東郡方役所より通達に接す。然れとも該地は当河流の水源にして、五拾町歩余の水田に灌漑する用水にて、往昔より鉱毒被害の理由を以て該請願の取消を申請す、然る所同役所より郡手代西野弥之助出張にて、銅鉱精煉の方法往昔と異なるを説き、被害ある場合は当業者にして損害の賠償に応ずるは、言を俟たざる旨懇篤訓諭ありて、右申請書は却下となる。依て

同年九月五日、仝役所より郡手代中川勇蔵、地方山横目長山左内出張、村役人案内を以て実地点検の上、左の古坑敷六個所を差許さる

一 字始め銅谷    古敷壱個所 深さ六間
一 字同所      同上壱個所 深さ弐拾間余
一 字南銅山     同上壱個所 深さ七拾間余
一 字同所      同上壱個所 深さ百間余
一 字同所      同上壱個所 深さ三拾間余
一 字同所      水抜壱個所 深さ三拾五間余

右之場所に於て同年九月中旬より試掘に着手す。然るに同年十二月に至り同役所より開業以来採掘の分試吹を為し、荒銅及皮銅共量目取調差出すべき旨命令により、同月十二日より吹立を始め、左の貫量取調書を提出す

文久元年十二月十二日
一 皮銅百四拾貫目       但五度竃焼
   此荒銅七貫七百目    皮銅三拾六貫目
  再吹荒銅四貫三百目   〆荒銅拾弐貫目
同月十三日
一 皮銅百貫目         但四度竃焼
   此荒飼壱貫七百目    皮銅三拾四貫目
  再吹荒銅四貫四百七拾目 〆荒銅六貫四百七拾目
同月十五日
一 皮銅百貫目         但五度竃焼
   此荒銅八貫四百目    皮銅六拾貫目
  再吹荒銅四貫目 仝壱貫百三拾目 〆荒銅拾三貫六百三拾目

同月廿二日、吹立検分として郡方手代小滝健介、清水彦蔵、西野弥之介及山横目長山左内等出張に付、村役人案内にて登山臨検の上吹立、左の通り

一 銅石四百貫目         但四度竃焼
    此皮銅百貫目       但四度竃焼
    此荒銅壱貢七百目 皮銅三拾四貫目
   再吹荒銅四貫四百七拾目  〆荒銅六貫百七拾目

右検分を終り、同日帰庁になる

同月二十七日、銅山状況視祭として郡方元締塙左五郎、仝手代石川金次郎出張に付、村役人案内、視察を終り同日帰庁

文久二年正月十一日
一 皮銅百貫目          但八度竃焼
   此荒銅拾六貫目  皮銅三拾七貫目
  再吹荒銅四貫目      〆荒銅弐拾貫目
 合荒銅五拾壱貫八百目   但員拾弐枚
右之通り試吹立小前取調申侯、以上
    但御検分当日の分は除く
文久二年戌正月十五日      赤沢銅山会所
  東御郡方御役所様
右之外
同月十五日
一 皮銅百貫目   竃入
同月十六日調
一 銅石弐千貫目

当正月十六日改め採掘有之候分に御座候、尚追々吹立仕度奉存候間、前書の通り取調奉書上候、以上

 文久二年戌正月廿日            赤沢銅山会所 大塚源吾衛門 印
  東御郡方御役所様


斯の如くにして百般監督官庁の指揮命令に従ひ事業の拡張に努めたるも豈図らんや
元治元年子九月、水戸領内騒擾に際し、久慈郡各村の諸生共(諸生と唱ふるは水戸家の老臣奸賊市川三左衛門等の徒なり)通行の折柄会所へ闖入し、諸器械を破毀し、剰さへ家屋を放火、乱暴到らざるなきを以て、当時立退きたるも、現在の荒銅五百三拾貫目余(銅石及皮銅は其侭放棄す)を地元庄屋福地泰助へ預け入れ、茲に事業を中止す。然るに其翌年領内の騒擾未だ鎮定に至らざるに、不幸にして二豎の襲ふ処となり、終に起たず。加之ならす相続者は幼年にして再度業を興す能はずして止みたり。其後十ヶ年を経て明治六年八月東京尾張町廿五番地寄留佐賀県士族福田欣一なるもの同所に於て銅鉱試掘の許可を得たり。同七年九月に至り立木払下を左の通り出願す
 

