外からみた水戸領

島崎 和夫

さまざまな理由から他領の人々が水戸領を訪れ、あるいは通りすぎる。それらの人々に水戸領はどのように映ったのか。当然のことながら生まれ、育った環境、そして学問や見聞によって得た知識を基準としてそれぞれに水戸領を評判する。したがって逆に記録者側の価値観や環境も推測することができるのもおもしろい。

本稿では9人の記録を紹介する。内容を次の8項目にわけた。だが記録の配列は内容によって分けることをせず成立時期順とした。

記録文中の[ ]と太字は引用者による。

1 元禄年間の大名事典 ─ ⼟芥寇讎記

金井圓校注『土芥寇讎記』(江戸史料叢書)より

編者不明。元禄期の全国諸大名を網羅した人名事典・藩制便覧。
近境タル故ニ江戸・国共ニ家士勝手吉シ。家民トモニ御哀憐深キ故ニ心安シ。…家人等文武諸藝ヲ学ビ淳ニシテ勇義備ル。但シ住居下国タル故ニヤ、御三家之中ニテハ風俗遙カニ劣レリ。然レ共元来江戸詰之士ハ風儀モヨシ。国生立そだち之人ハことば五音モ聞にく故ニ風俗悪敷見ユルト也。国ニ禽獣魚柴薪多シ。土地中之上、米能ク生ズ。…東ニ有リ海、諸事自由ヨシ。繁昌之地ニシテ、尤国中之御作法ヨシト聞フ。

水戸の風俗 江戸に近いので江戸藩邸と水戸の藩士家計には余裕があるが、水戸は下国なので、御三家でも尾張・紀伊とくらべて風習はひけをとる。江戸に長く詰める藩士の風習はよいが、水戸に育った藩士の言葉は、聞き取りにくい。そのためか水戸藩士の評判はよくないとされている。土地柄は中の上ほどに位置するか。米もよく取れ、豊かな地である。

──下国だが豊かだ、と矛盾した言い方になっている。御三家としての水戸藩に遠慮した表現となっているかもしれない。

言葉五音も聞きにくい そのため風俗が悪くみえる、と言う。

──水戸徳川家は新設の藩である。そのため家臣は常陸国内にかぎらず全国から順次集められた。そのためいろんな国の訛りが行き交っていたはずである。国育ちと言っても一括りにできるものではなかったと考えられるのだが。

2 宝暦9年 御家人の娘 ─ 浜岡たみ「松島旅行日記」

浜岡たみは水戸藩第五代藩主宗翰の近習浜岡瀬大夫の妻。瀬大夫とたみは宝暦9年(1759)藩主宗翰就藩のおり従って水戸に下る。たみは同年7月8日水戸をたって仙台、松島に遊んで奥州海道、棚倉海道経由で同月27日に水戸に戻る。たみの父は江戸城西ノ丸御持与力(御家人)稲葉弥次衛門通次。

古文書学習会編『道中記にみる江戸時代の日立地方』より

文月八日 水戸常磐山東照宮下の旅宿を出る。…青柳村舟わたし、それより奥の道へ出るまて一里はかり道ほそし。…さて松原に出て石神といふに渡しあり。舟つけて後昼飯取出す。茶屋あやしくてきたなけれは、そのほとりの御寺たつねてしたためするなと、けに旅のさまをかし

江戸に生まれ、育ったばかりでなく、御家人の娘である。夫の浜岡瀬大夫も江戸生まれの江戸育ち、そして江戸常駐だろう。そうした夫について水戸に帰国したおり、日本三景のひとつ松島に旅にでる。

水戸を発ち岩城海道の久慈川を石神外宿村から舟で渡ると下土木内村である。舟から降りたら茶屋があった。昼食をとろうとしたが、みすぼらしくて汚かったので、近くの寺をたずねて昼食をとり、そして歌を詠んだ。実に旅では滑稽なことが起こるものだ、と言う。

