史料 折笠村旧跡由来記録

目次──史料について|八幡太郎伝説|折笠村の概要|御城米蔵|川尻村と軒を接する|史料

史料について

本史料は、史料の末尾にあるように水戸藩からの「地理御改」があって、文化2年(1805)5月に折笠村が提出したもの控えである。同様にして作成されたものにこちら 大久保村地理諸訳下書 がある。

水戸藩は文化元年ごろに幕府から「封内の故事古跡及寺社の旧記古文書ノ類」を書き上げよとの指示を受けた。それをうけた水戸藩は郡奉行所を通じて、村々に作成・提出の指示を出した。久慈郡高倉村では同年7月、那珂郡照沼村では同年4月に提出している。これら村から提出されたものをもとに文化4年に「水府志料」としてまとめられた。

編纂したのは、当時南郡紅葉組の郡奉行を勤めていた小宮山楓軒である。立原翠軒の門で学び、史館総裁となった翠軒を助けた。そのような学問の力が見込まれたのであろうか、各郡奉行所から提出されたものを楓軒が編纂し、「水府志料」(別名「水戸領地理志」「御領中地理志」)として16巻18冊にまとめたあげた(茨城県史編さん近世次第1部会編『茨城県史料 近世地誌編』解題。1968年刊行)

今回も「史料 大久保村地理諸訳下書」同様に右側に「水府志料」の記述を掲載した。なお、「水府志料」編さんの元データとなった村の書上げは、日立市域においてはこの2村でしか確認していない。

八幡太郎伝説

折笠村は八幡太郎伝説が豊富なところである。

たとえば冒頭にある村名の折笠からして「身方之軍兵此折笠ニ集給フ也。六十六ヶ国之諸大名ニ笠ヲ拔セシ也。折笠トハ笠ヲ折ルト書也」というように、八幡太郎(源義家)が兵士たちを集め、その武将たちに笠(おそらく折網笠)を脱がせた。つまり笠を折りたたんだことに因むというのである。

冒頭には外に新籏・鍛冶打・経之内・假(仮)宿、2条には字石の入にある石にのこる馬の爪跡・馬口ち内・決拾磯・筈浜、16条にある館の平、24条の弓弦石、25条の馬の爪跡石といったように数多くの八幡太郎伝説が語られている。

永承6年(1051)―康平5年(1062)に陸奥国北部で安倍氏が反乱を起こした。朝廷は源頼義を陸奥守・鎮守府将軍に任じて、これを討たせた。頼義は苦戦した。出羽山北の俘囚主清原光頼・武則兄弟が一万の大軍を率いて頼義に加勢、これで源氏は勝利を得た。前九年の役である。この鎮圧行動の後半期に頼義の子義家が若くして加わっている。

奥羽地方はこれで治まったかにみえたが、11世紀後半、清原氏一族(異父異母兄弟三人)に内紛が起こる。永保3年(1083)秋、源義家(八幡太郎)が陸奥の新国守として赴任。義家が介入してから内紛が激化。義家は清原清衡に加担し、清衡は寛治元年(1087)11月14日、家衡を滅ぼす。後三年の役である。清衡は安倍氏の遺領陸奥の「奥六郡」と清原氏の遺領「出羽山北」とをあわせ領有することになり、父の藤原姓を名のり居館を平泉(岩手県)に定める。

折笠村の村名由来となる八幡太郎源義家の伝説は、安倍氏と清原氏の二氏を源義家が征討する話である。これは前九年の役と後三年の役とよばれる事件である。つまり時をへだてた二つの事件を一つにして、義家伝説を語っているのである。伝説とはそうしたものであろう。日立市域の八幡太郎義家伝説について『図説日立市史』が「八幡太郎義家伝説」で、前九年の役に関するものとしているが、折笠村に限れば異なって見える。江戸時代の農民にとって源義家は奥州「討伐」の英雄というだけで十分であり、その英雄に結びつくことは村びとにとって誇りとなるのだから。