   赤沢原野立木御払下願
                      東京尾張町廿五番地寄留
                           佐賀県士族
                               福田 欣一
                      茨城県第十六大区三小区
                           多賀郡助川村士族
                            代理 長山万之助

御管下第十六大区三小区多賀郡宮田村地内字赤沢に於て銅鉱試掘御許可相成候に付、敷普請に取掛り候処即今敷留木等に差支、尚追々盛山に従ひ薪炭多分に入用に御座候間、別紙図面相添へ奉願候処迅速御払下相済候様、此段奉懇願候、以上

 明治七年第九月                  右 福田 欣一
                          代理 長山万之助 印
  茨城県庁御中
前書之通り願出候に付奥書調印仕候也
                       右副戸長 岡部弥市衛門 印
                       同 上  岡部基三郎 印
                       戸 長  岡部  正 印
                       区 長  佐藤 敬忠 印
             第十六大区三小区
字赤沢原野         多賀郡宮田村地内
一 松立木三拾本     但目通三尺より四尺迄
   此代価金五拾銭
一 雑木三百本      但目通弐尺五寸より四尺迄
   此代価金参円也
 別紙図面は略す


票記の出願は水源地なるを以て却下となる。但借区坪数五千七百坪、長山万之助庶務を代理し、採掘する事殆んと三ヶ年にして休止し、久慈郡の人相沢総平なるものを銅山番人として雇置、爾后八ヶ年を経(当初より十一ヶ年)明治十五年三月当時本村戸長大和田安次郎の証明を以て長山万之助へ譲渡しになる。仝人に於ては遂に事業着手せずして、明治十七年九月久慈郡誉田村大字瑞竜菊地千之介なるものゝ紹介を以て該借区地を金五百円にて埼玉県の人荒井常蔵へ譲り渡す。然るに彼れも亦名義のみにして

明治十九年四月茨城県猿島郡幸島村中山芳兵衛へ譲り渡す。同人に於ても譲受け以来事業を為すものゝ如く□為さゞるもの如く、碌々として光陰を送り只管継続者を俟つものゝ如き状態なりき、然る処

明治廿五年三月、栃木県芳賀郡須藤村大字千本三十七番地平民平野良三なるもの、更に仝所に於て銅鉱借区を出願せんとし、本村へ対し左の契約を締結す
 

   契 約 書


斯く契約成り、出願許可を得たるのみ荏苒として歳月を送り
明治廿七年に至り中山芳兵衛と謀り、両名の借区地を併せ東京市日本橋区浜町弐丁目十二番地寄留熊本県士族高橋元長及福岡県鞍手郡下境村仝焼炭坑寄留熊本県平民城野琢磨の両名へ譲渡す。爾来同人等に於て採掘に従事す。明治廿九年十月に至り左の増区を出願す


   増区に係る鉱区訂正願
一 多賀郡日立村大字宮田字赤沢官有地拾参万九千六百四拾七坪
 増字赤沢官有地四拾万千五百坪
右の場所採掘特許相成候処、場所狭隘の為め鉱区訂正致し度候に付許可相成度、別紙理由書、訂正鉱区実測図及鉱業特許証相添、此段相願候也
 明治廿九年十月廿三日      東京市日本橋区浜町弐丁目拾弐番地寄留
                     熊本県士族 願人 高橋 元長 印
                 福岡県鞍手郡下境村仝焼炭坑寄留
                     熊本県平民 願人 城野 琢磨 印
  農商務大臣子爵 榎本 武揚 殿


