日立鉱山の煙害と葉煙草栽培

目次


中里村の農業


関右馬允『カメラでつづった半世紀』

入四間の関右馬允が1922年(大正11)に撮影した農業実習の写真がある。中里尋常高等小学校高等科の生徒の姿が隠れるほどに伸びた葉煙草。高等科は東河内にあったから入四間での撮影ではない。1925年(大正14)9月28日撮影の蒟蒻畑の写真がある。場所は入四間の関初太郎家の畑。蒟蒻畑から顔をのぞかせる少女と少年、幻想的な光景である[1]

久慈郡の山間部の村では、蒟蒻は江戸時代から特産物として栽培が奨励されてきた。しかし入四間では明治後期に蒟蒻栽培に力が入れられるようになった。それには次のような事情がある。

1911年(明治44)に編まれた会沢量三郎「中里村是調査書」[2]は、地質と土性から村を大きく三つに分ける。一つは下深荻、第2が中深荻と入四間、そして第3が東河内。下深荻と東河内は里川が流れ、棚倉海道が村の中央を走る。中深荻と入四間は里川の東方の山間にある。

大字下深荻ハ土地ハ概ネ浅薄ニシテ砂利多シ、煙草耕作ニ尤モ宜シ、山地ハ松、杉、檜、椚、楢其他雑木ニ適ス。大字中深荻及入四間ハ地質深厚ニシテ肥沃ナリ、蒟蒻栽培ニ尤モ適当ナリ。山地モ亦然リ。大字東河内ハ土質ハ壌土ニ砂礫ヲ交リ、耕地トシテハ煙草、米、麦作ノ適地タルコトハ人ノ疑ハサル所ナリトス。

葉煙草栽培に適する自然条件をそなえるのは下深荻と東河内、蒟蒻栽培に適しているのは、中深荻と入四間だと言う。しかし裏側の事情を次の新聞報道から知ることができる。単に適不適の問題にとどまらなかった。

  1. [註]
  2. [1]関右馬允『写真集 カメラでつづった半世紀』
  3. [2]個人蔵

入四間と中深荻の葉煙草生産禁止

葉煙草専売法の実施されし当時[3]中深荻、入四間の二大字は主要産物なる煙草耕作を突如停止せられし為め、当業者の狼狽一方ならず、大部式蔵、会澤謙三郎其他有志者発議して蒟蒻栽培を行ひ他の作物より以上の収入あるも多額の資金を要し、小農にては到底実行し得ざるより産業組合の必要を認め設立見に至りしものにて資金融通の機運に迎えへり。

「産業組合 中里村産業組合」1914年(大正3)2月4日付『いはらき』新聞

入四間と中深荻は自然条件が葉煙草生産に不適だっただけではない。国により作付けを禁止されたのである。

日露戦争後にも進展する農村への商品経済の浸透。農民は駄賃稼ぎによる現金収入だけではなく、全面的に商品化可能の作物栽培を念頭において農業経営を行なわなければならなかった。そのような時に、商品作物の代表で、確実に現金収入の手段となる葉煙草の生産を入四間と中深荻は1898年(明治31)に政府によって禁止されたのである。

いきおい入四間と中深荻は蒟蒻栽培に向かわざるを得ない。選択肢がたくあんあってその中から蒟蒻を自由に選んだわけではない。

水戸城下と在町太田と陸奥国の城下町棚倉とを結ぶ脇往還にそった東河内・下深荻と山あいの中深荻と入四間とに、中里村が法律一つによって分断されてしまったのである。

  1. [3]専売法の実施されし当時:葉煙草専売法は1898年(明治31)1月1日施行

中里村入四間の聯合調査会への参加拒否

関右馬允の煙害問題回想録『日立鉱山煙害問題昔話』に次のような記述がある。

[煙害の]被害区域は…高鈴山脈を越して、太田町から久米村にまで及んだので、政治関心の進んだ太田町方面では関係町村の連合調査 会を組織し…県会に迫り、又鉱山に強硬な交渉を開始…[連合]調査会では、世論を盛り上がらせる為に、会の幹部だった太田町の私の義兄を通じ、私を抱き込む入四間の連合会加盟を慫慂された。… 角課長の不動の誠意が直ちに実行に現われている事と、鏑木先生が『腐れ縁でも、結ばれた以上は良い意味でお互に利用し合い共存共栄で行こう』と云われた事と、尚、且つ当時の久慈郡長羽田久遠氏が、入四間の山峡まで来て『必要以上に世論を掻き立てて蓆旗を立てない様に』と民心の暴動化を深憂されて頼まれた事などもあって、連合会の手を換え、品を換えた抱き込み勧誘を退け、加盟を断わり…

日立鉱山の角・鏑木、多賀郡長の羽田の三人のアドバイスにより、葉煙草耕作民との連帯を拒否したと言うのである。それは義兄の勧めも断るほどの鉱山職員との信頼関係があっただけではなく、背景には上記のような入四間における農業生産構造があずかっていると考えられる。

茨城県地域別葉煙草生産

専売局によって定められた1914年(大正3)度の茨城県内の葉煙草作付け限度面積は次の通りである[4]。久慈郡では全体に葉煙草の作付が行われ、多賀郡では豊浦町以南(日立市域)でのみ作付されている。

