史料 日立村の名称由来
三つの伝説

島崎 和夫

目次 —— 日立村の名称三つの伝説/史料1 茨城県多賀郡『多賀郡史』/史料2 福田久胤「日立町制施行記念資料」/史料3 吉田軍蔵『日立市沿革誌』/史料4 鈴木彰『日立から水戸まで』/史料5 嘉屋実『日立鉱山史』/史料6 日立市史編さん会『日立市史』/後醍醐天皇由来説/徳川光圀説/矛盾しない三つの伝説/「日立」に無関心

日立市のWebサイトで「「日立」の名の由来について教えて下さい」との質問に「「水戸黄門」として親しまれている水戸藩2代藩主徳川光圀が日立地方を訪れ、海から昇る朝日の美しさに「日の立ち昇るところ領内一」と称えたという故事に由来すると言われています。」と答えているように、日立市の名称由来を徳川光圀に結びつけるのが今や一般的です。

日立市の名称は、日立鉱山と日立製作所の日立をとったのであり、日立村(大正13年から町)の日立ではないことは、こちら 日立市の名称由来 で述べました。

そこに日立村の名称由来における「光圀伝説が文字記録の上にはじめて現れるのはいつか、それに基づいて日立村としたという説が現れるのはいつか、この二つの時期を押さえなければならないのですが、いずれ機会をみて果たしたいと思います」と2004年に書きました。それから12年がたちました。ようやくここに報告します。日立市の由来ではありません。日立村の日立の由来です

日立村の名称三つの伝説

明治22年(1889)町村制がしかれ、誕生した日立村(茨城県多賀郡)の「日立」の由来について述べている史料6点を紹介する。

この6点は朝日が立ちのぼってくるさまに着想をえたことは共通するが、それを誰に結びつけるかで異なる。次の3人。

  1. 徳川光圀
  2. 後醍醐天皇
  3. 村の長老

以下、史料を成立順にならべた。明治以前のものはない。最も古いもので大正末である。

史料1 茨城県多賀郡『多賀郡史』 大正12年(1923)3月31日発行

光圀由来説の初出である。

日立村 藩主源光圀卿元禄八年九月十日神峰山奥殿に登拜の時、旭日の立ち昇る光景の偉大なるは、領内無二と仰せられたりと。これに出づ。

編纂員(執筆者)は安達鑛太郎。安達鑛太郎は水戸藩家老山野辺氏の家臣安達勝功の子。文久2年(1862)助川村生れ。父勝功は明治になって水戸拡充学校を出て、田尻村の発蒙舎小学校の教師となる。その子鑛太郎も茨城師範学校下等速成科を出て久慈郡内田小学校に勤務。再び茨城師範学校上等速成科にすすみ、卒業後多賀郡小木津小学校教員となる。以後、茨城県北部の小学校に勤務。昭和15年(1930)79歳で歿[1]

顧問(監修)の栗田勤は、帝国大学文科大学教授栗田寛の子。父に学び、のち家塾輔仁学舎の塾頭となる。父の事業「大日本史志表」の編修・校訂をうけつぎ、明治39年に徳川光圀がはじめた「大日本史」を完成させた。昭和5年74歳で歿(『日本人名大辞典』)

安達は光圀由来説を疑いようのない事実として日にちまで記しているが、出典を示していない。

[註]

  1. [1]『高萩市史 下巻』『茨城県教育家略伝 前編 下』(1894年 国立国会図書館デジタルコレクション)。著書に『傚顰成稿』(1887年 序文は大津淳一郎)や『鐸嶺百絶』(1932年)がある。安達勝功については『新修日立市史(下巻)」によった。

史料2 福田久胤「日立町制施行記念資料」 大正13年10月22日(叙言)

