伊勢国松坂の商人がみた水戸領
天保11年 小津久足「陸奥日記」から

史料について

小津久足は文化元年(1804)生まれ、安政5年(1858)没、享年55。通称は与右衛門。久足は実名。伊勢松坂で干鰯問屋「湯浅屋」を営み、江戸深川にも店をもつ。家業のかたわら本居春庭に入門して国学をまなぶ。

久足37歳のとき、天保11年(1840)2月27日江戸を発ち、潮来、銚子、鹿島、土浦、水戸をめぐり、そして陸奥松島を見物して3月27日江戸にもどります。「陸奥日記」はこのときの紀行文です。

水戸で岩城海道に入りますが、田彦(ひたちなか市)で折れて太田に向い、西山や瑞竜山の朱舜水の墓を訪れ、そのあとで田中々村(日立市大和田町)で岩城海道にもどります。

この田中々から陸奥との国境までの記述をぬきだします。仮名が多く、しかもひらがなとカタカナがまじり、濁点もないので、最初は読みづらいでしょうが、ゆっくりと文字を追い、脳内で漢字へ変換し濁点をうちながら読めば、平易な文章ですので、わかると思います。

倭文神宮(大甕神社)前の茶店のエピソードからは江戸に出店をもつ伊勢の商人のみかた、下孫村では宿場の様子から江戸時代のこの地域の人々の暮らしが具体的にうかがえ、おもしろく読めました。

なお末尾に「馬に乗る」「四十八坂」の簡単な解説をふしました。

[凡 例]
茨城県教育庁文化課『茨城県歴史の道調査事業報告書近世編III』(2015年刊 茨城県教育委員会発行)に収載されたものを用いました。底本は慶応義塾大学が所蔵する写本とのこと。フリガナは一部を残しはずし、原文にはない句読点、改行、< >、[ ]および太文字は本ページの制作者によります。

[本文]

[3月7日]

岡田村といふにいたれハ普門寺といふ古き寺みゆ。小目オメ新沼ニヒヌマなといふ村をすきて田中々タナコヲチ村といふにいたれハ、浜街道にてこハ仙台にかよふ大路なれハ、こよなくみちひろし。

土橋をワたれハ大橋宿にて太田より二里なり。こゝより水戸上町へ六里、下町へ五里といヘハ、太田へまハりしハわつかに二里のたかひなり。この宿に月照山といふ禅宗の寺あり。

石名イシナ坂といふ小坂をのほれハ石名坂村といふ村にて、こゝより右のかたにハ大海みえ、さしいてたる岬ハ磯前イソサキといふあたりなりとそ。

三日ミカの原村[1]といふにハ倭文神宮といふ額のかゝれる御社おはしまして、やまとふみの神宮とまうすよし。たかき石山のうへに見あけ奉らる。この巖神代に天をつきぬかんとせしを、この神のけおとしてこゝに鎮座まします、と里人いひつたへたり。式にみえたる静神社<名神大久慈郡:割書>にはあらぬかとおもへと、この静神社ハ西山公の御時吉田神社とゝもに御修造ありしこと御行実、桃源遺事[2]なとに見えたるさまことゝころのやうにおもはる。

このまへに饅頭をうる家に馬とゝめて茶をこひたるに、今茶ハなし、あたゝめなハ時うつりなん。隣の家にて饅頭をもとめて茶をのみたまひね、といへるハ利をあらそハさる質朴の風賞すへし。それのみならす馬夫も礼儀いとたゝしく、しれる馬夫の馬ひけるにあへは、たかひにかふれる手拭をとりて目礼をたゝしくせり。ワか行李ハなにこともことそきていとかろきを、あなたもき御荷物かなこの中にハ何をかをさめたまへるといふかしけにいへるもをかし。

[註]

  1. [1]三日の原村:みかのはらむら。この名称の村はない。倭文(しどり)神宮は今の大甕神社。この神社は久慈村内にある。甕の原は大甕神社から東へ約800メートルにある水木村内の小名(小字)
  2. [2]御行実:義公行実。元禄14年(1701)成立。安積澹泊ら編。藩主綱條の命で編纂された漢文体の伝記。桃源遺事:徳川光圀の言行録。元禄14年成立。

その三日原むらをハなれて、並木の松の右に泉川みちといふ石のしるしたちて、歌によめる泉といふハこゝなりといふも、かたハらいたし[3]

  いつみ川かけたる波のぬれ衣衣かせ山なきてあやしき

その泉ハ社の中よりワきいつるにて、泉明神とまうすかましますハ、式にみえたる天速玉姫命神社<久慈郡:割書>なりといふハいかゝあらん。

  1. [3]中納言兼輔の「みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ」は、この地を詠んだという古くからの説がある。「かたはらいたし」とは強烈な批判である。京のみやびな文化へのあこがれがそのような説を生んでいるのに。小津が歌を詠むように。

