史料 折笠村旧跡由来記録
目次
- 史料について
- 八幡太郎伝説
- 折笠村の概要
- 御城米蔵
- 川尻村と軒を接する
- 史料
史料について
本史料は、史料の末尾にあるように水戸藩からの「地理御改」があって、文化2年(1805)5月に折笠村が提出したもの控えである。同様にして作成されたものにこちら 大久保村地理諸訳下書 がある。
水戸藩は文化元年ごろに幕府から「封内の故事古跡及寺社の旧記古文書ノ類」を書き上げよとの指示を受けた。それをうけた水戸藩は郡奉行所を通じて、村々に作成・提出の指示を出した。久慈郡高倉村では同年7月、那珂郡照沼村では同年4月に提出している。これら村から提出されたものをもとに文化4年に「水府志料」としてまとめられた。
編纂したのは、当時南郡紅葉組の郡奉行を勤めていた小宮山楓軒である。立原翠軒の門で学び、史館総裁となった翠軒を助けた。そのような学問の力が見込まれたのであろうか、各郡奉行所から提出されたものを楓軒が編纂し、「水府志料」(別名「水戸領地理志」「御領中地理志」)として16巻18冊にまとめあげた(茨城県史編さん近世次第1部会編『茨城県史料 近世地誌編』解題。1968年刊行)。
今回も「史料 大久保村地理諸訳下書」同様に右側に「水府志料」の記述を掲載した。なお、「水府志料」編さんの元データとなった村の書上げは、日立市域においてはこの2村でしか確認していない。
八幡太郎伝説
折笠村は八幡太郎伝説が豊富なところである。
たとえば冒頭にある村名の折笠からして「身方之軍兵此折笠ニ集給フ也。六十六ヶ国之諸大名ニ笠ヲ拔セシ也。折笠トハ笠ヲ折ルト書也」というように、八幡太郎(源義家)が兵士たちを集め、その武将たちに笠(おそらく折網笠)を脱がせた。つまり笠を折りたたんだことに因むというのである。
冒頭には外に新籏・鍛冶打・経之内・假(仮)宿、2条には字石の入にある石にのこる馬の爪跡・馬口ち内・決拾磯・筈浜、16条にある館の平、24条の弓弦石、25条の馬の爪跡石といったように数多くの八幡太郎伝説が語られている。
永承6年(1051)―康平5年(1062)に陸奥国北部で安倍氏が反乱を起こした。朝廷は源頼義を陸奥守・鎮守府将軍に任じて、これを討たせた。頼義は苦戦した。出羽山北の俘囚主清原光頼・武則兄弟が一万の大軍を率いて頼義に加勢、これで源氏は勝利を得た。前九年の役である。この鎮圧行動の後半期に頼義の子義家が若くして加わっている。
奥羽地方はこれで治まったかにみえたが、11世紀後半、清原氏一族(異父異母兄弟三人)に内紛が起こる。永保3年(1083)秋、源義家(八幡太郎)が陸奥の新国守として赴任。義家が介入してから内紛が激化。義家は清原清衡に加担し、清衡は寛治元年(1087)11月14日、家衡を滅ぼす。後三年の役である。清衡は安倍氏の遺領陸奥の「奥六郡」と清原氏の遺領「出羽山北」とをあわせ領有することになり、父の藤原姓を名のり居館を平泉(岩手県)に定める。
折笠村の村名由来となる八幡太郎源義家の伝説は、安倍氏と清原氏の二氏を源義家が征討する話である。これは前九年の役と後三年の役とよばれる事件である。つまり時をへだてた二つの事件を一つにして、義家伝説を語っているのである。伝説とはそうしたものであろう。日立市域の八幡太郎義家伝説について『図説日立市史』が「八幡太郎義家伝説」で、前九年の役に関するものとしているが、折笠村に限れば異なって見える。江戸時代の農民にとって源義家は奥州「討伐」の英雄というだけで十分であり、その英雄に結びつくことは村びとにとって誇りとなるのだから。
折笠町の小字 緑の文字は八幡太郎伝説に登場する字名
折笠村の概要
表紙と史料本文の冒頭に「山尾郷折笠村」とある。「山尾郷」とは、江戸時代において滑川以北の田尻、小木津、砂沢、折笠、川尻、友部、山部、伊師本郷、伊師浜、伊師町 、石滝の12ヶ村を言った(「水府志料」多賀郡の条─この段落は2019-02-09に修正)。
折笠村の村高は元禄郷帳では491余石、天保郷帳では524余石。日立市域では小さいほうである。寛永21年(1644)の「御知行割郷帳」(『茨城県史料 近世政治編Ⅰ』)によれば田は250余石、畑は241余石、水田と畑地が半々の村である。折笠村の集落は大きく二つに分れる。浜と岡(仮宿坪・中坪・上坪からなる)である。幕末期に浜には38戸163人、岡には33戸123人が住む(あわせて71戸。嘉永年間「折笠村絵図」『村絵図にみる日立』p.12)。海道にそって狭い区域に家が密集していることが、上記の絵図からもわかる。ちなみに西の砂沢村は27戸、南の小木津は319戸、北の川尻村は356戸である(「水府志料」)。