折笠町の小字 緑の文字は八幡太郎伝説に登場する字名 

折笠村の概要

表紙と史料本文の冒頭に「山尾郷折笠村」とある。「山尾郷」とは、江戸時代において滑川以北の田尻、小木津、砂沢、折笠、川尻、友部、山部、伊師本郷、伊師浜、伊師町、石滝の12ヶ村を言った(「水府志料」多賀郡の条─この段落は2019-02-09に修正)

折笠村の村高は元禄郷帳では491余石、天保郷帳では524余石。日立市域では小さいほうである。寛永21年(1644)の「御知行割郷帳」(『茨城県史料 近世政治編Ⅰ』)によれば田は250余石、畑は241余石、水田と畑地が半々の村である。折笠村の集落は大きく二つに分れる。浜と岡(仮宿坪・中坪・上坪からなる)である。幕末期に浜には38戸163人、岡には33戸123人が住む(あわせて71戸。嘉永年間「折笠村絵図」『村絵図にみる日立』p.12)。海道にそって狭い区域に家が密集していることが、上記の絵図からもわかる。ちなみに西の砂沢村は27戸、南の小木津は319戸、北の川尻村は356戸である(「水府志料」)

なお3条に記載される鎮守三郎天神とは、祭神は菅原道真だが「往古友部村山直城主小野崎氏之鎮守ニ小野崎氏嫡子元服之砌ハ天神之社に詣て小野崎三郎と代々称し」てきたことにちなむという(天保14年「折笠村鎮守書」東京大学史料編纂所蔵。上記ノ凡例(2)参照)

ちなみに折笠村にはかつて寺が二つと修験者が一人いた。だが元禄の水戸藩徳川光圀による寺社改革により真言宗友部村法鷲院の門徒寺の福善院と行善院が廃寺となった(修験については不明。『新修日立市史』上巻)。本史料に神社の記載はあっても寺の記載がないのは、そうした理由による。

御城米蔵


拡大  文久2年(1862)「折笠浜年貢米津出絵図」(日立市郷土博物館特別展示図録『村絵図にみる日立』p.22)

27条から33条までは字筈にある「穴蔵」について記している。字筈は北の川尻村との境にある。現在では御番山とよばれる小高い山とその周辺の地区である。その麓の岩に様々な用途の穴が掘られている。御城米蔵・御炭蔵・炭蔵・萱蔵。

周辺の村の御城米(藩に納める米)が折笠に集められ、穴蔵に一時保管され、そして水戸城下まで船によって運ばれていった(絵図参照)。大量の年貢米を陸路を馬の背で運ぶよりは大量かつ短時日に運ぶことができる。

幕末になって、字筈の山上に異国船番所が造られ、その直下に砲台場が設けられた。

川尻村と軒を接する

御城米蔵のある字筈は北の川尻村との境にある。現在では(おそらく川尻町で住居表示が施行されてから)川尻町とされる1丁目1〜5番、43番の区域は本来ならば折笠町である。住居表示実施にあたって折笠川を境にして川尻と家並みが続いている字筈を切り離して、川尻町に含めたのであろう。とくに川尻町1丁目1番から3番の字筈の集落は、道をはさんで北側の川尻村の家並と接している(さらに上記の「折笠浜年貢米津出絵図」参照)。このような例はめずらしい。折笠村の成立ちに関連していようか。

折笠村の漁業は日立市域の各浜(久慈・水木・河原子・会瀬・滑川・田尻・折笠・川尻)のなかでは最も小規模で、隣の川尻とは比較にならない。参考までに次に文化5年(1808)7月から翌年6月までの一年間の石神組郡奉行所管轄の各浜の漁獲高(単位:銭。貫・文)を示した(石神組御用留研究会編『水戸藩郡奉行所 文化六年 石神組御用留』)

漁獲高
(単位:銭。貫・文)
河原子村を
100とした場合
順位
村松東方村4.000010
石神白方村6.00009
久慈村2,600.150244
水木村2,435.300225
河原子村11,054.0001001
会瀬村1,292.840932
滑川村390.80047
田尻村887.80086
折笠村207.10028
川尻村7,793.180703
 註 銭4貫文で1両として、河原子村の漁獲高1万1054貫は、2764両ほどになるか