後醍醐天皇説徳川光圀説を紹介。この「日立町制施行記念資料」は昭和34年刊行の『日立市史』まで公にされることはなかった。

村名起因
古老ノ伝説ニ云フ後醍醐帝当地大角箭[2]ニ巡幸シ旭日三竿ニ上リ気朗ラカナリトノ勅意ト、西山徳川光圀神社[3]ニ 皇室隆興ヲ祈願シテ参籠シ朝日ノ立上ル光景ハ秀霊ニシテ偉大ナルコトヲ領内一ト仰セラレシコト佐藤家旧記ニアリシヲ以テ根本兼松[4]、佐藤敬忠[5]ノ二翁ノ撰定ニ係リシモノナリ
県指定ハ「宮川村」根本兼松氏ハ県指定村名ヲ否定シ両三日中ニ撰定報告スベキニ付指定村名取消ヲ要求シタリト、元村長佐藤仙三郎[6]翁談
  1. [2]大角箭:大角矢とも。宮田村の字のひとつ。村の西方の山あいにある
  2. [3]神社:神峰神社本殿。神峰山頂にある
  3. [4]根本兼松:宮田村滑川村聯合戸長を明治12年(1879)から15年まで務め、日立村発足にあたって村長を2期8年務める。宮田の人
  4. [5]佐藤敬忠:宮田の人。こちらを参照。
  5. [6]佐藤仙三郎:明治34年(1901)から大正6年(1917)まで4期日立村長を務める。宮田の人。

日立である由来を二つあげている。古老の言い伝え(伝説)である後醍醐天皇由来説。もうひとつは徳川光圀が神峰神社に参籠して朝日が昇るさまは領内一であると言ったことが「佐藤家旧記」にあった。この二つによって宮田村の根本兼松と佐藤敬忠が「日立」に決め、県に上申したというのである。

明治22年町村制がしかれた。宮田村と滑川村は合併せよとの茨城県の指示である。新しい村の名前は県の指示では両方の村名から一文字づつとった宮川村である。しかし宮田・滑川村の人びとは県の案を蹴った。そして突然のように「日立」村が現れる。

日立町制施行記念資料と佐藤家旧記について

大正13年8月26日に日立村は町制を施行する。その後にまとめられた本史料(以下、記念資料と略)は、昭和32年の日立市史編纂事業時の筆写稿(「日立市史資料129番 町制施行記念資料」日立市郷土博物館蔵)によって知ることができるのみで、現在原本を確認できない。

成立は大正13年、著者は叙言で「単ニ自家ノ備忘録ニ過キザルノミ、他日識者ノ指導ヲ待チ之ヲ補ナハン」と述べているように公表されることはなく、昭和34年の『日立市史』が初めて紹介した(631頁)

記念資料をまとめた福田久胤は日立町役場書記の職にあった。福田の叙言に

本資料ハ町長佐藤茂助氏ノ意向ヲ察シ町制施行ノ事実即チ当時ノ手続及申請書謄本且ツ町制施行当日ノ概況竝自治制実施以来自治機関ノ異動財政上ノ収支ヲ摘株シ三十有六年間ニ於ケル事実ヲ後日ノ参考ニ資セント勤務外ヲ以テコレガ編蒐ヲナシタリ

とあるように町制施行経過記録と町勢要覧をあわせたものである。

このような記念資料なのだが、上にひいた「村名起因」は実は上記筆写稿にはない。理由はわからない。それなら何によって村名起因をひいたかというと、「日立市史資料66番 日立地名起因について」(日立市郷土博物館蔵)に「日立町制施行記念資料による」として引用されているものの中からである。

「日立市史資料66番 日立地名起因について」は、当時の市史編纂事務局員千葉忠也が「村名起因」を「日立町制施行記念資料」から別途筆写しつつ、「日立地名起因」をレポートしたものである。日付は昭和32年12月16日。佐藤家旧記の所蔵者佐藤誠次郎氏を訪ね、夫人みつさんから「村名起因」は祖父佐藤敬忠氏の蔵書に記されていたものだが、蔵書などは戦災で一切を焼失したと聞く。そしてみつさんの思い出を採録する。「日立村の村名を決めたのは、確かに私の祖父です。私が学校時代(注 小学校から敬忠翁の亡くなる頃の女子師範在学中まで)に祖父から直接に何度も聞かされています」と。佐藤敬忠が村名決定の立場にあったことは間違いのないことであろう。

