史料 照山修理伝説 近代編
野口勝一「照山修理碑」 明治28年(1895)
所在地 金沢町2丁目 長福寺境内
ひたち碑の会『日立の碑』より
…水戸郡庁記録、小宮山楓軒雑書及び里老遺談を按ずるに、寛永十八年正月、藩、封地を検し、修理に命じて検吏に附属せしむ。修理、村内の量地は民に便ならざるを憂え、書を郡宰に出だし、利害を論陳す。郡宰之れを却しりぞけ修理を譴責す。修理上書すること再三、死を以て自ら誓う。当時、官威厳峻、烈焔、迅雷の如し。若し触犯の者有れば、惨禍たちまち其の身に及ぶ。修理、抗争して屈せず。乃ち弟主税・次子新次郎とともに獄に下る。是の年七月二十六日、三人は村界塙山の北に刑せらる。…修理時に五十八九歳、新次郎、時に十四歳なり。是れより量地・検縄、稍や寛を得たりと云う。…西山公、封内を巡り、親しく修理の家に臨み、四足門を建つることを許す。…
(原漢文)
野口勝一
常陸国多賀郡磯原村に嘉永元年(1848)生まれ。自由民権運動家。衆議院議員(明治25〜35)。明治6年頃金沢村のとなりの大久保村の小学校で教鞭をとったことがある。
照山修理碑
碑の全文(漢文と読み下し)は、『日立の碑』(2006年 日立市郷土博物館発行)をお読みください。
安達鑛太郎『多賀郡史』 大正12年(1923)
[寛永]十八年水戸侯望月恒隆をして境内の田畝を量り租税を定めしむ。斗代は古法を用ひ一歩は六尺とす。時に金澤村の庄屋照山修理其量地の過酷なるを以て、檢吏と力争し、書を郡宰に出して利害を論陳す。郡宰之を却く。修理上書再三抗爭屈せず、遂に弟及び次子と共に獄に下され、七月二十六日三人共に村界塙山に刑せらる。後四年藩廳郡宰等を以て人民を苦め君徳を損するものとし、自盡を命ぜり。光圀の封内を巡視せらるゝや、修理の家に臨み四足門を建ることを許せりと云ふ。