河原子浜小又家の魚荷の送り先
河原子村(茨城県日立市)北浜の小又七重郎家には数多くの漁業と流通にかかわる古文書が残されている[1]。その中から幕末期の3点の史料[2]によって河原子浜で獲れた魚を小又家がどのような地域を販路としていたのかを柱にいくつかの話題を提供する。
- [1]河原子小又家文書:日立市郷土博物館蔵
- [2]資料番号:HLM90.008-6-1〜3。いずれも横帳形式の3冊の史料は、綴紐でひとつに括られており、魚の販売にかかわって相互に関連するまとまりある一件の史料である。時期は弘化4年から翌年にかけてのものである。
目次
- 小又家の経営
- 魚荷の送り先
- 魚荷の中継地
- 馬1頭が運ぶ量は
- 輸送時間
- 道売
- 魚荷の種類
- 史料1 魚荷入附控送留覚帳の集計表
- 荷受け地の概要
小又家の経営
小又家は河原子浜の北浜にあり、江戸時代において地引網・延縄・釣・刺網・流網の各漁を船主として営みながら、この地方でいう五十集(魚商人あるいは問屋・仲買人)を兼ねていた。
この小又家の経営のことは江戸期のもので三百点にのぼる史料からうかがえる。しかし私はそれらの中の数点を閲覧したに過ぎないので、この段階での性格づけであり、今後全史料にあたったおりにあらためて検討したい。
魚荷の送り先
3点の史料それぞれに送り先をとりあげる。送り先をこちら 河原子浜の魚はどこへ で紹介した史料「諸国生荷附送り駄賃帳」での五つの分類にしたがって並べ替えた。地名の後の数字は登載回数。
なお、本史料に登場するものの「諸国生荷附送り駄賃帳」に示されていない、つまり協定書にない地は、筆者の判断で五つのいずれかに分類し、太字で示した。
荷受地の概略については末尾の こちら で説明した。
史料1 魚荷入附控送留覚帳
河原子小又家文書6-1による。弘化4年(1847)9月から翌年(嘉永元年)10月までの記録。
中西街道 | 笠間1 小山1 榎本1(栃木市) 木崎12(太田市) 桐生11 伊勢崎2
|
日光街道 | 真岡1 宇都宮1 鹿沼2 今市9(日光市) 日光5 |
大田原街道 | 富岡3 上檜沢1(以上常陸大宮市) 馬頭1(那珂川町) 大田原1 |
奥州街道 〈棚倉海道脇道〉 | 幡1 天下野2(以上常陸太田市) 生瀬1(大子町) 花園1(福島県棚倉町) |
横た附 | 太田2(常陸太田市) 部垂3 長倉2(常陸大宮市) 水戸1 府中2(石岡市) 江戸1 |
送り先の上位3ヶ所をあげると、木崎12回、桐生11回、今市9回(日光を加えるとこの地域は14回)である。
これについては発送日・着日・魚種・数量を加えた表を末尾に示した。
史料2 魚荷駄賃附控帳
河原子小又家文書6-2。弘化4年(1847)6月から10月にかけての駄賃(輸送費)の支払い記録。
中西街道 | 中河内18(水戸市) |
日光街道 | 茂木3 真岡1 鹿沼1 今市1 日光1 |
大田原街道 | 富岡6 小倉3(以上常陸大宮市) |
奥州街道 | – |
横た附 | 府中1 |
この史料2「魚荷駄賃附控帳」には、木崎や桐生(上野国)など中西街道に属する地の記載がない。かわりに中河内への荷送り数が突出して多い。これについては後述する。また奥州街道筋での駄賃記録がない。史料1との記録時期の違いなのか、わからない。
史料3 金銭出入帳
河原子小又家文書6-3。弘化4年(1847)6月から10月にかけての魚荷の入金記録。
〈岩城海道〉 | 石名坂1 大和田1(以上日立市) |
中西街道 | 中河内1(水戸市) 笠間1 市原1(笠間市) 門井1(筑西市) 木崎4 桐生4 |