金沢カナサハ村といふハむかし金をほりしところ也といふ[4]。この村をすき森山宿といふにいたれハ、大橋より一里なり。大沼オホヌマ村といふをすき、十石ジツコク[5]といふハ八幡太郎奥州征伐の時兵糧を十石たきし古跡なりといふ[6]。こゝは大久保村といふ村のうちなるよし。すこしゆけハみちの左に、おほくほの田のもの蛙名のみしてねさめせよとてなく声そうき、といふ歌をゑりたる石ありて、こハ西行法師の歌なるよし。馬夫いへと口つきもさハ聞えぬものをや、こゝハ水あなといふにゆくみちなりとそ。又このとほからぬあたりにはたか島といふありて、大田尻ころもハなきかはたか島おきふく風の身にハしまぬる、といふうたのあるもこの法師のうたなるよしをかたる。これもうけられねと、このうたの口碑につたハれるよしハひたち帯[7]にもみえたれハ、はやくそのころよりいひならハせるものとおもはる。

このあたりよりしてのれる馬のあかきしきりにはやくなれるをいかにとゝヘハ、この馬ハ今ゆくさきの宿の馬なるよし。家ちかつきしゆゑ也といふ。かの和漢ともに老馬にみちしるへさせしためし胡馬の北風にいなゝくてふふることもおもひいてられて、あはれなるにわれも故郷のこひしきハおなしものをとおもひあハされてなん。

  1. [4]金沢村は大沼村の北にあるので、「十石村」の前におかれるべき。
  2. [5]十石村:河原子村の小名(字)。村ではない。
  3. [6]さまざまに語られている十石の地名の由来。村人が語るこの説は納得できる。
  4. [7]ひたち帯:元禄10年、京の安藤朴翁が水戸に住む息子をたずねたときの記録。『ひたち帯—元禄常陸紀行—』として影印版が現代語訳付で筑波書林からでている。

森山より一里にて下孫シモマゴ宿にいたり、池田屋なにかしといふもゝの家にやとりぬ。このあたりに鯨うちよりしよし、その背につきたりし貝なりとて見せたる。かいまためなれぬものなりしかハ、ひとつこひうけぬかす、五つハかりありしを主ハのこらすあたへまほしきかほつきなりしは、すなほなる国風なり。けふ八日いまたくれぬほとこゝにやとりしかハ、いとつれつれにてよひすくるほとより炉辺によりてこよひやとりあはせたる陸奥磐城の商人、やとの主なとゝ火ハほたるのことくなるまてもすゝろものかたりしつ、こよひの月かさきたるハあすの天気いかにといと心にかゝれり。この宿ハゆきゝすくなき宿なれハ、はしちかきあたりにいねたれと、いとしつかなりしを、をりをり馬ひきすくるおとのものにまきれすして、なかく耳にさはれり。

  しハしハもすくる鈴音すゝろにも耳にさハりてうまいしかねつ

油ハ魚のあふらなれハ、いぬれハたちまちに焼きてねさめかちなる枕のもといとむつかしくそおほえし。

[3月8日]

八日ひましらめるにをとろきて、主をよひおこさんとすれハ、はやく水くみ薪へしをるおとす、よへの雪心にかゝりしかまつふしなから天気のことをきけハよしといふ。この家にハ鶏をかひたれハ、いとみゝかしましく枕ちかくおとつるゝに、をりから又雉子のとほく鳴けるに

  かけのねにいそかされつゝおきいつれハきゝしもとよむ

さとの明けかたかの大物主の神の御うたもおもひいて、奉られてその実情ハそのさかひにいたり、その時にあハねハけにもしりかたきことゝおもへり。

諏訪村、油縄子ユナハコ村、成沢村なといふをすき、助川宿にいたれハ下孫より一里なり。この宿の左の山にあらたにきつきたる城の見ゆるは、水戸家につかふる山部なにかしの城にて、ちかきころことなりしよし[8]。さきにもいふことく今の殿ハ文武の両道をみかきたまヘハかくめつらしき例もあるなるへし。宮田村、滑川村なといふをすくるほと、このあたりにもかの初紫といふ花おほくさけり。田尻小木津の両宿ハ宿つゝきにて、こゝまて助川より一里半なり。この小木津には稲峯トウホウ寺といふ寺右にあり。小木津浜村[9]折笠村、川尻村なといふハ海にちかし。この川尻にほとちかくさしいてたる岬ハ九界浜といふあたりなるよし。けしきよし。こゝにて鶯のなくに

