文献 河原子海水浴案内

目次


著者の楽山仙史については不詳。だが奥付にある編集兼発行者である高木留吉は『聲名快話』(1889年刊)の著書がある。その内容は「水戸義公事蹟」「水戸烈公七ヶ条の冤罪」「熊沢蕃山」「塚原卜伝」で構成されている。樂山仙史は高木留吉と考えてよいのではないか。本書はそのつど参照文献として、事蹟雑纂、常陸志、郷党異聞録、雨夜伽、水戸領地理志(水府志料)、常陸国風土記、常陸帯(安藤朴翁著)などの書目を示す。これらは当時印刷刊行されていないので、楽遊仙史は、原本にアクセスできる立場にあることがわかる。かつ地元及びその周辺からていねいな聞き取りや資料収集をしている。

本文献を こちら で抄録してテキスト化しました。

内容細目

序          野口勝一
凡例
目次
河原子町
沿革 地勢 名産
… 1
◎海水浴旅館
岩崎楼 楽遊楼 阪本楼 永野家 三崎家 泉家 山崎家 眞砂家 姫之湯
… 3
◎鯛味噌并塩辛販賣店
間宮祐之介 永井哲次郎 後藤岩吉 鈴木億太郎
… 8
◎料理店
笹家 鮎川亭 鶴家 桜家
… 8
◎名勝 旧跡
東福寺 郵便局 運送店 烏帽子岩 一ツ島 二ツ島 鶴ヶ鼻 天神森 諏訪之宮 梅林 眞弓山 大久保風穴 泉ヶ森 諏訪水穴 鮎川ノ香魚 小泉家別邸
… 9
◎鰹節製造業
中内蔵之介 鈴木繁太郎 鈴木文平 大内徳太郎 大内蔵之介 鈴木治郎八
… 19
◎瓦製造業
松田教蔵 海野次七 塙友蔵 長山酉之介 鈴木佐太郎
… 19
◎石灰製造家
大窪義一
… 20
◎漁業組合 ◎寒水石工場 附其事歴 ◎黒澤五郎墓 ◎河原子町役場 ◎海水浴営業組合 ◎河原子尋常小学校 … 21
◎海水浴心得
海上ノ空気ト衛生 海水浴場 小児療養所 海水ノ性質 海水浴ノ用法 海水浴治療法
… 31
◎補遺
河原子附近狩猟地 勇家人力車帳場
… 47
[歌]
わび人 常陸河原子の景
… 50

江戸時代の河原子

河原子は江戸時代以来の漁業の町である。文化5年(1808)7月から翌年6月までの1年間の漁獲高は日立市域では第一位であった[1]

上野国那波郡連取村(群馬県伊勢崎市)の大地主で質屋を営み、旗本の地役人を勤める森村新蔵は、連取村の仲間5人と天保12年(1841)6月に連取を出立し、9月までの約百日間、常陸経由で金華山、湯殿山、函館、松前に足をのばした。そのとき河原子を訪れ、「北国見聞記」に次のように記録した[2]

此辺[水木・大沼・金沢・河原子]塩焼浜にて浪打際ヲ行に風景よろし
○川原子 此処家立町并にて海涯通りにハ料理茶屋七八軒あり、家ことに女藝者抔置、貸座敷又屋形船、平舟等の貸舟ありて賑敷処なり。裏町通りハ皆漁父、塩焼渡世なり。此町裏に海中に突出たる小島あり
巍々津大明神 川原子の小島にあり。祭神不詳、此神魚捕守護神、当処の鎮守と崇む、予の行し時ハ折節汐干にて淵を渡り島迄行見しに此山異石にして其景色言語に述がたし

──水木の浜から河原子に向かう途中では塩焼が行われていた。森村は波打ち際を歩く。風景に目をみはる。河原子は家が建ち並んで町のようだ。海辺の通りには料理屋、茶屋が七八軒あり、芸者をおき、貸座敷もある。また屋形船を借りて乗ることができる。にぎやかなところである。通りから裏に入ると漁夫や塩焼き職人が住んでいる。この町に海の中につきでた小島がある。高く大きい津明神がある。祭神はわからないが、この神は魚を捕る人々の守護神として崇められている。訪れたときは、たまたま干潮で磯伝いに島にわたることができた。この異形の山のような島の景色はことばにして説明できるものではない。


河原子村の宿の一部 この図には88棟の屋敷が描かれる(日立市郷土博物館蔵)