日光街道 | 市塙1(市貝町) 祖母井3(芳賀町) 真岡2 宇都宮1 宮1(宇都宮市) 鹿沼3 大沢2(日光市) 今市6 日光4 |
大田原街道 | 富岡1 長倉1 下檜沢1 上檜沢1 鷲子2(以上常陸大宮市) 大内2 馬頭1(以上那珂川町) 烏山1(那須烏山市) |
奥州街道 〈棚倉海道脇道〉 | 幡1 町田1 中染1(以上常陸太田市) |
横た附 | 太田1 部垂3(以上常陸大宮市) 上町1(水戸市) 府中2(石岡市) |
荷送り即入金というわけではない。史料1の弘化4年10月の条に
十月五日出
七日売 花園売
廿七日 仕切金受取
とある。10月5日に発送し、花園(福島県棚倉町)に7日に着いた魚荷の代金は二十日後の27日に受けとっているのである。
史料3は史料2と同期間における入金記録であるが、このように荷送りと入金にはタイムラグがあるので、史料2において奥州街道筋に荷を送っていなくとも、史料3で入金記録があってもいい。
道売
史料1の5ヶ所に「道売」という文字がでてくる。たとえば次のように。ちなみに道売とは『日本国語大辞典』によれば「旅をしながら路上で物を売ること」である。
三月十八日 一 ふり 十本 一 たい 十二枚 一 小たい 二枚 一 れんてい 五枚 一 さねや 弐つ 〆拾壱籠 十九日売指出申候 一 金壱両六拾四文 馬頭売 壱分弐百文 道売
これは嘉永元年3月18日に水戸領である馬頭(栃木県那珂川町)に翌日に売りだせるようブリ・タイなどを送りだした。合計11籠。その代金1両余。そのほかに1分200文は「道売」した。これは馬頭への道中において肴問屋や小売店に卸した、という意味であろう。道売した場所の記載はない。
魚荷の中継地
中河内の渡し(『水戸市史 中巻三』より)
「史料2 魚荷駄賃附控帳」の項でふれた中河内が突出して多い事情について説明する。中河内村(水戸市)は那珂川左岸にあり、古くから交通の要地として開け、船渡しがあり、対岸の圷渡村と通じる。戸数84戸(水府志料)。圷渡から南へ直線距離2.5キロメートル余で結城海道(水戸—笠間—下館—結城)にでる。水戸城下に送るなら岩城海道の枝川から那珂川を渡って下町へでるのがもっとも近い。しかも水戸は湊(ひたちなか市)・磯浜・大貫(大洗町)のいわゆる三浜が控えている。すなわち中河内へ魚荷を送る理由は、水戸城下の下町をあえて避けて結城海道に入り、笠間・下館・結城、そして小山から木崎や桐生などの上野国へ魚荷を送る目的があったからであろう。中河内は消費地ではなく西筋への中継地であった。
中河内のほかに西筋への中継地と考えられるのは、市原(笠間市)・門井(筑西市)・榎本(栃木県栃木市)・木崎(群馬県太田市)の地である。
小又家の嘉永4年6月の「荷送り控留帳」[3]に「道中継問屋」として、「中河内 清四郎」「市原村 松蔵」「門井村 源左衛門」の3軒の問屋の名が書上げられている。いずれも「中西街道」にそった村にある。
榎本宿(東水代村)において河原子・会瀬・水木浜などとの魚荷継争論が天保期に起っている[4]。史料1において榎本宿の利用は1回、かつ「河原子浜の魚はどこへ」で紹介した史料「諸国生荷附送り駄賃帳」に現われないことからみて、榎本宿の利用度は低かったと言えよう。
- [3]河原子小又家文書14
- [4]小貫隆久「近世後期の北関東における海魚の流通」(『栃木県立文書館研究紀要』第21号)が分析を加えている。
馬1頭が運ぶ量は
