史料 天保三年西国道中記

本史料は PDF版 天保三年西国道中記 として提供します。

天保3年(1832)に常陸国久慈郡下土木内村(茨城県日立市)の白八・忠八ら久慈川下流域5ヶ村8人の一行が西国に寺社めぐりの旅に出ます。正月10日に出立し、4月23日に帰郷します。およそ3ヶ月余の旅でした。途中で病人がでて宿に滞留したり、川止めにあったり、足並みがそろわずいつしか二組に離ればなれになってしまったり、長い道中ですからいろんなことがありました。

この道中記を書いたのは留村(日立市)の大内忠三郎です。忠三郎はどんな人物なのか、調べていません。それぞれの村に西国を旅した記念の石碑が建立されているかもしれません。機会があったら調査しておきましょう。なおこの道中記を日立市郷土博物館に寄贈されたのは、日立市留町の大内克寿さんです。大内さんのご先祖であることは間違いありません。

とてもおもしろい記録です。読んでいて旅の一行を心配したり、著者のユーモアを感じたり。江戸時代の農民の意識や行動、そして教養の水準を知ることができるすぐれた記録です。

この楷書・行書・草書がいりまじった「西国道中記」を読み解いたのは、日立市郷土博物館で活動する古文書学習会です。2002年に読み終え、プリントして会員にのみ配付されました。会員名は本書の凡例をご覧ください。

ところで、なぜ天保3年かというと、信州の善光寺において6年に一度の本尊御開帳があったからでした。正月から4月は農閑期で、それにあわせて善光寺も開帳となるのです。

史料の読み方 この史料は、ひらがなに濁点があったり、なかったり。また同音の宛漢字があったりします。註記せずにそのままにしてありますから、読み手が脳内で濁点を打ったり、同音の別の漢字をあてたりしなければなりません。たとえば「馬喰丁二丁めさかみや」は「馬喰町二丁目相模屋」、「芝仙閣寺」は「芝泉岳寺」、京西本願寺の「こふてん上」は「格天井」と註記すべきところですが、そのままにしています。こうしたところが各所にあります。解読あるいは著者のまちがい、校正ミスだとせずにいろいろ考えてみてください。わかったときはうれしいものです。

目次


記載項目

日にちと天候、神社仏閣の大きさ、旧跡とその故事来歴、主な宿駅間の距離、船渡場とその料金、名物、昼食をとった店と料金、宿の名称と料金、それらの評判などが書きこまれています。そのほかに、たとえば箱根の峠にさしかかるときには「わらじに心掛けるべし」と旅の注意事項を書きとめています。典型的な道中記(旅行ガイドブック)です。

旅 程

概要をしめします。

1月10日に村松(那珂郡東海村)を出発します。

此所桜屋ニて同行一同待合申候
那賀湊壱丁め恵比須や藤兵衛中食
祝町舟渡し五文つゝ
磯濱通り壱丁程行、右之方ニ道祖神有、道中安全之ためわらんじ壱足奉納仕、祈念仕候

1/10 村松─1/11 鹿島─1/13 成田─1/14〜17 江戸─<東海道>─1/20 箱根─1/24 久能山─1/28 秋葉山─2/4 名古屋─2/5 桑名─2/7 伊勢─2/14 熊野─2/23 高野山─2/26 大坂─3/2 奈良─3/4 宇治・石山寺─3/6 大津─3/7〜11 京─3/17 須磨─3/22 金毘羅─3/24 姫路─3/27 福知山─3/28 宮津─4/1 長浜─4/2 醒ケ井─<中山道>─4/10 諏訪─4/1 2善光寺─4/14 上田─4/16 妙義山─4/21 日光─4/23 額田