右に対し本県知事より故障の有無及銅鉱業事項取調の儀照会に依り左の通り答申す


第三〇七号
   銅鉱業事項取調書


右具申に依り鉱山監督官出張実地臨検之上、副命書に依て再度郡役所を経て左の通り照会になる
 

多乙第三三〇号              日立村大字宮田地内
                      銅鉱採掘願 高橋 元長 外壱名
右出願に対し客年十二月一日付具申有之候処、今般東京監督署に於て踏査せしめたるに、別紙復命書写の如く事業上敢て公益を害する虞なきものと被認候旨同署長より照会越候趣、本県より申来候に付ては別紙復命書の写に対し詳細具申相成度、此段及御照会候也
 明治三十年三月十八日          多賀郡役所第一課
  日立村役場御中
法第一五五一号   復命書之写
右は曩に特一四一八号を以て特許相成候鉱区を増区せんとするものにして、今回願人高橋元長同道、其他臨検候処、左の通りに有之候


右復命書に対し答申する左の如し
 

   答 申 書
                    多賀郡日立村大字宮田字赤沢
                     東京市寄留熊本県士族
                      銅鉱採掘願人 高橋 元長他壱名

右の者鉱区訂正願に対し客年十二月一日付を以て鉱業事項取調具申に及たる処、今般更に東京鉱山監督に於て実地臨検の趣を以て、該復命書に対し答申すべき旨御照会に依り、左に


時に明治三十一年十一月に至り郡役所より左の照会に接す
 

多乙第二三〇五号
     銅鉱増区願
                        日立村大字宮田字赤沢
                             高橋元長外一名

右出願に付ては客年四月六日付御申越の趣も有之候処、今回出願人より提出せる別紙予防設計書に拠り操業せしむるに於ては、敢て公害を来すの虞之なく認められ候趣にて、其筋より申来候間、為念別紙及御送付候条、何分の御意見御通報相成度、此段及御照会候也
 明治三十一年十一月四日       第一課長 飯田郡書記
   日立村長 佐藤仙三郎殿
追て御回答の際別紙上申書は御返付相成度、此段申加候也

   上申書
明治三十一年五月十一日付東監乙第一五五一号を以て、茨城県多賀郡日立村大字宮田特許第二五四四号増区訂正出願地は、附近村落の飲料、灌漑用水の水源地を含有し云々、所轄地方庁より照会に依り予防設計書提出可致旨、御達之趣敬承仕候。付ては別冊設計書之通り増区出願地中、境界標三号と四号間の起点不動滝の上部平地の場所に設置し、鉱毒を予防し、亦飲料水の儀は衛生上若し障害之れある場合には井戸を新堀して、必らず不都合無之様仕御認可を経たる上、鉱業に着手可致候。依て別冊予防設計書相添、此段上申仕候也

 明治三十一年七月十五日        東京市日本橋区蛎売町三丁目十三番地
                     大庭大琳方寄留熊本県士族
                         鉱業人総代 高橋 元長
  東京鉱山監督署長 中 島 謙 造 殿

   鉱毒予防沈殿池及濾過池並に泥滓置場設計


是れに由りて之れを視れは稍除害に足るへきものあり。依て翌年に至り左の如く答申す

   [郡書記の照会に対する回答書]
明治三十一年十一月四日付を以て日立村大字宮田字赤沢銅鉱増区願人高橋元長外壱名より鉱毒予防設計書を提出したる趣を以て御送付に依り、別紙之通り意見を付し及御回答候也
 明治三十二年四月九日               日立村長 佐藤仙三郎
  第一課長郡書記 飯田 彰 殿
 追て、其際御添付相成候願人より提出の上申書は、共に及御返戻候也