弘化5年(1848)正月18日、石名坂にマグロ6本を代金1両400文で馬1駄に背負わせて送っている。2月3日には、桐生へマグロ7本を1駄で5日に届くよう出発している。魚代金は1両2分2朱700文(史料1)。マグロなら4本から6本を1駄にして運んでいる。
余談だが、近世の少なくとも水戸領北部の村で飼養されている馬は、荷物の運搬のためである。この地方に農耕馬はない。近代に入ってとくに第二次大戦中に農村の男子労働力不足を補うために水田の耕起に一時的に試用されたことがあるだけである。
輸送時間
史料1に以下のような記事がある。嘉永元年(1848)の記事である。
六月四日出 桐生
六日売 水戸屋藤七
一 ぶり生 廿五入 十籠
同 十四入 壱籠
合五俵壱かこ
六月四日出 木崎
六日売 水戸屋与七
一 塩鰍 廿入 三俵
一 同 廿二入 三俵
〆六俵
(中略)
嘉永元年申六月廿六日出
生りふし 廿入 十三
同 四十入 三
外 廿弐入 小籠壱つ
〆十七かこ
但八俵小籠壱つ
右ハ鹿沼廿七日売ニ指出申候
桐生の水戸屋藤七へ6月4日に明後日の六日に売出せるようブリの生りを送りだした。138キロメートル。同日、木崎(群馬県太田市)の水戸屋与七へ塩イナダを六日に売出せるよう送りだした。桐生・木崎いずれも河原子から138余キロメートル。それを三日で運ぶ。6月26日には下野国の鹿沼へ翌日届くように生り節を送りだした。95キロメートルを二日で馬の背に魚荷を背負わせて馬方が牽いていくのである。なお宿駅ごとに積み替えるながら輸送する「宿継ぎ」と、出発地から目的地までいくつかの宿駅をとばして送る「附通し」とがある。いずれの方法とっているか、この史料からはわからない。
魚荷の種類—生ものと塩もの
カツオ・マグロ(シビ含む)・ブリ(イナダ・ワラサ含む)が多いという印象である。
以下、史料1〜3に記される魚を史料の表記のまま五十音順に示す。〈 〉内は制作者。わからない?ものが多くて……。
蚫〈アワビ〉 いなた・鰍〈イナダ*〉 いしもち ゑい〈エイ〉 いわし かたまい* かつほ・鰹〈カツオ〉 さあら〈鰆 サワラ〉 さか* さねや〈?〉 しひ・しび〈シビ* 鮪〉 しびき〈?〉 すゝき・鱸・鈴木〈スズキ〉 たこ たい・鯛 れんてい* はふか〈?〉 ふり・ぶり〈鰤 ブリ〉 まくろ〈鮪 マグロ〉 もろふ〈?〉 ろ壱〈?〉 わらさ*
- *イナダ:ブリの若魚。
- *かたまい:(1)魚を二枚におろした一方。片身。半身。(2)魚の身を裂いて塩漬けにしたもの(栃木県東部)(3)塩漬けのマグロ(茨城県稲敷郡)
- *さか:メヌケのことか。
- *シビ:クロマグロ・キハダ・ビンナガの別名。
- *れんてい:ガンギエイのことか。茨城県那珂郡で「れんてえ」と書いて、ガンギエイをさすという。「れんて」とも。(日国)
- *わらさ:ブリの若魚。
加工品は以下のとおり。「生り」と言えば一般的に「鰹」の生り=生り節を指すが、いろいろある。
いなた生り いなたふし 亀* 亀生り こふし* さん干〈?〉 塩いなた 塩たい 塩いしもち 塩いわし* 塩鰹 指いわし* ぶり生り
たんに「なまり・生り・干節・こふし」とあるのは、カツオ・イナダ・ブリなどのどれを指すのかわからない。記録者小又七重郎がわかっていればよい、ということだろうが。
小貫隆久が指摘するように[註4]、夏の期間は腐敗をさけて塩ものになり、秋に入り再び生ものとなる。
