日立市の名称由来
市の名称は企業名をとったのですか
附 茨城県多賀郡多賀町の由来

島崎和夫

目次


企業城下町

日立市は茨城県の北部にあります。2004年10月現在の人口は18万8000人ほどです。11月に十王町と合併して、20万人をこえました。今から20年前の1983年は20万6000人、茨城県第1の都市でした。県庁所在地である水戸市より多かったのです。この年をピークに以後減りつづけてきました。減少の原因は日立市の名称でおわかりのようにこの町にある日立製作所とその系列会社の不振です。85年のプラザ合意後のことです。最近、多い月には1000人程度減少しています。

さて、日立市の冠は「企業城下町」です。愛知県豊田市と同じものです。そしてだれもが日立市は企業名をとったのだと思われるでしょう。高名な学者もそう書いています。特に根拠がしめされているわけではなくて、豊田と同じような例としてひきあいにだされる程度なのですが。

日立村名の由来

1889年市制・町村制がしかれたさい、茨城県多賀郡の宮田村と滑川村が一つになるよう県から指示がありました。両村とも岩城海道(陸前浜街道)にそった農業主体の村で、性格は似ていました。新村名で合併は頓挫しかけました。よくある両村の一文字をとった宮川村案もでたようです。しかし、なぜか日立村という村名が急に現れ決まってしまいます。通常なら常陸(ひたち)に通ずる日立(ひたち)を付すことは、常陸国の中心地でもないこの辺鄙な片田舎の村名としては遠慮されるべきだと思うのですが、なぜか日立村になってしまいます。

理由はわかりせん。伝えられていることはいくつかありますが、確実なものではありません。ひとつに光圀説があります。水戸藩第2代藩主徳川光圀が隠居後この地方の山—神峰山に登り、朝日が昇ってくるのを眺めた。その光景は領内一だと言ったいう話が地元に伝わっており、それに基づいたのではないか、という推理です。確証があって言っているわけではありません。

光圀伝説が文字記録の上にはじめて現れるのはいつか、それに基づいて日立村としたという説が現れるのはいつか、この二つの時期を押さえなければならないのですが、いずれ機会をみて果たしたいと思います。

日立鉱山と日立製作所

この日立村宮田に江戸時代から続く銅山がありました。通称赤沢銅山。鉱毒水問題でしばしば地元農民と対立をおこし、断続的に採掘がつづけられてきました。1905年になって久原房之助(のちに政友会総裁)がこの鉱山を買収しました。その直前までの鉱山名は赤沢銅山です。赤沢は日立村大字宮田の中の小字名です。鉱区を買収し、採掘権を設定するのに鉱山名は必須です。久原は日立鉱山と改称しました。鉱山名を立地する村名からとるというのは、これ以後各地で鉱山を買収する久原の方針となります。

日立鉱山は数年にして日本国内有数の銅山に成長します。多くの人々が日立村に仕事を求めて集まります。日立村は新興の鉱山町として都市的容貌をあらわにします。

この日立鉱山の工作課から独立し、久原鉱業所に属する一事業所として1911年日立村内に日立製作所が創業します。なお、日立製作所は、1910年秋、日立村大字宮田字芝内に新工場(当初は芝内製作所とよんでいた)を建設したときをもって創業としています。

日立町と助川町

久原傘下の日立製作所は急速に拡大します。1920年には株式会社として久原鉱業から独立。1920年代、日立製作所の工場用地は日立村内ではおさまらず、隣の高鈴村にのびていきます。工場は停車場に向かいます。

漁業がさかんな会瀬と岩城海道の本陣を構える大きな宿場である助川、この二つからなる高鈴村は日立村より政治経済的に優勢な位置にありました。しかし1910年代には日立鉱山の開発によって両村の経済的位置は逆転します。ところが1920年代に入ると日立製作所の助川地区への進出によって高鈴村(助川町)は膨張をはじめ、両者は拮抗を始めます。見た目にも住宅や商店街は連なりはじめ、両町の境はわからなくなります。日立町(日立村は1924年に町制を施行)は日立鉱山、助川町(高鈴村が1925年に町制をしき、名称変更)は日立製作所を基盤としながら一体化に向かいます。1935年には日立製作所日立工場(山手工場・海岸工場・電線工場)の事務所(経営中枢部門)が日立町にあった山手工場から助川町の海岸工場に移ります。つまり日立町にとどまる日立鉱山にとっては両町の合併は必要ありませんでした。合併を望むのは助川町で拡大を続ける日立製作所でした。そして1939年(昭和14)に日立町と助川町の対等合併となりました。

市名の由来は企業名から

市役所の位置は両町の境にすんなり決まりました。今の日立市役所があるところです。ところが新市名で頓挫しました。対等合併ですから、新市名を決めなければなりません。どちらか町名をとるわけにはいきません。町会で結論が出ず、有力者の話し合いでも結論が出ず、日立鉱山の調停案(常陸市)も通らず、八方ふさがりです。

日立製作所のはたらきかけによって県に一任されました。そして県が決めてきたのが「日立市」です。理由は日立は助川より広く知られている、それは日立鉱山と日立製作所で全国に知られているからだというのです(史料はこちら)。

「助川」は地方的なるに反し「日立」は其の名を周知せられ新市と密接不可離の日立鉱山、日立製作所の名稱にも関聯を有し、字義亦雄大にして将来の隆昌を表徴する適切の名稱と認め「日立市」と命名せむ

