史料 助川セメント製造所近況
 1908年(明治41)9月23日付『いはらき』新聞記事


大正期のセメント製造所 徳利窯が5基見える。徳利窯から回転窯に変わるのは1923年(大正11)のこと(写真:日立市郷土博物館編『日立の絵はがき紀行』より)

日立駅中央口を出ると右手、北の方角に日立セメント株式会社(本社・工場:茨城県日立市平和町)がある。日立セメントは助川セメント製造所から始まる。経営者と名称は幾度か変わったが、工場の位置は百年以上も変わらない。

本記事は、創業期の助川セメントの概要を手短に伝えている。隣の日立村字赤沢の山中での日立鉱山創業から3年後のことである。

[本文]

△沿革 昨年[明治40年]七月、今の地を卜して起工し、汽罐室、乾燥室、撒布室各一棟及び焼窯一基を建設し、同年十一月第一期の工事をおはりて試験的に作業したるが、其の成績良好にして前途頗る有望なるを以て翌十二月更に第二期拡張工事を計画し、諸般設計の上乾燥室一棟、撒布室二棟、焼窯二基を新築し、猶機械室等の取拡げを施し、本年[明治41]四月全部の落成を告げて事業に着手し、翌月製品試験の為農商務省に提出して工業試験所の試験を求めし処、七月十四日付を以て優等の成績にて合格し、引続き盛んに営業しつつあり

△持主 曾て知事たり又警視総監たりし東京芝区三田綱町一番地関清英氏の所有にして、総務取締は麹町区内幸町一丁目三番地関経雄氏なり

△事務員 は庶務兼会計須藤伸次郎、販売部根本末之助、工務部小山松次郎、技手長心得斎藤与七郎、機械部主任佐藤初太郎、焼窯主任大狭萬吉、製灰主任櫻井久五郎の諸氏にして、其の他の従業者は男四十六名、女五名合計五十一名なり

△建物 重なる建物を挙ぐれば、汽罐場百十八坪、煉機場兼配合場九十六坪、乾燥場百九十坪、撒布場三百九十坪、焼窯高さ六十三尺のもの三基等なり

△汽罐汽機 汽罐は英国製コルニツシユ式五十馬力にして、汽機は横置式不凝縮二十五馬力なり

△焼窯 はあたかも袴を付けた徳利の形状を為し、三基の内一基立の分は袴の部分横十二尺、縦二十三尺、徳利の部分高さ四十尺、口径七尺、二基立の部は袴横三十尺、縦二十尺、徳利各高さ四十尺、口径六尺なり

△乾燥場 百九十坪を二ツに仕切り、左右各六箇の火口を有し、耐火煉瓦を以て成る

△搗臼 粘土粉砕に使用する機械仕掛の臼十四あり

ふるひ は長さ九尺、幅六尺位ある六角形の廻転式にして周囲に金網を張りしもの

△配合機 長さ五尺、径二尺五寸位ある桶形の廻転式にして原料配合に用ゆ

△礦区 助川区内字数沢国有林なる石灰山借区の内五十坪だけ採掘の許可を得、採り尽せば更に別な所より採る筈にて、五十坪より六尺立方を一切として八千五百切、約三百万貫を得らるべしと

△製造の順序 数沢の製灰工場にて製造したる石灰を工場内に運び入れ、別に工場敷地内より採取する粘土を乾燥して搗臼にかけて粉末となし、石灰と粉末の粘土とを調合して配合機にかけ、次に精煉して煉瓦形の固形物となし、乾燥場にて充分乾したる上焼窯に積み入れて燃焼し、之れを粉末と為して撒布場内に撒布し、二週間毎日上下を撹拌して始めてセメントの製品を得

△使役人待遇法 共済会なるものを設けて傷病其の他に救済を行ひ、勤勉者には相当の賞与を為す

△今後の計画 今後更に拡張して撒布室、焼窯等を増築し汽罐汽機を増設し、一ヶ月五千樽以上を産出せしむるの計画なるが、有志の希望に依りては百万乃至二百万円の株式会社と為すべしと云ふが、当初より今日迄に関工主は十万余円を投じたる由

△原料無尽 同地方は頗る原料に富み、殆ど無尽蔵とも云へ得べしと

△技師の視察 農商務省商工局の技師樋口眷一氏は来月五日午後三時三十四分助川駅に着し、東京より同行せる関総務と東暁館に投じ、翌六日工場に臨みて諸般の設備、製品作業等巨細の検分を遂げ、更に原料石産地に到りて採掘の状態を視察せる由

[凡例]

縦書きを横書きに改め、漢字は常用漢字があるものは常用漢字に置き換え、ないものはそのままとした。仮名遣いはそのままとし、ルビは一部を除いて削除した。適宜読点を施した。[ ]は編者註。