史料

[凡例]

  1. (1)史料の成立は、文化2年(1805)5月19日
  2. (2)作成者は折笠村。なお東京大学史料編纂所の所蔵史料目録データベースでは、著者名が東兵衛(折笠村庄屋)、成立時期は天保14年正月となっている。これは本史料に続けて改丁して折笠村の神社書上が記載されており、その作成者と成立時期である。
  3. (3)縦書きを横書きに変え、原本には無い句読点をほどこした。
  4. (4)助詞の者(は)・而(て)・江(え)などの漢字はそのまま文字を小さくして示した。
  5. (5)□は判読不明文字、〈 〉は割書。[ ]内は本ページ制作者による註記。( )は条の番号。
  6. (6)本史料は東京大学史料編纂所が所蔵する。

[本文]

 折笠村旧跡由来記録

 水府志料    

[表紙]

 

 

 

 

  多 珂 郡 山 尾 郷 折 笠 村 旧 跡 由 来 記 録

多賀郡山尾郷   
折笠村  
石神組 折笠村
 〈戸数凡七十二/水戸迄十里〉
  • (1) 清和源氏六孫王經基[1]末葉頼義[2]長男八幡太郎義家[3]公、奥州頼時[4]子厨川次郎太夫貞任[5]カ鳥海三郎太夫宗任[6]ト武則眞人[7]子清將軍三郎武衡[8]ト同四郎太夫家衡[9]之朝敵ヲ征[ママ]爲八幡殿奥州エ御下向之節、久慈郡眞弓山ニ有宿籠、人王七十代後冷泉院御宇永承五庚寅六月陽春之儀式ヲ行ハレ、御祝儀不斜[10]。於小勢難向、身方之軍兵此折笠ニ集給[ママ]也。六十六ヶ國之諸大名ニ笠ヲ[ママ]セシ也。折笠トハ笠ヲ折ルト書也。此時ヨリ折笠トハ申也。又曰ク新籏トハ新タニ籏ヲ縫セシ所也。又云ク鍛冶打トハ鍛冶ヲ召シ道具ヲ打タル所也。大敵ヲ調伏トシテ万部[11]ヲ講讀シ給フ故經之内云フ。又曰假宿トハ小屋ヲ作リ給フ所故假宿ト申ス。此所ニ暫ク御逗留之内、多賀郡竪破山エ參籠有リ。義家公利釼[12]ヲ以石ヲ割、折笠エ御下向有リ。
古老の傅に、源の義家奥州陣の時、諸軍此所に迎拝し、皆笠を脱し所故名付たりと云。村境、南小木津村に接し、北川尻、西砂澤村に隣る。東は大海なり。南北五町貳拾一間、東西拾八町四拾五間在り。岩城海道なり。