──茶屋がみすぼらしくて汚い。生まれてから江戸に住んでいて、旗本よりは格下とはいえ、直参の娘という自負心がもたらした感想であろう。

3 天明8年 幕府巡見使に同行した地理学者
  ─ 古川古松軒「東遊雑記」

鈴木棠三校訂「東遊雑記」(『日本庶民生活史料集成』第三巻)より

古川古松軒は享保11年(1726)備中国下道郡新本村(岡山県総社市)生まれの地理学者。文化4年(1807)82歳で歿。「東遊雑記」は天明8年(1788)5月6日、幕府巡見使(一行117人)に随行して江戸を発ち、10月18日江戸に戻る。5ヶ月におよぶ陸奥・出羽・松前を見聞した記録。
常陸国は上国兩國の界は水戸侯の家士御馳走役として出迎ひ給ふ。…扨常州に入りて上國の風にみえ、人家のもやうもよく、百姓の妻子に至るまでも賤しからず。作業も出精せると見えて作物も見事にて、士をみて、禮をせざるはなし。小兒に至るまで平伏して、無禮の躰更になし。…常州に於ひては貴賤共不禮の體、更に見えず。予按るに、…此君の御遺風にて、かくまでもきは立、奥羽に勝れて見ゆる事也と人々評判せし…
味噌醤油がまずいのは太田より南一里、久慈川流るゝ。舟渡しなり。奥州白川郡より流れ落る。此邊の百姓家いよいよよし。此せつ稲を苅入るゝ時節にて、農業の躰を見に、國の風俗にて婦人かひがひしく、小兒に至るまでも、業を大切に勤る體なり。宿々に於ひても、御巡見使の事なるゆゑに、念の入料理なども賤しからぬ取組なり。兎角、味噌・醤油の味ひあしきには、人々困りし體なりと云ふ。光圀公の御時代より、民の奢を大に制し給ひ、分外の暮しをする百姓あればきびしく罰し給ひ、驕らずして家業に出精せる百姓は、案外に賞し給ひし事にて、友吟味にして、互ひに奢の道をかたく愼みし故、いつとなく國の風俗となりて、今にても味噌・醤油の味ひよきを食せる百姓は奢り者と云ひふらし、是等の事をもって萬事をおもふべし。頼母しき風俗ならずや。…
上方筋の城下よりも…此川[那珂川]、水戸城の北の岸を流れ、要害の川也。川を過れば、わづか八丁にて水戸の下町と云ふに入るなり。一昨年の大水に町々大ひにいたみ、往來筋草ぶきの家數多にて、上方筋の城下よりも劣りし事なり。上町と稱せるも下町におなじ。…
水戸言葉水戸よりは街道筋、人通りも數多にて中々淋しからず。江戸近所なるゆゑに、風俗も江戸のごとし。先達て聞しは、世に水戸言葉と稱し、鼻聲にして解しがたきと云ひしに、夫はむかしの事にて、いまは往來筋の言語は江戸のごとし。尤在々へ入りては、音聲の鼻聲の言語もある事也。一國の中にても言語の替ある事は、常州には限るべからず。何の國にてもあることなり。

常陸国は上国 陸奥国と常陸国の境に水戸藩士が世話役として出迎えていた。常陸国は奥州にくらべてきわだって上国のように見えると古松軒は言う。上国には(1)都に近い国(2)大藩(3)文化の進んだ優れた国、豊かな国といった意味がある。古松軒はここでは(3)の意味で使用していようか。農家は粗末ではなく、農民も妻子にいたるまでみすぼらしくない。かつ貴賤に関係なく、子供にいたるまで礼をわきまえている、と見た。その理由は英明な藩主(おそらく光圀)の遺風によるものだと巡見使のみなみなで評判した、と言うのである。

味噌醤油が不味いのは 巡検使一行は太田に宿をとる。接待役は水戸藩である。念を入れた料理が振る舞われたが、味噌汁と醤油だけは不味くて閉口したと言う。大豆が少なく塩辛いだけだったのであろう。その理由は光圀公以来ぜいたくな暮しを禁じられており、それが浸透し、今や習慣となっていた。たしかに塩は容易に入手でき土地柄である。古松軒はたのもしいことだと称賛する。

