柴田方庵

寛政12年(1800)常陸国多賀郡会瀬村に柴田伝左衛門昌俊の次男として生まれる。兄は新兵衛昌常。14歳の時江戸に出て、医学を多紀元堅(と伝えられる)と儒学を朝川善庵に学ぶ。天保2年(1831)、32歳のとき長崎に出て西洋医学を学ぶ。そのまま長崎で開業し、牛痘種痘の普及に力を尽くす。また水戸藩へ海外情報の提供を行っていた。安政3年(1856)10月長崎で歿する。享年57。

方庵の名について:方庵は号である。通称は不詳。会瀬で開業していたときに玄澤、長崎で勉学に励んでいるときの一時期芳庵と名のるが、その後、歿するまで方庵。名は昌敦、のち海、字は谷王(柴田方庵書簡と日録撮要による)。
 *谷王(こくおう)には、すべての谷が集まるところ、つまり海の意味がある。

方庵水戸藩士説:亡くなった直後に水戸藩から「御目見格」に遇され、「合力米」として「五人扶持」を与えられたのであって、水戸藩士に登用されたわけではない(『日立市史』872頁の第27図に「柴田方庵扶持状」として掲載されている)。この点については現在(2013年2月)古文書学習会が解読を進めている子の大助による方庵の訃告書簡によって明らかにされるであろう。

以下、柴田方庵日録(日記)に基づき、彼の行動と業績のあらましを紹介する。

江戸遊学 文化10年(1813)

柴田方庵は水戸坂上の産なり、歳十四(文化10年)にして江戸に遊ひ、医を多紀氏に学ひ、儒業を朝川氏に受け…

 鈴木重時「方庵雑話」(嘉永3年)『柴田方庵関連史料』所収

会瀬村出立、長崎へ 天保2年(1831)

天保2年の条

天保二辛卯四月十六日、兼テ西肥長崎遊歴ノ宿志ニテ家族朋友等ニ離杯シ、朝四ツ時門人田所玄晋一人召連故郷ヲ発駕シ……同月下旬門人玄晋ハ戸塚静海へ入門相タノミ、五月七日朝川家ヲ辞シ……六月二十三日、夜四ツ半時長崎新大工町和泉屋文蔵泊……八月七日、蘭学稽古初

 『日録撮要』より

長崎で勉強をしたいとの念願がかない、天保2年4月16日朝四ツ時(午前10時)、方庵は門人の田所玄晋をつれて会瀬村を出発した。江戸に半月とどまり、5月7日、師の朝川善庵にあいさつをして江戸を出発。6月23日、長崎に到着した。

種痘法の伝授 嘉永2年(1849)

7月11日の条

十一日夜名村貞五郎来る、此節蘭医通詞会所ニ牛痘種方被仰下候ニ付、御年番頭へ御伺御聞済ニ相成、来ル十六日種痘日ニ付同所へ御越被下、蘭医より御伝授御受、一同御植被成候様御達可致旨被仰付候間、当日紅毛通詞会所へ御出可有之ト被申候

7月11日の夜、オランダ通詞の名村貞五郎がやってきて、通詞会所で蘭医から牛痘種痘の伝授が許可されたので、16日に通詞会所に来るようにと言い渡され、蘭医からの伝授をもって一般の治療をするようにとの達があった。

7月21日の条

廿一日、朝五ツ半頃阿蘭陀通事・年番両名書状来ル
以手紙得貴意候、然牛痘ヲ以種痘いたし候義、御伝授申度旨外科阿蘭陀人申出候ニ付其段相伺候処、昨廿日御聞済ニ相成候間、来ル廿四より江戸町阿蘭陀通詞会所御出有之候様仕度、此段御掛合為可得貴意如此ニ御坐候、以上
  七月廿一日          植村作七郎
                 名村貞五郎
          柴田方庵様

7月24日の条

廿四日 晴 朝五ツ時通事会所蘭人種痘ニ行 今日十七人種 八月朔日又々可罷出由検使
  在留外科 モンニー
  船外科 セフ、オツテンバヘル
  右両人種痘ニ出ル 九ツ半頃帰宅

  『日録二』より

7月16日の牛痘種痘伝授は延期になったのであろうか。7月24日、通詞会所にてオランダ人医師のもとで17人に種痘をおこなった。8月1日にも実施するので出向くようにとの達であった。

種痘の普及 嘉永6年(1853)

  乍恐奉伺候口上書
五ヶ年已前酉年(嘉永2年)渡来之阿蘭陀人、牛痘ヲ以種痘之伝授致度旨奉伺候処、同年七月廿日伺之通御聞済被為成候ニ付、江戸町通事会所ニ拙者両人罷越、伝授ヲ得発明仕候、右ニ付往々試候処悉安痘致、先百発百中之良法と奉存候……右種痘諸民安隠之可為名法義顕然仕候、然ル処市中ニ流布不仕歟、且者貧窮之者等謝物等ニ頓着仕候歟、乞出候者至稀ニ御座候、御上ニ為万民御許容ニ為成、私共儀節角伝授仕候甲斐も無御座、残懐ニ奉存候、前文之次第御感察被為成下、必謝儀ニ不及候ニ付、未痘之者共勝手ニ罷出候様、市中一統戸毎御触流被為成下度、此段乍恐以書附奉願候、以上
  丑四月         柴田方庵印
              吉雄圭斎印
   御年番所