[左の村の改帳にある新籏・鍛冶打・經之内・假宿の地名の由来については、弓弦石の項目に記載あり]
  1.  [註]
  2. [1]六孫王經基:源經基(?-961)。父が清和天皇の第六皇子であったので六孫王という。
  3. [2]頼義:源頼義(988-1075)。前九年の役で安倍頼時の叛乱を平定。
  4. [3]義家:源義家(1039-1106)。通称八幡太郎。前九年の役で父をたすける。のち陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役で清原氏の内紛を鎮圧、東国に源氏の基盤をきずく。
  5. [4]頼時:安倍頼時(?-1057)。古代胆沢鎮守府下の六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波・岩手)は、降伏蝦夷(俘囚)が集団的に定住しており、奥六郡と呼ばれた。その俘囚の長が安倍氏。頼時も俘囚長。貞任・宗任の父。
  6. [5]厨川次郎太夫貞任:安倍貞任(?-1062)。厨川二郎。奥六郡の俘囚長頼時の子。
  7. [6]鳥海三郎太夫宗任:安倍宗任(生没年不詳)。鳥海三郎と称す。頼時の子。
  8. [7]武則真人:清原武則。生没年不詳。前九年の役で陸奥守源頼義軍に合流し、安倍軍をほろぼし、軍功をあげる。
  9. [8]将軍三郎武衡:清原武衡(?-1087)。清原武則の子。将軍三郎はその号。
  10. [9]四郎太夫家衡:清原家衡(?-1087)。父清原武貞は前九年の役で源頼義に味方し安倍氏を亡ぼした。
  11. [10]不斜:なのめならず。並み一通りではない。
  12. [11]万部:まんぶ。万部読経。追善や祈願などのために、万部の経典を読むこと。
  13. [12]利釼:りけん。よく切れるつるぎ。
  • (2) 眞弓山寒水石、永承五庚寅[1050]六月朔日之雪ト申也[13]。義家公真弓山ヨリ御出、此折笠之石之入ト云所ニテ陣竪[14]、片馬乗廻シケル也。馬石ニ登リ給フ石之上ニ馬之爪跡有リ也。又曰ク爰ニ不思議有リ。怪鳥一羽依顕レタルニ義家公御弓勢[15]ニテ射止給ニ迚、石之上ニテ御弓ヲ張リ、弓弦ル石ト申アリ。其節義家公御馬之口ヲ打乗廻シタル所ヲ馬口チ打ト申ス也。怪鳥當濱迄追廻シ爰ニ決拾[16]ヲ置、決拾礒ト申ス有リ。片筈[17]ヲ合給フ所ヲ片筈濱ト言ヘリ。則怪鳥射落給故ニ射落之明神ト奉申、此時ヨリ筈濱ニ小社ニ津之明神ト崇、自六月始八月始メ迄折笠ニ御逗留有テ諸國之軍兵ヲ集給フ。都合八十万余騎ニ成リ、當國八月始メニ御立成リ、則御馬之柳チ栗[18]也。石山エ御捨給、爰ニ愛宕山之三度栗片華崎秊リ[19]給、安良川八幡宮、義家公御見立ニ權ニ願成有リト村人口碑スル故也。
     永承五庚寅ヨリ文化二乙丑迄七百五拾七年ニ也。
               
  1. [13]眞弓山寒水石、永承五庚寅六月朔日之雪と申也:意味とれず。
  2. [14]陣竪:陣立
  3. [15]弓勢:ゆんぜい・ゆぜい:弓を引く力量
  4. [16]決拾:けっしゅう。弓を用いるときの道具。ゆがけ(弓懸)とゆごて(弓籠手)
  5. [17]片筈:筈は矢の筈を指すのだろうが、「片」筈の意味はわからない。ここ以外は単に筈だけなので「かたや」(片一方は)とでも読むか。
     これはともかく、この条にある記事は、源義家が真弓山(真弓神社のこと)を参詣した後、折笠にやってきて、石の入で陣立てをした。義家が馬を乗り廻したところ、馬が石に登った。その石に馬の爪跡がのこった。ここで不思議なことが起こった。怪鳥が現れ、義家が強い弓で射とめようとして、石の上で弓に弦を張った。その石を弓弦石と言う。義家は怪鳥を折笠の浜まで追った。決拾(弓懸と弓籠手)を置いたところを決拾磯、弓に矢をつがえたところを筈磯といい、そして怪鳥を射落とした。そこに射落の明神を祀り、のちに津の明神としてあがめた、と折笠村に残る義家伝説を前の条につづけて一つの物語にして伝えている。矛盾はない。
     「水府志料」はこの一連の物語を引裂いて、編纂の意図にそって一部を載せた。やむをえないことであるが、折笠村の八幡太郎伝説に誤解を生じさせることになる。
  6. [18]御馬之柳ち栗:意味とれず。
  7. [19]片華崎秊[年]り:意味不明、読み間違えているかもしれない。
  • 一 鎮守三郎天 (3) 御見捨御山之内神 勧[請]人王百四代後土御宇應仁元丁亥[1467]正月廿八日、寛童法印遷座と云。
     社領三石二斗六合 先年より毎年十一月十日祭禮勤め來申候。
     人家より一町半程遠き森之内立宮
     右之由寛文六午[1666]正月廿四日青木三衛門様エ書上申候。〈寛文六午ヨリ文化二乙丑迄/百四十年也〉
     應仁元丁亥ヨリ文化二乙丑年[1802]迄三百四十年也。應仁元丁亥ヨリ天文十六丁未[1547]迄八十一年也。
  •  右鎮守 大檀那友部山尾小野崎攝州藤原朝臣道慶
  • 同嫡子宮松丸
               