   鉱毒予防設計に対する意見書
               東京市日本橋区蛎売町三丁目十三番地
                    大庭大琳方寄留熊本県士族
                     鉱業人総代 高橋 元長
右出願人より提出したる鉱業予防設計に拠れは、水田に対する害毒は稍減少するものゝ如しと雖とも、然れ共該河流を以て飲料水に供する家屋数拾戸あり。之れをして衛生上最も有害は免かるべからさるものに依り、各所に井戸を新設し、加之ならす□し水田をして被害ある場合は各地主に対し損害賠償に応すへきものとし、尚大字宮田に向ひ該設計の全部をも契約し、果して履行するに於ては敢て異議なきものと認め、此段意見及答申候也
 明治三十二年四月九日        日立村長 佐藤仙三郎


蓋し彼等は止むを得ざるの上申にて之れを実行するの術なく徒らに六ヶ年を経過し、遂に明治三十三年春に至り横浜市平民松村常蔵、小林啓助の両名へ譲り渡す。幾許もなくして同人等も□同市に設立アルポース会社へ譲渡し、同会社より代理としてシウヲールセン(独逸人)なるもの出張ありて鉱務に鞅掌す。然るに既記の如く鉱主の変更頻繁なりと雖とも嘗て操業するもの□れなり。偶同会社に於ては迅の発展を謀るものゝ如く見へしは瞬間に過きすして、
明治三十四年の末に到り、栃木県宇都宮市平民大橋真六へ譲渡す。抑該地は水源涵養地にして、古来より立木の伐採を禁止し、椎茸山或は木炭製造の目的を以て往々出願せしものあるも、断して之れを拒絶し、未た曾て伐採したる事なきは林相によりて明らかなり。然るを、明治廿二年二月本郡大津町士族西丸佐太郎他三名が耕牧事業の名義を以て字赤沢外四ヶ所の原野に対し予約払下を為し、濫伐を始めたるに依り不取敢之れを差止め、更に左の規約を締結す


   [立木処分契約書

多賀郡日立村大字宮田字赤沢外四ヶ所の官有地に於て、拙者共耕牧事業相起し候に付、該地所在来の立木処分方を契約す、左の如し

右条々契約候上は如何なる場合にも全山を焦土と為す様の儀は決して致す間敷候、為後日我々連署契約書差入候也
 但名義の変更あるも此契約を以て継続履行すべきものとす


斯の如く確実なる規約あるにも拘はらず、今回の事業者新治郡志筑村大字中志筑士族兵藤祐三郎外壱名か規約を無視し、明治三十六年十二月中字赤沢外三ヶ所の立木全部を挙けて鉱主大橋真六へ売買の契約を為し、濫りに水源地の樹木を伐採するを見認め、水源涵養上に関し交渉に及びたるも、頑として応ぜざるを以て
三十七年七月六日、総会を開き村民挙って鉱山に到り伐採中止を要求する事に決し、翌七日黎明より総勢二百有余名の村民字杉室大雄院へ集合の折柄、村長佐藤仙三郎役場吏員を卒へ出張、説諭する処あり、亞て巡査派出所より巡査部長及巡査五名出張ありて懇篤説諭を加ひ、結局総代として交渉委員八名を撰らみ、自余は解散を命じ、而して八名の委員は巡査部長及巡査二名附添へ、鉱山事務所に就き会見を求めたるに、鉱主不在の趣を以て要領を得ず。其後に至り書面を以て要求せしも、到底求めに応じ難き旨の回答に依り、茲に於て交渉の道尽き、止を得ず鉱業中止と伐採中止とを申請するに決す。願意左に


