史料 照山修理伝説 2

石川桃蹊「桃蹊雑話」 寛政2年(1790)ごろ

石川久徴『桃蹊雑話』(1940年刊)

原本には句読点はないが、読みやすくするためと編者の理解を示すために読点[、]を適宜入れた。

威公御代寛永十八年御領内を検地せしめ玉ふ。慶長中戦国の時、竿を入れたる侭なれば、何れの村にても打出し高あり、この時、久慈郡金沢村の庄屋修理と云ふもの、斯ては百姓永代の難儀なれば、他村は兎もあれ、吾村えの検地は御免願ふべしと思ひ込願ひ出しかど、御領中一統の事なれば、いかでか其願ひを済されん、数度押戻せしかば、後には投訴強訴に及びけるまゝ已むことを得ず刑せらる。然れども一村の事を思ふて、己が身を捨て強訴せし事を不便に思し召れ、検地はありしかど、格別に縄を延ばせしとぞ。一村の百姓も亦渠が庇蔭を以て、縄を延べて検地せられし事を思うて、正、五、九月に修理念仏とて、渠が刑せられし日を以て、一村会集して執行すと也。彼村民人話。

[現代語訳]

藩主徳川頼房の時代である寛永18[1641]年に領内を検地した。慶長年間[1596-1615]に検地したままなので、どの村でも村高が増える。このとき久慈郡[多賀郡の誤り]金沢村の庄屋修理というものが、このようであっては百姓永代の難儀となるので、ほかの村はともあれ、わが金沢村は検地しないでほしいと願いでたが、領内全体にかかわることなので、どうしてその願いを認めることができようか。数度やりとりをし、のちに修理は強訴におよび、刑に処せられた。しかし一村のことを思っておのれの身を捨てて強訴したことを哀れに思い、検地をしたものの、ゆるやかに行った。村の百姓も修理のおかげでゆるやかな検地となったことを思って、正月・5月・9月に修理が処刑された日をもって一村集まって修理念佛を行っているという。金沢の村人の話である。

[石川桃蹊]

実名は久徴、通称は久次衛門、桃蹊は号。天明7年(1787)に彰考館に入り、天保8年(1837)82歳で没す。「水府地名考」「常陸郡名考」などの著書がある。