なお3条に記載される鎮守三郎天神とは、祭神は菅原道真だが「往古友部村山直城主小野崎氏之鎮守ニ而小野崎氏嫡子元服之砌ハ天神之社に詣て小野崎三郎と代々称し」てきたことにちなむという(天保14年「折笠村鎮守書」東京大学史料編纂所蔵。上記ノ凡例(2)参照)。
ちなみに折笠村にはかつて寺が二つと修験者が一人いた。だが元禄の水戸藩徳川光圀による寺社改革により真言宗友部村法鷲院の門徒寺の福善院と行善院が廃寺となった(修験については不明。『新修日立市史』上巻)。本史料に神社の記載はあっても寺の記載がないのは、そうした理由による。
御城米蔵
27条から33条までは字筈にある「穴蔵」について記している。字筈は北の川尻村との境にある。現在では御番山とよばれる小高い山とその周辺の地区である。その麓の岩に様々な用途の穴が掘られている。御城米蔵・御炭蔵・炭蔵・萱蔵。
周辺の村の御城米(藩に納める米)が折笠に集められ、穴蔵に一時保管され、そして水戸城下まで船によって運ばれていった(絵図参照)。大量の年貢米を陸路を馬の背で運ぶよりは大量かつ短時日に運ぶことができる。
幕末になって、字筈の山上に異国船番所が造られ、その直下に砲台場が設けられた。
川尻村と軒を接する
御城米蔵のある字筈は北の川尻村との境にある。現在では(おそらく川尻町で住居表示が施行されてから)川尻町とされる1丁目1〜5番、43番の区域は本来ならば折笠町である。住居表示実施にあたって折笠川を境にして川尻と家並みが続いている字筈を切り離して、川尻町に含めたのであろう。とくに川尻町1丁目1番から3番の字筈の集落は、道をはさんで北側の川尻村の家並と接している(さらに上記の「折笠浜年貢米津出絵図」参照)。このような例はめずらしい。折笠村の成立ちに関連していようか。
折笠村の漁業は日立市域の各浜(久慈・水木・河原子・会瀬・滑川・田尻・折笠・川尻)のなかでは最も小規模で、隣の川尻とは比較にならない。参考までに次に文化5年(1808)7月から翌年6月までの一年間の石神組郡奉行所管轄の各浜の漁獲高(単位:銭。貫・文)を示した(石神組御用留研究会編『水戸藩郡奉行所 文化六年 石神組御用留』)。
漁獲高 (単位:銭。貫・文) | 河原子村を 100とした場合 | 順位 | |
村松東方村 | 4.000 | 0 | 10 |
石神白方村 | 6.000 | 0 | 9 |
久慈村 | 2,600.150 | 24 | 4 |
水木村 | 2,435.300 | 22 | 5 |
河原子村 | 11,054.000 | 100 | 1 |
会瀬村 | 1,292.840 | 93 | 2 |
滑川村 | 390.800 | 4 | 7 |
田尻村 | 887.800 | 8 | 6 |
折笠村 | 207.100 | 2 | 8 |
川尻村 | 7,793.180 | 70 | 3 |
註 銭4貫文で1両として、河原子村の漁獲高1万1054貫は、2764両ほどになるか
史料 折笠村旧跡由来記録
テクストについて
- ◦史料の成立は、文化2年(1805)5月19日
- ◦作成者は折笠村。なお東京大学史料編纂所の所蔵史料目録データベースでは、著者名が東兵衛(折笠村庄屋)、成立時期は天保14年正月となっている。これは本史料に続けて改丁して折笠村の神社書上が記載されており、その作成者と成立時期である。
- ◦本史料は東京大学史料編纂所が所蔵する。
テキスト化にあたって
- ◦縦書きを横書きに変え、原本には無い句読点をほどこした。
- ◦助詞の者(は)・而(て)・江(え)などの漢字はそのまま文字を小さくして示した。
- ◦□は判読不明文字、〈 〉は割書。[ ]内は本ページ制作者による註記。( )は条の番号。
[本文]
折笠村旧跡由来記録 | 水府志料 |
[表紙] 「
」 |
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多賀郡山尾郷 折笠村 |
石神組 折笠村 〈戸数凡七十二/水戸迄十里〉 |
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一 御城下江拾里、上町江十一里。 | [左の記事は冒頭の概要に掲載] |
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一 深山幽谷瀧之類無御座候。 | |
一 散野山無御座候。 | |
一 原秣場之類無御座候。 | |
一 由来有リテ課役御免之者無御座候。 | |
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[註]
- [1]六孫王經基:源經基(?-961)。父が清和天皇の第六皇子であったので六孫王という。
