石名坂村の生魚問屋一件

河原子小又家の魚荷の送り先に石名坂村(日立市)があった。嘉永元年(1848)正月18日にマグロ6本、同年6月1日にイナダ6俵を送っている( 河原子浜小又家の魚荷の送り先)。

これは石名坂村に魚問屋があったからである。この石名坂に設立された魚問屋と旧来からの久慈郡太田村の問屋との争いを紹介する。関連史料を こちら 史料 石名坂村の生魚問屋一件 に翻刻した。

目次

発端

文化2年(1805)2月、久慈郡太田村に宛てて大里郡奉行所(常陸太田市大里町に置かれた)から一通の達があった〈史料1〉

石神御郡下石名坂村ニ生魚問屋相立、是迄売買致候ニ付已来相止候様ニと右役所御懸合之分ハ相止候筈ニ相成候処、尚又此上村方ゟ見届人指遣、寄々心ヲ付否之儀御役所可被申遣候

石神郡奉行所管轄の久慈郡石名坂村に生魚問屋が設立され、魚の売買をしているので、これを差し止めるよう太田村からの願いを大里郡奉行所は受けとった。しかし大里郡奉行所は相手石名坂村を管轄する石神郡奉行所へただちにかけあうことはしないが、村としておりおりに状況を把握し、推移をみて再び訴えでるように、との達であった。

はたして2年後の文化4年5月、大里郡奉行所から太田村の役人に宛てて達があった〈史料2(一)〉

石神御郡下額田村大和屋新三郎と申者、生魚問屋相建売捌、其外石名坂小衛門と申もの所へも荷付入売捌候由相聞候付(中略)久慈村内大みかニ罷有候藤吉と申もの儀も同様新問屋相建候由ニ相聞候間、其村魚問屋相糺候ハヽ右之境相訟可申候間、糺之上否之義可被申出候

石名坂村の小衛門だけでなく久慈村の藤吉、那珂郡額田村の大和屋新三郎も新たに問屋業を始めたと聞く、太田村の魚問屋に質して、その上で訴えるなら申し出よ、との内容であった。石名坂村だけでなく、久慈村と額田村でも魚問屋が営業を始めたのである。

その達(御糺)に接して太田村の魚問屋仁兵衛は、小衛門ら三人の魚問屋営業内容とその影響を書き上げた〈史料2(二)〉。太田村の魚問屋仁兵衛の主張を相手別にみてゆく。

なお、大里郡奉行所役人からの達が遠回しの表現をとっているのは、管轄の違いによる。太田村は大里組、石名坂・久慈・額田の3ヶ村は石神組郡奉行所管轄。太田村が直接に石神組郡奉行所に訴え出るわけにはいかないのである。

額田村 大和屋新三郎

那珂郡額田村(那珂市)は久慈川下流の右岸にあって、棚倉海道(水戸〜太田〜棚倉)の駅所である。額田村には久慈川の渡しが2ヶ所、上河合村と落合村(常陸太田市)との間に設けられていた[1]

太田村魚問屋の主張は次のとおり〈史料2(二)第一条〉

此度額田村大和屋新三郎肴問屋相立申候義御尋御座候所、右之者去寅年ゟ南濱ゟ買付荷物何駄ニも引受、下野辺迄送出、其外相対駄付荷物も諸濱ゟ引請、捧手振り大勢御座候一同ニ売捌申候間、磯・湊・平磯・前濱・磯崎辺ゟ当所へ付込申候肴荷物更ニ参不申候

額田村の大和屋新三郎という者が肴問屋業を始めたのは、文化3年のことで、磯浜・湊・平磯・磯崎・前浜などの「南浜」から魚を買い付け、馬に背負わせて、下野国方面へ送りだしている。また浜から相対で任された魚荷を棒手振に売捌いたりするので、太田では南浜からの魚荷が減少している。

新たに設立された額田村の魚問屋によって、太田村の肴問屋の営業が妨害されている、と言うのである。

石名坂村 小衛門

石名坂村は久慈郡に属し、久慈・茂宮川が流れる低地から急坂をのぼりきっ標高50メートルほどの台地上にあり、岩城海道(水戸城下から磐城平城下への脇往還)に沿う村である。久慈浜からも3キロメートルと近い。

太田村魚問屋の主張は次のとおり〈史料2(二)第二条〉

石名坂村の小衛門は、(1)先に石神郡奉行所からしばしば吟味を受け、問屋業をやめるよう命じられてもやめる様子がない。(2)大勢の棒手振たちに魚荷を売捌くだけでなく、買い付けた魚荷だとして輸送中の数頭の馬の背からひきおろして商売している。(3)浜から太田村魚問屋に向けた荷送り状のある魚荷を石名坂にて買い取ろうしても輸送業者(馬方)は売らないので、嘘をついて、太田村に荷が届いても価格に大きな差が生じて売買できないようにし、太田村の近郷や額田村で値引きして売るため太田村で売買できない事態となっている。(4)石名坂の問屋の嘘は、石名坂で棒手振たちが魚荷を買取り、太田村で売捌くようにするためで、これは太田村の魚問屋営業を妨害しようとする企みにちがいない。