  • (4) 奉再興三郎天神
     人王百六代後奈良御宇天文十六丁未[1547]三月廿二日  別當福善院
     天文十六丁未より文化二乙丑迄二百五十九年也。
     延寶二甲寅年人王百十三代仙洞御宇[1674]別當福善院破却ニ也。元禄八乙亥迄二人王百十四代東山御宇十一年之間無別當ニテ村祭リ被仰付候。依元禄八乙亥[1695]十二月廿八日塩崎丞太夫殿ヨリ別當伊師町村本山寶鏡院支配ニ被仰付候。元禄八乙亥ヨリ文化二乙丑迄百十一年也。
               
  • (5) 當村之地面并方角等繪圖エモ書上申候。
               
  • (6) 村方濱ニ付候東海際ヨリ西砂澤村堺迄十八町[20]四拾五間、南小木津村堺ヨリ北川尻村堺迄五町貮拾壹間。
[冒頭の概要に掲載]
  1. [20]町:約109メートル
  • (7) 當村隣候村方左ニ申上候。南小木津、北川尻、西砂澤村〆三ヶ村。
[冒頭の概要に掲載]
  • (8) 水戸ヨリ奥州街道[マ マ][21]南小木津村堺ヨリ北川尻村堺迄五町廿一間、南小木津ヨリ北川尻堺迄渚通四町五間。
               
  1. [21]奥州街道:岩城海道の誤り。
     この地区の岩城海道をたどってみます。JR小木津駅西側の県道10号を日高郵便局方面に折れ、澳津説神社の北西にある報徳集会所の裏をまわりこんで日高中学校の北側を通り、そのまま道なりに進み、国道6号を人道橋でまたいですぐに左折し、うすぐらい山林のなかの道を海辺に向かって降りていくと、小木津浜の集落に出る。東連津川をわたってすぐ左折し、山あいの狭い坂道をのぼり、日冬堂を左に見て北東に道をとり、坂道をくだると折笠浜の集落にでる。北に進んで折笠川をわたり、御番山の切り通しをあゆむと、その先で川尻の集落に入ります(地図に示したほうがわかりやすいことはわかっているのですが…。茨城県教育委員会『茨城県歴史の道調査事業報告書Ⅲ』が載っていますが、概要です。詳細を時間があったら作っておきましょう)。
  • (9) 當宿之儀ハ元禄二巳[1689]ヨリ新開間之宿[22]人馬[継]送リ不申候。
               
