史料 日立町助川町合併、市制施行申請にかかる茨城県副申書決裁

史料について


            知 事

   内 務 大 臣 宛

  日立町助川町を廢し其の区域に新に日立市設置の儀に付副申

管下多賀郡日立、助川両町を廢し其の区域を以て市制施行の件、両町長より上申書提出有之候に付調査候処、別紙副申理由の如き事情にして両町を廢し市制施行を爲すは極めて適切の措置と思料せられ候條、特別の御詮議を以て願意御聴許相仰度此段及副申候也

   副申理由

一 市制施行を適当とする理由

日立町助川町は茨城縣の東北部に位し一部宮田川を境して接續し、両町共日立鉱山日立製作所の発展に伴ひて戸口激増し商工業殷賑となり、日立町は大正十三年八月二十六日、助川町は大正十四年一月一日町制を施行したるものなり、爾後両會社の躍進的發展に随伴して目醒ましき繁栄を爲し、両會社の諸施設両町に交錯せるを以て両町の関係密接不可離となり、利害相通じ相倚相助の有機的一体を構成し人情風俗相酷似す、戸口愈々稠密の度を加へ現在(昭和十三年十月一日)両町の戸數一三、四五二、人口七〇、五八二の多數に上り、家戸連檐櫛比して市街地を形成し、交通頻繁となりて経濟活動も亦活發となり、保安衛生の保持、教育の普及等今や全く近代都市的形態を整へるに至れり、而して日立町大字滑川は旧態依然としての侭農村部落とし取り残さるる虞あるも両會社の発展擴張に依り今後益々住宅難を生ずる実情にあるを以て同地を住宅地として市街地工場用地の発展と共に諸種の施設を爲すべく計画中なり、両町は昭和八年都市計画法施行区域に指定せられ、近代的都市としての発展を期待せられつヽあるを以て同法に依り綜合的施設計画を実施するに於ては商工都市として将来益々繁華となり、住民の福祉を増進するものと確信致し諸般の情況より両町を廢し市制施行を適切と認めたる次第に候

二 合併を爲すに至りたる経過

両町は極めて密接にして日立町大字宮田は嘗て助川町大字助川と合して一村を形成したるが如き歴史的関係を有するのみならず、日立鑛山日立製作所の工場其の他の施設が両町に交錯し居る爲両町と両會社とは密接不可離の関係にあり、近時両會社の躍進的発展に伴ひて人口著しく増加し、都市的形態を整へて繁栄となり、今日の隆昌を招來するに至れり

斯る緊密なる関係を有する両町の合併は十数年來より識者間に調査研究せられつヽありたる懸案にして、昭和四年縣の勧奨に基きて合併決行を爲さんとし、日立町の如きは當時部落懇談會を開催して町民の理解に努めたりしも時期尚早の理由を以て実現を見ざりしが、其の後昭和九年更に縣に於て合併の基本調査を爲して積極的に之れを慫慂せしに、全町の理解を得るに至らずして不調に終り、具体的交渉を継續することなく遷延今日に至りたるも、其の間合併の機運は澎湃として両町に漲り、殊に最近に於て急速度なる發展に伴ひ其の熱意益々加はりたるを以て、両町の現状将來の発展など諸般の事情を考察して合併の時機最も適当と認め、本年三月基本調査を爲して以後積極的に之れが勧奨を爲したるに、両町の意思全く一致して合併の実現を爲すに至りたるものに有之候

三 上申書決議の協議

數年前より両町は何れも合併調査委員(日立町八人 助川町七人)を選定し合併に関し利害得失などの調査研究を爲しつヽありしが、本年初めに於て助川町は町會全員一致を以て合併を要望し、調査委員一同して日立町を訪れ同町の意嚮を聽取したるに、日立町は更に研究の上更めて両町の協議を爲すことヽせられたき旨回答し、縣の調査を求むるに至りたるを以て本年三月末縣に於て合併資料の基本調査を爲し、其の調査の結果を示して積極的なる勧奨に出で、四月以降數回に亘り両町合併委員會を開催して折衝を重ね慎重研究を遂げたる處、両町委員の意思全く合致したるを以て續いて両町個々に數回全町會議員竝町有力者協議會等を開催して町前半の意嚮を聽取したるに、何れも欣然合併に賛成なるを以て両町共七月十一日の町會に於て両町を廃し其の区域に市制施行の上申を決議するに至りたるものに有之候

四 市の名稱

市名に付ては両町共現町名に對する執着ありたるを以て縣に一任せしむべく努めたる爲、日立町は早くより其の選定命名方を縣に一任することに意見の一致をみたりしが、一方助川町は容易に議論帰一するに至らざりしも、其の後慎重協議を重ねたる結果大乗的見地より之亦縣に一任するに至りたり、仍て縣は関係区域の歴史的發展の過程、住民の意嚮、将来発展上の関係、其の他各般の事情を斟酌研究し、「日立助川」は固束に囚るヽに依り之れを採らず「助川」は地方的なるに反し「日立」は世界的に其の名を周知せられ新市と密接不可離の日立鉱山、日立製作所の名稱にも関聯を有し、字義亦雄大にして将来の隆昌を表徴する適切の名稱と認め「日立市」と命名せむとするものに有之候

五 市役所の位置

市役所の位置に付ては、両町合併調査委員會に於て両町境界附近適当の地を選定方縣に一任することに決定し、縣は慎重調査の上左記箇所に決定し、市制施行の上は急速之れが廳舎竣成を図ることヽせり

尚當分の内現助川町役場を改造して市役所に充当するの外、現日立町役場を分廳舎として使用せんとするものなるも、之が爲絶対に紛糾無之と確信致居候

     記

市廳舎建設位置

  助川町大字助川字宿並  二、六七五番

   〃          二、六七六番

   〃          二、六七三番の二

   〃          二、七七三番の三

六 市制施行の期日

九月一日に施行せんとするは、本年九月二十五日を期し縣会議員の總選挙執行せらるヽを以て右選挙期日前施行するを適当と認めたると、両町の合併は十年來の懸案にして一朝一夕に実現したるものに非らざるを以て意見全く相一致したる今日に於ては、可及的急速に其の実現を期すの要なるもと認め、各般の事情を考察して九月一日を施行期日と決定したるものに有之候

七 財産處分方法

日立町助川町合併に依る両町所有財産の全部(基本財産、行政財産、普通財産等の總ての財産)は新市に之を引継ぐものとし、右に對し両町會議員は勿論両町民間に異存無之ものに候

[解説]

茨城県は「両會社(日立鉱山と日立製作所)の諸施設両町に交錯せるを以て両町の関係密接不可離」となるに及んで日立町と助川町の合併および市制施行が適当とする理由をあげている。しかしこの指摘は正確ではない。日立鉱山は日立町域を出ることはなかった。一方、両町に交錯する諸施設をもつのは、日立町から助川町に工場をひろげていった日立製作所である。明治43年(1910)に日立村の字芝内に工場を建設し、大正末年から昭和初年に助川町に電線工場と海岸工場を建設する。県は日立鉱山と日立製作所は一体の「日立」としてとらえていたのだろうが、その中身をみれば日立町と助川町の合併を必要としたのは、日立製作所であったと言えよう。