川尻浜五十集約定 — 魚仲買人規約 —
天保2年(1831)4月、水戸藩領の常陸国多賀郡川尻村(日立市)で作成された「惣五十集面附帳」がある[1]。この史料は『日立市史』(1959年)や『新修日立市史 上巻』(1994年)において用いられているが、あらためて紹介する。
『茨城県史料 近世社会経済編Ⅳ』(1993年)には全文翻刻されているが、こちら 多賀郡川尻村五十集定及び面附 でテキスト化した。
史料について
- ◦表題:惣五十集面附帳
- ◦成立時期:天保2年4月
- ◦形態:横帳 本文20丁
- ◦所蔵:川尻蛭田家文書09(日立市郷土博物館収蔵)
目次
- 五十集とは
- 仲買人
- 「惣五十集面附帳」の概要
- 水戸藩の達
- 五十集札と五十集株
- 二つの五十集札
- 五十集株を持つ者176人
- 江戸五十集
- 江戸五十集面附
- 五十集約定
- 五十集約定改訂事情
五十集とは
『日本国語大辞典』は「いそ-ば【五十集】」の見出しで、「いさば(五十集)に同じ」とし、用例として「続昆陽漫録補」[1]の記述を示す。
大坂辺ニテ魚ヲイロイロ商フヲ五十集ト云ナリ、或云ク、今ハイサバト云ト〈以下、語源に関する記述は略〉
そして五十集の見出しで「魚を商う場所で魚市場にあたる。その商人を五十集師・五十集屋または五十集商人と呼んだが、のちには魚問屋・魚仲買などの魚商人をも五十集と呼ぶこともあった。魚問屋などは当時は各地で封建領主の許可のもとに株仲間[2]を形成し、魚類販売の独占権を保持していたことが多かったが、彼らはその代りに領主に税を納めなくてはならなかった。」と解説する。
また江戸時代の地方書である「地方凡例録」[3]には次のようにある。
五十集商人 魚類を五十集物と云ひ、魚商売致す者を五十集商人と云ふ
以上のように「五十集」は説明されるが、以下、川尻村の「惣五十集面附帳」に即してみていく。
- [1]青木昆陽著。明和5年(1768)成立。天明7年(1787)の写本(東北大学附属図書館蔵 狩野文庫マイクロ 国書データベースによる)
- [2]株仲間とは幕府・藩に認可された独占的な商工業者の組合仲間をいう。
- [3]大石久敬著。寛政5年(1793)成立。ここでは大石慎三郎校訂本(近藤出版社 1969年)によった。
仲買人
本史料の末尾の文面に
右当村中買五⼗集……御⽥地出精之上中買可致
とある。五十集の前に中買をおいて、五十集を説明する。中買は仲買のことで、五十集=仲買であることを示す。
一般に仲買人とは問屋と小売人を結ぶ商人をさすが、生産者と問屋とを結ぶ商人をさす場合もある。五十集は後者である。かつ川尻村での五十集は、のちに見るように漁業者(船主)から直接買い取る小売商人も含んでいる。
漁業者と問屋の間に仲買人が入るのは、漁業の特性にある。農業は計画性をもって栽培、収穫、出荷ができる。種蒔きから収穫まで日々天候と作物の生育状況を見ながら出荷を予定することができる。商品は米麦、豆類、紅花、葉たばこなど乾燥されたものである。離れた地にある問屋への出荷・販売も急がずとも生産者ができる。
しかし漁業はそうではない。大半は生ものである。天候だけでなく、カツオ・サンマ・イワシなどの回遊魚などでもなくともいつやってくるかおおよその時期はわかっても日々その動きを予測できない。隣の浜からの情報が入っても、沖にでて網をしかけ、釣り針をおろしてみなければわからない。漁があったからといって、漁業者が問屋へ販売に出向くことはできない。翌日の漁も逃すわけにいかない。そこに漁業者と問屋の間に仲買人が介在する必要がある。
その仲買人は浜に必須である。仲買人は五十集という仲間(株)組織をつくる。ここ川尻村にだけ五十集があったわけではない。すべての浜に五十集は存在した。
