関 右馬允

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関右馬允(せき-うまのじょう)は1888年(明治21)生れ、1973年(昭和48)に86歳で歿する。日立市入四間町の人。

日立鉱山が1905年(明治38)に多賀郡日立村(日立市)に開業する。その西側の尾根を超えたところにあって、鉱山の煙害が激しかった久慈郡中里村大字入四間。そこで23歳の若さで日立鉱山との煙害補償交渉の代表となり煙害問題の「平和的解決」に力を尽した。

日立鉱山創業者の久原房之助は関を次のように評価する。「私共とは、立場を異にした、被害地域住民の代表として、煙害に苦しみ、煙害を憤り、その解決に夜を徹して、努力された実践家でもある。…足尾のような大きな社会問題にまでならなかった其の陰に…煙害を単に、地域の利害にのみ結びつけて考えない、この人の公平無私な、新しい時代感覚と、常に高い処から物を見るという、生活信条があったためではなかろうか。」(関右馬允『日立鉱山煙害問題昔話』巻頭言)

煙害問題が落ち着いたころにカメラを入手して、村人の生活を記録する。同時に巨樹に関心をもち、茨城県内の巨樹をくまなく訪ね、撮影し『茨城県巨樹老木誌』を著す。

略年譜

1888年 
(明治21)
1歳 7月23日、茨城県那珂郡川田村枝川(ひたちなか市)の菊池家に父直健、母みよの三男として生まれる。幼名三郎[1]
1901年
(明治34)
14歳川田村川田尋常高等小学校高等科4年のとき教師に引率され多賀郡日立村の赤沢銅山を見学[2]
事務所と云っても六坪くらいのバラック小屋で、所員は川添常吉と云うスマートな青年紳士一人だった。その人は私等一行を快く迎え…カンテラを持った坑夫の案内で入坑した[2]
1902年
(明治35)
15歳母の生家である久慈郡中里村大字入四間小字宿坪[3]の関家の養子となる[1]。当時の入四間を次のように回顧する。入四間の立地と関家の村内での位置がわかる。
山また山の渓谷の道路。それは僅かに馬が通れるだけの狭いもので…四年制度の尋常小学校を卒業するのが関の山で…茨城新聞は、学校と私の家にだけ、郵送で一日おくれて届く[4]
1904年
(明治37)
17歳「大患にかゝり」県立太田中学校(太田第一高等学校)を中退[1]
このころ入四間から東に山を越えたところにあった赤沢銅山の煙害について次のように回想する。
タタラ吹きの極めて幼稚な製錬をやって居たから、煙害といっても附近の国有林に僅少の被害を及ぼした位[2]
1906年
(明治39)
19歳1905年12月末、久原房之助が赤沢銅山を買収し、日立鉱山として操業をはじめるとたちまち煙害が入四間に現われる。
久原さんが…宇都宮市の大橋真六氏から買収し本格的な採鉱、製錬をするようになって…鉱煙は脊梁山脈を越し、鬱蒼たる御岩山国有林を西北に下り入四間の私有地に侵入してきて農作物の被害、林木の枯損と次第に惨害が現われた[2]
1907年
(明治40)
20歳 ○11月末入四間では煙害調査委員12人を選出
学校出の俊才揃いの鉱山側と、山奥の小天地に跼蹐した田夫野人の交渉はあまりにも知識差が甚だしく、主導権は常に鉱山側が握って居り、…殊に計数的な問題に入ると、被害者側委員中関恒太郎さん一人で奮闘する苦戦を繰り返し、こみ入った数字の問題になると老人委員は殆どが飽きてしまって、五里霧中で鉱山案を呑み妥結を急ぐと云う事も度々あると関[恒太郎]委員が述懐した事があった。[2]
1908年
(明治41)
21歳  ○11月、日立鉱山、採鉱所のあった本山から製錬所を大雄院移転跡地に移す。中央製錬所稼働
1909年
(明治42)
22歳8月1日、青年会「入四間同志会」を結成[1]
その頃、郷土[入四間]は数年に亘る政争で激烈な紛糾を重ねていたため、…内訌の弊害をしみじみと痛感…私どもの祖父と対立して抗争した家の子弟までが、従来の感情を捨てて、私共の呼びかけ即応し、共同の行動に出てくれた。[4]
1911年
(明治44)
24歳5月5日、入四間3集落の煙害調査委員長となる。以後35年にわたって委員をつとめる[1][5]
