日立鉱山煙害問題昔話

著者関右馬允について

1888年(明治21)那珂郡枝川村(ひたちなか市)菊池家の三男にうまれる。幼名三郎。1902年(14歳)久慈郡中里村大字入四間の関家に養子。1904年(16歳)病気のため県立太田中学校を退学。42年(21歳)入四間同志会(青年会)を結成。1911年(23歳)入四間における日立鉱山煙害補償交渉の委員長。1921年(33歳)写真機購入。24年(36歳)右馬允と改名(5代目)。『常北の山水』上梓。1932年(44歳)中里村長(1年間)。1936年(48歳)『茨城県巨樹老 木誌』上巻、1940年下巻出版。1973年、85歳で歿。新田次郎『ある町の高い煙突』の主人公関根三郎のモデル。

出版経緯

1961年から64年に『郷土ひたち』に7回にわたって連載したものをまとめた。著者は緒言で次のように言う。

[『郷土ひたち』への連載後に]浮び出た記憶を追加、又は補正し単行本として発行する事にした。友人は『煙害問題回顧録』として……と言われたが、そんな角張ったものでなく、全体が私の記憶辿って、思い出すままを順序不同に書き綴った[中略]先の事が後になったり重複したり、年次の間違いも数々あると思うが、そこは、年寄のお伽話位の気持ちで見て戴きたい。

内容細目

巻頭言 久原房之助
萬田 五朗
同僚の霊に捧げる
発刊によせて 瀬谷 義彦
緒言
(一) … 1
赤沢銅山/著者が初入坑/久原鉱業K・Kの創業/煙害起る/委員の選挙/煙害問題交渉第一号/人格の高い角課長/交渉の天才武石節之介さん
(二) … 5
本拠を大雄院に移す/地元宮田の好況/著者、委員となる/交渉権の引上げを計る/政治の夢を捨てて煙害問題に没頭/鉱山の煙害係陣営/総帥は碩学鏑木博士/日本最初の高層気象観測/神峯気象観測所/大島桜植林の失敗/郷党医療で助かる/救世主斎藤院長/雑林生産力調書協定
(三) … 10
椢林・杉林生産力調書協定/著者の相談役関巳之太郎翁/補償金の据置貯金組合を作る/電気探鉱で名を挙げた鈴木所長/珪石問題突発/本山気質/将軍様格の採鉱課長/砂防堰堤工事に入四間立石割られる/珪石問題にからむ笑話/本山の偉人永井久之助さん/本山の忘れ得ぬ人々/副所長野村さん/被煙記録を初める/神峯観測所の活躍/入四間(青年)同志会が蔬菜耕作に励む
(四) … 16
鉱山で被害地の地味増強に努める/被害地視察/墓地立木補償問題論争/被害地の拡大/各地に暴力沙汰起きる/煙害が茨城県議会の問題になる/横煙道の大煙突/阿呆煙突/入四間の被害益々増大/日鉱役員の質素な風習/杉林の大被害/肥培管理と煙害関係/被害者の疑惑を避ける/鏑木先生の厚誼/角所長の郷里訪問
(五) … 21
煙害除害工事考案の金川孝介翁/山林立木の枯損補償協定/激害で入四間宿集団移住問題起こる/鉱山の煙害係陣営(二)/坂田さんの怪我/煙害委員の奇禍/被害区域四町十三ケ村に及ぶ/久慈郡長被害地慰撫に勉める/鉱山との関係緊密になる/第一次世界大戦/向陽台社宅建設/鉱山の大好況時代/渡米の久原さん米国民を驚倒さす/パニック鉱山を襲う/非常識な係員/煙草被害調査の一笑話/各地より被害視察者来る/入四間の補償は不利で無かった/被害山林の実測/日鉱事務所の火災/当時世界第一の大煙突建設/宮長平作さんの大偉業/入四間宿集団移住問題解消
(六) … 28
入四間農家女性達の活動/その頃の行商野菜の相場/係員のプロフィール(一)/品評会と熟し柿/森課長・渡辺課長の追憶/学生角力の横綱大西俊明さん/昭和三年日鉱大本山の写真/その頃の課長年俸/大正末期の煙害補償金/大煙突出現で被害漸減/係員のプロフィール(二)/友愛会事件/島村さん着任/その人情味/煙害漸減=補償漸減案に盲点は無いか/果たして補償案の錯誤発見/入四間に大森林造成計画/植栽杉苗無償交付要求/要求案達成/十五年間に十七万余本の苗木交付さる/四十町歩の杉林造成に成功
(七) … 37
大島桜の大虫害/大島桜の造林不成功に終る/島村さん岩美鉱山所長に栄転/後任虎口さん着任/杉材積計算を啓蒙さる/社名が変る/福田さん日立市初代市長となる/大東亜戦争に突入/福田さん代議士になる/次で第九代所長となる/本山の掲示板問題/日立市大空襲/艦砲射撃/焼夷弾攻撃/終戦となり茫然自失/見上げた進駐軍の態度/蒋介石政府も偉い/大日立市成立/日立鉱山創業五十年祝典/煙害問題殆んど消滅/神峯観測所閉鎖して市に移管/神峯の主相沢さん三十五年で山を下る
◎入四間社宅問題 … 43
◎入四間宿水道問題 … 48
◎編集後記 … 51
(附録) (A)被害地方、委員表の一部 … 52
(附録) (B)日立鉱山の発展と煙害交渉経過表 … 57