   鉱業中止の儀願
              茨城県多賀郡日立村大字宮田
                    願人 根本 兼松
                       外二百十二名
奉請願候
夫れ本村大字宮田字赤沢銅鉱試掘に就ては、沿革多々ありと雖とも之れを省き、去る明治二十九年十月当時鉱業人熊本県士族高橋元長外壱名か採掘の特許を得たるも、場所狭隘の為め増区出願に対し其筋より故障の有無及鉱業事項等取調差出すへく旨照会に依り、之れに対し同年十二月当時村長根本兼松より具申に及候処、同三十年三月に至り、今般東京監督署に於て実地踏査せしめたる趣を以て復命書の写を副へ、之れに対し詳細具申可致旨其筋より照会に付特に精覈を要し、実地図面をも添付し、同年四月六日付を以て同村長より答申に及候処、同三十一年十一月に至り彼れ等は最後に於いて鉱毒除外法設計書を提出し、之れを其筋より回附により該設計法に拠れは、敢て公害なきものと認め、尚之れに加ふるに該河流を飲料水に供する個所へは新たに井戸を穿ち、併せて予防法設計の全部を履行するに於ては異議なき旨、当時村長佐藤仙三郎より答申に及候次第に候得へば、其の際迅速之れか竣成を為し、而して鉱業に従事すべきを当然とす。然るを爾来殆んど六ヶ年を経過するの今日に至るも未た着手せざるを視れば、一時苟安を貪り当村民を欺瞞したるものと云はさるへからす。況んや着手なきに於てをや。是れによりて村民激昂益甚敷、且つ事業の拡張に伴ひ鉱毒弥増膨大を来たし、河流に汎濫するに於ては到底防止すへからさるや必せり、既に毎年四五月の候、方言「かさき」と称する小魚(白魚の類)本流の河口に群を為して棲息せしが、近来頓に減少し、本年に到りては壱尾をも認めず。輙ち是れ鉱毒流出の証蹟顕著なりとす。事態茲に至りては大字二百有余の村民一日も黙止する能はさる処なり。依ては当初出願人の提出に係る除害法設計の如く速に励行し、且つ該河流を飲料水に供する個所へは更に井を穿ち、而して該工事竣功迄は鉱業中止候様御命令被成下度、然れ共本願の趣旨たる敢て事業に対し障碍を為す如き挙に出てたるには之れなく、素より彼れ等の言行一致を欠きたると、之れに伴ふ事業の順序を誤りたるを以て改めて其履行を要求する儀に候得は、情実御諒察を以て願意御採納被成下候は、一方には村民の紛擾を避け、且つ后来の被害を除き可申□該工事を竣成するに於ては本村に対し安心立業の域に進むへく儀に候得は、相互之利害御酌量被為在速に御執行被成下度、此段奉請願候。誠恐誠惶敬白
 明治三十七年七月十一日                  村民総代連署
  農商務大臣宛     外に立木伐採中止請願書は略す


三十七年七月十一日、村民総代根本兼松他二名多賀郡役所へ出願該請願書を提出し、尚詳細事情をも陳述す。延いて同月廿八日請願の件に付き村長佐藤仙三郎郡役所へ出頭、請願書に対する郡長添書を要求す

同年八月二日、多賀郡長辻永光、大石郡書記を従ひ字赤沢へ出張あり。鉱業及立木伐採の状況を視察す

同月五日、本県庁より林業技師下田喜久雄、石堂郡書記を卒へ出願に係る赤沢鉱業中止及立木伐採の状況実地臨検の為め出張、村長の案内を求め、取調を為す

同月八日付を以て高萩小林区署より左之通り伐採の停止を命せらる


萩第九二六号
                             赤沢鉱業事務所
兵藤祐三郎より買請たる多賀郡日立村大字宮田字赤沢外四国有原野生立木伐採之件に付取調の廉有之候条、当今之内伐採を停止す
 明治三十七年八月八日      高萩小林区署長代理
                   森林主事 阿久津樫郎

同月十三日付郡役所より左之通知あり


一課第五一七九の一
赤沢官有地立木伐採中止及鉱業中止請願書は去る十一日農商務省へ進達相成候旨、本県より通知有之候条、該請願者へ其旨通知方取扱相成度、此段及通知候也

