史料 日立・助川町合併経過と市名称の由来

日立町・助川町合併斡旋

 あたかもよし、昭和十二年八月、現日立製作所の山本秋廣氏が日立工場總務部長として赴任して來た。氏は茨城縣書記官、總務部長(勅任待遇)として、日製入りの直前まで茨城縣に在任し、當時の知事安藤狂四郎氏と共に町村合併問題には非常なる熱意を有してゐた人で、退官後偶然にも日立に來るようになつてからは、一層、兩町合併の必要を痛感し、機會をみて斡旋に乗り出すべく決意した。

 山本日製總務部長は着任早々、舊助川町の合併調査委員等と會見、更に町會方面の意嚮も打診してみたが、錯綜せる兩町間の複雜な事情と、日立町側の機運が逆もどりしたかの感があり、いはゆる正攻法では、たうてい成立の見込みなしと見てとつた山本氏は、他の角度から、いはゞ搦手から合併の實現を期する作戰をとつた。即ち河原子、國分、鮎川三町村の合併を急速に運び、場合によつては此の方と合併して市制を施行、日立町をいやでも應でも新市に引きずり込まうとしたのであつた。

 そして此の戰法は確に効き目があつた。なぜならば、多賀町には三百萬圓の都市計畫が實施される、高等工業學校が新設される、いはんや助川町と多賀町の合併が成立して、日製があらゆる施設を助川、多賀方面に集中するに至らんか、日立町はきれいに後に取り殘されて経濟的にも、産業的にも、はたまた文化的にも見捨てられてしまふ─こゝに氣のついた日立側は此の合併問題に對しては、むしろ焦り氣味さへ生じ、それからといふもの助川町動向に對しては細心の注意を以てみつめるやうになつた。

吉田軍蔵『市制施行記念 日立市沿革誌』(日立市役所 1939年12月25日発行)

日立製作所本店高尾直三郎宛山本秋廣[1]書簡(1939年7月11日)

高尾専務殿        日立工場山本秋廣(印)

   日立助川両町合併並に市制施行ノ件

今十一日午前十一時標記ノ件ニ付、両町トモニ町會ヲ召集シ何等ノ異論モ出デズ、満場一致別紙ノ通リ合併ヲ決議シ、九月一日ヨリ市制ヲ施行スル事ニ決定、直ニ知事経由、内務大臣へ申達致シ、多年ノ懸案モ漸ク完全ニ解決致シマシタ。(縣ヤ内務省トハ十分コノ点連絡ガ採レテヰマス)

尚市ノ名称ニ付テハ当工場並ニ縣ハ、「日立市」案ヲ可ナリトシテ居マスガ、助川町ハ「日立助川市」トスルカ若ハ両町ノ名ヲ附セザル全然別個ノ名称ヲ希望シテマスノデ、近ク十分助川町会議員ヲ説伏シテ「日立市」トスルコトニ致シ度イト願ヘテ居マス。

県当局デハコノ際「縣へ一任」シテ慾シイト申シテ居リ、当方デモ左ヤウニスルヤウニ話ヲシマシタガ、県ガ「日立市」案ナルコトヲイヅレモ推察シテマスノデ、日立町デハ賛成デスガ、助川町会ハ反対シテル実情デスガ、当方デウマク纏メマス

昭和十四年七月十一日

[註]

  1. [1]山本秋廣:1893年(明治26) 10月現在の和歌山県新宮市生れ。1919年(大正8)東京帝国大学法科大学政治学科卒業。農商務省に任官。のち内務省に転じる。1928年(昭和3)貴族院書記官の時欧米諸国を視察。1935年5月茨城県総務部長。1937年8月10日日立製作所日立工場入社。1941年には副工場長兼総務部長。日立電鉄(株)、日立水道(株)、日立土地(株)の取締役を兼任。1942年2月5日日立製作所傘下の大坂鉄工所(後の日立造船)(『多賀町の新生と坂上村の合併』『日立市報』1942年2月15日号より)

市名に関する新聞記事(1939年7月13日)

   新市名は日立か  各方面の意見傾む

九月一日から市制施行することになつた日立、助川の新市名は日立町では日立市の一本建で進んでゐるのに反し助川では、鈴木重勝、大部市郎町議一派が助川の文字を抹殺するのに忍びず、「宇治山田市」の例に倣つて「日立助川市」とせよと強硬論を吐き市名問題で一波瀾を思はせてゐるが縣當局では日立町の意見通り日立市一本槍で進み、九分通り実現性を持つてゐる、右につき各方面の意見を叩いて見ると