惣五十集面附帳の概要
この「惣五十集面附帳」の内容は、(1)五十集規定の変更を求める水戸藩の達(2)それを受けた村の五十集約定変更趣旨(3)五十集札様式(4)五十集に加入する者176人の名簿、(5)幕府役人の江戸における五十集の活動に関する指示(6)川尻村における江戸出荷五十集加入者44人の名簿(7)川尻村五十集規定、あわせて7項目からなる。順を追って説明する。
水戸藩の達
(1)の藩の達は以下のとおりである。
其村五十集共累年人数相過、数人之内ニ者不心得之者茂有之、漁物代金相滞、船主共及難儀候也ニ而文化二丑年主法相立、田畑請地共ニ見込五石以上耕作致候者ハ本札与唱、造荷勝手次第、右已下之者ハ半札与名附、横田附・振り売ニ限り、其節新規組入候者ハ長ク半札之筈取極メ候也、畢竟時勢ニより相定候事とハ相見江候得共、于今至り候而者公ならさる事も相見候ニ付往古ニ復、本札・半札之差別ハ相止、文政九戌年組入候者相除、残五十集百七拾六人ヲ以株式相定、后後船主共不及難儀ニ候様正路ニ売買可為致候、勿論右商ニ傾、農事ニ怠り、或者不心得之者於有之ハ屹度指留可申候
但、株式相定候上者譲渡之儀ハ相対次第不苦候得共、居屋鋪・持高無之者江譲渡之義ハ不相成事ニ候、尤江戸出五十集之儀者只今迄村定之通居置、譲渡之儀ハ可為同断候
右之通自今以後村定相改、万端取締、未熟無之様五十集共江申付取扱可申事
天保二年卯三月
要約する。
— 川尻村の五十集の組合員は連年数が増え、なかには不心得の者がいて、漁獲物の代金が滞り、船主が困っていた。そこで文化2年(1805)に田畑5石以上所持・耕作する者を「本札」として魚の「造荷勝手次第」、5石未満のものは「半札」として横田附と振売りだけを認めることにした。かつ新規に加入するものは「半札」のみに限った。これらは当時はやむを得ない処置だったが、二十数年たった今、天保2年では不公平であるので、以前の規定に戻し、本札・半札の区分は廃止する。
ただし、組合員の数は制限するが、譲渡は可能。屋敷や田畑を所持しない者への譲渡は禁止する。なお江戸へ出荷する組合員の規約についてはこれまでの通りで、譲渡も可である。
以上が、天保2年3月の藩からの達である。
二種の五十集札
文化2年に五十集株に大きく本札と半札の2種類を設けた。「本札」は「造荷勝手次第」、「半札」は「横田附」と「振り売り」に限定される。
本札の「造荷勝手次第」とは、仲買人として魚を荷造りしてどこへ送ってもよい、という意であろう。肴問屋だけでなく小売店・料理店・旅籠など送り先は選ばない、ということか。
振り売はいわゆる棒手振のことである。店以外で商品を売る商法とその商人をさす。肩にかついだ棒に商品を提げて売り歩くことである。
横田附とは。こちら 河原子浜の魚はどこへ で紹介している弘化4年(1847)「諸国生荷附送り駄賃帳」にもあらわれる「横た附」のことだが、その内容は不詳としておいた[4]。本史料においても判然としないが、後述する。
- [4]赤城毅彦編『茨城方言民俗語辞典』(1991年)は、「ヨゴダ」の項目で「竹製の籠の一。大きい担い籠。ぼてふりの籠。上が楕円形で底が長方形をした浅く大きい籠で、魚を入れて運搬するに用いる。馬にのせる」と説明する。
五十集札と五十集株
(2)藩の指示を受けた川尻村では、五十集札について次のように改定した。五十集札とは今ふうに言えば仲買人免許証か。
五十集本札・半札与相訳、文化二丑年相渡置候処、此度本札・半札之差別相止候様 御達ニ付、書替百七拾六枚相渡申候、
— 五十集株仲間を本札と半札に分けていたのをやめ、176枚の札すべてを書き替える。