──不味いものを称賛するとは、ひいきの引き倒しになってないか。

上方筋の城下よりも… 巡見使一行は、枝川から那珂川を渡り水戸下町を通り、水戸城内に入らず、水戸海道をそのまま長岡の宿に向った。御三家のひとつの城下町に立ち寄ることなどもってのほかである。トラブルが待ちうけているかもしれない。5ヶ月の間緊張の日々であったろう。一刻も早く江戸に戻りたい巡検使たち一行の気持ちが伝わってくる。古松軒は水戸を見物したかったが、一行に従うしかない。

街道筋の下町は草葺きの家が多く、水戸の城下は西国の城下町に比べて貧弱で、台地上の上町も同様だと古松軒は見た。水戸の本丸崖下の那珂川と千波湖に挟まれた低地に広がる下町は2年前の那珂川洪水で水に浸かり、復興は進まず建物は傷んでいるという。洪水の被害を受けていないはずの上町でも下町同様上方の城下町より劣っているという。古松軒は上町を実際に見ていない。人づてに聞いたのであろう。

──上町・下町の衰微は洪水で始まったわけではなかった。在郷町の発展、在郷商人の擡頭などにみられる水戸領域全体での流通の変化があり、城下町商業の衰微が顕著となった時期に、古松軒は下町を通過したのであった。

水戸言葉 ⼟芥寇讎記において、水戸育ちの人の言葉は、音声の調子も聞きにくく、そのためその土地の風習も見苦しい、との評判だった。だがそれから百年ちかくもたつと江戸の影響によって水戸海道筋は江戸言葉になっているが、海道から離れるとまだまだ水戸言葉だと言う。

──18世紀も末になると都市文化が地方に流入してきていることがわかる。それは人と物に載せられてやってきた。道は文化をも運ぶのである。

■参考:備中国の地理学者がみた水戸領─古川古松軒「東遊雑記」から

4 寛政年間 玉造村庄屋 ─ 雨宮端亭「みち艸」

『美ち草』(郷土ひたち文化研究会刊)及び影印本『美ち草』(榎本實刊)より

雨宮端亭は水戸藩医原玄春の二男として水戸に生まれる。通称又衛門、実名廣安。安永9年(1780)水戸藩家臣雨宮家の養子となり、家督を継ぐ。寛政3年(1791)松岡郡奉行、寛政9年4月定江戸目付、同11年10月太田郡奉行、享和2年(1802)町奉行、その後軍用懸りなどをつとめ、天保元年(1830)藩主斉脩の室峰寿院附属の用人、天保3年5月致仕、端亭と号す。同年11月7日歿。享年74。実兄は水戸藩医原南陽。

端亭は伊勢参りから帰ってきたばかりの行方郡玉造村(行方市)庄屋白井小衛門に尾張・美濃とその近国の様子を聞き取った。水戸領内で暮す農民が旅によって外の世界を知り、そして自らの地を振り返る。その時どのような意識の変化が起こるか、起こらないのか。それを示す貴重な記録である。

以下、小衛門の発言要旨。
(1)上方の年貢率は110%、120%だが、水戸領の50%と変わることはない。なぜなら水戸領では本年貢の外に三雑穀や諸掛りがあり、それを加えれば110%、120%となる。
【註 江戸時代初期に検地が行われ、単位面積あたりの収穫量が定められた。時代がくだると土地の生産力が上昇する。治水の進展、土地の改良、農具の発達、購入肥料投入などによるもので、帳簿上と実際の生産力に大きな差が生じていたから「十一二取」が可能だった。】
(2)上方の農民の家は小さくきれいで、衣服は質素だが、晴れの日には着飾る。
(3)上方の農民は、朝は星が残っているうちに働きに出て、夕方は星を見て帰る。田畑の端にさえ何かしら作付している。
(4)十前後の子供がとってきたフキノトウを串に刺し、道行く旅人に売っている。道中に要らぬものだが、一銭二銭ならばと買い求めると、かたわらの子供も買ってくれと言い、断ると泣きだした。近くの大人に理由を聞くと、子供の親は村役人のこともあり、売りそこなった子供が家に帰れば、親に叱られるからだと言う。しかたなくフキノトウを残らず買ったことがある。水戸領あたりでは、村役人の子供に限らず一般農民の子でさえ、逆に乞食のようなことをするなと親から声高に叱られる。
 遠江国周智郡領家村(静岡県浜松市)の秋葉山を参詣した留村の農民も子供が道行く旅人に物を売っていることに驚いている記録がある(こちら)。東と西の道徳観、生活信条の違いはおもしろい。
(5)水戸領では、農作業するにも朝は陽が昇ってからでて、煙草をすいながら鍬をふるい、くたびれれば昼寝をし、夕方は日が沈むころには帰る。そんなふうにして一生を終える。これを上方のように出精して働けば裕福になるだろう。土地の豊かさにおいて中程度の地方で、私たちのように横着すれば暮らしていけないだろう。だが、その点でこの地方は上方、京坂地方より上国と言える。
(6)上方では、収量をあげようとすると、作付け面積を減らし、肥料を増やす。こちらでは逆に作付け面積をふやして小作に出す。いきおい肥料の投入も減って、手入れも行き届かず、そのため収量はさほど増えない。上方の方法には学ぶことがある。