  1. [22]間之宿:あいのしゅく。海道の宿と宿との間にある村。旅人の休憩や旅籠、また駄賃をとって荷物の輸送をする問屋をおくこともあった。ここでいう「当宿」とは字浜の集落をさすのであろう。浜の集落は切れ目なく北側の川尻村につづく。川尻は村といっても漁業のさかんな村で、この地方最大の町場的様相を呈する村であった。
  • (10) 御城下拾里、上町十一里。
[冒頭の概要に掲載]
  • (11) 橋貮ヶ所  往還ニ御座候。
    板橋一ヶ所 文化五ヨリ土橋ニ成ル〈長八間/横八尺〉 
    源ハ砂沢村散野松ヶ崎ト申處ヨリ流出、且亦同村海老ヵ沢ト申處ヨリ流出、両所之流右村ニ落合申候。小川、砂沢村折笠村両村之用水ニ仕申候。流裾當濱礒際ニテ海ニ入。
    石橋一ヶ所  文化年中ヨリ土橋ニ成ル〈長九尺/横七尺〉 是ハ往還宿中南入口右川水[分]致シ用水ニ仕候。但橋号ハ寛永年中頃一部ト申者掛ケ始メ、只今ニ一部橋ト申成リ。
  • (12) 溜池三ヶ所
    一ヶ石ノ入〈長十一間半/横九間半〉 一ヶ前柴〈長拾六間二尺/横九間半〉 一ヶ處井戸ノ入〈長九間半/横八間半〉
  • (13) 用水堰三箇處 但シ二間半位、小堰ニ御座候。
    一ヶ處 砂沢村地内是ハ赤坂・天神前・遠下田方掛ル。
    一ヶ赤坂處 是ハ七長田・五反田掛ケル。
    一ヶ天神前處 是ハ舟橋・濱田等掛ケル。
  • (14) 掛ケ越樋四ヶ處
    一ヶ遠下江處 長四間半 ◦舟橋ヶ處 長五間
    濱田ヶ處 長四間半 前柴ヶ處 長四間
  • (15) 小土橋十二ヶ處 是ハ田畠通行之作道ニテ橋号無御座候。
  • (16) 古城一箇處   四方百二十間
    是ハ往古八幡太郎奥州エ御下向ノ節少之内住居之由、先年ヨリ古人申傳エモ御座候故字名モ館之平ト申、只今ハ堀跡等迄作面ニ申傳而巳に御座候。往還ヨリ七町入。
館跡  四方百廿間、館の平と云所に在り。今皆畑と或る。八幡太郎義家奥州へ下向の時、少の間住せし所なりと云。疑はし。
  • (17) 古墳墓之類無御座候。
  • (18) 深山幽谷瀧之類無御座候。
  • (19) 散野山無御座候。
  • (20) 原秣場之類無御座候。
  • (21) 由来有リテ課役御免之者無御座候。      
  • (22) 古書二巻
     古書一巻ハ
     是は當濱方支配、貞享三寅[1686]ヨリ寶暦六子[1756]迄小木津濱兼帯に相成居候處、小木津濱・川尻濱五十集[23]中買之儀奉出入[24]ニ相成、礒ヨリ北川尻堺迄場所御裁許一巻
     古書一本
     是ハ正徳三巳[1713]ヨリ當村之内筈新御立山[25]川尻村御城米[26]藏地用立申候證文一本
  1. [23]五十集:いさば。魚の仲買をする商人組合
  2. [24]出入:でいり。争い。訴訟
  3. [25]御立山:おたてやま。藩有林
  4. [26]御城米:おしろまい。村々から幕府や藩へ輸送する年貢米
  • 一 正(23) 古跡観音之窟 是ハ街道際之窟也。往古ヨリ申傳ニ弘法大師ノ御作ト古人申傳ニ御座候[27]。
正観音の窟  海道の際にあり。弘法大師の作と申傳ふ。
  1. [27]折笠村の正観音の窟はどこにあるのだろうか。東連津川左岸の河口近くにもあるが、そこは小木津浜。しかし岩穴に彫った弘法大師作と伝えられる正観音像は、田尻の度志観音にも同様の話しが伝えられている(水府志料附録 巻之二十三)。
  • 一 弓(24) 同弦石 〈長三間/横九尺〉是ハ石之入ト申處田之中ニ有。往古義家公弓張申候事ト古人申傳候事ニ御座候。
