史料 照山修理伝説 1

福田芳湖「農政要略」 寛政元年(1789)4月

常陸太田市 吉成家文書

右村庄屋照山修理江戸表へ罷登、重キ御役人中え罷出、碁を打候度毎ニ、私ともハ畝反詰りにて甚難儀いたし候由を申し候て、片脇端之方計を打候故、不思儀思召御尋ニ付、右千弐百石余ニ御縄御打立ニ付、甚村内百姓とも難儀之次第委細申立候間、前書之通相済、又候御改之上御縄詰り前書石高ニハ相成候由、尤右修理儀入獄被仰付其後休息とて宿所へ御下ケ相成、御縄御免にて三十八日罷在候所、御呼出之上、大久保村境ニおゐて九月十八日礫被仰付候由、右村百姓又衛門申伝候趣、依之毎月十八日ニハ菩提所於長清寺村中集り大念仏有之由、右之者跡当時照山庄左衛門とて先々庄屋役儀相勤候由、寛政元年酉四月五日承之

[現代語訳]

右(金沢)村庄屋照山修理が江戸にのぼって、藩の重臣を訪れ、碁をうつたびに「私どもの村では検地によって石高が増えてしまい、苦労している」と言って、端の方ばかりをうっている。不思議に思って尋ねてみると、検地によって村高が1200石余になったことによる百姓たちの苦労を詳しく申し立てたので、前記(年貢割付状)にみる通り(再検地を行い、村高を減ずる)処置をした。

修理は入獄を命じられ、その後休息として縄をとかれ、宿へ下げさせられ、38日間宿に留めおかれた。ところが呼び出しがあって、大久保村境において9月18日磔を命じられた。これは金沢村の百姓又衛門が語るところである。

これにより毎月18日には、菩提寺の長清寺に村中のものが集まり、大念仏を行ってきた。修理のあとは照山庄左衛門が庄屋役を勤めたとのことである。以上は、寛政元年(1789)4月5日に聞いたものである。

[福田芳湖]事歴等不詳