──庄屋小衛門の語りは(3)と(5)で対比されるように現状肯定的である。上方のように出精すれば裕福になるだろうが、横着しても暮らしてゆけるこの地方は、上方より上国だと言う。現状に満足するつまり保守的な庄屋を批判する声も当時あったろうが、この庄屋の価値観に現代に生きるわたしは共感できるものがある。

──以上は庄屋小衛門が語ったと同時に水戸藩において地方行政をになった端亭が関心をよせて記録したものである。端亭は批判めいたことをいっさい述べていない。そこに端亭の価値観を見いだすこともできるのではないか。水戸藩の地方行政官の自己認識をもうかがうことができるすぐれた記録である。

■参考:史料 水戸領庄屋の東西論

5 寛政12年 陸奥泉藩主 ─ 本多忠籌「庚申紀行」

古文書学習会編『道中記にみる江戸時代の日立地方』より

本多忠籌(ただかず)は、元文4年(1739)生まれ、宝暦4年(1754)家督を継ぐ。松平定信の寛政の改革をたすけ、寛政2年(1790)に老中格。寛政10年10月、六十のとき老中職辞任。家督を譲って隠居。寛政12年5月に17年ぶりに泉に帰国。その時の紀行文がこの「庚申紀行」である。文化9年(1812)江戸で歿。陸奥国菊多郡(いわき市)の泉藩は、忠籌のときに1万5千石から2万石に加増される。
森山近くなりぬれハ、所々の山あい松のひまひまより海見へて、よする白浪も遥なれハ音も聞へす。只白雪の消残れるか如くなり。旅のつかれもしはし忘るゝ心地せり。

──「森山近く」とは、大甕神社あたりだろう。海岸の松林のすきまから白波がよせる海が見えた。江戸から水戸海道、岩城海道とくだってきて山は見えていても、海が見えるのは石名坂をのぼってから。岩城海道の最高地点はこのあたりである。標高50から60メートル。このあたりは次の記録にもでてくるが、旅人をいやす絶景ポイントであった。地元にとってはあたりまえの風景なのだが。