弓弦石  長三間、横九尺。同所田の中にあり。義家弓を張し所と云。又新旗と云所あり、義家新たに旗を製したる所、鍛冶打と云所は鍛冶を召し、武具を作りし所、經ノ内とは賊徒調伏の爲讀經ありし所、假宿とは假小屋をかけられし所なり抔申傳ふ。
  • (25) 馬ノ爪跡石 四方九尺 是ハ石之入ト申處田ノ中ニ有リ。義家公御馬ノ爪跡之石ト古人申傳ニ御座候。
爪跡石  四方九尺の大石也。石の入と云所に在り。源義家の乗し馬の爪跡也と申傳ふ。
  • (26) 筈濱礒之曰
     ◦袖礒 〈長七間半/横三間半〉是ハ四月時分汐干之節ハ不残相見エ申候。但渚ヨリ五間余海中ニ御座候。
     ◦門場礒 是ハ袖礒ヨリ續キ出、南エ二百間余、渚ヨリ五間余海中ニ四月時分能キ汐干之節少顕申候。
     ◦前礒 〈東西八間余/南北十間余〉是ハ汐干之節ハ不残顕レ申候。但渚ヨリ五間余海中ニ御座候。
     ◦佛房礒 〈東西十間余/南北七間余〉是ハ汐干之節ハ不残顕申候。但渚ヨリ七間余海中ニ御座候。
     ◦中礒 〈東西五間余/南北八間余〉是ハ汐干之節ハ不残相見エ申候。但渚ヨリ十間余海中ニ御座候。
     ◦唐櫃礒 〈東西四間余/南北七間余〉是ハ能汐干之節ハ不残顕申候。但渚ヨリ拾間余海中ニ御座候。
     ◦決拾礒 〈東西五間余/南北十五間余〉是ハ能汐干ノ時分ハ不残顕申候。但シ渚ヨリ五十間余海中ニ御座候。
     ◦津舞礒 是ハ渚ヨリ百五十間余海中ニ能汐干ノ時分陸ヨリ見エ申處三間余南北ニ見エ申候間、根岸之義相分リ兼申候。
     ◦神礒 是ハ渚ヨリ二百間余海中ニ、陸ヨリ汐干之時分南北エ五間余ニ見エ申候間、根岸之義相分兼申候。
     右礒之産物者 海鹿ヒジキ ワカメ 青モク 青海苔ノリ 黒海苔 等也。
  • (27) 穴藏二ヶ筈新御立山下處   居村御城米藏
     是ハ御城米當濱エ下ケ、御城下エ運送仕候内置申候藏に御座候。
    〈十三間/十五間〉上畑二畝五歩 是ハ正徳二辰[1712]御改メ本郷高ニ組入申候。
    〈一間/五間〉上畑五歩 是ハ享保八卯[1723]御改メ本郷高組入申候。
    右浮役鐚二百文 右ハ當村藏屋敷分
  • 一 穴蔵一箇(28) 筈明神御立山下處 是ハ先年大學頭様御分知之節ハ御炭藏ニ有之候處、右分知御引上ニ候砌乎御炭別藏ニ相立、穴藏之儀ハ小木津村御城米入來申候。依享保八卯に御改。
    〈六間/五間〉上畑壹畝歩 本郷高ニ組入申候。
  • 支配人居村 東兵衛 
  • 一 御(29) 同炭藏一ヶ處 〈長五間/横三間半〉
    是ハ先年當濱方支配之儀、貞享三寅[1686]ニ小木津濱喜太衛門方エ兼帯ニ被仰付居申候處、享保五子[1720]に川尻津衛門支配ニ相成候。
  • 一 萱(30) 同藏一ヶ處      所持人川尻村 藤左衛門
    是ハ先年ハ小木津濱喜太衛門勝手藏ニ有之候處、享保五子ニ川尻村津衛門エ賣渡ニ申候。
  • 一 川尻村御(31) 筈新御立山下城米藏跡一ヶ處 〈長六間/横二間半〉
    是ハ空地之場所。正徳二辰年[1712]川尻村ヨリ無心ニ付御役所様エ奉願上候處、早速御済口ニ相成、御役所様ヨリ其砌リ折笠・川尻両村エ被仰付、川尻ヨリ證文請取、右之場所御城米藏相掘リ申候節、證文之趣ハ御上之御用之節又ハ居村に入用之節ハ何時成共相返シ可申候趣ニ證文請取置申候。
    〈四間半/七間半〉中畑壹畝四歩 右正徳二巳[マ マ]御改メ本郷高ニ組入申候。
  • (32) 穴藏一ヶ處 右土地續ニ出來申候。      
  • (33) 浮役[28]鐚四百文  右藏屋敷分
  1. [28]浮役:年貢以外の雜税で、納入額・税源が一定しないもの
右ハ此度地理御改ニ附前書之通當村内地理相改メ帳面指上申候。以上。
文化二年丑[1805]五月十九日