6月一日、近場の石名坂(日立市 6km)にイナダ、太田(常陸太田市 15km)にイナダ・スズキ、部垂(常陸大宮市 27km)にイナダ、水戸(28km)にスズキ・タイ・イナダなど生ものを送りだす一方、同じ日に桐生(群馬県桐生市 138km)や木崎(栃木市 139km)にはイナダ生り、翌二日には今市(栃木県日光市 106km)にも塩イナダと塩物が送り出されている。そして秋に入り、9月16日になって部垂にカツオ、9月23日に長倉(常陸大宮市 41km)にイナダ、今市と日光にカツオが送られ、生ものが復活した。
- *亀:カメのことではなく、カツオなどの身を三枚におろし、その片身が亀の甲に似ていることから言うのではないか。亀生りと同様か。
- *こふし:小節=鰹節の小さいものか。
- *塩いわし:たんにイワシを塩漬けにしたものか、あるいは畳鰯(カタクチイワシの稚魚を板状に平に干し固めたもの)のことか。
- *指いわし:刺イワシ。頬刺・目刺のことか。
史料1 魚荷入附控送留覚帳の集計表
- ◦発送日・送り先・魚種・数量が史料から読み取れるものを掲出した。
- ◦魚種欄の名称は史料の表記のままにしてある。
- ◦小貫隆久「近世後期の北関東における海魚の流通」(『栃木県立文書館研究紀要』第21号)を参照した。
- ◦全文はこちら 魚荷入附控送留覚帳 に翻刻した。
発送日 | 送り先 | 魚種 | 数量 | 着日 |
---|---|---|---|---|
弘化4年(1847) 8月〜10月 | ||||
8/13 | 檜沢(常陸大宮市) | 生り | 2俵 | |
9/18 | 真岡(栃木県) | しび かつほ | 20籠 4籠 | |
部垂(常陸大宮市) | しび かつほ しびき | 8籠 4籠 12籠 | ||
9/23 | 今市(栃木県) 道売 | 生かつほ しび | 24本 2本 | |
10/5 | ||||
今市 – 富岡(常陸大宮市)経由 | かつほ しび | 37籠 45籠 | 10/7朝売 | |
花園(福島県東白川郡棚倉町) | しび かつほ | 10籠 17籠 | 10/7 | |
嘉永元年(1848) 1月〜10月 | ||||
1/18 | 天下野(常陸太田市) 〃 〃 | たい れんてい れんてい・さか | 4俵 1俵 1俵 | 1/19 |
石名坂(日立市) 小山(栃木県) 道売 | まくろ 〃 〃 | 6本 5本 4本 | ||
2/3 | 桐生(群馬県) | まくろ | 7本 | 2/5 |
2/7 | ふ中(府中 石岡市) – 中河内(水戸市)経由 | まくろ | 大2本・ 中3本 | 2/8 |
天下野 | まくろ | 6本 | ||
2/8 | 下たて(下館 筑西市) | 蚫 まくろ | 6俵 1本1俵 | 2/10 |
3/18 | 馬頭(栃木県那珂川町)+道売 | ふり たい れんてい さねや | 10本 14枚 5枚 二つ | 3/19 |
5/8 | 上檜沢(常陸大宮市) | ふり 6俵 1駄 | 5/ 9 | |
5/26 | 生瀬(久慈郡大子町) 太田(常陸太田市) | 鰹 27本 1駄 〃 25本 1駄 | ||
6/1 | 太田+道売 | 鰍 鰍・鈴木 | 5俵 1俵 | |
石名坂 | 鰍 | 6俵 | ||
部垂(常陸大宮市) | 鰍 | 6俵 | ||
水戸 | 鈴木・たい・さか・ゑい・いなた | 6俵 | ||
桐生 | いなた生り | 14俵 | 6/3 | |
木崎(群馬県太田市 水戸屋与七) | いなた生り | 8俵 | 6/3 | |
6/2 | 今市 | 塩鰍 | 6俵 | |
笠間 | 小もろふ・ふり・はふか・いなた・さあら | 6俵 | ||
6/3 | 桐生(水戸屋藤七) | いなた亀節 | 18籠 | |
今市 | 塩鰍 | 6俵 | ||