久慈村大甕 藤吉

史料には、久慈村内に大三ケ原という字名はないが、岩城海道ぞいの久慈村大甕明神付近に大甕おおみかのつく字がある。そこには大甕明神と岩城海道をはさんで数軒の屋敷がある[2]。藤吉はおそらく大甕明神前に居をかまえているのであろう。

田村魚問屋の主張は〈史料2(二)第三条〉に次のようにある。

大三ケ原(久慈村内大甕)藤吉義捧手振商売仕候者ニ御座候、然ル所当所肴町へ出不被申白人捧手振、又ハ越後もの等大勢入込申候もの共へ一膳飯等一ト賄四拾文ツヽニ幾人も相賄申候、尚又肴荷物之儀ハ夜中ノ売買ニ御座候故、油代と名付駄付荷物よりハ廿四文ツヽかつき売よりハ拾弐文ツヽ口銭取申候、勿論藤吉・勝次郎と申もの両人ニ御座候

久慈村大甕の藤吉は、棒手振相手に問屋同様の商売をしている。太田村魚問屋にやってこない素人(白人)棒手振や、越後からやってくる多数の者たちへ一膳飯も提供している。魚荷の売買が夜間に行われるので、その油代(照明経費)を徴収している。

在郷商人のひろがり

太田村は那珂川以北水戸領の在郷町として発展してきた。交通の要衝であり、流通の中心地であった。文化4年(1807)の「水府志料」よれば戸数626戸、水戸領内の村では漁業の町である湊村・磯浜村につぐ大きさである。佐竹氏がこの地に城を構えていたことからもうかがえる。ちなみに日立市域の上位3ヶ村は、河原子村の373、川尻村356、助川村310戸である。

太田村魚問屋仁兵衛は最後に次のように言う〈史料2(二)〉

北浜ハ大三ケ原・石名坂ニて被押、南浜ハ額田村ニて被差留候ハ、先年より上納仕候御益も更ニ上り不申候、年来肴問や仕来り申候間右益上納相減申候

川尻浜から久慈浜までの「北浜」の魚荷は大甕と石名坂で押えられ、磯浜など「南浜」からの魚荷は額田で止まり、太田にまではやってこなくなり、問屋の口銭収入が減るだけでなく上納金が減ってしまっている。

魚問屋は取り扱う魚荷の数に応じて口銭を徴収し、藩に上納することで問屋営業を許され、そして一部は自身の収入とした。この太田村魚問屋の主張は、暗に新規の大甕・石名坂・額田の問屋たちは、無許可営業で口銭の上納をしていないのではないかという疑いを呈しているのである。

江戸中期以降、それまでの魚の主要な消費地であった城下町や在郷町などが発展によって消費が増えるだけでなく、海道筋の宿駅のある農村の需要も増えた。それら需要増に魚問屋が各地に生まれる。文化初年(19世紀初頭)に額田や石名坂など太田村の近隣農村に魚問屋が生れ、それら新規の魚問屋の活動を制限、抑制しようとする旧来からの魚問屋の主張がここにうかがえる。

結末は

しかし、魚荷とりわけ生魚については宝暦2年(1763)「荷主勝手をもって継立て」できることになっていた[3]。魚荷はどのような道筋を通ってもよい、ということであるが、これはどのような問屋を介してもよい、をも意味しよう。つまり、口銭を藩に納めているなら石名坂の小衛門であろうが「勝手」なのである。したがって太田村の魚問屋仁兵衛は、石名坂村小衛門らの営業を停止を間接的に求めることしかできず、口銭を藩に納めていないのでは、という疑問を呈するしかなかった、と言えよう。

この太田村魚問屋の訴えの結果は不明である。しかし冒頭で触れたように嘉永元年石名坂村に問屋が存在していたことがうかがえるように、郡奉行所に聞き入れられることはなかった、あるいは小衛門らは口銭を藩の納めることで営業を続けたものと考える。

史料について

史料は「太田村御用留」[4]によった。

〈史料1〉は文化2年のもので、差出人2名は本文内容からして太田村を管轄する大里村におかれた郡奉行所の役人であろう。宛先を欠いているが、内容から太田村の庄屋宛であろう。

〈史料2〉には、2点の文書が記録されている。(1)5月17日付の文書は、差出人2名は大里郡奉行所の役人、宛先を欠いているが、太田村庄屋であろう。(2)「乍恐口上覚」との表題があるのは、太田村肴問屋仁兵衛が大里郡奉行所からの下問に答えたものである。この仁兵衛の訴えに太田村の「惣役人」の奥書がついている。庄屋や組頭らが仁兵衛の主張について状況を知悉している太田村生魚問屋左源次から話を聞き、仁兵衛の主張に誤りはないと述べる。

[註]

  1. [1]加藤寛斎「北郡里程間数之記」(内容細目は こちら
  2. [2]大甕明神前には数軒の茶屋があった。天保11年(1840)の小津久足「陸奥日記」に記述がある( こちら)。また天保13年頃「久慈村田畑反別絵図」(日立市郷土博物館蔵)に大甕明神の道向いに6軒の屋敷が描かれている。
  3. [3]水戸領の魚が江戸日本橋へ >魚荷は荷主勝手をもって継立て
  4. [4]原本所蔵は常陸太田市郷土資料館。写真版を常陸太田市文化課で閲覧できる。本稿は「常陸太田市郷土資料館所蔵目録 文書(歴史)」番号5-50041によった。