資料紹介 赤沢官有地立木伐採問題
赤沢鉱業時代の鉱毒水問題は、赤沢官有地の立木伐採問題がきっかけとなり、鉱山と地元民との対立関係はより一層深まり、官有地が保安林に編入されるまでに発展していった。ここに紹介する資料は、明治三九年(一九〇六)六月、この保安林編入申請の廃棄を上申したものである。
明治三六年(一九〇三)一一月、官有地拝借人兵藤祐三郎らは、地元民との約定を無視して、立木全部を赤沢鉱業に売却する契約を結ぶ。元来、字赤沢一帯の原野は宮田川の水源涵養地として立木の伐採が禁止されていた。耕牧事業だけが、地元との厳しい規約のもと、支障木の伐採のみが許されていたのである。
敷木や製錬用の燃料として立木が必要であった赤沢鉱業では契約後、直ちに立木伐採を開始した。鉱毒除害工事をのびのびにしている赤沢鉱業が水源涵養地の立木にも手を出したことを知った地元民は激昂、明治三七年(一九〇三)七月、①立木伐採を中止すること ②鉱毒除害工事が完了するまで鉱業を中止すること、を強硬に申し入れる。時同じくして、農商務大臣あてに「鉱業中止之儀」と「赤沢官有地立木伐採中止之儀」の請願運動を展開した。
立木伐採の中止命令が出るとともに、同年九月には、県に字赤沢外三か所の保安林設定を申請、翌年一二月、県森林会で赤沢国有林一四〇町歩余は水源涵養地として認められ、保安林に編入されたのである。
鉱毒問題はここでも未解決のまま、経営は久原鉱業所へと引き継がれた。
明治三九年(一九〇六)年六月、保安林編入申請人総代として、根本兼松、佐藤敬忠、福地豊蔵の三名連記で、当時の茨城県知事寺原長輝あて、保安林編入申請の廃棄についての上申書が提出された。
上申書
なお、この上申書には、付記として、保安林申請の廃棄願いに至るまでの交渉経過と結果の内容がしるされている。
久原鉱業所時代になって、保安林編入が廃棄へと変わっていく。こうした背景には、①「村方トモ充分意思疎通シ」とあるように、鉱山側が地元民と積極的に話し合いを持つようになったこと②精錬方法の変更、つまり赤沢鉱業時代の薪に変わって、燃料として石炭が用いられるようになったこと③事業拡張に必要な土地、建築資材の必要性が出てきたこと、などが考えられる。
『鉱山と市民』第9号 1985年12月1日