河原子浜の魚はどこへ

河原子村(茨城県日立市)の小又家には数多くの漁業にかかわる江戸期の古文書が残されている。その中から弘化4年(1847)の「諸国生荷附送り駄賃帳」(以下「駄賃帳」と略)と題された史料を紹介する[1]

河原子浜で獲れた魚が、この場合は「生荷」すなわち鮮魚が、どのような地域を販路としていたかがわかるすぐれた史料である。

江戸時代の河原子村については、文化4年(1807)の「水府志料」によれば、戸数373戸[2]。日立市域だけでなく久慈川以北大津村までの多賀郡で最も家数が多い(会瀬村264戸、川尻村356戸、大津村351戸。ちなみに久慈郡の久慈村は262戸)。村の様子については、とりあえずこちらの記事 文献 河原子海水浴案内> 江戸時代の河原子 を参照されたい。

目次

史料について

史料の成立時期

表紙には「弘化四年 未神無月日」と駄賃帳が作成された時期が書かれているが、本文冒頭に「天保十五年辰年写」とある。もうひとつ、本文中、部垂の条に「是ハ大宮改村」との註記がある。部垂村が大宮村と改称されるのは、天保14年(1843)3月のことである。これらの点において、本史料は河原子の「仲間」のあいだで天保15年に取り決められたものを弘化4年(1847)に写したものと解する。

史料の概要

本文5丁、縦13.5×17.5センチメートルの小横帳。

送り先(荷受地)49ヶ所を大きく五つの地域に分け、それら送り先への駄賃を記す。

本文末尾に「右之通り仲間一統相定申候」とある。魚商人あるいは問屋・仲買人ら同業者団体(仲間)をつくり、駄賃を定めたのである。ついで次のように協定除外期間を規定する。

四月苅敷山より植女仕舞迄自分勝手次第増あり
秋畑方初ゟ十月廿日迄右同断心得べし

(1)4月の農業準備開始から田植えがおわるまで。(2)秋の畑作開始から10月20日まで。これらの期間は「自分勝手次第」に増額してよいのである。たしかに馬方も農作業に忙しい時期である。

魚荷の送り先

駄賃帳は送り先を大きく五つに分けて記載している。(1)中西街道(2)日光街道(3)大田原街道(4)奥州街道(5)横た附、である。

(2)の「日光街道」とは、日光道中(正徳6年日光海道から日光道中と改称。江戸時代五海道のひとつ、江戸から宇都宮をへて日光に至る道のこと)に出る道と言う意。酒出から日光までの道を「日光街道」と言っているのではない。同様に(4)「奥州街道」(正徳6年に奥州海道から奥州道中へ改称)は、宇都宮から白河・須賀川を経由し、陸奥国三厩までいうが、ここでは白河あるいは須賀川で奥州街道に出る道と言う意で用いている。

このほか(3)「大田原街道」は大田原に向う道筋と言う意である。(1)「中西街道」の中西とは普通名詞で、北でもなく南でもなく西へ向かう道という意であろう。

(5)「横た附」の意味は不詳。「よこだ」とは茨城県多賀郡の方言で「馬で運ぶ時に馬の側面に付ける大きな荷籠」と『日本国語大辞典』にあるが、それでも意味はとれない(おわかりの方がおられるならご教示ください)。推測をゆるしてもらえるなら、単独で生荷を送る先で、そこは消費地ではないだろうか。それぞれの地を見ると、城下町であったり在郷町、あるいは大きな宿場町であるからである。

なお岩城海道(水戸から磐城平)の北方面は送り先に入っていない。当然である。河原子の北には会瀬・川尻(日立市)・高戸(高萩市)・大津・平潟(北茨城市)などの漁村がある。競合を避けているのである。