木崎(水戸屋与七) | いなた亀節 | 8俵半 | ||
6/4 | 桐生(水戸屋藤七) | ぶり生り | 6俵 | 6/6 |
木崎(水戸屋与七) | ぶり生 | 5俵1籠 | 6/6 | |
6/5 | 下孫村(日立市) | さあら | 8俵 | |
6/8 | 日光 | 塩いなた | 17俵 | 6/10 |
今市 | 塩いなた | 14俵半 | 6/10 | |
ふ中(石岡市)+道売 | いなた | 148本 | ||
6/19 | 日光 今市 | 塩いなた 〃 | 6俵 6俵 | 6/21 |
6/23 | 宇都宮(升や吉衛門) | いなた・さあら・ふり・鱸・たい・生り | 7俵+ 1籠 | 6/25 |
大田原(栃木県) | いなた | 8俵 | 6/25 | |
6/26 | 鹿沼(栃木県) | 生りふし外 | 8俵+ 小籠1 | 6/27 |
7/4 | 富岡(常陸大宮市) | 塩いなた・塩たい・ 塩いしもち | 21俵半 | |
7/22 | 桐生(水戸屋藤七) 木崎(水戸屋与七) | 亀生り 〃 | 5俵 4俵 | |
7/29 | 木崎(水戸屋与七) | 生り | 4俵 | 8/1 |
7/30 | 木崎(水戸屋与七) 桐生(水戸屋藤七) | 生り 〃 | 3俵1籠 3俵 | |
8/2 | 木崎(水戸屋与七) | 生り | 2俵半 | |
桐生(水戸屋藤七) | 生り | 3俵 | ||
8/8 | (若松屋吉蔵) | 生り・亀り | 各1俵 | |
今市(福田屋) | 生り 亀 | 2俵 4俵 | ||
宮(宇都宮宮町 栃木県) | 生り・亀 | 3俵 | ||
8/17 | 今市(福田屋)・大沢(日光市) | 塩かつほ・かたまい | 7俵 | |
8/19 | 幡村(常陸太田市)小売 | 生り | 6俵 | |
8/28 | 今市 大沢 日光(長知屋嘉平) | 塩いわし 〃 〃 | 1駄 3俵 11俵 | |
9/10 | 江戸表二町目(三浦屋半三郎) | 生り 塩鰹 | 4俵 3俵 | |
宮(宇都宮宮町) – 富岡経由 | 生り 塩鰹 | 4俵 3俵 | ||
9/15 | 木崎 | 大生り | 16俵 | 9/18 |
桐生 | 大生り | 16俵 | 9/18 | |
伊勢崎(群馬県) | 大生り | 7俵 | 9/18 | |
府中(石岡市) | 鰹 鯛 小すゝき | 30本 3枚 1本 | ||
9/16 | 部垂 | 鰹 | 30本 | |
9/23 | 長倉 | いなだ | 90本 | |
今市 日光 | 鰹 〃 | 31本 34本 | ||
10/14 | 小金(群馬県太田市) | 鰹・しひ | 10俵 | |
10/15 | 日光 | しひ | 8俵 | |
木崎 | しひ・鰹 | 4俵 | ||
桐生 | 鰹・しひ | 4俵 | ||
榎本(栃木県栃木市) | しひ | 2俵半 | ||
木崎 | 鰹 まくろ | 1俵 3俵 | ||
桐生 | かつほ まくろ | 1俵 4俵 | ||
10/21 | 伊勢崎 | しひ | 15俵 | |
木崎 | しひ | 5俵 | ||
木崎・桐生 | しひ | 6俵 | ||
鹿沼(栃木県) | しひ 鰹 | 6俵 1籠 |
荷受地の概要
- 石名坂:日立市。水戸藩領。戸数56、「高地」にある「坂上郷」に属し、水戸方面へ岩城海道の大きな坂道をくだると大和田村大橋で、このあたり久慈川の「田間平地」にある一帯は「小沢郷」と呼ばれる(水府志料)。