さて記念資料が引用する「佐藤家旧記」はいつの時代のものなのだろうか。これも原本が失われておりわからない。そもそも「佐藤家旧記」は存在したのだろうか。

史料3 吉田軍蔵『日立市沿革誌』 昭和14年(1939)12月25日 日立市役所発行

この本は徳川光圀説

次ぎに『日立』の名稱であるが、これは水戸義公が元禄八年九月神峰神社に參拜した時、海上から朝日の昇るさまを見て、こゝは領内随一の眺めだと、言つたといふのに因んで「日立」と稱するやうになつたものである。

光圀が言ったと断定していないが、光圀伝説を疑いなく事実としてとらえており、なんらかの文献等を参照していることを示唆している。出典は書かれていないが、『多賀郡史』とほぼ同文であり、吉田は「編纂を終りて」において参照文献に『多賀郡史』をあげていることからも、この記述は『多賀郡史』に拠ったものと考えてよい。

史料4 鈴木彰『日立から水戸まで』 昭和15年9月1日 日立評論社発行

この本は徳川光圀説

日立の由来 さて[宮田と滑川が合併して日立村と改めた]日立の由來であるが、これは元禄八年九月、水戸黄門光圀が、仁義の草履を踏みしめて領内巡視の時、日立に聳える靈峰神峰山に登つて、朝暾東天に冲する日輪を拜し、感動に若やいだ聲で「日の立つさまは領内随一だ」と仰せられたのに因んで名づけたのである。
しかも日立の名稱の因を作つた水戸光圀は、戦國の慘禍漸く去つて太平の風を迎へた喜びも束の間、人心頽廢の悲しみが我國土を襲ひ、おのれの榮達の爲には牛馬の行状を眞似て尚愧ぢず、おのれを空うする精神美が全く影を潜めるに至つたとき、忽然と現れて日本精神を高唱し、三位中納言の顯職も、天下の副将軍たる榮位もかなぐり捨て、老軀を提げて皇道精神、卽ち水戸學の發揚に身命を捧げ、歸趨に迷ふ國民を正道に導いたのであつたが、日立をして、眞の日立たらしめた日立製作所が、この水戸學の精神を汲み、日本精神の眞髄を採つて、神國日本の産業道を日立の一角に實現せんとする、所謂日立精神を生んで、過去三十年來醸成せられて來たこの氣風精神が、日立の製品に打ち込まれて、本邦の重工業界に指導的役割を果してゐることを思ふとき日立の名こそ、まことに興趣ある由來ではあるまいか。

昭和11年の自著『日立助川郷土読本』において日立の由来について触れなかった鈴木彰[7]は、日立市誕生の翌年の出版になる『日立から水戸まで』において光圀由来説を紹介する。もちろん出典の表示はない。吉田軍蔵『日立市沿革誌』に触発されたのだろうか。鈴木は光圀が日の立ちのぼるさまは領内一だと言ったことは事実であるとの認識である。

  1. [7]鈴木彰:1901─1981年。著書に『助川城』(1934年)『日立助川郷土読本』(1936年)『多賀町の史蹟』(1940年)『日立から水戸まで』(1941年)『茨城百景めぐり』(1956年)『幕末の日立』(1974年)『水戸黄門の遊跡』(1979年)などがある。

だが「仁義の草履」「朝暾東天に冲する日輪」「感動に若やいだ聲」などはその場に立ち合っていたかのよう表現は鈴木の創作である。伝説には後世において脚色が加えられることの見本である。鈴木は光圀由来説をはからずも伝説に落としてしまった。本書が歴史書でなく読み物であったとしても。

日立製作所の従業員だった鈴木が光圀由来説を紹介する目的は、光圀と日立製作所を結びつけることにあった。第2段落の文章がそれである。光圀・皇道精神・水戸学・日本精神・日立精神が日立製作所をして日本の重工業の指導的役割を果たさせている。日立製作所の日立には、光圀にはじまり日本精神・日立精神にいたる道筋がある。そこに「興趣」を感じるのだと鈴木は言う。