久原の巻頭言と関の緒言から

出版経緯は以上のとおりである。著者は1988年(明治21)生まれだから刊行時は85歳。そして94歳になる久原房之助が巻頭言を寄せている。一部を抜き出す。

 公害問題は常に新しい。それは、人類に背負わされた永遠の十字架にも似ている。科学の発達につれて、公害もますます多角化してゆく。[中略]
 これを喰い止めようと、いかに多くの人々が、血のにじむ努力と苦悩を積み重ねてきたことか。しかし、此の努力が人類の進歩をもたらす原動力となっていることを考えると、公害の問題は、むしろ、われわれに対して「克己」ということを、教えてくれているとも言えよう。[中略]
 関さんが活躍された当時は、足尾銅山の煙害や鉱毒事件が、大きな社会問題として尾を引いていた頃でもあり、当然に、利害激突する問題であっただけに、成行が心配されていた。これが足尾のような大きな社会問題にまでならなかった其の蔭には、この人の並々ならぬ努力があったのは勿論だが、更に、煙害を単に、地域の利害にのみ結びつけて考えない、この人の公平無私な、新しい時代感覚と、常に高い処から物を見るという、生活信条があったためではなかろうか。

久原が関を評価する「地域の利害にのみ結びつけて考えない」「公平無私な」態度とは何か、久原は明示していないが、文脈からは足尾の農民たちとは異なり地域的ではなく国家的な産業発展を考える視点が関にあったと言っているように考えられる。

久原のこの発言に対し、関右馬允は緒言で「共存共栄」を強調する。

 足尾に至っては、本書の初めにも書いた様に、田中正造翁が死を賭した程で、どの鉱山でも、被害地側との交渉には手を焼いて困り抜いた様だった。勿論、日立でも、そんな危機を孕んだ事も有ったが、鉱山幹部の角さん(四代所長)初め、鏑木先生も、福田さん(九代所長)も、私共の納得する縁な誠意を披瀝し「被害は、精神的不安も有る事だから、実被害の一割内外の超過補償は止むを得ないだろう」と云う訳で交渉されたから、私共も『鉱山にその誠意が有るなら、何も好んで平地に波乱を起こすでも有るまい』と云う方針で、常軌を逸脱する要求は自粛して、共存共栄主義で進んだつもりであった。

続篇 煙害問題昔話

『煙害問題昔話』の続編が1964年9月に刊行された。A5判、60ページ。内容は煙害問題昔話の「読後感集」と「追録」からなっている。読後感集には44人からの感想文やら礼状が収録されている。日立鉱山の元職員からのものが最も多い。なかには大正初期から昭和初期までの15年間日立製錬所に勤務し、1921年(大正10)から28年(昭和3)まで製錬課長をつとめた矢部兵之助さんの回想文が載っている。制限溶鉱の具体的な実施方法がわかる。また気象観測に携わった武田清治さんも当時を回想している。いずれ紹介しようと思う。