  よる波の声の中なる鶯もうちまきれぬや春の海つら

  1. [8]山部なにかし:水戸藩家老山野辺義観  ちかきころことなりよし:天保7年に山野辺義観はこの城に入部した
  2. [9]小木津浜村:小木津村のうち

小木津より一里半にて伊師町宿にいたる。この宿の左に大きなる愛宕の御社おはしまするゆゑにこゝをあたこ宿ともいふ。安良川高萩の両宿も宿つゝきにて、こゝまていし町より一里なり。この高萩にてものなとくふ。この宿中に駒形明神遥拝石あり。こハ船人とものあふく神なりとそ。高戸村といふにハ中山何かしといふ人の城みゆ。赤浜村といふをすくるに椿の咲たるを

  よる波の花ハしろくて色もなしたゝ椿のみ赤浜の里

それより矢指村といふにいたる。

  あつさゆみ春かうらゝに打かすむ矢さしのうらハ波もさわかず

すこしゆきて左のかたに塩竃神社たかくたゝせたまひて、道のほとりにあけの鳥居もたてり。高萩より二里にて足洗宿なり。

  にこるよによせぬこゝろもけかれけりワか足あらへ浦のしら波

このあたりまて山といふへきハかりにハあらねと、けさよりして坂いとおほく、みちいとあし。これを四十八坂といふよし。かならすそのかすのことくにもあるましけれと、こハかすのおほきをおほかたにいへるなるへし。桜井村といふをすくれハしハしか間松原の木立をかしきあたりもありそれより磯原の渡といふをワたる。

  いそハらのいそかしけにハさをさゝつたゆたひかちにワたす川舟

川のむかひハ磯原村なり。常山文集[10]に発磯原御詩に横路掲川流とあるハこの川のことなるへし。この村のほとり右のかたに、海にさしいてたる山のうへにいとたかくいらかことなる堂の見えて、ふもとに鳥居たてるハ、桃源遺事に見えたる天妃の堂にて、この神ハ皇国にハなき神なるを、この国のうち岩舟山といふあたりと、こゝとのふたところに西山公の御時まつらしめ給へるなり。里人の天妃さまとゝなへて、船人ハ甚尊信すといふ。

  もろこしにいつか来にけんやまとにハしらぬ神こそこゝにましけれ

この山のたゝすまひたゝならぬに、平方大津といふあたりの岬もとほくみゆれハことになかめあり。常山文集にこの海辺にて九月十三夜の月をみさせたまへる御詩見えたるをおもヘハ月はさこそとおしはからる。

  1. [10]常山文集:徳川光圀の漢詩文集

足洗より一里にて神岡宿なり。仁町ニマチ村といふをすき、粟野宿村といふにいたれハその平方にいたるみちあり。そこにハ岩窟なとありて、あやしきところときゝしかハ、よらんとおもへと一里はかりのまハりといふ。かうへ空の雲あひも雨もよひなれハゆかずして、たゝに切通といふにかゝる。こハ名のことく岩山の中をほそくきりひらきたるみちにて、みあくれハ巌もえかゝるかことく、又くつれむとする勢ありて、今もかしらにおちぬへく見ゆ。こゝをなこそのきりとほしともいひてすなハちむかしの関の跡也とさと人ハいへと、まことの関跡ハこのちかきにありて、こゝにあらさるよしなれと、今もその名のゝこれるにつきてハ先義家朝臣のうたおもひいてらる。

  すてさりし詞の道の花のたかく弓矢の外に名こそとゝまれ

  みちもせにちりしさくらハむかしにて波の花こそかたみなりけれ

かのはたさくらのいひつたへをおもヘハ、義家ぬしハそのむかしの関跡といふあたりをすきたまへるなるへけれハ、奥州征伐の時ハこの浜街道をかよひ給ひけん。されハこの街道もふるきみちなるへし。ひたち帯に七人のひとゝともにこゝにあそひておほく歌よみつゝ、元禄十年九月廿六日、同遊八人と岩うちはらひてかいつけしよしかけるもはやく、百卅四年のむかしとなれハ、そのなこりもなきハうつりゆく世のさまあはれなるに、ワかかくいふも千年のゝちハ又かゝるたくひならんとあやしく袖をぬらしぬ。このあたり海にちかく、かたへにハ小名浜の岬といふかなかくさしいてゝなかめあるところなるに、をりあしく横雨しふき来たり。