駄賃帳を表にして以下に示す。なお河原子からの荷受地までの距離をGoogleマップで計測し、目安として参考までに掲げた。

荷受地駄賃距離(km)
中西街道 菅谷 (那珂市)466文19
笠間 (笠間市)1貫300文42
中山 ( 〃 )1貫600文52
下館 (筑西市)2貫600文73
結城 (結城市)3貫200文84
古河 (古河市)4貫文101
小山 (栃木県小山市)3貫500文91
栃木 ( 〃 栃木市)4貫文106
佐野 ( 〃 佐野市)4貫500文112
足利 (群馬県足利市)5貫文124
桐生 ( 〃 桐生市)5貫400文138
木崎 ( 〃 太田市)5貫200文139
本庄 (埼玉県本庄市)6貫200文152
日光街道
酒井出(酒出 那珂市)448文19
茂木 (栃木県茂木町)1貫500文51
祖母井( 〃 芳賀町)2貫文65
宮  ( 〃 宇都宮市)3貫200文82
鹿沼 ( 〃 鹿沼市)3貫700文95
今市 ( 〃 日光市)4貫200文106
日光 ( 〃  〃 )4貫500文116
大田原街道小倉 (常陸大宮市)600文27
辰野口( 〃   )648文29
檜沢 ( 〃   )1貫文41
高部 ( 〃   )1貫300文46
鳥子 (鷲子 〃  )1貫500文52
烏山 (栃木県那珂川町)2貫200文62
馬頭 ( 〃 那須烏山市)2貫200文63
喜連川( 〃 さくら市)3貫文78
黒羽 ( 〃 大田原市)3貫200文81
大田原( 〃  〃  )3貫600文90
奥州街道町屋 (常陸太田市)600文21
大中 ( 〃  )900文36
小中 ( 〃  )1貫文40
下関 (下関河内 福島県矢吹町)1貫500文50
棚倉 (      〃 棚倉町)2貫500文73
白川 (白河   〃 白河市)3貫500文95
須賀川(   〃 須賀川市)4貫文122
郡山 (   〃 郡山市)4貫500文135
本宮 (   〃 本宮市)5貫文148
横た附太田 (常陸太田市)400文15
山形 (山方 常陸大宮市)800文35
部垂 (    〃   )700文27
長倉 (    〃   )1貫文41
石塚 (城里町)800文30
瓜連 (那珂市)600文22
下町 (水戸市)700文27
上町 ( 〃 )800文28
府中 (石岡市)1貫600文57
土浦 (土浦市)2貫400文72

荷受地の概略については末尾で説明した。 こちら

送り先までの距離と駄賃

もっとも遠いのは、152キロメートル離れた中西街道の武蔵国児玉郡本庄(埼玉県本庄市)である。中山道の宿場町として栄え、六斎市も立った。これに次ぐのは、148キロメートルの奥州街道の本宮である。二本松藩領で、本宮宿は奥州道中と会津街道の分岐点にあり、中通りと会津を結ぶ要地であった。

当時河原子浜からどのような道をたどったのか、それを示す記録はない。そこで、(1)馬に荷を背負わせるのだから、馬にとってきびしい道は通らない、つまり急坂の峠越えはしないで、できるだけ平坦な道を選んだ。(2)久慈川や那珂川を越える時は、渡船場のある村を通る。この二つの条件のもとで計測した。たとえば、「大田原街道」の高部(常陸大宮市)へは河原子から大和田(日立市)–落合–上河合–藤田–松栄–花房(以上常陸太田市)–富岡–大宮(部垂)–玉川–長田–檜沢(以上常陸大宮市)とたどった。

だが、当時、距離がわかるとすれば、岩城海道・水戸海道・結城海道などの主要な脇往還であって、その他の道の距離は記録の上でわからなかったのではないか。わかっているのは所要時間である。荷受地にどれほどの時間を要するか、経験でわかっている。

上記表において「奥州街道」の須賀川・郡山・本宮と「横た附」の土浦の4ヵ所は、距離に比して駄賃が低い。おそらくこの4ヶ所に送った経験はなく、あっても少なくて情報不足のまま定めたということではないか。

参考までに送り先までの距離を示したとは、そういう意味である。

駄賃の構成内容、積算要素は現時点では未調査であるので、道筋とともに今後の課題としておこう。

渡し船

馬に魚荷を負わせ、馬方が牽いていく。ほぼ同じ距離になのに駄賃が異ることがある。たとえば、大田原街道の小倉(常陸大宮市)が600文に対し、部垂村(常陸大宮市)と水戸下町とは700文。この違いは船渡しの有無ではないだろうか。河原子から部垂には富岡村(常陸大宮市)から舟で久慈川を渡らなければならない。同様に水戸下町へは久慈川と那珂川を舟で渡る。ちなみに久慈川の船渡賃は、安政2年(1855)松栄村(常陸太田市)—瓜連村(那珂市)間の渡しでは、「歩行三文、馬五文」である[3]。だが大きな額ではない。舟に乗る際には荷を馬から下ろし、対岸に着いたら荷を着けなければならないが、大した手間ではない。

富岡村の北にある辰野口村の渡船場は、対岸の上大賀村にとって「太田・久慈・河原子通」の基点であると認識されていた[3]。太田の先にある久慈・河原子は言うまでもなく漁村である。

河原子から下野・上野国方面に向うには、久慈川のほかに現在の一級河川だけでも那珂川・小貝川・鬼怒川・巴波川・渡良瀬川を渡らなければならないが、渡し賃が駄賃に大きく影響することはなさそうである。