◇日鑛福田重清氏 市名は今更問題にするのが間違つてゐる、日立でも助川でも良いではないか、縣に一任すべきである

◇山本日製總務部長 日立市が正しいと思ふ、日立は日本的にも知られて居り日製、日鑛の頭字も日立であり[2]私は日立市に賛成します

◇大内竹之助代議士 最初茨城市を考へて居りましたが矢張り郷土名を残すことがよいと持論に修正を加えて居ります、日立市を常陸市と考えてゐる向もあるがそれでは感じが出ない、矢張り日立市が良いのではないか

◇堀川(助川)町長[2] 私はどちらでも良い、この際圓満に美しい市が出來ることを考へて居ります

◇大窪(日立)町長[3] 堀川君と同意見で、この際市名問題で爭ふべきではないと信じます、縣の采配にまかせます

<紙名失念 1939年7月13日>

[註]

  1. [2]太字で示した山本秋広の発言はそのままに県の7月19日の合併起案文案となっている。こちらを参照。
  2. [3]堀川澄二 1938年9月15日〜39年8月31日町長在職。日立製作所社員
  3. [4]大窪喜太郎:1931年9月11日〜34年8月31日町長在職。市制施行後の1939年9月25日の県会議員選挙にて当選

日立製作所本店宛山本秋廣書簡(1939年7月19日)

小谷文書課長殿        日立工場内
竹内庶務課長殿          山本秋廣(印)

   日立、助川両町合併ニ関スル件

標記ノ件ニ付テハ曩ニ御回報申上ケタル通リ正式議決ガアリマシタガ、市ノ名称ニ付テハ日立町ハ縣一任ノ態度ヲ採リマシタガ、助川町会デハ、縣一任トセバ、工場モ縣モ『日立市』ト命名スルコトヲ承知致シテルノデ、直ニ賛成シ兼ネテ居マシタガ、之等ヲ説得シテ助川町モ欣然、縣一任ト決定セシメマシタノデ、本日、日立、助川ノ両町ヨリ縣ニ対シ正式ニ「市ノ名称及ビ市役所ノ位置ハ縣ニ一任スル旨」通告致シマシタノデ、縣デハ明日二十日ニ、内務大臣宛、合併並ニ市制施行ノ内申ヲ致ス事ニ相成リマシタ。

之ニテ合併並ニ市制ノ件ハ全部円満ニ解決致シタル訳デ、「日立市」ノ誕生モ、九月一日ト確定シマシタ。専務並ニ伊藤總務部長ノ御二人ヘ御報告下サイマシ。  以上

  昭和十四年七月十九日

市長銓衡経緯に関する山本秋廣メモ(1939年8月)

この記事はおまけです。結果は山本秋広日立製作所日立工場総務部長が推薦する日立鉱山副所長の福田重清が名誉職で日立市長に就任しましたが、予定通り1年後の昭和15年11月退任します。その後1年の空白期間をおいて内務官僚の新開渧観が市長に就任します。

日立市長銓衡ニ関スル経緯

(一)吉永知事ハ別段考慮スベキ候補者ナシトノ回答
(二)両町合併要請ノ決議ガ成ルヤ、一般新聞ハ大内竹之助氏ヲ初代市長トシテ掲載セリ。
(三)久保田總務部長ハ大内代議士案ナリシモ、小生明白ニ反対ヲ表明ス(堀川町長、杉山孫之助氏ハ大内氏ニ反対ナリ)
(四)林衛生局長ト再度ニ渉リ市長人選ノ相談ヲナス。
 安武元台湾ノ局長ヲ大臣、次官ガ推薦セリト聞キ、敢テ反対ニ非サルモ、現役ナラサルヲ遺憾ニ思ヒ、寧ロ福田重清氏ヲ初代名譽市長ニシテハト考フ、マタ林局長モ同様ノ意見ヲ併セ漏セリ。
(五)八月十四日、福田氏来社セルヲ以テ市長ニ就任セラルヘキ旨勧奬シタリ。福田重清氏ハ考慮スルトノコトナリ。
 同氏ハ日立町長大窪喜太郎氏ヲ推薦セシモ余ハ断レリ。
(六)八月十五日、福田重清氏ヲ鉱山ニ訪問。重ネテ市長就任ヲ要望セリ。同氏ハ本社ト打合ヲナス趣ナリ。同日午后三時、知事、總務部長ヲ訪ヒ、福田氏出馬勧奬方ヲ依頼。知事同意ス。