 明治三十七年八月十三日
                 第一課長 飯田郡書記
  日立村長 佐藤仙三郎殿


如上の運びに至りたるを以て、同月二十日村長佐藤仙三郎郡役所へ出頭、郡長へ面談し、本省へ対し運動の方針を謀りたるに、氏も頗ふる同情を表し、事重大の件に付村長の資格を以て請願人同伴すへき内命により、上京するに決す

明治三十七年八月廿二日、村長佐藤仙三郎及請願人総代根本兼松外二名上京の途に就き、県庁へも打合の為め水戸へ下車し、在水県参事員佐藤欣一郎を以て西久保書記官へ内意を通したるに、知事も目下御用にして上京し居り、且つ本郡の一大事件に付佐藤参事員にも上京し斡旋の労を取るべしとの内命により、翌廿三日県参事員佐藤欣一郎も同伴上京す

明治三十七年八月廿四日、内務省に出頭し鉱山監督署に就き、更に陳情書を提供し、東京鉱山監督署長中村清彦其他鉱山監督官村田素一郎、同監督官補森島佐一郎等へ面談し、古来より鉱毒被害に関する事実を陳述し、大に得る処あり。転して大林区署に到り同署へも更に陳情書を提出し、大林区署長橋口正美へ面接し、同地は水源涵養の場所にして古来伐木に関する利害の証蹟及今回事業者の所為を縷陳したり。然るに該地は貸下け地にして目下詮儀中にあるを以て、追て何分の処置すべきを以てす

明治三十七年八月廿五日、東京大林区署より電報を以て高萩小林区署へ宛字隠作は伐採中止を命ぜらる。但し以前に係る伐木は使用を許可さる以上の顛末にて大林区署の所置兎角緩慢の傾向に依り

同年九月六日付を以て字赤沢外三ヶ所に対し保安林設置を申請す

同月九日付を以て東京鉱山監督官村田素一郎より当役場へ宛て左の通知に接す

鉱毒除害工事は命令あり。之れか監督として監督官補森島佐一郎出張を命せられたりと、果して

同月十一日午前十時当役場へ臨み、今般除害工事監督として出張の旨を報し、直ちに赤沢へ登山す

赤沢鉱山に対する鉱毒予防命令書及是れに関する設計認可書は左の如し


特許第一四一八号

                        鉱業人 赤沢鉱業合資会社
鉱業条例第五十九条及同施行細則第廿五条に拠り、左の事項を命令す
 明治三十六年十一月十八日      署長 中村 清彦

 

特許第壱四壱八号
                         鉱業人 赤沢鉱業合資会社
                               大橋 真六
                               高木 宗茂
                               松村 常二
赤沢銅山予防設備命令に基ける別紙設計書出願之通り認可候条、左記事項を遵守すべし
 明治三十七年九月五日       署長 中村 清彦


三十八年十二月二十日、県庁に於て保安林申請の件議定の為め森林会を開設し、議員中より調査委員三名を撰定し、鈴木周吉、野口喜太次、関雄三、県庁より林業技師下田喜久雄等同月廿二日出張、佐藤仙三郎の案内を求め実地踏査の結果、赤沢国有林百四拾町歩余は水源涵養の地を認め、委員会の報告に依り同月廿四日会議を開き、保安林編入を可決したりとの通知に接し、稍愁眉を開く

既記の如くの結果にして、彼れ両者間の契約も其目的を遂ぐる能はず、相互共に失敗に帰し終んぬ。茲に於て鉱主大橋真六も弥増し本村との疎通絶へ、進退維谷と云ふも酷評にあらざるなり。然るに或るものゝ斡旋にて、仝年末に到り鉱山偉業者久原某へ譲り渡しの約成りたるは、彼が僥倖と謂うべし、嗚呼

以上は鉱主大橋真六時代迄の沿革にして、日立鉱山に移りては更らに録するものとす

明治四十年八月
                  多賀郡日立村大字宮田
                  五十二番地士族
                      佐 藤 敬 忠 識 印

本史料は、1987年6月11日、「鉱山の歴史を記録する市民の会」の例会で発表された。