この第2段落の文章は、現代では一笑にふされるだろうが、時代の産物である。1937年に支那事変(日中戦争)が勃発している。当時は著者も真剣だし、読者も真にうけとったはずである。日立製作所にとって社名には徳川光圀に由来する由緒ただしきものがあった。水戸に拮抗しうる由来があり、たんに所在する村名によったものではないと。1939年多賀工場が操業を開始し、この年に勝田村など3ヶ村(ひたちなか市)に水戸工場の建設が始まる。書名『日立から水戸まで』の意味はそこにある。日立製作所の躍進期であり、日本の戦時体制が強化されていく時期である。日立評論社は日立製作所系列の東京にある出版社である。鈴木のこの本は、いわば日立製作所のお墨つきである。

『日立から水戸まで』が出版されたのは、そういう時代であった。

史料5 嘉屋実『日立鉱山史』 昭和27年 日本鉱業(株)日立鉱山事務所発行

徳川光圀説村の長老説を紹介。

「日立村」の「日立」の起源については、通説としては、元禄年間水戸光圀公が神峰山頂の神峰神社に詣で、「日輪の海から躍り出る美しさは領内随一」と讃嘆したのが「日立」の名の起りであると傳えられているが、一説には明治二十二年四月、地方白治制施行の際、舊宮田、滑川両村を合して、一新村を設けるに當り、両者の長老、有志、一屋に會して新村名を議した。徹宵して論議するも議論百出名案浮ばざる中、參曾者の一人、手洗いに立ち、ふと窓外を見ると時恰も眞紅の旭日が悠々大洋より立上つていた。「日立だ」と直ちに全員をその場に呼んで提議した處何れもその雄壮の美に打たれて、誰一人異議を唱うるものもなく、忽ち新村名の決定を見たと云う古老の言もある。

光圀由来説(出典なし)のほかに朝日に着想をえたことは共通しているが、宮田・滑川両村の長老たちの議論から生まれたことが古老の話として記録されている。『日立鉱山史』は両説を併記するにとどめている。日立鉱山にとってはどちらでもよかったのだろうし、「日立」のたしかな由来はわからない、という著者の判断だろう。

編著者の嘉屋實は、当時日立鉱業所庶務課員、のち共同石油の代表取締役会長となっている(『共同石油20年史』渋沢社史データベース)

史料6 日立市史編さん会『日立市史』 昭和34年(1959) 日立市発行

光圀由来説。「第二篇 明治以後の日立/第六章 町村制の施行と日立地方/二 町村名の由来」(631頁)で次のように述べる。

日立村 村名の起源については次の記録がある。
 [記念資料の引用 史料2と同文につき略]
後醍醐帝云々の伝説はともかくとして、徳川光圀は、元禄八年一〇ママ月一〇日、神峰神社に登拝しており、この光圀云々説に因んで名づけられたと見るべきであろう。

光圀の神峰権現(本殿が神峰山頂にある)登拝を疑いのない事実としている。しかも「記念資料」にはない登拝時期を日にちまで特定している。この章の執筆者は鈴木彰(前出)である。光圀登拝の時期を元禄8年10月10日とする。『多賀郡史』は元禄8年9月10日という。9月の誤記であろう。光圀登拝を日にちまで特定しているのは大正12年の『多賀郡史』しかないのだから。これについては先述したとおり、光圀登拝の事実を示す史料はない。

日立村の名称が、徳川光圀由来説で固定するのは、『日立市史』刊行以降のことである。なお『日立市史』は昭和14年の日立町・助川町合併による日立市成立時の市名の決定についてはふれていない(693頁)

後醍醐天皇由来説

史料2の福田久胤「日立町制施行記念資料」が伝えるこの説はこれまで問題にされてこなかった。たとえば昭和34年刊行の『日立市史』は「後醍醐天皇云々の伝説はともかくとして」のみである。しかし宮田村の根本と佐藤は持ち出してきた。

