史料 照山修理伝説 5 

長島尉信「戴水漫筆 肆」 天保10年(1839)

茨城県立歴史館蔵

原本には句読点はないが、読みやすくするためと編者の理解を示すために読点を適宜入れた。□は判読不明文字。[ ]は引用者の註記である。

天保10年6月の金沢村の条に次のようにある。

大ぬま村を北へ出て奥州[岩城]海道より左へ入、山よせの村、同郡金澤村也、村高七百四拾弐石壱斗ハ慶長七年御検地高のまゝ也、寛永年中御封内一統御検地あらセらるへきと被仰出の時、金沢村御百姓一統御請不申上、時之庄屋何某申出候ハ、此度御検地之義私村方一同相背御繩請不仕候、御封内御一統ニ御改被遊候中、私村方計相背候ニおゐてハ定て重罪被仰付候はんハ御尤ニ奉存候、ねかハくハ私壱人いか様ニも厳科ニ被仰付、村中之百姓ハ御助被下度候段、申立候者

此段 威公[頼房]様江御伺奉申上候由之處  威公様御仰ニ、其もの命を出して検地を違背するハ義をもつてする處也、かれか義をとりて罪に行、其村検地ハゆるし可遣と之由、依て此庄屋ハ磔ニ□行、金沢村の検地をハ御ゆるし被遊たるとや、扨村方ニてハ此庄やか霊をまつり、尓今たへすとなん

愚按するに寛永の御時庄屋か命さし出して此村の新御検地をゆるさる 明公の御仰ニ匹夫か義を御立被下たる誠ニありかたき御事、庄屋死す共悦あまるへし、今や寛永をさる事二百年にして、此度御封内検地の事被仰出たり、金沢村即御封内にあり、此時寛永の時死したる庄やか子孫ありや否、もしあるときハ此度の處置いかん、黙して此度の御検地を請たらんにハ寛永に死したる庄やか霊の怒をいかん、若又寛永の庄やかあとにならひ、此度も命をさし出し御検地ゆるしあらんことを申出るか、いかに何共なくて居るや否、仮令かの庄やか子孫なく、他人にして今の庄やに在并其村人かの庄やをまつるのことしらぬもの一人もあるへからす、しつて黙し居るか黙さゝるかこれいかん、予ひそかに曰 明公匹夫か義を感し思召、其村の検地をゆるさる、是庄やか義を義とし給ふ處の 明公の義なるへし、かく 明公義をもつてゆるし置給へる金沢村なれハ、此度も 明公義をもつてゆるし給ふのまゝ検地ハいれすゆるし給ハヽ尤目出度御改といふへきか

蓋我小人小なるを以いふときハ、此村寛永の度に命を出して御検地をゆるされ、慶長のまゝにある此幸ハ 明公の御はしましたるかゆゑ也 明公の御徳と庄やか義とおもふものあらハ、慶長御けんちの田畠順に反セ部[歩]一も違ハせぬやうニ図をいたし置、御水帳ニよく引合ふやうに致し置たるや否、もし左もなくやハりまちがひ次第ニいたし御水帳にハ一もあハぬやうニ致置たるやう□事ニも候てほめかねるやうにも存る也

右多賀郡金澤村の事、此度の 御政事ハいかヽ其 令命の下るを待て記すへし

[現代語訳]

大沼村を北へ出て奥州海道より左へ入ると山際に村がある。多賀郡金沢村である。村高742石1斗は慶長7年の御検地高のままである。寛永年中に領内一統御検地が実施されることになったとき、金沢村の百姓一同は承諾しなかった。その時の庄屋某[照山修理のこと]は「このたびの御検地実施方針に私村方一同は反対し検地を受けませんでした。領内すべてに御改めが実施されるなか、私の村方ばかりが反対することは、重罪を言いつけられるのはもっともなことです。望みを言わせていただくなら、私ひとりが科を負うので、村中の百姓はお助けください」と申し立てた。このことを威公[徳川頼房]様へお伺いをたてたところ威公様の仰せは「その者は命を出して検地にそむくのは義をもってするのである。庄屋の義をとって罪に処し、その村の検地はゆるしてやれ」とのことであった。よってこの庄屋は磔に処せられ、金沢村の検地はゆるされたという。村ではこの庄屋の霊をまつり、今においても続けられているという。