- [2]頼義:源頼義(988-1075)。前九年の役で安倍頼時の叛乱を平定。
- [3]義家:源義家(1039-1106)。通称八幡太郎。前九年の役で父をたすける。のち陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役で清原氏の内紛を鎮圧、東国に源氏の基盤をきずく。
- [4]頼時:安倍頼時(?-1057)。古代胆沢鎮守府下の六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波・岩手)は、降伏蝦夷(俘囚)が集団的に定住しており、奥六郡と呼ばれた。その俘囚の長が安倍氏。頼時も俘囚長。貞任・宗任の父。
- [5]厨川次郎太夫貞任:安倍貞任(?-1062)。厨川二郎。奥六郡の俘囚長頼時の子。
- [6]鳥海三郎太夫宗任:安倍宗任(生没年不詳)。鳥海三郎と称す。頼時の子。
- [7]武則真人:清原武則。生没年不詳。前九年の役で陸奥守源頼義軍に合流し、安倍軍をほろぼし、軍功をあげる。
- [8]将軍三郎武衡:清原武衡(?-1087)。清原武則の子。将軍三郎はその号。
- [9]四郎太夫家衡:清原家衡(?-1087)。父清原武貞は前九年の役で源頼義に味方し安倍氏を亡ぼした。
- [10]不斜:なのめならず。並み一通りではない。
- [11]万部:まんぶ。万部読経。追善や祈願などのために、万部の経典を読むこと。
- [12]利釼:りけん。よく切れるつるぎ。
- [13]眞弓山寒水石、永承五庚寅六月朔日之雪と申也:意味とれず。
- [14]陣竪:陣立
- [15]弓勢:ゆんぜい・ゆぜい:弓を引く力量
- [16]決拾:けっしゅう。弓を用いるときの道具。ゆがけ(弓懸)とゆごて(弓籠手)
- [17]片筈:筈は矢の筈を指すのだろうが、「片」筈の意味はわからない。ここ以外は単に筈だけなので「かたや」(片一方は)とでも読むか。
これはともかく、この条にある記事は、源義家が真弓山(真弓神社のこと)を参詣した後、折笠にやってきて、石の入で陣立てをした。義家が馬を乗り廻したところ、馬が石に登った。その石に馬の爪跡がのこった。ここで不思議なことが起こった。怪鳥が現れ、義家が強い弓で射とめようとして、石の上で弓に弦を張った。その石を弓弦石と言う。義家は怪鳥を折笠の浜まで追った。決拾(弓懸と弓籠手)を置いたところを決拾磯、弓に矢をつがえたところを筈磯といい、そして怪鳥を射落とした。そこに射落の明神を祀り、のちに津の明神としてあがめた、と折笠村に残る義家伝説を前の条につづけて一つの物語にして伝えている。矛盾はない。
「水府志料」はこの一連の物語を引裂いて、編纂の意図にそって一部を載せた。やむをえないことであるが、折笠村の八幡太郎伝説に誤解を生じさせることになる。 - [18]御馬之柳ち栗:意味とれず。
- [19]片華崎秊り:意味不明、読み違えているかもしれない。
- [20]町:約109メートル
- [21]奥州街道:岩城海道の誤り。
この地区の岩城海道をたどってみます。JR小木津駅西側の県道10号を日高郵便局方面に折れ、澳津説神社の北西にある報徳集会所の裏をまわりこんで日高中学校の北側を通り、そのまま道なりに進み、国道6号の人道橋でまたいですぐに左折し、うすぐらい山林のなかの道を海辺に向かって降りていくと、小木津浜の集落に出る。東連津川をわたってすぐ左折し、山あいの狭い坂道をのぼり、日冬堂を左に見て北東に道をとり、坂道をくだると折笠浜の集落にでる。北に進んで折笠川をわたり、御番山の切り通しをあゆむと、その先で川尻の集落に入ります(地図に示したほうがわかりやすいことはわかっているのですが…。茨城県教育委員会『茨城県歴史の道調査事業報告書Ⅲ』に載っていますが、概要です。詳細を時間があったら作っておきましょう)。 - [22]間之宿:あいのしゅく。海道の宿と宿との間にある村。旅人の休憩や旅籠、また駄賃をとって荷物の輸送をする問屋をおくこともあった。ここでいう「当宿」とは字浜の集落をさすのであろう。浜の集落は切れ目なく北側の川尻村につづく。川尻は漁業のさかんな村で、この地方最大の町場的様相を呈する村であった。
- [23]五十集:いさば。魚の仲買をする商人組合
- [24]出入:でいり。争い。訴訟
- [25]御立山:おたてやま。藩有林
- [26]御城米:おしろまい。村々から幕府や藩へ輸送する年貢米
- [27]折笠村の正観音の窟はどこにあるのだろうか。東連津川左岸の河口近くにもあるが、そこは小木津浜。しかし岩穴に彫った弘法大師作と伝えられる正観音像は、田尻の度志観音にも同様の話しが伝えられている(水府志料附録 巻之二十三)。
- [28]浮役:年貢以外の雜税で、納入額・税源が一定しないもの