- 大和田:日立市。水戸藩領。天保13年(1842)に大橋村(戸数68)と田中々村(戸数72)が合村。ともに岩城海道の宿駅を半月交代でつとめる。茂宮川左岸の大橋村から幡村(常陸太田市)へ向う道がある。
- 中河内:水戸市。那珂川左岸。戸数84、「南より西に至つて那珂川を帯ぶ」「船渡 那珂川を圷渡村へ渡す」(水府志料)。
- 市原:笠間市。笠間藩領。上・中・下に分れるが、結城海道に沿うのは上市原村。弘化3年(1846)戸数78。
- 笠間:笠間市。笠間藩(8万石)の城下町。宝永2年(1705)の町方総戸数472。延享4年(1747)の武家屋敷は340戸。
- 門井:筑西市。幕府と旗本の相給地。結城海道に沿う。
- 小山:栃木県小山市。日光道中の宿駅。足利・佐野方面から結城への道との交点でもある。宿の北外れから壬生通りが分岐するため「五方追分け」といわれた。宿の東側を流れる思川には、野州南部の米や諸商品を積み送る河岸がいくつもあり、小山には二・七の六斎市が立った。
- 榎本:栃木県栃木市大平町。東水代村(明治10年榎本村と改称)。村の北部を日光道中小山宿と例幣使道茂呂宿(栃木市岩舟町)・同犬伏宿(佐野市)を結ぶ脇往還が通り、また栃木宿と部屋河岸(栃木市藤岡町)を結ぶ脇往還が南北に通る。この交わる地に榎本宿があり、町並を形成、宿の機能は人馬継立を主とし、公的な宿駅ではなかった。この宿での河原子・会瀬・水木浜などとの魚荷継争論について前掲小貫論文が分析を加えている。
- 桐生:桐生新町。群馬県桐生市。市場町でありかつ西陣と並ぶ絹織物の産地。文政8年(1825)の家数844。天保期には「数町之間大家軒をならべ…みな江戸の風俗を擬模してもっとも驕奢」と評される。
- 木崎:群馬県太田市。村内で日光例幣使道(中山道倉賀野宿から日光道中壬生通り楡木宿に至る)と銅山道(足尾銅山から江戸に至る)が交叉する。荷のみを扱う宿場。
- 伊勢崎:群馬県伊勢崎市。伊勢崎藩(前橋藩の支藩 2万石)の城下町。本町・新町・西町では交替で市が開かれ、絹・糸・綿や日用品が取引された。
- 茂木:栃木県茂木町。茂木藩(一万六千石余)の陣屋が置かれた(のち筑波郡谷田部に居所を移し、谷田部藩とも)。
- 市塙:栃木県市貝町。三千六百余石の幕府領の村。明治元年の家数227。
- 祖母井:南北に走る関街道と東西に宇都宮と茂木を結ぶ道が交叉し、宿が形成される。
- 真岡:栃木県真岡市。真岡三町(台町・田町・荒町)のことだろうか。下野・武蔵・上総・安房・下総・常陸の535ヶ村を支配する幕府代官所が台町に置かれた。
- 宇都宮:宇都宮藩(9万石)城下町。宇都宮宿は日光道中と奥州道中が分岐し、また東へ水戸道が分れる。
- 宮:宇都宮藩(9万石)城下の宮町のことであろう。城の北800メートルほどの地。二荒山神社にちなんだ地名か。宇都宮宿は日光道中と奥州道中が分岐し、また東へ水戸道が分れる。
- 大沢:日光市。日光道中の宿駅。今市宿と徳次郎宿の間にある。天保14年(1843)の家数43、うち旅籠屋41軒。
- 鹿沼:鹿沼市。鹿沼宿。日光道中の脇道である壬生通にある。天保14年(1843)家数751、うち旅籠屋は21軒。
- 今市:日光市。今市宿。東西に日光道中が走り、壬生通が合流する。天保14年(1843)の宿内家数236、旅籠屋21。
- 日光:(説明略)
- 富岡:常陸大宮市。水戸藩領。久慈川左岸。戸数89、「久慈川を此所にて部垂村への渡場あり」(水府志料)。
- 小倉:常陸大宮市。水戸藩領。久慈川の左岸。戸数107、部垂(大宮)村への渡場がある(水府志料)。
- 下檜沢:常陸大宮市。水戸藩領。戸数242、「太田辺より黒羽、烏山筋への往来」。西ノ内紙の生産が盛ん。