額田(那珂市)に到着して旅は終ります。次のように記して道中記をとじます。

額田ニて同行一どふいつミや半兵衛ニて酒肴汲かわし、いろいろ品々しやれ申候
是より手紙出ス、宿ニむかいのものまいり仕候
此日目出度、以上

以下興味をひかれたうちからいくつかのことがらをとりあげてみます。

有料の橋

1月28日の条に次のような記載があります。

森町前より四拾八背川有、森町迄ニ弐ヶ所渡る、何れも橋賃三文つゝ也、一ノ瀬迄ニ四十八瀬渡る也、橋賃出し候處六七ヶ所有、何れも三文つゝ

森町は静岡県周智郡森町です。掛川市の北に位置する山あいの村です。この森町を流れる川は三倉川というのですが、この時代は四十八瀬川と言っていました。一ノ瀬は森町三倉にあります。一ノ瀬から浅瀬を48回渡って秋葉山のふもと犬居に向かいました。秋葉山本宮上社に向う道中のことです。足をぬらしながら浅瀬をわたるほかに橋が架かっていたところがあったのでしょう。なお48回というのは、岩城海道四十八坂と同じで、たくさんあるという意味でしょう。

橋を渡るのは基本無料です。ですがこのときは六七ヶ所の橋を渡るときに橋賃を支払ったのでした。深いところには橋を架けて秋葉山に詣でる人々に便宜をはかったのでしょう。参詣人から利用料を徴収する当時の感覚は現代でも理解できます。

秋葉路は子供うるさし

翌1月29日、秋葉山三尺坊大權現(静岡県浜松市天竜区春野町領家)を参詣します。そのときの様子を次のよう記します。

秋葉山御山五十丁登り、此間老若男女錢貰多し、
子供曰、よふたんな、壱文くんな、御山もかろく御足もかろくなるやうにおかみますほとに壱文くんな、よふだんな、
旅人の曰、錢ハないと言、
又曰、御錢がなうてのんのふまいりかなるものか、ずいぶんけつかうなおたんなさん、とふぞ壱文くんな、
旅人壱文遣し、
又曰、いたゞいて、道中安全御家内安全ニまもらセ給ひ、南無三尺坊様とうやまつてもふす、
誠ニ秋葉路ハ子供うるさし

と言いながら、忠三郎はけっして子供たちをさげすんではいません。少々迷惑であるけれども、子供たちとのやりとりを楽しんでいるように思えます。

無料の川渡し

2月24日の条に高野山を参詣後、泉州槇尾山施福寺に向うおり紀の川を渡る記事があります。

紀の川の渡し永代むせん、然し船頭酒手といふ、三文遣ス

酒代を船頭に渡すのですが、船渡し賃が無料というのは珍しい。高野山への参詣の道だからでしょうが、秋葉山とは逆の例です。

京にて

寺社の評判を記した例をひとつ紹介します。3月9日、京の金閣寺を参詣したときのことです。

金閣寺拜見 弐百文
是は金閣寺行ニ不及、夫程之事もなし

金に魅かれて200文を払って拝観したのですが、金箔ははげ落ちていたのでしょうか、落胆した様子がうかがえます。ちなみに200文は現代ではどのくらいになるのか。この旅の1泊2食つきの宿の料金が180文から200文です。当時の食事は現代ほど豪華ではなかったでしょうから、金閣寺拝観料は7000円くらいでしょうか。「行くに及ばず」は忠三郎の正直なところでしょう。

そのようなことは金閣寺だけのことです。たとえば西本願寺をたずねて、その豪華さに圧倒されて、その様子をことこまかに記録し「尚筆紙に尽しがたし」で結んでいます。

京をたつ直前に次のようにアドバイスします。

京都買物はよくよくねきるへし、ことばハやわらかニして心もちふとい所ニよくよく心得べし、きぬもの買へからす

京都で買い物をするなら、よくよく値切ること。言葉はやわらかいが、心は太いので注意を。絹織物だけは買ってはならない、と言うのです。「太い」には幾通りかの意味があります。ここには書きませんが、辞典をひいてみてください。京の人の言葉についての評判は江戸時代にもあって、東国の片田舎の忠三郎も感じるものがあったのでしょう。がっかりしたり驚いたり、京を評判するのは一筋縄にはいかないということでしょう。