荷受地と消費地

荷受地である日光・今市・栃木・桐生・足利などは消費地であろう。天保3年(1832)に久慈郡留村の大内忠三郎ら8人は西国への旅に出た(こちら 史料 天保三年西国道中記)。 帰り道、彼らは中山道から例幣使道に入り、日光に詣でることにした。そのとき栃木に宿をとり、翌日「日光さしていそ」ぎ、今市に宿泊した。日光を見物して帰途につく。宇都宮、茂木に宿泊し、長倉(常陸大宮市)から戸村(那珂市)まで舟に乗って下り、額田(那珂市)で旅の一行は「酒肴汲かわし」て解散し、それぞれの家に向う。これら宿の膳に生魚がでてきたのではないかと想像してしまう。

陸奥二本松藩士の成田鶴斎が文政6年(1823)に棚倉海道を水戸に向かったおり、徳田村(常陸太田市)に宿泊し、翌日は8里ちかくを歩いて、太田村に宿をとった。「此夜ヨリ旅店ノ饗ニ鮮魚アリ」と記す(こちら 外からみた水戸領 >史料6)。宿の食事について記すのはここだけである。

これら地の多くは上記の荷受地にでてくる。

一方で「中西街道」の中山(笠間市)や木崎(群馬県太田市)などは中継地ではないか。木崎村は村内で日光例幣使道(中山道倉賀野宿から日光道中壬生通り楡木宿に至る)と銅山(あかがね)(足尾銅山から江戸に至る)が交叉する荷のみを扱う宿場である。肴問屋があったのであろう。また東2里ほどの地には天保9年(1838)の家数422の例幣使道の宿駅である太田町が控えており、西3里には伊勢崎藩2万石の陣屋がおかれた伊勢崎がある。