日立鉱山が急速に発展し、直距離二キロの入四間宿は複雑な関係が生じ、逐年増加する煙害は、林木や農作物に激害を及ぼし、部落ぐるみ移転する迄の逼迫した情勢となり、村民の死活問題に追い込まれた。此の難関に身を投じ、郷土の権益保護とその平和解決に全力を盡し、従来三十年間、我人生の凡てを賭けて了った。[1]
6月、日立鉱山は製錬に用いる珪石を1908年(明治41)から御岩山頂で採取し、廃石を入四間側の沢に廃棄していた。それが集中豪雨により入四間宿に流下したので防災工事の実施を鉱山に要求[2]
  ○5月、日立鉱山、煙害対策ための神峰煙道が竣工
この年、山林補償金の一部を天引きして強制的に貯金する組合をつくり、組合長に就任[2]
1912年
(明治45)
25歳6月に入四間の山林に大被害があらわれる。神峰煙道が原因であった。リーダーとしての最初の試練である。
明治四五年六月二一日午後二時頃から夜間にかけて一〇度の被煙[6]があり、無風の為入四間の谷を埋めた毒煙は約半日に亘って停滞し、其の暴威を擅にしたから、翌日になると宿から現在の社宅[7]辺に亘る杉林は…あんなに固い針葉が全部柔軟となり、両三日経つと全山赤錆色に変じて地元民を驚倒させた。[2]
あの激害で、全部落が那須野ヶ原に移住とまで追い込まれた不安の三年間[4]
煙害による雑木林の枯損(自給肥料の生産途絶)と絶えず襲ってくる「毒煙」。入四間の人々は、農業を放棄するか、集団移住による新規開拓地での農業継続かの選択を迫られ、集団移住先探しが始った。
1913年
(大正2)
26歳 ○日立鉱山、政府の命令による大口径煙突(通称阿呆煙突)完成
1914年
(大正3)
27歳12月15日に5代め右馬允を襲名[8]。この年、中里村下深荻にあった公益銀行の常務取締役となる。1942年まで在職[1]
この年から茨城県内の巨樹老木の調査を開始。12年間続ける[1]
1915年
(大正4)
 ○3月1日、日立鉱山大煙突通煙開始
1917年
(大正6)
30歳 入四間同志会の機関誌『努力之華』(年6回発行)を謄写版印刷で発行[4]
1921年
(大正10)
34歳1月6日、上京してドイツ製カメラ(組立暗箱)を購入[8]
1922年
(大正11)
35歳杉の造林に着手。これは右馬允の要求に日立鉱山が苗木の無償配布で応えたことで始った。この日立鉱山の入四間に対するスギ・オオシマザクラ・クヌギなど苗木の無償配付は1935年まで続けられた。入四間全体では17万本、関家では43,160本の無償交付を受ける[2]
1924年
(大正13)
37歳ハイキング案内書『常北之山水』を高和書店から出版
1932年
(昭和7)
45歳9月、茨城県久慈郡中里村長に就任(翌年退任)[1]
1936年
(昭和11)
49歳『茨城県巨樹老木誌』(上巻)を高和書店から出版。下巻は1940年刊
1941年
(昭和16)
54歳 ○12月8日、アジア太平洋戦争勃発
五十余才で初めて農作業に従事。初めて食糧の自給に着手[1]
1945年
(昭和20)
57歳 ○8月15日、敗戦
終戦による農地解放の占領軍政策は家計に劃期的の変革を来した。併し右に有形の財産を失いながらも左に無形の精神的大収穫を得て、肩の軽さを覚え、自分が人間としての完成に絶大のプラスであつた事を感謝して居る。[1]
1959年
(昭和34)
72歳『日立市巨樹老木集』を自費出版
1963年
(昭和38)
76歳1961年〜63年にかけて郷土ひたち文化研究会発行『郷土ひたち』に連載した「日立鉱山煙害問題昔話」を1冊にまとめ刊行。副題は「日鉱関係忘れ得ぬ人々」。内容細目は こちら
翌年『煙害問題昔話続編』を自費出版
1968年
(昭和43)
81歳『入四間同志会略史』を刊行
1969年
(昭和44)
82歳 ○関をモデルとする新田次郎の小説『ある町の高い煙突』が文藝春秋社から刊行
1973年
(昭和48)
12月19日歿。享年86
1986年 「写真展 カメラでつづった半世紀—関右馬允翁アルバムから—」が日立市郷土博物館において開催(翌年『カメラでつづった半世紀』が日立市民文化事業団から刊行)
関右馬允撮影の巨樹写真乾板が日立市郷土博物館に寄贈され、整理を終えて『収蔵資料目録 第6集 関右馬允撮影巨樹写真』が刊行
1991年 ひたち巨樹の会編『関右馬允撮影巨樹写真 日立市鄉土博物館写真パネル目錄』が日立市郷土博物館から発行