海をわたる ─ 金毘羅へ

3月17日夜、明石の西の高砂の浦(兵庫県高砂市)から船に乗り瀬戸内海をわたり金毘羅へ向かいます。高砂では船宿にたちより、夕食をとり、風呂に入り、船旅に必要な物を買います。そして夜四つ時(午後10時)に出船です。翌18日の四つ時(午前10時)風向きがわるく室津(兵庫県たつの市)に停泊します。翌19日も同様で、忠三郎たちは室津で遊びます。二十日になってようやく室津をでて、丸亀に向います。船中泊して21日の五つ時(午前8時)にようやく丸亀に到着です。のべ五日かかりました。

帰路は22日に丸亀をでて23日の八つ時(午後2時)室津に上陸できました。風向きによって停泊を余儀なくされるとその間の宿泊費が心配になります。3月22日の条に次のようにあります。

悪風ニて幾日いるとも船よりまかない出る、百五十文之外せに(銭)いらぬ也

これで一安心です。船旅の保険が船賃150文に含まれていたということでしょうか。

船旅は忠三郎たちにとって初めてのことであるし、後に続く旅人へ伝える必要もあり、いろいろと書きとめています。

荷物の回送

熊野から大坂、奈良にむけて伊勢を発つときに荷物を京都に送っています。土産物がふくらみ重くなったのでしょう。同様に3月11日、金毘羅山にむけて京都を出発するときに、米原(滋賀県米原市)に荷物を廻しています。

京都より前(米)原迄荷物廻ス、壱貫目ニ付百四文、正七より引替之一札受取、前原磯邊九兵衛方一札渡し、荷物うけ取可申事

そして4月1日に金毘羅からの帰途、次のように信州善光寺に向かう道中の米原で荷をうけとっています。預り賃(蔵敷)は一人10文でした。

此米原磯邊九兵衛殿方ニて、京より廻し荷物手形引替うけ取、藏敷壱人前ニて十文ツヽ

4月11日には岡田村(長野県松本市)の宿屋で同様に上田(長野県上田市)に回送しています。重量1貫につき64文を支払います。荷をかるくして松本から善光寺を参り、帰路の上田の宿泊先で荷をうけとっています。宿屋の預り賃(蔵敷)は6文でした。

このように旅人の荷物の回送システムができあがっていたのです。

人と物の動きが一段と活発になるのが江戸時代。それを支える仕組みが当然つくられ、逆にそうしたシステムをつくって人と物の流れを呼びおこす、そんなことを江戸時代の人々は考えたということでしょうか。

伝説を記録する

3月9日に京都大徳寺の一休廟所を訪ねます。そこで一休が亡くなる直前のエピソードを(おそらく案内人から)聞かされます。

弟子形見ニなんそと頼、一休紙筆といふ、則弟子持參ス
一休書ス
しにともないと書
弟子共是てわといふ
一休又書ス
うそてわないと書

床にふせっている一休に、弟子が形見に何かいただけないかと言う。一休は紙と筆をもってきなさいと言う。弟子はもってきた。そこで一休が書いたのは「死にたくない」。弟子は「先生、これでは…」と絶句した。一休はまた筆をとり「嘘ではない」と書いた。

思わず声をだして笑ってしまいましたが、大内忠三郎も笑みをうかべながら書きとめたにちがいありません。案内人は遠くからの旅人をユーモアでもてなしたのです。

一休宗純(1394-1481)は生存中にその出自から偉人化されますが、頓智話の一休像は、こうしたエピソードからつくられていくのでしょう。この話は現在ではいろいろなかたちで伝わっています。この道中記にほかにも多くの伝説が記録されています(2月19日の条にある道成寺での安珍清姫の伝説が代表的です)が、一休伝説同様に現在に伝わるのはさまざまです。

伝説というのは、時と場所、伝える人によって変わるものだということです。