- 上檜沢:常陸大宮市。水戸藩領。下檜沢の西にある上檜沢村は戸数110、下檜沢同様に「太田辺より黒羽、烏山筋への往来」にある(水府志料)。
- 鳥子:鷲子。常陸大宮市。水戸藩領。高部村の西にある。戸数180、「水戸或は太田、部垂筋より黒羽、太田原への往還」にある(水府志料)。
- 馬頭:栃木県那珂川町。水戸藩領。戸数236、「水戸より黒羽、大田原等への裏海道一筋、并棚倉より江戸への海道一筋あり、水戸海道は矢又より入て向田村へ通じ、江戸海道は武部より入て久那瀬村に至る」(水府志料)。「裏海道一筋」「水戸海道」とは部垂・檜沢・高部・鷲子そして下野国那須郡矢又から馬頭を経て黒羽・大田原に向う道筋のことを馬頭から見てこう称するのだろう。江戸海道は棚倉から武部から馬頭を経て久那瀬そして那珂川の舟運によって烏山(那須烏山市)・野田・長倉(常陸大宮市)・水戸を経て江戸へという道筋を言うのだろうか。
- 大内:那珂川町。水戸藩領。部垂(常陸大宮市)・太田(常陸太田市)と馬頭(那珂川町)・黒羽(大田原市)を結ぶ道が通る。戸数167、「西の内紙、大半紙を製す。稗蔵三棟、水戸殿用貯稗なり」(水府志料)。
- 大田原:栃木県大田原市。大田原藩(実高2万3千石)の城下町。奥州道中をはさんで南町と北町に分れ、侍屋敷は主として南町にある。宇都宮からの奥州道中5番目の宿駅でもある。
- 幡:常陸太田市。水戸藩領。戸数92、「浜方より太田への道あり。また小沢郷より石神舟渡江の道あり」。「小沢郷」とは里川左岸の幡村から久慈川左岸の留村まで「皆田間平地」にある17ヶ村をさし、「石神舟渡」とは久慈川右岸の岩城海道の宿駅である石神外宿村の久慈川にかかる舟渡をいう(水府志料)。
- 町田:常陸太田市。水戸藩領。戸数73、「水戸より八溝山への道筋」(水府志料)。
- 中染:常陸太田市。水戸藩領。戸数185、「水戸より棚倉領への脇道なり」(水府志料)。
- 天下野:常陸太田市。水戸藩領。戸数347、「水戸より棚倉領への脇道にして、相対駅所あり」、水戸藩の稗御蔵がある(水府志料)。「相対駅所」とは公定の人馬継立所(宿駅)ではなく、相対で賃銭を決めて荷継をする宿場のことか。
- 生瀬:小生瀬村をさすか。大子町。水戸藩領。戸数149、「水戸より棚倉領への脇道にして、相対駅所あり」(水府志料)。
- 花園:福島県棚倉町。棚倉藩領。棚倉城下に接する。
- 太田:常陸太田市。水戸藩領。在郷町。水戸と棚倉をむすぶ棚倉海道の宿駅。戸数626(水府志料)。
- 長倉:常陸大宮市。水戸藩領。渡場、荷受河岸がある。戸数110、「水戸より茂木、烏山への往来なり。渡場あり。荷受河岸あり」。この河岸では黒羽、佐良土(大田原市)等の那珂川上流の「諸荷物」や長倉の附近の荷物を受けて「水戸河岸へ運送」(水府志料)している。
- 部垂:常陸大宮市。水戸藩領。天保14年に大宮村と改称。229戸、「東は川向にて、小倉、富岡村也。此所渡場あり。太田辺より笠間筋への道筋なり。…保内領より水戸城下への往還道筋なり…渡場あり、太田辺より笠間筋への道筋なり…板・たばこ・其外諸品荷受の河岸あり。此所より小場、小野等の(那珂川)河岸へ馬附にて送る」(水府志料)とあるように水戸・保内、太田・笠間への道の交点であった。
- 上町:水戸市。水戸藩の城下町のひとつ。水戸城の西、台地上にある。武家屋敷が多く、町人地は上市とよばれた。
- 府中:石岡市。府中松平藩(2万石)の陣屋がある平村をさす。水戸海道が通る。明治2年に石岡町。
- 江戸:(説明略)