それには理由がある。現代において後醍醐天皇由来説が問題にされないのは、後醍醐天皇がこの地までやってきた史実はないという歴史学的視点からである。「古老ノ伝説」だとして、問題にならない作り話と今日では考える。ところが明治時代、後醍醐天皇のもつ意味は今日とはまったくことなる。後醍醐天皇は14世紀吉野の南朝を開いた天皇である。明治新政府は記紀神話とともに南朝正統論を歴史観の重要な柱とした。「古老ノ伝説」が事実かどうかは問題にならない、後醍醐天皇にまつわる「古老ノ伝説」があったことが重要なのである。しかも古老の伝説がなかったことを証拠だてるのは、不可能にちかいことである。県庁の役人も後醍醐天皇伝説を否定できない。

さらに水戸藩の徳川光圀がはじめた「大日本史」編纂は南朝正統論の立場にある。後醍醐天皇由来説単独では無視できるが、光圀と結びつけられることによって茨城県に対し強い影響力をもったものと考える。いや光圀より後醍醐天皇説話を無視することの方が県庁の役人にとって難しい状況にあったろう。

徳川光圀由来説

一方『多賀郡史』の光圀由来説は元禄8年9月10日と日にちまで特定する。いかにも史実であるかのようである(史実のように見せたかったか)。後醍醐天皇由来説と対をなしている。たしかに光圀は隠居後領内をしばしば巡っている。隠居後の光圀の行動を記したものに『日乗上人日記』(稲垣国三郎編 1954年)がある。そこには元禄8年9月10日どころか隠退後に宮田村をおとずれた記録はない[8]。しかも隠居したとはいえ高齢の光圀(このとき68歳。亡くなる5年前)が標高600余メートルの神峰山頂にのぼり、朝日をむかえる話に無理はないだろうか[9]。伝説であるならよしとしようか。

  1. [8]『新修日立市史 上巻』(1994年)が神峰神社蔵「年中諸祭故規式録」を次のように引用している(505頁)。
    「神峰権現社元禄八年亥年、宮田へ御成遊ばされ候節、薩埵寺御召放、源義公様ヨリ御上意ヲ以テ多賀野摂津高弘拝領仕候」
     元禄8年に光圀が宮田村へやって来て、神峰権現の司祭者を薩埵寺から神職の多賀野に変更したことを記す新史料だが、この記録が成立した時期が示されていないので、原本を確認してから検討したい。なお光圀が神峰神社に登り、朝日をめでた記述はない。
    [追記]
    『新修日立市史 上巻』が引用する「年中諸祭故規式録」をコピーで読む機会を得たので紹介する。
     この史料の成立は文政6年(1823)。記録者は諏訪村諏訪神社神官で神峰神社ほかいくつもの神官も兼帯する多賀野摂津。多賀野摂津が神官として勤める一年間の行事の進め方をまとめたものである。
     光圀が宮田村へやってきたという元禄8年から百三十年が経過してからの記録であるので、これも伝説として取扱っておくべき性格のものである。[2017-08-23]
  2. [9]江戸時代後期、午後4時になって神峰山に登ろうとした水戸藩の役人がいて、宮田村の庄屋から、神峰権現に詣でるには、日中でさえ災難を避けるために前の日から湯浴みし、切火をして登るのに、こんな時間からでは何が起るかわからない、と注意を受けた話が残っている(こちら「史料 宮田・諏訪・入四間・助川村の怪異譚」)。合理的な儒教思想の持ち主ならおそれずに登ってしまうかもしれないが。

だが「村名起因」は光圀の参籠の目的を「皇室隆興ヲ祈願シテ」という理由をふす。この一文によって無理は吹き飛んでしまう。

『多賀郡史』と「村名起因」の記述の違いは、それぞれの目的の違い、前者は読み物、後者は茨城県への村名変更申請に記した理由書の文言の差異だと考えられる。

余談。安達は『多賀郡史』において福田の「日立町制施行記念資料」より早く「光圀由来説」をなぜ公表できたのか。典拠はどこにあったのか。安達鑛太郎の父勝功と佐藤敬忠とは元治元年(1864)天狗諸生の争いのとき、ともに水戸藩家老山野辺氏の助川海防城にたてこもって、幕府軍と戦っている。また勝功は廃藩置県後に地元の小学校の教師となるが、そのときの学区取締は敬忠であった。つまり鑛太郎の父親と敬忠は旧知の間柄だった。鑛太郎は父勝功あるいは敬忠本人から日立村名決定のいきさつを聞いていたのではないか。推測です。