牛痘種痘は諸民が安心できるすぐれた方法であることは明らかだが、一般に普及していない。その原因は、貧しい者は種痘の謝礼に困り、受けないでいることである。謝礼は不要なので、種痘を受けないでいる者は柴田方庵と吉雄圭斎のもとに自由に出向くよう市中に触をだして欲しいと方庵と圭斎の二人が長崎会所に嘉永6年4月願いでたのである。

この願いに対し、長崎会所から以下の達がだされた。方庵たちの願い通り触をだしたので、種痘を施した者の名前を月末に会所の年番へ提出するよう求めたのである。この一件が方庵と圭斎を牛痘種痘を広めた功労者として評価される所以である。

  口達
万屋町吉雄圭斎・榎津町柴田方庵儀、阿蘭陀人より伝授請候牛痘種療致候処、近来市中ニおゐて乞出候者稀ニ有之、折角伝授之甲斐も無之候ニ付、必謝儀不及、未痘之もの共両人(吉雄・柴田)宅勝手ニ罷出種痘致候様被仰付度、願之通御免被成候条、町々不洩様早々可被相触候事
  丑六月
右之通市中相触候間、此後種痘乞出候者有之候ハヽ月末毎引替帳ヲ以年番名前相届可申事
  丑六月

 嘉永6年「書式雑記」『柴田方庵関連史料』より

ビスケットと方庵

柴田方庵がよく知られているとすれば、それは社団法人全国ビスケット協会が定めている「ビスケットの日」に関連してのことである。同会は2月28日をビスケットの日としている。なぜこの日なのだろうか。

柴田方庵は水戸藩から長崎での外国情報の入手を依頼されていた。そのなかのひとつが「パン・ビスコイト」の製法であった。「ビスコイト」とはポルトガル語(biscoito)で、ビスケットのことである。方庵はその製法書を仕立て、安政2年(1855)2月28日(もちろん陰暦)に水戸藩萩信之助宛書き送った。これをもってビスケットの日としているのである。

この経過を方庵の日記からにより追ってみる。

嘉永7年(1854)9月16日、「水戸御家中御馬廻武具掛役萩信之助」ら一行12人が長崎に到着した(『柴田方庵日録四』)。そして11月9日萩たちは長崎を離れ、江戸へ向かった。出立という日になって「船製造之書」と「パン・ビスコイト」の製法書の入手を方庵は萩から依頼された。

九日 曇 水戸御家中方御出立
○萩氏よりパン・ビスコイト製造之事委敷稽古いたし、書取ヲ以江戸へ申遣し呉候様頼ミ置候

『柴田方庵日録五』より

翌2年(1855)2月23日、方庵はコンプラ(オランダへの諸色売込商人)へパンとビスコイトの「稽古」に行った。

廿三日 快晴
コンプラパン・ビスコイト両方稽古ニ行ク、是ハ水戸より御軍用ニ相成候ニ付書取遣し候様被仰付候ニ付、稽古いたし候

翌24・25日にも弟子良庵を派遣した。そして同月28日に萩宛に製法書を送ったことが知られるのである。

廿八日
萩信之助殿へ出状、パン・ビスコイト製法書在中

『柴田方庵日録五』より

残念ながらこの製法書の中身はわからない。

ちなみに、「パンの日」は毎月12日で、江川太郎左衛門がパン焼き窯を作り、「1842年4月12日」に「兵糧パン」第1号を焼いたことにちなんでいるという。

附1 柴田方庵墓碑銘

柴田方庵の墓碑は、長崎市寺町の臨済宗河東山禅林寺にある。没後翌年の安政4年(1857)に砲術家の山本晴海の撰文により子の大介が建立した。こちらの記事 「史料 柴田方庵墓碑銘」 をお読みください。(2013-03-21)

附2 方庵の師多紀元堅

方庵は江戸で医学を多紀氏に学んだと「方庵雑話」に書かれている。「方庵雑話」は方庵が嘉永6年江戸に登ったときに語ったことを水戸藩士鈴木重時がまとめたものである。方庵が多紀氏に学んだと語ったのであろう。多紀氏といえば、当時は多紀元堅のことである。だから冒頭の紹介で、そう書いておいた。しかし疑問がわいた。

第一に、方庵の日記には多紀氏の名は一切出てこない。朝川善庵は頻繁にでてくるのにである。

第二に方庵が江戸に出て学んだとき、多紀元堅は方庵より五つ上の19歳である。元堅は門人をかかえるには、少々早すぎるのではないか。

第三。矢数道明・小曽戸洋「多紀元堅門人録」 (『漢方の臨床』42巻10号 1995年)に方庵の名前がない。元堅の最初の門人は、文化12年入門の唐津藩の佐竹玄春である。元堅の父元簡、祖父元悳も漢方医。元簡は方庵が江戸に登る3年前に亡くなっている。

考えられること。元堅の祖父元悳が起こした医学館では、代々多紀氏が中心となって子弟の育成がなされた。若き方庵は多紀氏ではなく「医学館」で学んだということだろうか。まだまだ調べなければならないことがある。(2013–04–16)

柴田方庵の記録

柴田方庵は日録(日記)をはじめ数多くの記録を残している。こちらの記事 柴田方庵日録とその他の史料 を参照。