[註]

    [1]関右馬允「金婚式にあたり遥かに過去を回顧して」(1963年)
    [2]関右馬允『日立鉱山煙害問題昔話』(1963年11月)
    [3]入四間宿坪:入四間には御岩神社の門前とその西と北の二つに集落がある。前者を宿坪、後者を下坪という。そして江戸時代の天保期に北の笹目村を合併し、それを笹目坪と呼んだ。
    [4]関右馬允「明治時代の青年会の回顧」『郷土文化』第9・10号(1969年)
    [5]「関右馬允墓碑」『日立の碑』(2006年)
    [6]一〇度の被煙:関は煙の濃度を10段階に分けた。濃度1:薄煙を肉眼で識別できるが、不快感がない。濃度5:呼吸に不快を感じる。濃度10:喉を刺激し、激しく咳がでて呼吸に苦痛を感ずる。この最高濃度が入四間を襲ったのである。
    [7]社宅:入四間に建設された日立鉱山の木の根坂社宅。この社宅建設経過について、関は『日立鉱山煙害問題昔話』において詳細に記録している。
    [8]関右馬允『写真集 カメラでつづった半世紀』(1987年)

関右馬允と煙害問題

煙害調査委員長

日立鉱山の煙害が中里村大字入四間に最初に現われたのは1906年(明治39)のことである。畑(夏・秋作)と山林(雑木林)に被害が出た。そして翌1907年5月9日鉱山事務所において入四間にとって初の補償が交渉がもたれる。

1911年(明治44)に入四間の煙害補償交渉委員の改選があった。

私(二三才)と、第一期で隠退していた関恒太郎さん(三六才)が選挙され、老齢委員の中に加えられた(『日立鉱山煙害問題昔話』。以下引用はとくに断りのない限り本書による)

それからは入四間の補償要求案の農作物は関恒太郎、山林は右馬允の若い二人が作成した。

補償要求案は(今迄の鉱山の補償案のみに依った弊害を避け)委員会で作成したものを提示し…万一鉱山の補償態度が不誠意である場合には事件の推移によっては蓆旗の先頭に立つと云う悲壮な覚悟をした

当時の新聞記事を読むと、被害民が「蓆旗」をたてて鉱山に押寄せることもあり得ないことではなかった。

老齢委員達は、よくも乳臭弱冠の私を委員長として、鉱山との交渉に枢軸を握らさせてくれたものよと、不思議に思う。…煙害問題に取り組んでみると、これは入四間地方の、延いては自分の死活問題であり、且つ相手が錚々たる俊才との交渉だから、自然と研究も勉強もせねばならず、とうとう此の問題に三五年没頭して青春を終わるような羽目になり…