森村が言う「家立町并」。幕末の天保13年(1842)に作成された「河原子村田畑反別絵図」(日立市郷土博物館蔵)には、345もの屋敷が隣りあって描かれている(右図)。この様子を表現したものであろう。まさに都市の景観を呈している。

[註]

  1. [1]『日立市史』および石神組御用留研究会編『水戸藩郡奉行所 文化六年 石神組御用留』による。河原子村のこのときの漁獲高は銭11,053貫、銭4貫文を金1両とすると2,763両、現代において1両を30万円とすると8,300万円ほどになる。単純に農業生産と比較すると、河原子の村高(玄米の生産高で表す)は897石(元禄郷帳)、1石1両とすると年間金897両の生産となる。つまり河原子の漁業は農業(しかも自給的要素を多分にもつ)の3倍の規模をもっていたということである。なお『日立市史』(p.411)はこの数値を税額とするが漁獲高の誤り。
  2. [2]古文書学習会編『道中記にみる江戸時代の日立地方』p.87

明治の河原子


烏帽子岩と千尋橋 明治41年ごろ(日立市郷土博物館編『日立の絵はがき紀行』より)

明治の市制町村制施行時(明治22年−1889)に一村で町制をしいたのは、そうした景観上の都市的要素と漁業によって町が豊かであったからである[3]。町村制施行から8年後の明治30年に編まれた『茨城県町村沿革誌』[4]は次のように説明する。

人家連擔、道路平坦ニシテ一小市街ノ体ヲ為セリ……本村ノ物産ハ海産物ニシテ東京及野州ニ輸出スル其額最モ多シトス……人家稠密、稍ヤ一小市街ノ体ヲ為スヲ以テ村ヲ改メテ町トナス……本町ハ戸数四百六十余ニシテ相当ノ資力ヲ有スルカ故ニ独立ス
  1. [3]漁村に共通したものである。茨城県北地域において明治の市制町村制施行時に一村が単独で町制をしいたのは、外に湊村(ひたちなか市)、大宮村(常陸大宮市)、太田村(常陸太田市)、大津村・平潟村(北茨城市)の5か村のうち3ヶ村であった。
     多賀郡川尻村は漁業の町で戸数352、一村として町制をしくことができたのだが、隣りあう折笠と砂沢村が戸数・資力ともに小規模であったので、川尻村が両村を引き受けるようにして合併し、町制を布いた(細谷益見『茨城県町村沿革誌』)。とりわけ折笠村の浜集落は川尻村の集落と一体化しており、川尻が吸収しても不思議はなかった。なお『新修日立市史 下巻』(p.170)は、折笠・砂沢との合併理由を「川尻村だけでは独立できず、砂沢、折笠村と合併しての町制と」なったと述べるが、この説明は上記の理由により不正確である。
     久慈郡久慈村は当初村として出発するが、「人口二千五百八十、戸数五百六十六の多きを有し…近来商賣頗る増加し連擔櫛比恰然市街の状を為せし」ために明治27年2月5日に町制をしく(川崎松寿「『日立市史』における久慈町制施行期日の誤載について」『郷土ひたち』第23号)。
  2. [4]細谷益見著、明治30年12月11日発行。1976年に崙書房から復刻。原本は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる。

常磐線開通と本書の出版

常磐線の敷設工事がはじまるのは明治28年(1895)2月のことで、2年後の明治30年2月に水戸平間が開通し、日立市域は鉄道によって東京と結ばれるようになる。それまで東京とは徒歩や馬の背をかりたり、人力車に乗ったりして、二泊三日を要した。それが片道6時間30分ほどで行き来できるようになったのである[5]。もちろん人の行き来だけではない。物資もまた行き来するのである。

本書『河原子海水浴案内』は開通5年後の明治35年に出版される。出版目的が凡例に述べられている。

常磐線ノ開通シテヨリ以来、当河原子町ニ於ケル海水浴ヲ目的トシテ来遊セラルヽ貴女紳士、日一日ヨリモ多キヲ見ル。此レ当地ノ状況及ヒ附近ノ勝地ヲ紹介スルカ為メ、此書アル所以ナリ

常磐線開通を機に下孫駅から直線で1.5キロメートルほどの河原子海岸に多くの海水浴客がやって来るようになる。その来客に町の概要と周辺の景勝地を紹介するのが出版の目的であるという。もちろん町の宣伝も兼ねてあちらこちらに配布されたに違いない。

