史料 柴田方庵墓碑銘

柴田方庵の墓碑は、長崎市寺町の臨済宗河東山禅林寺にある。没後一年たった安政4年(1857)、砲術家の山本晴海の撰文により子の大介が建立した。方庵の墓碑銘の存在は知られていたのだが、全文に接する機会がなかったので、以下に紹介する。

原文

  柴田方菴先生墓誌[1]

先生諱海、字谷王、姓柴田氏、号方菴、常州水戸人。父曰傳左衛門、母某氏。爲人正實、處事周密、夙爲醫。天保二年辛卯六月、來游長崎、學于蘭医。悉逸僕兒禿者術益精。常起幾死。輿論稱爲醫中巨擘。仰治受業者爭援止之終留家焉。先生有兄嗣家。然毎寄二親以奉養之資。聞及珍異。又造其退老之宅。嘗歸省見其國君 齊昭公。頗見優待。爾後屡受寵賜器物金帛之外至手寫聖語短刀等。後特命班中士餼禀五口以便遠使。先生家事簡而富。室石崎氏無子。養馬田氏兒以爲嗣。曰大介。慈愛過所生。安政三年丙辰十月八日病卒。享年五十有七。遺言贈宗家以金若干及前賜刀。葬禪林寺後新塋。大介請銘。銘曰創業之易固是其人。特厚丘首不啻術仁。

  安政四年丁巳十月    山本晴海謹撰

[註]

  1. [1]「墓誌」は一般に墓に埋められるものであるので、本ページのタイトルは「柴田方庵墓碑銘」とした。原文に句読点( 。、)はないが、編者が付した。

訓読文

先生、諱は海、字は谷王、姓は柴田氏、方庵と号し、常州水戸の人なり。父は傳左衛門と曰い、母は某氏。人と為り正実、事を処するに周密*なり。夙つとに*医と為る。天保二年辛卯六月、長崎に来遊し、蘭医に学ぶ。シイボルト*は術益ますます精くわし。常に幾ほとんど死するを起す*。輿論、医中の巨擘*為りと称す。治を仰ぎ、業を受くる者、争いて之れを援たすけ、終に家に留む。先生兄有り、家を嗣ぐ。然るに毎つねに二親に寄するに奉養*の資を以てす。珍異に及ぶと聞く。又た其の退老の宅を造る。嘗かつて帰省し、其の国君斉昭公に見まみゆ。頗すこぶる優待せらる。爾後しばしば寵を受け、器物、金帛の外、手写の聖語、短刀等に至るまで賜る。後ち特に中士に班するを命ぜられ、禀りん*五口を餼*おくられ[2]、以て便すなわち遠く使いす。先生、家事、簡にして富む。室は石崎氏、子無し。馬田氏の児を養い、以て嗣と為す。大介と曰う。慈愛、所生*に過ぐ。安政三年丙辰十月八日病卒す。享年五十有七。遺言して宗家に贈るに金若干及び前さきの賜刀を以てす。禪林寺後の新塋*に葬る。大介、銘を請う。銘に曰く、創業の易やすきは固もとより是れ、其の人による。特に丘首*に厚く、啻ただに術の仁なるのみならず。

  1. [2]「後ち特に中士に班するを命ぜられ、禀五口を餼られ」は、水戸藩から御目見得格の待遇と合力米五人扶持を与えられたことをさす。『日立市史』にこれを示す史料が写真で紹介されている。

語意

周密  シュウミツ  よくゆきとどいて手ぬかりのないさま
 夙に  ツトニ  早くから
 悉逸僕兒[留ヵ]禿  シイボルトに漢字を宛てたもの
 幾死  キシ  死にそうなこと
 巨擘  キョハク  仲間のうちでとくにすぐれた人
 奉養  ホウヨウ  父母や長上に仕えて養う。日常の飲食・起居をいう
 餼   キ  食べ物をおくる
 禀   リン  扶持米
 所生  ショセイ ショショウ  生みの子
 新塋  シンエイ  新しい墓
 丘首  キュウシュ  故郷を思うこと
 啻に  タダニ  それのみならず

方庵はシーボルトに学んだか。誤読を誘う文章

シーボルトは方庵が長崎に遊学する2年前に日本を離れているので、方庵は直接は教えをうけていない。

「天保二年辛卯六月、長崎に来遊し、蘭医に学ぶ。」と墓碑銘は言う。方庵が天保2年(1831)6月に長崎に到着したことは「日録」よってたしかめられる。方庵が蘭学の勉強を始めたのは、この年8月のことであり、のちに出島のオランダ商館勤務の医師について西洋医学を学んでいるので、この記述はよしとしよう。

「蘭医に学ぶ。」の次にある「シイボルトは術益す精し。常に幾ど死するを起す。輿論、医中の巨擘為りと称す」という文章は、シーボルトを説明する文章である。シーボルトは死んでしまいそうな病人でも生き返らせてしまうほどの評判の名医である、と墓碑銘は称賛する。この記述は方庵のことではないが、よしとしよう。しかし「蘭医」が「シイボルト」の前に置かれているので、蘭医はシーボルトのことだと受けとられかねない。

続く記述が「治を仰ぎ、業を受くる者、争いて之れを援け、終に家に留む」である。これはシーボルトについて学んだ弟子たちについての言及である。これも方庵のことではない。方庵のことではないことが墓碑に書いてある。不自然である。

ともかく墓碑は、方庵がシーボルトの弟子であった、と言っていないのである。

文政12年(1829)8月、シーボルトは幕府によって国外追放される。方庵の長崎遊学2年前のことである。二度目の来日は、安政6年(1859)7月6日、方庵の死後である。これをもって、墓碑の文章は誤りである、といくつかの文献が指摘している。

しかし墓碑銘は間違えてはいない。繰り返すが、墓碑銘は方庵がシーボルトの弟子であった、とは言っていないのである。

うがって読むならば、「蘭医に学ぶ。シイボルトは……終に家に留む」は、方庵がシーボルトについて学んだかのように誤解を誘導する。私は誤解した。つまり文章に惑わされた結果、方庵の墓碑銘は事実でないことが書かれているとして、これまで紹介できずにいた。

山本晴海撰文の墓碑銘に間違いはない。けれども誤読を誘発する内容をもっていることはたしかである。意図的な挿入なのか、わからない。

謝辞

柴田方庵のこの墓碑銘の筆写原稿のコピーを提供くださったのは、福地二郎さん(日立市神峰町 故人)である。かれこれ30年ほど前のことである。そして私でも理解ができるように訓読文をつくってくださったのは、大森林造さんである。今まで扱いあぐねていた墓碑銘をようやく紹介することができた。

福地さんと大森さんのおふたりに感謝申しあげます。

(島崎和夫)