関が若くして委員長の職をあずけられたのは、入四間において代々庄屋をつとめてきた家柄であることと20歳で青年会を組織したその指導力によることが大きかったと考えられる。なお1909年の条にある入四間の「政争」「内訌」の具体相は知り得ない。

神峰煙道と阿呆煙突

関右馬允の住む入四間において、鉱石の製錬過程で排出される煙の害は赤沢銅山時代にはなかった。それは製錬量が少なかったからである。1905年末に赤沢銅山を久原房之助が買収し、日立鉱山と改称してからは、鉱石の採掘増とともに製錬量が増えたことによって被害がひろがりをみせた。

横煙道(俗に貉燻と云った。神峰中腹まえ地表を這ったもの)から放出された濃度の高い毒煙は、神峰、高鈴間の渓谷を這って来るのだから、林木も農作物も余す所なく激害を被った…抑もこの横煙道は、事務所や製錬所の従業員を毒煙から救う為に築造したので、…この為入四間宿、笹目、沢平方面が全面的に犠牲となった。これが自他共に予期せざる大惨害を誘発し、ついに入四間宿の全部落移住説にまで発展する事になった。

1908年日立鉱山は製錬所を日立村杉本にあった古刹大雄院を移転させ、その地に中央製錬所を建設した。当初建設された煙突(八角煙突)は高さ約19メートル。関が指摘するように八角煙突から出る煙は製錬所付近にとどまり、製錬作業に障害となった。横煙道(別名神峰煙道、百足煙道とも)はその対策で建設されたという。1911年に完成し5年間使われた。被害地のひとつ沢平は、製錬所の北側の尾根を越えたところにある。当時は多賀郡黒前村大字高原。

これに狼狽した鉱山は、直ちに製錬所の直上に、内径約一〇間と云う素敵な大口径煙突を突貫工事で築造し、大正二年六月に使用しはじめた……所が、今度は濃厚な毒煙が湿度の高い無風の日には、事務所に蔽いかぶさって、所員、工員を苦しめ仕事も手に付かぬと云う羽目に陥り、短日月で使用中止と相成った

「素敵な大口径煙突」とは阿呆煙突、命令煙突、タンク煙突とも呼ばれた。高さ36メートル。日立鉱山の試行錯誤はつづく。

那須野への集団移住

この当時、入四間の農業においては専ら堆肥(自給肥料)が用いられていた。堆肥の供給源は雑木林だった。その林が日立鉱山の排煙で枯れると堆肥がつくれない。とすると入四間で農業は続けることはむずかしい。

林の立木となれば各戸とも相当の面積を所有している入四間の農家にとっては、肥料の獲得上死活に関する問題となる。…
それに加えて間断なき毒煙で、作物の成育が絶望となっては生業を続けて行くには、低地に移住する外に方法が無いと云う悲観的な立場に追い込まれて、住民の動揺は深刻極まりないものだった。

そこで関たちは煙害のない土地への移住を検討した。

「金を貰っただけでは生業は成り立たないから自作農を経営し得る換地が欲しい、それも一部落離散せず一団となって移住したい」と鏑木先生に交渉した。

鏑木先生とは、東京帝大で林学を専攻し、当時日立鉱山の職員として煙害対策に従事した鏑木徳二のことである[9]

しばらくたってから鏑木は栃木県那須野に移住先を見つけてきた。当時、那須野にどれだけの未墾の土地があって、所有関係がどうなっていたのかわからないが、一集落がそっくり移住できる土地を探しだしてきた鏑木の努力と手腕、そして被害地入四間の苦境を思いやる姿勢が関をして先生とよばせたのであろう。

『モッと近くに』と云って見たが『集団移住となれば、三〇町〜五〇町歩の地域を要するから、県下にはそんな適地は見当らぬ』と云われて見れば尤もな話。委員は、数次の会議を繰り返したが、さて愈々何百年か住み馴れた故郷を立退くとなると、おいそれと簡単に出来るものてはなく甲論乙駁ごうごうとして決する術もない。