地 域作付面積
(町歩)
構成比(%)町村別内訳
猿島郡1,16820.4(省略)
北相馬郡1142.0 〃
結城郡961.7 〃
筑波郡791.4 〃
稲敷郡210.4 〃
東茨城郡4537.9 〃
西茨城郡4267.5 〃
真壁郡1302.3 〃
新治郡3015.2 〃
那珂郡1,02317.9 〃
久慈郡1,86032.5幸久9 西小沢2 坂本15 世矢51 機初36 佐竹37 太田3 誉田94 佐都56 河内102 中里93 賀美64 小里47 郡戸23 久米37 山田128 染和田187 天下野12 高倉39 金郷103 世喜93 金砂157 下小川23 諸富野85 上小川10 袋田46 依上56 大子57 生瀬87 宮川42 佐原31 黒沢35
多賀郡440.8坂上7 国分19 河原子2 鮎川4 高鈴3 日立4 日高3 豊浦2
[珂北3郡計]2,92751.2
合計5,721100
  1. [4]「煙草耕作反別 明年度に於る公示」 1913年12月11日付『いはらき』新聞

これら県内葉煙草耕作地のうち久慈郡東南部(茶色文字)と多賀郡(青文字)の町村の位置と作付面積(町歩)を図にして示す(Googleマップに加工)

葉煙草生産地の補償例 久慈郡佐都村大字茅根における

佐都村大字茅根は日立鉱山の製錬所から南西の方角にあり、多賀山地をこえたところにある里川中流域の村である。この地区における1912年(大正元)から17年(大正6)までの煙害補償額の推移を示した。

大煙突が稼働するのは1915年3月。この年を境に葉煙草への補償額が急激に減少する。山林や農作物などへの補償額に変化はない。この数値から明らかなように煙害対策は葉煙草対策であった[5]

年次山 林農作物葉煙草神社・
共有地
その他調査分
配費
合計葉煙草の
構成比
1912年14311196780359291,68957
1913年6225158651-2297260
1914年1326001,125965201,97857
1915年1284234285925251,08840
1916年11965442745189125
1917年153206580-224661
  1. [5]菅井益郎「日本資本主義の公害問題」『社会科学研究』第30巻第6号

大江志乃夫「煙害と煙草」

大江は『歴史評論』に2ヶ月に一度のペースで連載した「紙魚の眼」の第2回において日立鉱山の煙害問題について触れる[6]

足尾鉱毒事件と対照的に─被害者と企業との「平和的解決」事例として取り上げられる日立鉱山の煙害事件。久原の日立が古河の足尾より優れた人間性をもつ資本だったと考えるのは不十分であり、大煙突を建設し、「平和的解決」をもたらした久原房之助の「英断」をもたらしたものは何かについて述べる。

 巨額の外債を背負いこみ、帝国主義大国の軍拡競争に国力を傾けつつあった日露戦後の日本の財政をささえていた財源を考えてみよう。大正二年度の国庫の経常歳入費目別ベスト5──( )内は経常歳入総額中にしめる一○○分比──をあげると、酒税(一六・二)、地租(一三・〇)、関税(一二・八)、専売益金(一二・〇)、郵便電信電話収入(一〇・一)の順になる。もっとも、専売益金は俸給を含む諸経費を差引いた純益であり、他の四費目は費用をいっさい含まない収入である。実質的には専売益金が財政上にしめる地位は、徴税費を差引いた地租・関税より上位にあると考えてよい。専売収入の約四分の三は煙草の売上げである。この年の全国の煙草生産高の一五パーセント弱を茨城県、七パーセント弱を河北三郡がしめている。だから、たとえば、常陸太田以下一町二三カ村から成る水府煙草生産同業組合が、「大正二年ハ煙草耕作期中天候適順ニテ病虫ノ被害殆ンド皆無ノ状態ナリシモ日立鉱山ノ煙毒ハ産地ノ九分ヲ襲ヒ」として動き始めるに及んで、行政は煙害擁護より財源の煙草保護にまわらざるをえず、久原の「英断」を余儀なくさせたものといえよう。谷中村を取潰したのも、全村移住に直面した入四間村の滅亡を免かれさせたのも、その時々の国家の軍事的要請に基づく御都合主義であった

大煙突を建設させた理由が、日露戦争に由来する国家財政的事情にあったという。だが、先例として別子銅山の進んだ煙害対策もあり[7]、かつ資本としても経営を圧迫するほどの補償金を支払いつづけることの経済的合理性を担保できなかったとも考えられるのではないか。ともかく、久慈郡における葉煙草生産の存在は日立鉱山にとって極めて困難な課題であったことはたしかである。

  1. [6]『歴史評論』第320号(1976年12月号)に掲載された大江のこの文章は、神岡浪子編『資料近代日本の公害』(1971年 新人物往来社)に収録された関右馬允『日立鉱山煙害問題昔話』を紹介する「日立鉱山煙害解説」に異を唱える。
  2. [7]末岡照啓「近代日本の環境問題と別子鉱山の煙害克服」『住友史料館報』第48号。概略は こちら