6 文政6年 陸奥二本松藩士 ─ 成田鶴斎「南轎紀游」

榎本實解説『南轎紀游』・『道中記にみる江戸時代の日立地方』・
久野勝弥編『他藩士の見た水戸』より

成田鶴斎は実名頼直。二本松藩の郡奉行・郡代・城代を歴任。天保4年(1833)4月27日没。「予耳聾故初相見ニ相コトハリ互ニ筆語ヲ以テ言詞ヲ通ス」
[三月八日]…其前[境明神の祠]ヲ過テ南ヘ下レハ常陸ニ成テ、徳田村ト云アリ。…是ヨリ水戸領也。棚倉以南田ヲ耕スニ大ナル三爪アル鉄器ヲ用ユ、柄モ鋤鍬ヨリ二尺許モ長シ。備中鍬ト云ル由。鍬ヨリハ軽クシテ老少男女通シ用ヒ、乾田ヲ起スニ甚便ナリ。…近年安積ニモ此鍬流行…
[三月九日]…徳田ヲ発シ小島[妻]、小中、大中ナト云村ヲスク。左右山峰相連ルサマ頗ル臺宿、伊香辺ニ似タリ。大中ヨリハ山モ開ケ田圃モ廣シ。…小高川[里川]ハ石多ク流モ急ナレト用水ニ専スル事ト見エ、川沿ノ村々枠蛇籠ノ類支度シ、或ハ川中ノ石ヲ畳ミ、堤ヲ上ルナト水ヲ引。普請最中也。安積安達ノ地面ニモ如此場所ナキニ非ス。然ニ水ヲ引計ヒ専ナルヲ見ス。懶惰ノ故ナランカ。…太田ノ治下ニ至ル。四方トモニ甚廣平ニシテ田圃開ケ、目ノ及フ処畳ヲ布ルカ如シ。尤地モ肥饒ト見ユ。…佐竹氏此良田美地ニヨリ頗ル強大ナリシ事、想像スルニ足レリ。…此夜ヨリ旅店ノ饗ニ鮮魚アリ。…
[三月十日]旅子、歌川、一毛、枝川ナト云村々ヲスグ。…徳田ヨリ太田迄ノ村々ト違ヒ貧困ノ様子ニテ茅屋モ見苦シク、田畑ノ手入モ行届キ難ク見ユル。…枝川ヲ出レハ中川ト云ル大河アリ。本藩ヨリ江戸邸ニ運送スル米豆杯モ黒羽河岸ヨリ廻セルハ爰ニ出ルト云、両岸ニ繋ル舟モ餘多アリ。渡舟ノ出ル内シハシ休ラヒシニ、小舟ニ棹サシテ下ル舟二三艘アリ。其疾事矢ヲ射ルカ如シ。山中ニハカリ住セシ我々ニシテハ珍ラシク潔ヨキ見物ナリキ。…
[三月十一日 小宮山楓軒宅訪問]ヤヽ暫有テ酒飯ノ供エアリ。…岡野氏ノ児モ来…当十一歳ナル由、妙齢可愛、主人ヲ始岡野氏ノ児ニ至ル迄皆綿服劔ノ飾ニ華美ノ物ヲ見ズ。酒羮モ鮮鯛等ノ美味有ト云トモ、酒ヲスヽムルニ足ノミニテ餘計ノコトナシ。義公ノ御遺制ナリヤ質実ノ御家風ノ可欽。
[三月十二日]今日徑過スル処藩士ノ邸宅多シ。重職ノ宅ハ言ニ不及、諸者頭ノ宅モ長屋門、玄関有テ、玄関ニハ武器及ヒ金紋革覆アル具足櫃ヲ置サル家ナシ。武備ノ廃弛ナキ御制ニヤ、奥ユカシ。
[三月十三日]石那坂ト云ル坂ヲ登レハ…松林ノ間ヨリ南海久慈濱眼下ニアリ。龍鱗ヲナセル老松村々ト並植テ、其前ニ久慈川流レ入、白沙冽湾ヲナシ、沖ノ方ハ藍青ヲ畳ミ、岸ウツ波ハ白雪ヲ散ス。滄海ヲ目撃セサルコト卅余年ノ久キ今ニシテ是ヲミレハ、旧相識ニ遇ヘルカ如ク、又新知己ヲ得ルカ如ク覚ヌ。停観スルコト多、時起テ行コトヲ忘ル

二本松領内からでる機会が少なく、かつ藩の重職をになっている成田鶴斎が自領と水戸領を比較するようにして記述している箇所をぬきだした。

備中鍬 備中鍬は畑を深く耕すときや史料にもあるように水田の荒起しに用いられる。まんのう(万能)とも。江戸時代後期19世紀に普及。鶴斎は棚倉以南、つまり水戸領でよく見かけると言い、二本松を含む安積地方では近年普及しはじまったと言う。備中鍬が用いられるということは、水戸領では牛馬耕が普及していないということを示す。

懶惰の故ならんか 里川には急流にもかかわらず天正年間築造の里野宮堰、慶安2年(1649)の田渡堰、明暦2年(1656)着工の赤須堰(茅根堰)などがあった。鶴斎が歩いたとき、川沿いの村々では枠と蛇籠を用意し、川に石を畳のように敷いて堤を上げて水を引く工事をしていた。この時期に堰は新設されていないので、維持補修工事であろう。それにくらべて安積・安達地方には用水工事の光景はあまり見られない。その理由を鶴斎は安積地方の民の怠惰によるのかもしれないと言う。