そうこうしているうちに、1915年(大正4)大煙突が完成する。すると

全部落集団移住説も立消えになり、我々委員が生死を掛けて覚悟した杞憂も、雲散霧消した。

入四間の人々は4年におよぶ苦境からぬけだすことができた。

    [9]鏑木徳二:かぶらぎ-とくに。明治16年(1883)—昭和42年(1967)。東京帝国大学農科大学林学科卒。明治42年日立鉱山入社。大正7年本社転勤、翌8年退社。林学博士。宇都宮高等農林学校(宇都宮大学農学部)教授、朝鮮総督府林業試験場長、石川県立金沢第一高等学校(金沢泉丘高等学校)長などを歴任。著書に『実験煙害鑑定法』『森林立地学』など。新田次郎『ある町の高い煙突』の加屋淳平のモデル。鏑木については、吉成茂「煙害担当鏑木徳二係長の心境」(『郷土ひたち』第60号 2010年)と日鉱記念館編『鏑木徳二氏の生涯』(2009年)に詳しい。
     関は朝鮮と引退後故郷にいる鏑木を訪れている[2]。関の鏑木への信頼、敬服をみてとれる。

公益銀行

1915年(大正4)、関は中里村下深荻に本店のあった公益銀行の役員となる。

祖父が親友と経営して居た地方の小銀行の常務取締役となる。後、大蔵省の斡旋で猿田銀行と合併し、昭和17年政府命令により金融統制の為常陽銀行に吸収されるまで28年間在職。但シ出勤簿に捺印するだけ(でも決算期には真面目に働いた)[1]

公益銀行は1894年(明治27)1月に解散した葉煙草の仲買業である常陸物産公益社を引き継いで、同年9月7日中里村大字下深荻2078番地に設立。初代代表者(専務取締役)は北野方壽で、以後斎藤徳之介、北野精一郎が代表をつとめた。1929年(昭和4)の金融恐慌により猿田銀行(太田町)と合併し、猿田公益銀行となる。そして1942年(昭和17)3月戦時統合により常陽銀行に吸収される(『常陽銀行20年史』)

他村との連携拒否

 共存共栄

関が信頼したのは組織ではなく、鏑木をはじめとする煙害担当の社員である。昔話の副題に「日鉱関係忘れ得ぬ人々」とあるのは、それをよく表している。関は『日立鉱山煙害問題昔話』の緒言で次のように言う。

被害の補償は、鉱山側が精神的損害を見込んで、実害より若干プラスする誠意を示し、被害者側では、上記のプラスを課題に見込まぬ自粛があれば、平和の妥結が必ずできる…共存共栄主義で進んだ

共存共栄。この考え方が、被害民と鉱山側にあって、激烈な対立をうまなかった要因であると言う。

久慈郡とりわけ葉煙草生産者と多賀郡の農家は連携し、行政を動かして鉱山の製錬事業の停止を求めていた一方で入四間の態度はたしかに異なっていた。

被害区域は年ごとに増大して、四町一三ケ村に及び、殊に山後、久慈郡方面は高鈴山脈を越して、太田町から久米村にまで及んだので、政治関心の進んだ太田町方面では関係町村の連合調査会を組織し、鳴物入りで県会に迫り、又、鉱山に強硬な交渉を開始した…
 この調査会では、世論を盛り上がらせる為に、会の幹部だった太田町の私の義兄を通じ、私を抱き込む入四間の連合会加盟を慫慂された。これは、連合会が如何に騒いでも、激害地が冷静に鳴りを鎮めていたのでは世論の反響を高揚する事が出来ぬからであった。
 私共入四間の方針としては、度々述べたように、角課長の不動の誠意が直ちに実行に現われている事と、鏑木先生が『腐れ縁でも、結ばれた以上は良い意味でお互に利用し合い共存共栄で行こう』と云われた事と、尚、且つ当時の久慈郡長羽田久遠氏が、入四間の山峡まで来て『必要以上に世論を掻き立てて蓆旗を立てない様に』と民心の暴動化を深憂されて頼まれた事などもあって、連合会の手を換え、品を換えた抱き込み勧誘を退け、加盟を断わり、大字委員は団結して被害側の権益保護と問題の解決に専念したのであった。