日立町の日立をとるとは言っていません。「日立」は日立鉱山と日立製作所によってその名をひろく知られており、また文字の意味が雄大であるからだと。町会は受け入れます(『日立戦災史』)。そしてようやく1939年9月1日合併します。

日立町と助川町の合併に関して県と両町のパイプ役になった人物がいます。山本秋広*という人物です。彼は1937年に日立製作所日立工場の総務部長に着任します。総務部長は地域対策が仕事です。県や国とのパイプ役でもあります。この山本は日立製作所に入所する前は、県の総務部長の職にあったのです。この時期茨城県内に工場を続々と建設していく日立製作所にとって必要な人物でした。総務部長にうってつけです。その2年後の日立市の成立です(市制施行をめぐる山本秋広の活動に関する史料は、こちら)。

*山本秋広 1893年(明治26) 10月現在の和歌山県新宮市生れ。1919年(大正8)東京帝国大学法科大学政治学科卒業。農商務省に任官。のち内務省に転じる。1928年(昭和3)貴族院書記官の時欧米諸国を視察。1935年5月茨城県総務部長。1937年8月10日日立製作所日立工場入社。1941年には副工場長兼総務部長。日立電鉄(株)、日立水道(株)、日立土地(株)の取締役を兼任。1942年2月5日日立製作所傘下の大坂鉄工所(後の日立造船)へ(『多賀町の新生と坂上村の合併』『日立市報』1942年2月15日号より)。 2015-07-02 この項追加

日立村の村名をとった日立鉱山。その鉱山から生まれた日立製作所。それら企業名からとった日立市。日立村→日立町→日立市という単線を走ったわけではありません。そんなわけで豊田市よりは少々ねじれた名称由来のある日立市です。

高鈴村について

高鈴村(助川町)について少々説明しておきます。

この村は1889年市制・町村制がしかれた際、会瀬村と助川村がひとつになって、高鈴村(助川村の西部にあるこの地方ではもっとも高い山の名称をとった)となりました。会瀬は漁業が盛んで、茨城県では有数の漁業のまちで、都市的な要素をもっていました。一方助川は江戸時代、岩城海道の宿場としてにぎわい、本陣・脇本陣がおかれ、また幕末期には海防のための陣屋が築かれた大きな村でもありました。明治にはいって経済的に特に大きな変化はなく、1897年常磐線開通の際、村内の助川に停車場が設けられ、交通上での役割が増す程度でした。経済的にみるならば会瀬と助川は、ほぼ同じ力量をもっていたといえるでしょう。

そして、もう一つ。この時期(1890年代)の高鈴村(会瀬・助川)と日立村(宮田・滑川)の経済的な位置関係は、前者がやや優位にあったといえます。

高鈴村は1925年に町制をしきます。その際助川町と改称します。なぜ高鈴町ではなかったのか。それを明らかにする史料はありません。漁業のまちとして助川より経済的に優位にあった会瀬でしたが、1910年代港の整備が進まず、漁船の大型化・動力化にたちおくれ、じりじりと後退をはじめます。かわって歴史的に政治上優位にあり、そして1924年日立製作所の工場(電線工場)が立地した助川が経済的にも会瀬を逆転します。そこで助川の名をとって翌年町となったものと考えます。

附 茨城県多賀郡多賀町の由来

1955年(昭和30)に日立市に編入することになる多賀郡多賀町は1939年(昭和14)4月1日に誕生します。河原子町・国分村(下孫・大久保・金沢)・鮎川村(諏訪・油繩子・成沢)が合併したのです(41年に坂本村(大沼・水木・森山)が合併します)。隣の日立市より半年ほど早い合併でした。その日、日立製作所多賀工場の開場式も行われます。その席上での多賀工場長の馬場粂夫のあいさつの一部を抜きだしましょう。

さてこの多賀工場建設は、従前日立海岸工場で建設の際失敗したと思う点はできるだけ是正して行き度いと考えまするので、先づ第一に都市計画を行い、全貌のあらましを定めまして、局部局部を建設したいと存じます。もちろん工場の建設だけでは事業はうまく参らぬので、交通、運輸、道路、鉄道等の施設を初めとし、学校、住宅、都市公営建物から消防、水道、進んでは火葬場から墓地までも考慮せねばなりませぬ。

町づくりに企業として積極的にかかわろうという表明です。

これは日立製作所多賀工場庶務課発行『多賀工場のあゆみ—創業よりの十年—』(1953年刊)にある記述です。この本の別の場所には次のような記述があります。

猶こゝで特筆しなければならないのは、新しい多賀町がこの多賀工場開場式の日に誕生したことであります。この多賀町は多賀工場が建設されると共に河原子町、国分村、鮎川村が工場の発展に即応しようとして合併したもので、多賀町の名附親は当時日立製作所の専務取締役であつた高尾直三郎氏でありました。氏は昔この地方が多珂(高)の国に属していたこと、多賀の名前が如何にも将来の発展と多幸とを象徴していること、多賀町を多賀郡下の代表的都市として躍進させたいと希望されていたところからその名をつけられたのでありました。

説明は要らないと思うのですが、多賀町の名付け親は、日立製作所専務取締役だった高尾直三郎なのです。