「大田原街道」久慈川左岸の小倉・辰野口村(常陸大宮市)なども中継地としての役割が大きかったと考えられる。もちろん多くは消費地であり中継地でもあったにちがいない。

荷受地の概要

  1. 出典を示した以外は、『国史大辞典』と『日本歴史地名大系 茨城県』からとった。
  2. 〈中西街道〉
  3. 菅谷:那珂市。水戸藩領。棚倉海道の宿場。戸数217、「棚倉道 後台より入て杉、酒出の間へ通ず。此村次所なり。下る者は額田へ送り、上るものは青柳へ送る」(水府志料)。
  4. 笠間:笠間市。笠間藩(8万石)の城下町。宝永2年(1705)の町方総戸数472。延享4年(1747)の武家屋敷は340戸。
  5. 中山:笠間市。笠間藩領。北中山と南中山とがあるが、この場合結城海道にそった北中山村のことであろう。弘化3年(1846)の戸数34戸。
  6. 下館:筑西市。下館藩(2万石)の城下町。
  7. 結城:結城市。結城藩(1.8万石)の城下町。
  8. 古河:古河市。古河藩(8万石)の城下町であり、日光道中の宿場町。
  9. 小山:栃木県小山市。日光道中の宿駅。足利・佐野方面から結城への道との交点でもある。宿の北外れから壬生通りが分岐するため「五方追分け」といわれた。宿の東側を流れる思川には、野州南部の米や諸商品を積み送る河岸がいくつもあり、小山には二・七の六斎市が立った。
  10. 栃木:栃木市。巴波川舟運の終点として栃木河岸をはじめ多くの河岸が設けられ、積み出された産物は,米穀・麻・こんにゃく・タバコ・野菜、紙・木材・薪炭・石灰など多種にわたり、集荷地域は鹿沼・今市を経て会津・宇都宮西方地域・足尾山地山間部など広い範囲に及んだ。三・八の六斎市でにぎわう。日光例幣使道の宿駅としても発展し,天保年間(1830-44)には本陣と7軒の旅籠屋を含む1030軒の町家があった。
  11. 佐野:栃木県佐野市。わずかな期間佐野藩(1.6万石)の城下町であった。城下の天明町と犬伏町は日光例幣使道の宿駅で、天保14年の家数はそれぞれ1095・728、旅籠屋8・44軒。
  12. 足利:通称足利町、織物生産と在郷町として発展。安政2年(1855)の家数1681。五・九の日に六歳市が開かれる
  13. 桐生:桐生新町。群馬県桐生市。市場町でありかつ西陣と並ぶ絹織物の産地。文政8年(1825)の家数844。天保期には「数町之間大家軒をならべ…みな江戸の風俗を擬模してもっとも驕奢」と評される。
  14. 木崎:群馬県太田市。村内で日光例幣使道(中山道倉賀野宿から日光道中壬生通り楡木宿に至る)と銅山あかがね道(足尾銅山から江戸に至る)が交叉する。荷のみを扱う宿場。
  15. 本庄:本庄宿。埼玉県本庄市。中山道の宿場町。二・七の六斎市が立つ。天保14年(1843)の家数1212。
  16. 〈日光街道〉
  17. 酒井出:那珂市。北酒出・南酒出村がある。北酒出は久慈川の右岸。南酒出は棚倉海道ぞいにあり、北は額田村。
  18. 茂木:茂木藩(1万6千石余)の陣屋が置かれた(のち筑波郡谷田部に居所を移し、谷田部藩とも)。
  19. 祖母井:栃木県芳賀町。南北に走る関街道と東西に宇都宮と茂木を結ぶ道が交叉し、宿が形成される。
  20. 宮:宇都宮藩(9万石)城下の宮町のことであろう。城の北800メートルほどの地。二荒山神社にちなんだ地名か。宇都宮宿は日光道中と奥州道中が分岐し、また東へ水戸道が分れる。
  21. 鹿沼:鹿沼宿。栃木県鹿沼市。日光道中の脇道である壬生通にある。天保14年(1843)家数751、うち旅籠屋は21軒。
  22. 今市:今市宿。栃木県日光市。東西に日光道中が走り、壬生通が合流する。天保14年(1843)の宿内家数236、旅籠屋21。
  23. 日光:(説明略)
  24. 〈大田原街道〉
  25. 小倉:常陸大宮市。久慈川の左岸。戸数107、部垂(大宮)村への渡場がある(水府志料)。
  26. 辰野口:常陸大宮市。久慈川左岸、小倉村の北にある。戸数89。対岸上大賀村への渡船場がある(常陸国北郡里程間数之記)。
  27. 檜沢:常陸大宮市。上檜沢と下檜沢村がある。下檜沢村は戸数242、「太田辺より黒羽、烏山筋への往来」。西ノ内紙の生産が盛ん。下檜沢の西にある上檜沢村は戸数110、下檜沢同様に「太田辺より黒羽、烏山筋への往来」にある(水府志料)。
  28. 高部:常陸大宮市。下檜沢の西。西ノ内紙の生産地で紙問屋がある。戸数220、下檜沢同様に「太田辺より黒羽、烏山筋への往来」にある(水府志料)。
  29. 鳥子 鷲子:常陸大宮市。高部村の西にある。戸数180、「水戸或は太田、部垂筋より黒羽、太田原への往還」 にある(水府志料)。
  30. 烏山:栃木県那須烏山市。烏山藩(3万石)の城下町。奥州道中の脇往還である烏山経由の関道が南北に走り、那珂川沿いに河岸が開かれ、那須郡南部の物資の集散地として賑わう。
  31. 馬頭:栃木県那珂川町。水戸藩領。戸数236、「水戸より黒羽、大田原等への裏海道一筋、并棚倉より江戸への海道一筋あり、水戸海道は矢又より入て向田村へ通じ、江戸海道は武部より入て久那瀬村に至る」(水府志料)。「裏海道一筋」「水戸海道」とは部垂・檜沢・高部・鷲子そして下野国那須郡矢又から馬頭を経て黒羽・大田原に向う道筋のことを馬頭から見てこう称するのだろう。江戸海道は棚倉から武部から馬頭を経て久那瀬そして那珂川の舟運によって烏山(那須烏山市)・野田・長倉(常陸大宮市)・水戸を経て江戸へという道筋を言うのだろうか。
