照山修理

寛永18年(1641)水戸藩は初めて全領地を対象とする検地を行った。このとき常陸国多賀郡金沢村の庄屋照山修理は検地をとりやめるよう藩に訴えでた。藩はその願いを拒否し、照山修理を処罰した。しかしその後再検地が行われ、村高は1200石から740石へと減少した。照山修理の行動が実を結んだ。

以上は照山修理に関して現在にのこる伝説と周辺の史料に基づいて、事実であろうと思われることだけを記した。これ以外はたしかさが担保できない伝説である。

照山修理の事件を多くの人が知るようになるのは、日立市金沢町にある長福寺境内にある「照山修理碑」によってであろう。この碑は1895年(明治28)に建立された。政治家野口勝一の撰文である。村内だけでなく多くの人々の寄付によって建立された高さ2.6メートルもある大きな石碑である。長福寺境内でひときわ目立つ。また同様に影響力をもったのは、1923年に発行された多賀郡発行の『多賀郡史』である。固定された碑よりは多くの人の目に触れる。しかも多賀郡役所の編纂(執筆者は安達鑛太郎)である。いわば多賀郡の正史である。1959年に発行された日立市発行の『日立市史』の人物編における記述が「照山修理碑」と『多賀郡史』のそれを引継いでいることからもそれはうかがえる。

これまでの照山修理像は「照山修理碑」がつくり『多賀郡史』と『日立市史』が固定させたといってよいだろう。

もっとも『日立市史』の「寛永検地前後の農民の動き」は江戸時代の記録「田制考証」と「桃蹊雑話」をひきながら、「果たして何れの伝えが事実か、あるいはそれに近いものであるか、このほかにも真実らしいが明らかに誤りと思われるような伝えもあって、金沢一件については、今日なおその実伝を知ることが難しい」と述べているのだが。

鷺松四郎「金沢村庄屋照山修理らの強訴」(『新修日立市史 上巻』 1994年)と同氏の「金沢村農民民強訴の伝説について」(『日立史苑』第7号 1994年)は、江戸時代に記録された5点の史料に丹念な検討を加え、事件の真相にせまろうとしている。しかし5点の記録が語るものは、それぞれに異なり、事件の経過はやはりわかりにくいものとなっている。短いフレーズで言えないからこそ、依然として「照山修理碑」と『多賀郡史』の単純明解さが多くの人々に受け入れられることになる。

もうひとつ多くの人々が伝説を歴史的事実として受入れやすい要素として、時代を超えてヒーローが待ち望まれていることもある。この点における野口の「照山修理碑」と安達の『多賀郡史』のたくみな文章、「光圀の封内を巡視せらるゝや、修理の家に臨み四足門を建ることを許せりと云ふ」(『多賀郡史』)。水戸黄門徳川光圀の登場である。江戸時代の記録に光圀は登場しない。「照山修理碑」がはじめて言いだしたことである。勿論根拠が示されているわけではない。野口勝一の創作なのではないか。ともあれ「民衆の心を理解する」光圀が加わった。伝説にとってこれほど強力な助っ人はいないだろう。しかも長福寺境内の「照山修理碑」というモノに定着した。伝説はモノに宿ろうとする。義民伝説の完成である。

義民伝説が成立していく過程の7点の史料については以下を参照されたい。