考えるに、寛永の時に庄屋が命をさしだしてこの村の新検地は実施されなかった。明公[頼房のことをさす]が一人の男の義をお立てくださったことは誠にありがたいことである。庄屋が死んでも悦びはあまるほどである。寛永をさること二百年にして、今回領内総検地が決まった。金沢村は領内にあり、寛永のとき死したる庄屋の子孫ありや否や。もしあるときはこのたびの処置はどうなることか。黙して今回の検地をうけたならば、寛永に死したる庄屋の霊の怒りはどうなるか。寛永の庄屋の例にならって、今回も命をさしだして検地をゆるしてほしいと申し出るか。何もせずにいるか。かの庄屋に子孫なく、今の庄屋は他人にして、また村人がかの庄屋を祀っていることを知らない者が誰一人いない。そんなとき知っていて黙るか、黙らないか。どうだろうか。私がひそかに思うことは、明公が一人の男の義を感じ、その村の検地をしなかった。これ庄屋の義を義とした明公の義である。明公の義をもってゆるした金沢村であるならば、今回も明公の義をもってゆるし、検地をしないことはよろこばしい政治だというべきであろうか。

おそらく、心のせまい私がそのままに言うなら、この村が寛永のときに命をさしだして検地をゆるされ、慶長のままにあるこの幸いは明公ゆえのことである。明公の徳と庄屋の義を思う者があれば、慶長検地の田畠順に面積を一つも違わぬように図をつくり、検地帳に合致するようにしておくことだろう。そうでなくまちがったままにして、検地帳とは一致しないようにしておくことは、ほめられるようなことでもないと思う。

今回の御政事は右の多賀郡金沢村のことをどのように判断するか、命令があるのを待って記すこととする。

[長島尉信]

天明元年(1781)─慶応3年(1867)。農政学者。常陸国筑波郡小田村の小泉家に生まれる。村内の長島家に養子。のち名主をつとめる。45歳で隠居し、農政学をはじめ政治、経済、暦学、天文学などを学ぶ。天保10年「御土地方御郡方勤」として水戸藩に招かれた。着任早々領内を歩いて「戴水漫筆」を著した。

[尉信の関心]

寛永検地のおり金沢村の百姓が検地に反対し庄屋が処刑された事件の真偽について尉信の関心はない。事件は庄屋の義と藩主の徳によって「庄屋死す共悦びあまる」解決となったのである。事件は疑うことのない前提としてある。関心は実施が決まった二百年ぶりの全領検地が無事に終わるか、金沢村の事件が再燃することはないか、である。だが二百年前と状況は変わっている。だから検地の実施が決まったはずである。杞憂である。それでも為政者(藩主−斉昭)に徳を期待するのである。この短い文章のなかで、庄屋の義が10回、明公が7回も使われている。しかも村と百姓の立場からの論が中心となっている。名主(庄屋)出身の尉信らしいというべきか。

金沢村の実況検分の二月前の天保10年4月に検地条目が決定している。その後検地条目に増補が加えられ、内調が10月から始められる。これらに尉信の考えが反映したのかどうか、わからない。

彼が心配する部分を除外して読めば、天保期の農政学者に照山修理事件がどのように伝わり、受けとられたのかを知ることのできる史料である。

なお、尉信が歩いた2年後の天保12年(1841)、宮田村の庄屋で検地の郷役人である福地六兵衛が聞きとったもの(史料 照山修理伝説5 に紹介)とは大きく異なる。尉信は金沢村ではじめて話を聞いたのではなく、水戸藩士たちの記録(たとえば本ページにある「農政要略」「桃蹊雑話」「田制考証」「水戸紀年」)を読んでから実況検分に臨んだのではないだろうか。

[謝辞]

本ページの史料収録にあたっては、堀辺武「史料紹介 道中記にみる日立地方(五)」(『郷土ひたち』第56号)が紹介する「戴水漫筆 肆」を使わせていただいた。