以後五十集株譲渡之儀者勝手次第ニ被仰付候へ共、村役人江相届、双方證文取返之上相譲可申事
— 五十集株の譲渡は自由とする。ただし村役人へ届け、証文を取り交わさなければならない。
五十集札
(3)新規の五十集札の様式は右図のとおり。表の中央上部に五十集と大書し、庄屋と舟庄屋の名、裏に発行時期と組頭4人の名を記す。
五十集株を持つ者176人
(4)上記の五十集札の様式に続けて、176人の名が記載される。川尻村の戸数は文化4年(1807)「水府志料」によれば、356戸。村の半数の家が魚の販売にかかわっていたことになる。
五十集株の所持者名の肩に「筈」と書かれた人物が二人いる。筈は隣り折笠村の字名である。この地は細道を挟んで川尻村の浜集落と接しており、川尻村と一体化している。もちろん漁もおこなう。こちら 史料 折笠村旧跡由来記録 を参照。
史料にはその後、慶応3年(1867)までの譲渡の状況が記録されている。一人一人の名の間は余白がとってあるのは株の譲渡を記録するためであることがわかる。
江戸造荷五十集
(5)この面附帳の後半に文化9年(1812)12月の幕府役人曲淵甲斐守[5]の達がある。
文化九申十二月日
曲淵甲斐守様ゟ
下総国布佐村一件ニ付濱々江御判紙到来、江戸出生魚荷主共御呼出被仰附候節、諸入用指出候者以来江戸売渡世可致様ニ村定相立置候処、此度御了簡之上江戸造荷五十集共之義者是迄村定之通居置、株式譲渡等之義ハ前件之通被仰附候間、以来江戸仲麻之者ども未熟無之様相心得、少茂船主共江難渋相掛間敷様正路ニ買引可致事
—「布佐村一件」[6]に関して、江戸出荷生魚の荷主を呼出した際、諸経費を指し出した者は江戸へ魚を送る商いができると村定めをしたところ、今回の判断により江戸へ魚荷を送る五十集たちはこれまでの村定の通りとし、五十集株の譲渡は前に指示した通りであるので、今後は江戸への魚荷を扱う者は船主に迷惑をかけないよう正しい方法で買取ること。
この曲淵甲斐守の達は、江戸への魚荷について問屋や仲買人へ生産者である船主の利益を保護するよう求めている。
- [5]曲淵甲斐守:幕府勘定奉行の曲淵景露であろう。景露は文化9年2月〜13年7月まで勘定奉行の職にあった。
- [6]布佐村一件:下総国布佐村(千葉県我孫子市)は利根川の右岸にあり、公式に認められた河岸ではないが「年貢津出・村用之荷物并鮮魚類」の積み下しは認められていた(『我孫子市史資料 近世篇Ⅲ』p.376)。銚子や鹿島灘からの鮮魚を江戸に輸送する際、この地で陸揚げされ、なま道(鮮魚道・松戸道)で松戸の河岸まで駄送され、江戸川に入り、日本橋の魚河岸に届けられる(『我孫子市史 近世篇』p.494)。
さて「布佐村一件」であるが、曲淵の達があった七年前に起った一件をさすか。概要は以下のとおり(『松戸市史 史料編(二)』収録史料118・119)。
文化2年9月に銚子の魚荷主から布佐村河岸での魚荷2割削減の通告があった。それは布佐村に揚げた生魚荷に駄馬の数が不足し、江戸へ送りだすのが遅れ、生魚が腐ってしまったからである。銚子の荷主は布佐村の怠慢に怒り、3里下流にある安食村(千葉県印旛郡栄町)で荷揚げし、草深村(千葉県印西市)から本行徳河岸(千葉県市川市)への道筋によって布佐・松戸を経由しない経路を考えた。松戸河岸の問屋が仲介に入り、布佐村周辺の村から馬の応援を得て運ぶこと、もし魚荷に損害がでたときは「損金弁金」を支払うことで交渉がなされ、結果、従来通り布佐河岸での全量荷揚げで落着した。
江戸五十集面附
(6)曲淵甲斐守の達のあとに「江戸五十集面附」として44人の名前が記される。44人中41人は前出の176人に含まれるが、残る3人はこの「江戸五十集面附」にのみ現われる。この3人は江戸出荷を専門とするか。