  ふりくるや雨をなこその関ならハかく旅衣袖はぬれしを

  そのかみのなこその関ハまつしまにゆくことしらぬ人やすゑけん

これにつけても戸さらぬ御代こそありかたけれ。

こゝハ常陸と陸奥の国さかひにて、今ゆくさきハ陸奥国菊多郡なりときけハ、うちつけにも故郷とほくなれるこゝちして、はやくよりたゝとほきさかひとのミきける陸奥にもきたることよと、そらをそろしきまておほゆ。水戸よりここまてハおほかた水戸家の御領なるか、他の国にハいまたみきかさることともおほく、百姓とものすへてたゝしくすなほにみゆるもこれハた義公の御餘澤ならんと感にたへたり。磯へつたひのみちとほく、関田宿[11]にいたれハ神岡より一里也。

  1. [11]関田宿:いわき市勿来町関田

馬に乗る

大甕神社前で「饅頭を売る家に馬とゞめて茶を乞ひたる」とあるように、小津は馬に乗って旅しています。このような記事はめずらしい。水戸をでて太田に泊り、翌7日の昼前に久昌寺と西山、瑞龍山を見物し、宿にもどって昼食をとり、それから「けふも馬をかり」、三才、幡、岡田、小目を通って田中々で岩城海道にでたのです。馬も馬子も太田に帰らなければなりませんが、馬を帰した場所の記述はありません。

小津はこの旅ではじめて馬に乗ります。
 筑波山を登った翌3月5日「きのふ山みちにてつかれたる足のなこり、けさ又くたり坂にてつからしゝかハ、この村(小幡村十三塚 石岡市)にて馬をかる。われ馬に乗りしことはいまたなし」。理由は「乗馬は身におはぬ(ふさわしくない)ことゝこゝろみす。旅にてはあやふきをゝそれてのことなりしかと、この街道は今ゆくさきもおほかた駕籠なしといへは、せんかたなくてのことなれと、おもひのほかこゝろよきものにて、鞍上のみ、わたしははれやかにて、駕籠にはなかなかにまさるかたもあれ…」。
 このような水戸海道のような往還ではない道筋に駕籠が用意してあるとは思えません。駕籠に乗りたかったが、ないものは仕方ありません。しかし馬に乗ってみると意外に快適だったのです。馬に乗らなかった理由は、身分にふさわしくないことと危険だと思っていたからだと言います。
 馬の口をとっていたのは少年です。「馬の草はむを口とるをのこかしかりしかりゆく心つきなしとおもはるれハ はむ草をさのみいさむる君か口やしなふハこの馬ゆゑにこそ といはまほしけれと、これも馬耳風のたくひならんと口のうちにてつふやくのみ」。
 道中、馬は立ちどまっては草を食む。そのたびに少年は叱る。これに小津は、少年の口を糊するのはこの馬、そんなに叱るなと言ったところで馬の耳に風のたぐいだと口の中でつぶやくだけでした。商人らしい感想です。
 鯉淵村(水戸市)でふたたび馬を借りようとしましたが、断られます。水戸城下から戻るには夜になってしまう時刻だったからです。「こゝ(鯉淵村)にて又馬をからんとするに、かへさ日のくるゝをいとひてかさむといふものなし。價をまさんといへと、うへなはさるもいとたゝしきひなの風なり」。
 料金を増そうと言っても断われます。やむをえません。小津は馬をあきらめます。小津の歌「馬はあれとかさぬをいとゝうらむかな日くれてみちの遠き野原に」。三日月のたよりないあかりのもと河和田、見和から水戸上市の泉町まであるくことになります(たしかに五日のすこし太った三日月ではこころもとないでしょうね)。「三日月の光ハあれと、松風ものさひしくていと心をいたましむる夕くれのさまなる」。

前近代の馬(在来馬)については、川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』(講談社選書メチエ)の第2章「「弓馬の道」の実相」が参考になります。戦国時代においてさえ、馬にまたがるのは容易なことではなかったのです。

四十八坂

小津は石名坂を「小坂」と表現していますが、「大坂」とみる旅人もいます。水戸海道・岩城海道では大きな坂といえるのですが、箱根を越えてやってきた小津にとってみれば、小さな坂なのでしょう。足洗(北茨城市)をでたところで次のように久足は書いてます。「このあたり(足洗)まで山といふべきばかりにはあらねど、今朝よりして(下孫を出てから)坂いとおほく、道いと悪し。これを四十八坂といふよし。かならずその数のごとくにもあるまじけれど、こは数のおほきをおほかたにいへるなるべし」

たしかに下孫の宿を出ると成沢から赤浜村に出るまでいくつもの坂がつづきます。この間に48の坂があるということでないことは、小津の指摘をまつまでもないでしょう。四十八坂については、こちら「史料 十八道坂と四十八坂」を。