  32. 喜連川:栃木県さくら市。喜連川藩の城下町であり、町人町は奥州道中の宿場町。藩主の喜連川氏は五千石であったが、十万石の格式を与えられた。
  33. 黒羽:栃木県大田原市。黒羽藩(1万8千石)の城下町。那珂川をはさんで左岸の黒羽田町(家数170)と右岸の黒羽向町(家数132)とに分れる。田町と向町との間には船橋があった。
  34. 大田原:大田原市。大田原藩(実高2万3千石)の城下町。奥州道中をはさんで南町と北町に分れ、侍屋敷は主として南町にある。宇都宮から奥州道中5番目の宿場町でもある。
  35. 〈奥州街道〉
  36. 町屋:常陸太田市。水戸藩領。棚倉海道ぞい。戸数136。「水戸より奥州への往還にして駅所なり」(水府志料)
  37. 大中:常陸太田市。水戸藩領。棚倉海道ぞい。戸数120。「水戸より奥州への往還にして駅所なり」(水府志料)
  38. 小中:常陸太田市。水戸藩領。棚倉海道ぞい。戸数137。「水戸より奥州へ江之往還にして駅所あり」(水府志料)
  39. 下関:福島県矢祭町。陸奥国下関河内村。天保年間戸数62。「水戸街道」の宿場町で問屋があり、人馬の継送りを行っていた。馬市が開かれる。
  40. 棚倉:福島県棚倉町。棚倉藩(6万石余)の城下町。
  41. 白川:福島県白河市。白河藩(11万石)の城下町。
  42. 須賀川:福島県須賀川市。奥州道中の宿駅。六歳市が開かれる。
  43. 郡山:福島県郡山市。奥州道中の宿駅。二本松領内で城下につぐ町場を形成。文政6年(1823)360戸、うち商家・旅籠屋が92戸。
  44. 本宮:福島県本宮市。奥州道中の宿駅。また磐城・相馬・会津への道が分岐する要衝の地。天保9年(1838)30軒の旅籠屋があった。
  45. 〈横た附〉
  46. 太田:常陸太田市。水戸藩領。水戸と棚倉をむすぶ棚倉海道の宿駅で在郷町。戸数626(水府志料)。
  47. 山方:常陸大宮市。水戸藩領。256戸、「保内領(大子地方)より水戸城下への往還道筋」、久慈川対岸の西野内村への渡場があった(水府志料)。
  48. 部垂:常陸大宮市。水戸藩領。天保14年に大宮村と改称。229戸、「東は川向にて、小倉、富岡村也。此所渡場あり。太田辺より笠間筋への道筋なり。…保内領より水戸城下への往還道筋なり…渡場あり、太田辺より笠間筋への道筋なり…板・たばこ・其外諸品荷受の河岸あり。此所より小場、小野等の(那珂川)河岸へ馬附にて送る」(水府志料)とあるように水戸・保内、太田・笠間への道の交点であった。
  49. 長倉:常陸大宮市。水戸藩領。渡場、荷受河岸がある。110戸。「水戸より茂木、烏山への往来なり。渡場あり。荷受河岸あり」。この河岸では黒羽、佐良土(大田原市)等の那珂川上流の「諸荷物」や長倉の附近の荷物を受けて「水戸河岸へ運送」(水府志料)している。
  50. 石塚:城里町。水戸藩領。159戸。「此地(石塚)及び太田、部垂を三市場と称」されたように在郷町であり、「烏山道 水戸より馬頭、烏山筋への往来也。…笠間道 太田辺より笠間への往来也。下圷舟渡より此村を経て、上青山にいたる」。また、南の下青山村を経由する「宍戸道」もあり、烏山と笠間そして宍戸ヘの道の交点であった(水府志料)。
     ちなみに宍戸には宍戸藩1万石の陣屋があり、陣屋がおかれた平町村は笠間と府中を結ぶ往還にあり、宿場の機能もはたした。
  51. 瓜連:那珂市。水戸藩領。127戸。水戸から陸奥国の南郷(福島県矢祭町・塙町・棚倉町あたりを指す)への道が通る。村の北東を久慈川が流れる。幕末に近い時期に対岸の松栄村との間に城米と薪を水戸へ送るため船渡が新たに設けられた(北郡里程間数之記)。
  52. 下町:水戸市。水戸城下東南の低地にある商人町。五海道の脇往還である水戸海道の終点であり、磐城平藩の城下町である平までの岩城海道の基点の地で、問屋場がおかれた。
  53. 上町:水戸藩の城下町のひとつ。水戸城の西、台地上にある。武家屋敷が多く、町人地は上市とよばれた。
  54. 府中:石岡市。府中松平藩(2万石)の陣屋がある平村をさす。水戸海道が通る。明治2年に石岡町。
  55. 土浦:土浦市。土浦藩(9万5千石)の城下町。水戸海道が通る。

[註]

  1. [1]日立市郷土博物館蔵。資料番号:HLM90.008-7()
  2. [2]「水府志料 六」。国立国会図書館デジタルコレクションより。なお『茨城県史料 近世地誌編』は、河原子村戸数を「百七十三」としているが、「百七十三」の誤植である。天保13年の「多賀郡河原子村田畑反別絵図」(日立市郷土博物館蔵)においても、380余戸の家が描かれている。
  3. [3]加藤寛斎「常陸国北郡里程間数之記」。原本は国立国会図書館蔵、デジタルコレクションにおいて閲覧できる。大子町史編さん委員会編『大子町史料別冊Ⅰ 常陸国北郡里程間数之記」(1979年)及び水城古文書の会編『常陸国里程間数之記』(2016年)に翻刻されている。