漁業(生産)の町にあらたに海水浴客を迎える保養(消費)の要素が加わった時期の河原子の様子が本書にうかがえる[6]。しかし河原子が生産から消費の町に転換するには時間が必要だった。転換時期は戦後の高度成長期、1960年代であろう。国民に経済的余裕が生まれ、家族そろって余暇を過ごすのに、白砂で広い砂浜とおだやかな遠浅の磯をもつ河原子はもっとも適していた[7]

  1. [5]この地域をはしる常磐線の歴史については『十王町史 通史編』p.389がもっともわかりやすくまとめている。
  2. [6]前掲明治30年発行の『茨城県町村沿革誌』は、海水浴のことに一切ふれていない。
  3. [7]常磐線開通後、河原子海岸が海水浴で注目をあびるようになったのは、上記の理由の外に、当時東京から直線距離で45キロメートルにある湘南の海岸に比べて、砂が白い、海水の塩分濃度が高い(近くに大河川がない)ことにあったという。資料名を失念。探せだせたら紹介します。

鰹 節


浜にあげられた鰹( 日立市郷土博物館編『日立の絵はがき紀行』より)

本書は名産品に鮑と松魚と海老をあげる。海老が名産である理由を水戸藩第二代藩主徳川光圀を引き合いにだす。水戸藩領によくある光圀伝説である。鮑は常陸の磯でよくとれるもので、河原子名産というほどではない。松魚は鰹の異名である。鰹はたしかに河原子名産であった。鰹節製造業の項目にあるように、河原子町には6軒の製造業者があった。

江戸時代、文化文政期に発行された「諸国鰹節出所 かつほぶし位評判」に全国128の浜が相撲番付にならって順位がつけられている。主宰は江戸小松町の鰹問屋。大関はもちろん土佐清水。前頭の最下段に大津、河原子、中の湊、大瀬(会瀬)、平磯、川尻の順で水戸領の浜が並んでいる[8]

  1. [8]『日立市史』p.413

海水浴旅館


海水浴旅館 上:明治末 下:大正期(日立市郷土博物館編『日立の絵はがき紀行』より)

本書に紹介されている旅館は岩崎楼、楽遊楼、阪本楼、永野屋、三崎屋、泉屋、山崎家、真砂屋の8軒、河原子の旅館のすべてであろう。

5年後の明治40年夏の盛りの8月15日付『いはらき』新聞記事を紹介しよう。

○河原子の浴客数  多賀郡河原子町に於ける浴客は目下非常の混雑にて、旅館の滞在客を聞くに岩崎楼百、泉屋二百五十、楽遊楼七十、大谷館五十、豊栄楼三十五、長野屋二百、真砂楼百五十、三崎屋七十、約千名にして、次ぎに旅館以外に宿泊して自炊しつゝ滞在しをるものは千五百名に達し、仝町の浴客を合すれば無慮二千五百余名に上るべしと

ついで翌明治41年7月の「多賀の海水浴場」と題する新聞記事[9]から冒頭部分と河原子を抜きだす。なお本記事には河原子の外多賀郡水木・鮎川・助川・会瀬・川尻・高萩・磯原・大津・平潟の九つの浜が採りあげられている。全文は こちら

多賀郡は南水木浜より北は岩城境の平潟港まで海岸一帯白砂青松延ひて山河の景致之れに加はり、風光の明媚却つて湘南の地を凌ぎ、海浪穏かに瀬は浅くして危險のおそれ殆となく、朝夕と日中との温度大磯鎌倉の如く劇変を見ず。人情淳朴、物価比較的廉に、山海の珍味ながらにして賞し得るより、栃木群馬方面の人々は勿論都人士の凉をふて來る者逐年その多きを加へ、昨年の統計を見るに
地名旅館 浴客数浴客府県別
河原子86675栃木3736
助川3494群馬1936
高萩6326東京1127
平潟3294茨城1058
大津3226埼玉546
川尻4185福島410
水木5147千葉56
磯原6135神奈川12
会瀬2117静岡5
鮎川3102宮城3
長野2
新潟1
合計8701合計8701
[漢数字をアラビア数字に変えててある]
十ヶ所四十五の旅館に八千七百の浴客を容れ□次第なるが、此の外素人家に宿借したる者も少なからざるべし
△河原子  下孫駅より東に十町の海岸にある町にして、景勝と漁業とを以て古くより名を知られ、殊に海水浴避暑地としては享保年間即ち今より二百年前より其名遠近に伝はり居たるが、海岸線開通以来とみに繁盛を見、県下に於ては三浜[磯崎・平磯・那珂湊]と並ひ称せらるゝ所となれり。此の地海岸に岩礁多くして恰も屏風を建て列ねたるが如く海水浴には最も安全なり。名所には烏帽子岩、大島、米島、北島、向島、二ツ島、鶴ヶ鼻等あり。又泉川の古蹟、諏訪の水穴、大久保の風穴等も一度は探るの価値あり。旅館には真砂屋、岩崎楼、泉屋、永野屋、大谷館、楽遊楼、見崎屋、豊栄楼等あり