地域と企業の「共存共栄」。この言葉は鏑木の発言として記録されている。ここでも関の鏑木によせる信頼をみることができる。

 連携拒否、単独交渉の背景

煙害問題には二面がある。一つには被害の防止。二つ目は被害補償。

多賀郡と久慈郡の村々では、連携して二つの煙害問題に対処しようとした。町村、郡会、県会、帝国議会を通じて行政を動かし、煙害防止を求めた。補償交渉についても村が一つなり、あるいは村が連合して取り組んだ。

一方、入四間では補償問題を鉱山と直接交渉によって解決をはかった。鉱山も補償問題については、被害者との直接交渉によって解決を図ろうとしていた。たとえば1913年(大正2)7月18日付『いはらき』新聞が染和田村(常陸太田市)大字和久、町田において鉱山側が賠償に関し被害者との個別交渉に入り、「協定」が成立したを噂を報じている。水府煙草生産同業組合は「今回の被害は組合全体に亘り、此の際に於て煙害に関する根本的解決を為し置くの必要あるを以て、両字の耕作者が妄り鉱山の交渉に応じた」ことを批難している(記事全文はこちら 史料 日立鉱山煙害問題新聞記事一覧)。

中里村は四つの大字(旧村)からなる。東河内・下深荻・中深荻・入四間である。入四間の関たちの運動にこの中里村全体を動かし、他の町や村と共同して郡や県を動かそうとした形跡は見られない。むしろ関は太田町の義兄からの連携の申し出を拒否したように、入四間単独での煙害問題解決をめざしたのである。もちろん久慈郡長の要請も力になった。

関たちのこのような姿勢はどこからきたのであろうか。入四間村の開発の歴史。農業構造のありかた。日立鉱山に最も近いという地理。リーダー関右馬允の個性。日立鉱山職員との交流が頻繁で、両者の意志疎通が図られ、信頼関係を築けた。こんなことなどが考えられるが、農業生産上の問題として、当時この地域で農家の現金収入にとってもっとも重要であった葉煙草の生産が専売法によって禁止されていたことをあげることができる(こちら 日立鉱山の煙害と葉煙草栽培 を参照)。

1916年(大正5)当時、中里村では93町歩に葉煙草が作付けされていた。この数字は久慈郡内葉煙草生産32ヶ村中6番目の作付け面積である。かつ東河内と下深荻の2大字だけのものである。入四間が中里村として一体となって煙害問題に取り組むという農業生産上の条件はなかったのである。このことが入四間の関たちが他の町村との連携を組まなかった背景の一つではないか。

宮田川鉱毒水問題評

日立鉱山が立地する多賀郡日立村大字宮田は、江戸時代から赤沢銅山から流れ出る鉱毒水に悩まされてきた。赤沢銅山の経営が断続的であったのは、ひとえに鉱毒水問題を解決できなかったためである。久原房之助はただちに鉱毒水問題の解決に取り組んだ。そして金銭補償と汚染地の借上・買収、飲料水確保によって最初の関門である鉱毒水問題を乗りきった。その後の展開を日立鉱山は「開いた口に牡丹餅」だと評する。

日立鉱山としては、河川流域の小区域は全部耕地を買収しても大した金額でもなく、却って耕地──殊に水田に嫌気が指した宮田、助川の灌漑区域を比較的捨て値で買収して了ったので、年を経るに従って、従業員住宅や工場敷地に益々土地を要する鉱山としては全く開いた口に牡丹餅と云った思わぬ巨利を獲得して、現在の様な大面積の地積を握って素晴らしい資産を作り上げたのであった。