矛盾しない三つの伝説

徳川光圀・後醍醐天皇・村の長老に由来する伝説。

宮川村でなにがいけなかったのか。宮田村の長老二人が決めたというけれど滑川村の意向は無視したのか。推測してみる。

明治22年、宮田村と滑川村の合併が決り、県が宮川村と新村名を押し付けてきた。宮田が先にあるけれど、両方の村名の一文字をとる、この対等扱いに宮田村の人々は納得がいかなかった。県の折衷案の宮川村案を蹴った。宮田村は規模・経済状態からして滑川村とかわりはない。対等である。しかし宮田村の人々はその県の対等扱いに不満だった。宮田村の鎮守神峰神社は、となりの助川村、会瀬村をあわせた三ヶ村の鎮守にせよと光圀から命じられたという由緒をもつ(滑川村の鎮守六所明神はそれに含まれない。『新修日立市史 上巻』)。また曹洞宗の名刹大雄院がある。住持連山禅師を信頼していた光圀も訪れ、また幕末、徳川斉昭も領内巡視のおり大雄院に立ち寄り、歌を詠んでいる。そんな歴史のあると認識していた宮田村民の滑川村に対する優越意識があった(推測です)

一方、滑川村にしてもありふれた「川」だけが後ろに残る。おもしろくないだろう。

両村とも宮川村には反対だった。

新しい村名を両三日中に決めて県に届けなければならなかった。村の役人や長老たちの議論は朝まで続いた。そのとき朝日が昇るさまをみた。そこから「日立」を思いついた。ここだけが事実であった。あとはこの思いつきに県が納得できる物語をつくればいい。そこで編まれたのが、後醍醐天皇と徳川光圀に由来する伝説が並列する物語であった。物語をつくったのは根本兼松と佐藤敬忠。滑川村の人々もこの物語を非とするわけにゆかない。もちろん県の役人も否定できない。

徳川光圀・後醍醐天皇・村の長老の三者に由来するという「日立」の名称伝説は矛盾しないと考える。

つまり後醍醐天皇と徳川光圀に由来する伝説は明治22年の佐藤と根本による創作であると考えられないか。

「日立」に無関心

大正から昭和に入ってからも日立村(町)役場と日立市役所は、「日立」の由来について無関心である。大正末の『多賀郡史』に日立村の町制施行を目前にして光圀由来説が現れる。出典が示されない新説である。しかしその後の出版物に管見の限り上記3点(『日立市沿革誌』『日立から水戸まで』『日立鉱山史』)以外には日立の名称由来は登場しない。そもそも関心がなかったと言える。

ちなみにそれら「日立」の由来にふれていない出版物を年代順にならべてみる。

  1. [10]早稲田大学商学部学生。執筆経緯を「自序」で「我早稲田大学商學部高等豫科二年の暑中休暇中に於ける実習として課せられたる各町村実地調査の目的に沿はんが為に企畫編成したるもの」と述べている。

見落としがあるかもしれないが、行政も企業も地域社会も自分の名前の由来にはこれほどに冷淡。つまりこの時期には「日立」がひろがりとまとまりをもった地域社会を形成していなかったことからくる「日立」でくくられる歴史に無関心だったのである。「日立」といえば日立鉱山と日立製作所をさすのだから。


日立市のWebサイトにあるように、光圀を頼ろうとする気持ち(つまり由緒正しきいわれがほしいという心性)はわからないわけではないが、いつまで光圀によりかかろうとするのか。水戸藩の支配が終って百五十年、町村制施行から百年。だがいったん創られてしまった物語りは歴史的事実とされて消えない、ということか。日立の名称由来に再び無関心となる日がやってきてもいいのではないか。城下町水戸や在郷町太田にくらべても日立市は新しい町である。かつて西部劇にでてくる町のようだと評された。しかしその新しさも時間をつみかさねることでひとつひとつ層となって歴史が形成される。日立市となって80年の歴史をたいせつにしたい。どんな町をつくってきたのか。新しい町をつくる。問われるのは、そこで何をつくるのか、どんな町をつくるのか、である。