さらに翌年の明治42年5月25日の河原子の概況を伝える『いはらき』新聞の記事は 河原子町の現状を次のように伝える。

河原子町の繁昌が一に漁業、二に海水浴塲、三に瓦製造所に依るは云ふ迄も無く候

全文は こちら

  1. [9]明治41年7月3日付『いはらき』新聞

姫之湯

町から北に約4町(約440メートル)にあるというこの鉱泉の由来について、次のように述べる。

曾テ此湯ノ後ニ旧館アリシ時、館主ノ姫君カ病ニ罹リタレハ、百方医薬ヲ用ユルモ一トシテ奏効セス。或日ノ事山間ヨリ湧出ツル鉱泉ヲ温メ入浴セハ必ス全治スヘシトノ注意アリケレハ直ニ浴湯セシニ、サシモノ大病モ拭フカ如ク快癒セリ。爾來此ノ如キ名湯ヲハ空シク埋沒セシムルニ忍ヒストシテ、世人ノ助ケノ為メ四時随意ニ入浴セシメタレハ、其恩沢遠近ニ洽ク姫之湯トシ云ヘハ知ラサルモノナキ有様ニ及ヒ、遠ク仙台、南部地方ヨリ特ニ来ルモノアリシト云フ

──かつて姫之湯の背後に旧館[10]があった。館とは中世において孫沢権太夫が居をかまえた孫沢館あるいは要害城と現在呼ばれる館址のことであろうか。その館主の姫が病にかかって治らずにいた。ある日、山あい(館の濠底のことか)に湧き出る水を温めて入浴すると快癒した、という話が伝わっていた。そこでいつでも入浴できるようしたところ、姫之湯として知られるようになり、遠く仙台や岩手からも訪れるようになった。

姫之湯の位置については本書の一ッ島の説明に次のようにある。

一ッ島ハ姫之湯ノ前ニ突出セル所ニ在ルモノヲ云フ


一ッ島:大正末期(日立市郷土博物館編『日立の絵はがき紀行』より)

この説明から姫之湯の位置を推測すると、一ッ島は桜川河口にあるので、現在河原子町1丁目5の日立物流東日本営業本部日立営業部の辺り(つまり右岸)か、国分町2丁目1にある要害クラブ(要害城跡。つまり左岸)あたりである。左岸には戦国期の館趾が現在に残るが、右岸は企業用地となってわからない。

鉱泉である姫之湯の開業した時期について本書はふれていない。おそらくわからないのであろう。昭和12年(1937)まで存続したことが、「河原子町事蹟簿」[11]によって確認できるが、その後は不明である。

昭和6〜8年「河原子町事蹟簿」の礦泉の項に次のようにある。

礦泉
名称所属地名温冷泉質主治効能
姫ノ湯孫沢下疥癬病
往昔字要害ノ城主孫沢権太夫頼茂ノ姫君疥癬病ニ苦ミタルモ同所谷間[濠底のことか]ヨリ湧出スル清水ヲ以テ浴場トナセシガ全治シタリト云フ


一ツ島(凉塚)の南西、桜川河口右岸にある謎の建物(天保13年「河原子村田畑反別絵図」日立市郷土博物館蔵)。現在は日立物流東日本営業本部日立営業部がある。

孫沢館あるいは要害城については簡単に紹介したいのだが、伝説と遺跡だけが今に残り、当時の史料・遺物がない。そのためいろんな人がいろんなことを言っているので、そちらをどうぞ。

  1. [10]旧館があれば新館がある。つまり本書出版時に二つの館址が実際にあったか、あるいは言い伝えがあったということである。
  2. [11]日立市郷土博物館蔵

寒水石工場

寒水石すなわち大理石の採石場が久慈郡世矢村大字真弓(常陸太田市)にあり、その加工場が国分村下孫にあった。これに8ページを割いて説明する。隣村のことをこれほどまでに分量をさいて説明する理由がわからないが、本サイト掲載の「史料 工部省イタリア人彫刻師による諏訪村と真弓村の寒水石調査12」と関連するので、別途紹介する予定。〈こちら 長山佐七と寒水石 >史料1 長山佐七の寒水石工場〉