史料 明治末、茨城県北の石灰とセメント製造
1911年『産業調査書』より

本ページで紹介する窯業は明治末年の『産業調査書』の第九工業から抜きだしたものである。この工業は(一)醸造業(二)製糸業生糸、屑糸等(三)窯業(四)製紙業(五)染織業(六)製粉業(七)製油業(八)沃度製造業(九)漆器業の9項目からなる。

(三)窯業における陶磁器の主産地は笠間、煉瓦製造は同じく水戸、瓦製造は県下にうすく広がり、硝子製造は廃物利用の製造所が水戸に1軒。これらは略して、石灰とセメント製造のみとりあげた。

『産業調査書』についてはこちら 史料 明治末、茨城県北の鉱業 を参照。

目次


テキスト化にあたって

[本文]

  第九 工業 

本県ノ産業状態ハ農業ヲ以テ主要ナル産業トスへキハ既ニ述フル所ニシテ、今又茲ニ詳論スルノ要ナシト雖、総説ニ於テ其ノ比較ヲ示シタル如ク、工業ニ従事スル戸数ハ農業ノ十分ノ一ニシテ、工産品価格亦農産ノ四分ノ一ニ過キス。是従来農本主義ヲ取レル我邦ニ在テハ寧ロ当然ノ事ナリト云フへシ。然レトモ世運ノ進歩ニ伴ヒ産業上ノ競争日ニ激烈ヲ加フルニ至ルへキハ蓋シ自然ノ数ニシテ、過去ニ於ケルカ如ク単ニ農本主義ニ依リテ殖産興業ノ実ヲ挙ケ富力ヲ増進セントスルハ、抑モ亦至難ノ業タルヲ免レス。故ニ宜シク適度ニ工業、商業ノ勃興ヲ促カシ、其調和発達ヲ期セサルへカラス。是レ現時ニ於ケル大勢ナリトス。而カモ本県カ上記ノ如ク農業ノ隆盛ナルニ拘ラス、一ヶ年約一千餘萬円ノ工産物ヲ産出シ、漸次増大ノ傾向アルヲ以テ之ヲ見ルモ、工業ノ前途ハ決シテ悲観スへキニアラス。且ツ一方ニハ工業勃興ノ主因タルへキ石炭、水力ニ富ミ、仔細ニ工業ノ種類ヲ調査研究スレハ、其ノ発達ノ餘地実ニ大ナルモノアルヲ知ルへシ。[以下略]

(三)窯業

窯業ハ凡テ窯ヲ築キ焼成スル事業ヲ包括シ、陶磁器、煉瓦、瓦、セメント、石灰、硝子等ハ此成品ナリ。本県ニ於ケル窯業ハ其種類ニ依リ盛衰一ナラサルモ、何レモ或ル程度ニ発達セルヲ見ル。
[第一、陶磁器製造 第二、煉瓦製造 第三、瓦製造 略]

第四、石灰製造

此製造ハ専ラ西茨城、多賀両郡ニ行ハレ其ノ産額等次ノ如シ。

数量價格製造工場数職工
37年816,20017,6491057
38260,00024,2121268
391,109,00031,4291268
401,632,40041,1571582
411,314,65032,3501162
421,170,20025,046854
  1. [註:表内の漢数字はアラビア数字にあらためた]

此中最モ大ナル工場ハ西茨城郡、西那珂村杉本敬吾ノ工場ニシテ、明治五年四月創業、目下二十名ノ職工ヲ使役シテ盛ニ製造セリ。
 又多賀郡国分村大窪義一石灰工場[1]ハ安永五年ノ創業ニシテ、税務署調査ニ依レハ資本一、五〇〇、従業者一、職工六、売上高四、〇〇〇円、所得調査額四〇〇円、利益歩合一割ナリ。
 此製法ハ極メテ簡単ニシテ、石灰石ヲ窯中ニテ焼キアグルノミナレハ、石灰石ノ産地ニ於テハ有利ナル事業ナリトス。殊ニ其ノ用途ハセメントノ原料タル外、塗用、肥料、消毒用等広大[2]ニシテ、本県及仙台地方ヨリノ注文絶ユルコトナシ。

  1. [註]
  2. [1]国分村の石灰製造については、こちら 文献 河原子海水浴案内 紹介 および 史料 河原子海水浴案内〈抄録〉 を参照
  3. [2]前近代における石灰の用途が建築材料としての漆喰(史料では塗用と表現されている)にほぼ限定されていたのに対し、明治末になるとその用途に広がりを見せていることがわかる。

第五、セメント製造

本県唯一ノ工場ハ助川セメント製造所[3]アリ。関清英ノ経営スル所ニシテ、創業四十年七月、五十馬力ノ蒸気機関ヲ運転シ、三十名ノ職工ヲ使役ス。原料石灰ハ高鈴村字数沢山ヨリ産スル石灰石一日四千貫ヲ採堀シテ、之ヨリ二千貫ノ石灰ヲ焼成シ、又粘土ハ近地ニ甚タ豊富ニシテ、製品一ヶ月ノ産額平均二千樽(一樽三百斤)價格一万円ナリ。故ニ一ヶ年ノ売上大凡十二万円ニ達ス。其ノ詳細ノ収支計算ハ知リ難キモ、近年経済界不況ノ際モ尚一割ノ純益アリタリト。近頃該製造所ヲ資本百五十万円ノ株式会社ニ改ムルノ議整ヒ、既ニ株式募集ヲ了リタレハ、其ノ拡張事業ヲ見ルモ近キニアルヘシ。

[以下略]

  1. [3]助川セメント製造所については、1907年(明治40)のこちら 史料 多賀郡助川近況 および 翌08年の 史料 助川セメント製造所近況 を参照。