鮮魚 鶴斎は太田に宿泊する。夕食に鮮魚がでてきた。道中初めてのことであった。その夜から旅店では鮮魚がでるようになったと言う。鮮魚はつまり刺身料理のことであろう。太田の鮮魚は川魚でなく久慈浜でとれたものに違いない。当時鮮魚が食べられるのは、輸送距離からいって太田が限度だったのであろう。それより遠くでは魚料理が振る舞われたとしても塩漬けされたものしか提供されなかったのである。

はやきこと矢を射るがごとし 太田から額田そして岩城海道の田彦宿にでる。そして枝川で那珂川を渡る。そこで目にしたのが、那珂川を小さな舟がくだってゆくさまである。その疾きこと矢を射るが如し。山あいに暮す我々には珍しくかつ小気味よく見物できたと言う。

余計のことなし 水戸では多くの人と面会する。この日は、小宮山楓軒を訪ね、酒と食事の歓待を受けた。鯛の刺身がでたが、酒の肴以上の大げさなものではなかった。それは義公が残した風習なのか、質実な水戸家の家風をうやまうべきである、と鶴斎は感想を述べる。

武備の廃弛なき御制 鶴斎は水戸の武家屋敷町を歩いていて気付く。上士から下士まですべての武家の玄関には武具が置いてある。戦に対する備えにゆるみはない、とここでも水戸家中の風習に驚きを隠さない。

石那坂と云る坂を登れば 三十数年ぶりに海を見て、鶴斎は古い友人に出会ったように、また新しい友人得たように感じ、時を忘れて海のながめた。「白沙冽湾ヲナシ、沖ノ方ハ藍青ヲ畳ミ、岸ウツ波ハ白雪ヲ散ス」は、たんに修辞ではなく、心からの直截な表現だったと思われる。それほどまでに水戸から岩城海道の平坦な低地を北に歩んでくると、石名坂からの太洋の眺望は新鮮なものに映ったのである。

7 天保11年 伊勢松坂の商人 ─ 小津久足「陸奥日記」

茨城県教育庁文化課編『茨城県歴史の道調査事業報告書近世編Ⅲ』より

小津久足は安政5年(1858)に55歳で歿。通称与右衛門、久足は実名。伊勢松坂で干鰯問屋を営み、江戸深川に支店がある。家業のかたわら国学を学ぶ。久足37歳の時、天保11年(1840)2月27日江戸を発ち、潮来、銚子、鹿島、土浦、水戸をめぐり、陸奥松島を見物して3月27日江戸にもどる。
[三月七日]…小目、新沼なといふ村をすき田中々村といふにいたれハ、浜街道にてこハ仙台にかよふ大路なれハ、こよなくみちひろし。…石名坂といふ小坂をのほれハ石名坂村といふ村にて、こゝより右のかたにハ大海みえ…この[大甕神社]まへに饅頭をうる家に馬とゝめて茶をこひたるに、今茶ハなし、あたゝめなハ時うつりなん。隣の家にて饅頭をもとめて茶をのみたまひね、といへるハ利をあらそハさる質朴の風賞すへし。それのみならす馬夫も礼儀いとたゝしく、しれる馬夫の馬ひけるにあへは、たかひにかふれる手拭をとりて目礼をたゝしくせり。…
その三日原むらをハなれて、並木の松の右に泉川みちといふ石のしるしたちて、歌によめる泉*といふハこゝなりといふも、かたハらいたし。…
下孫宿に至り、池田屋何某と言ふもゝの家に宿りぬ。この辺りに鯨打ち寄りし由、その背につきたりし貝なりとて見せたる。貝また目慣れぬものなりしかば、一つ乞ひうけぬかす、五つばかりありしを主は残らず与へまほしき顔つきなりしは、素直なる国風なり。…

右のかたには大海 小津は太田から東へ向かい、田中内で岩城海道にでた。岩城海道はそれまでの道とくらべて格段に広いと感じられた。おそらく箱根の峠を越えて江戸にやってきた小津にとっては「小坂」の石名坂を登りきると右の方に大きな海が見えた。やはり石名坂を登りきったところで目に入る海に旅人のだれもが感動するのだろう。大切にしたかった風景である。