史料表題の「惣五十集面附帳」の「惣」とは、この江戸五十集もあわせて載せている、という意と受けとる。
五十集約定
(7)江戸五十集面附のあとに以下の記述がある。内容から江戸五十集を含めた全体の五十集にかかわる規定と考える。
右当村中買五⼗集永代新規加⼊不相成、前書⾯附之者⼈数相極、五⼗集株式ニ被仰付候上者譲渡勝⼿次第ニ相成申候事、尤御⽥地出精之上中買可致候、若シ農事怠五⼗集渡世計ニ傾、或者不⼼得之者ハ札引揚、屹ト売買指留可申事
— 川尻村におけ五十集は右の人数に限り、今後は増やさないが、譲渡は自由である。農業を怠りなくつとめ、中買(仲買)をすべし。農業を怠り、あるいは不心得のものがいれば、五十集札(仲買免許証)を引上げ、仲買業を差し止める。
このように言う。
五十集約定改訂事情
文化2年(1805)以前、魚の仲買人の増加につれ、一部仲買人による船主への魚代金支払いが停滞、遅延する事態が起こっていた。
魚代金の支払い遅延は、商業道徳の低下ではなく、仲買人の困窮化、窮迫化が起こっていたからではないか。問屋からの代金回収ができなかった、あるいは遅れた場合、それを当面自己負担し船主へ支払う。そうしたことができない弱小資本の仲買人が文化2年以前に増えつつあった。それへの対応として「半札」という魚荷発送に関し制限付きの仲買人枠を設定し、船主への滞納を減らそうとした。
(1)の天保2年の藩の達にあるように文化2年の約定において本札と半札を分けた基準は、田畑の所持高であった。これは土地を抵当として捉えている。船主への未払が発生した際の担保である。そして天保2年の改定指示案はそれらを緩和したものの、屋敷と田畑つまり抵当となる不動産を所持していない者への五十集株譲渡を禁じた。いずれにしても屋敷・耕地所持が低位にあることが船主への魚代金支払いを滞らせる間接的要因であると認識されていたのである。
半札とされた仲買人は、横田附と棒手振に限定された。棒手振は小売であり、魚を売ったその場で代金を回収する。と考えると、横田附とは荷継問屋及び魚問屋を通さずに仲買人や小売店あるいは大口の消費者(料理店・旅籠など)へ直売する(馬の背に載せて直接届ける)ことではないであろうか[7]。とするなら魚代金の回収が確実にその場でなしうる[8]ので、。零細な仲買人にも資金的余裕が生まれてくる。
そうした零細な仲買人・棒手振の経営が20年余で改善され、安定し、天保2年(1831)には制限付きの半札を設ける必要がなくなったということであろうか。
- [7]横田:『茨城民俗語辞典』には「ヨゴダ」の見出しで、「竹製の籠の一。大きいにない籠。ぼてふりの籠。上が楕円形で底が長方形をした浅く大きい籠で、魚をいれるて運搬するのにもちいる。馬にのせる。」と説明する。
- [8]こちら 河原子浜小又家の魚荷の送り先>史料 魚荷入附控送留覚帳 にみるように、河原子浜小又家では、弘化4年(1847)10月5日に奥州花園(福島県棚倉町)へ魚荷を発送し、現地に7日届けた。その代金は二十日後の27日に回収している。また10月5日に野州今市に向けて送った魚荷は7日朝には着き、その代金は荷駄の宰領が27日に受けとっている。花園や今市の問屋・仲買人が河原子浜の小又家に代金を届けに来るのではない、河原子から出向くのである。
参照文献
- 岡部真二「地方都市の河岸をめぐる近世から近代―霞ヶ浦西岸の土浦町を事例として―」(地方史研究協議会編『茨城の歴史的環境と地域形成』雄山閣 2009年)。
- 西口正隆「「一括史料」にみる近世・近代の流通構造変容―土浦河岸における魚問屋仲間の展開と魚会社の成立―」(『国文学研究資料館紀要 アーカイブズ研究篇』第18号 2022年)