利を争はざる質朴の風 小津は大甕神社前の饅頭屋で乗っていた馬から下りて茶を求めた。しかしその饅頭屋は、湯が沸いていない、温めるのに時間がかかるので、となりの茶店で饅頭を買って茶を飲みなさいと勧め。そのとき小津がいだいた感想が、隣の店と競争しない「質朴の風」であった。大店を経営する小津にとって驚きだった。そればかりでなく、海道を行き来する馬子たちもすれ違うときに互いに被っていた手拭いをとって会釈しあうことにも質朴の風を感じたのである。

かたはらいたし 国学を学ぶ小津は当然のことながら歌を詠む。この「陸奥日記」のあちこちに彼の歌が載っていることからわかる。その小津は、百人一首にある中納言兼輔の「みかの原わきて流るゝ泉川いつ見きとてか恋しかるらむ」がここ水木を舞台にしているとの地元の説を、小津は「かたはらいたし」と一言。
──事実でないことはその通りなのだが、それほど強い調子で言うことであろうか。この地域の人々が百人一首にことよせて、泉を泉川となづけ、近くにみか の原という地名を与えた。大甕おおみかという地名がもともとからあって、その甕から百人一首につなげた東国の人々の京文化へのあこがれを小津は嘲笑しているかのようである(感想です)

素直なる国風なり 下孫宿の池田屋に泊まった小津は、近くの浜に打ち寄せられたクジラの背についていた貝を主人から見せられる。ひとつ欲しいと言うと、五つすべてをくれたそうな顔をしていた。それを「素直なる国風」と評した。伊勢の商人が宿泊した。となりの助川の宿場にくらべて見劣りのする下孫宿の旅籠の主人は、はるか異国の珍客に精一杯のもてなしをしたのである。

──小津九足が各所でみせる記述には、成田鶴斎や次の森村新蔵とは異質なものを感じる。「かたはらいたし」という強い調子の侮蔑表現があるだけでなく、読みようによっては、現代ふうに言えば、寄り添う、元気を与えたい、などと同様に上から目線と思える感想が随所にみられるからである(感想です)

■参考:伊勢国松坂の商人がみた水戸領

8 天保12年 上野国の大地主 ─ 森村新蔵「北国見聞記」

古文書学習会編『道中記にみる江戸時代の日立地方』

森村新蔵は上野国那波郡連取村(群馬県伊勢崎市)の大地主で質屋を営み、旗本駒井氏の地役人を勤める。日本中を旅して「北国見聞記」をはじめ「西国見聞記」、「伊豆総房漫遊記」などを書き残す。「北国見聞記」は連取村の仲間5人と、天保12年(1841)6月11日に連取を出立し、9月23日までの約百日間、常陸経由で金華山、湯殿山、函館、松前に足をのばした。
磯浜の鮑の蒲焼…此処に葭簀囲の茶店ありて酒肴も商ふ故立寄、休息の間蚫取を見物せしに、予が如き海なき国に生れてハ誠に珍しく思ハず時をぞうつしける、扨又爰ニ珍しき物と云ハ蚫を蒲焼となし酒の肴に出せしが、其味ひ至て美にして、是迄喰ハざる故殊の外賞玩せり。
水木の泉川…久慈を出て水木村に至ル。…泉ノ森アリ。…此社[泉明神]の山下に巖峙ツてさも恐しけなる処あり。其岩の根より清水出る。是を泉川と名付、又此社地を三ケの原と云。此清水出る池の辺に人大勢集り、聲を揃へて御湧給ひ湧給へと高聲に叫ぶ時ハ水湧出る事常に十倍せり。又叫び止時ハ常の如く静に出るなり。是奇妙の事共也。…
河原子の風景…此辺[河原子]塩焼浜にて浪打際ヲ行に風景よろし。此処家立町并にて海涯通りにハ料理茶屋七八軒あり、家ことに女藝者抔置、貸座敷又屋形船、平舟等の貸舟ありて賑敷処なり、裏町通りハ皆漁父、塩焼渡世なり。此町裏に海中に突出たる小島あり…。予の行し時ハ折節汐干にて淵を渡り島迄行見しに此山異石にして其景色言語に述がたし。

森村は水戸から磯浜(大洗町)に出て、那珂湊、村松、久慈浜、水木そして河原子という道筋をたどった。浜沿いに道をとるのは珍しい。それだけに漁村の風物描写は貴重である。

磯浜の鮑の蒲焼  海のない上州で生まれ育った森村にとって鮑とりは珍しかっただけでなく酒の肴に鮑の蒲焼きが出てきたときには驚いたことであろう。「その味わいいたって美」は想像できるが、はたしてどんな味なのだろうか。

水木の泉川 泉の傍らで人が大勢あつまり、大声で叫ぶと水が普段の10倍の高さで噴き上った。泉の傍らで飛び跳ねると噴き上る、と他の道中日記の記事もあった。現代ではそんなことをする人を見かけないが、現代でも起こることなのだろうか。

河原子の風景 森村にとってやはり漁師町や海辺の景色は珍しかった。ここ河原子の町場の描写は磯浜、那珂湊にくらべても詳細である。「海中に突き出た小島」は今に言う烏帽子岩と思われ、森村が訪れたときは潮がひいていて、烏帽子岩に渡ることができた。「この山は異石にして、その景色は言語に尽しがたい」との表現も過大でなかった。

──あたりまえのことなのだが、その土地の住民にとって見慣れた風景が、旅人には異形に映ることがある。旅人に見えるものを大切にしたいものである。

9 嘉永4年 勤王の思想家 ─ 吉田松陰「東北遊日記」

久野勝弥編『他藩士の見た水戸』・『道中記にみる江戸時代の日立地方』より

吉田松陰のことはあらためて紹介するまでもないであろう。松陰は畿内・山陽道・西海道・東海道をめぐっていたものの、東山道と北陸道をしたことはなかったと言う。嘉永4年(1851)12月に江戸を発ち、東北(陸奥・出羽)をめぐり、翌年5月江戸に戻る。5ヶ月におよぶ旅の記録が「東北遊日記」である。
東山・北陸は土広く山峻しくして、古より英雄割拠し、奸兇巣穴す。
[原文]東山北陸土曠山峻。自古英雄割據焉。奸兇巣穴焉。

短い記述かつわかりやすので、説明はしない。

──いにしえからの英雄とは誰をさすのであろうか。推測するしかないのだが、水戸領域で言えば、近くは水戸徳川氏、さかのぼって佐竹氏、源頼朝、八幡太郎こと源義家、さらにさかのぼり常陸国風土記に登場するヤマトタケル。つまりいずれも西からやってきた常陸国の征服者である。

と考えてくれば、巣穴する奸兇つまり悪者は、征服・支配対象のことである。

巣穴の意味について、辞書的な理解でいえば鳥獣の住まい。その理解でいいが、それだけではなく、〈巣〉は、縄文時代以来の〈ツリーハウス〉を意味し、夏に利用する。冬は〈穴〉、つまり竪穴住居で暮す人々(この理解は、建築史家の藤森照信による。出典は失念。夏に穴蔵で暮すのは、たしかにつらい。蚊がひっきりなしに襲ってくるだろうし。なら樹上に逃げるのは合理的である。考古学的にはツリーハウスは発掘で見つけられないから、藤森の推測は首肯ける。当時西には高床式の建物が普及していたから、穴蔵つまり竪穴住居に住む東は文化の遅れた地域)。巣穴に暮す縄文人。つまり東の野蛮人のことだと理解する。

西が東を征服する。それが日本の歴史である。これが西国出身で尊王論者である松陰の日本史の理解である。

西と北の境界にある水戸

概して江戸から西の人と東北や北関東の人の目に映った水戸領は異なる。

西の人の視線はひややかだったり、上から目線。つまり経済・文化において西に比べて東は劣っているという認識が根底にある。

一方、奥州や上州の人は、水戸領の農業技術の先進性、暮らしの豊かさとか、水戸藩士の質実剛健な生活態度、百姓たちの勤勉さ、礼儀ただしさ、そして海の恵みと海辺の風景を称賛する。

水戸領は西と北のはざまにある地であった。

そして長い海岸線をもっている。