制限溶鉱

日立鉱山の煙害対策として高さ155.7メートルの大煙突が1915年(大正4)に完成以後、急速に煙害「問題」は沈静化する。しかし煙突が高いだけでは煙害そのものはなくならなかった。制限熔鉱(これを支えたのは気象観測態勢)と組み合わされてはじめて煙害を減らすことができた。このことは1983年の中沢稔・井原聰の論文「日立鉱山煙害事件の技術史的再考」[1]が指摘するまで知られることはなかった。

しかし知られていないことは今でも同じである。依然として大煙突がヒーローである。歴史の単純化。わかりやすいといえばわかりやすい。

1994年に日鉱金属が発行した『大煙突の記録』に制限熔鉱の実施方法に関する資料は一切残っていないとある。そのために同書は1940年(昭和15)以降に行なわれていた方法を関係者からの聞き取りによって大正期の制限熔鉱の手法を類推している。なぜ日立鉱山の記録にないのか。理由は技術的な運用であるため企業秘密となっていたからではないか。

日立鉱山の初代庶務課長であり煙害問題に日立鉱山の代表として被害住民に向きあった角弥太郎の回想「日立鉱山とわたくし」[2]によって制限熔鉱という言葉だけは知られていたこちら 日立鉱山の大煙突>制限溶鉱と気象・煙流観測〉。しかしその具体的手法については語られていない。

盛岡高等農林学校を卒業し、同校の関豊太郎教授のもと助手として気象観測をしていた武田清治は、被害対策の学術的専門家であった鏑木徳二に招かれ、1909年(明治42)2月日立鉱山に入社し、気象観測にたずさわった。1964年(昭和39)の彼の回想「気象観測の思い出」[3]に次のようにある。

気象観測上、煙害を惹起する恐れある時(農作物の被害多い季節)は、昼夜を問はず製錬課に警報を発し、熔鉱炉に送風を制限して、熔鉱量即ち排烟を極力縮減した[中略]此の警報の発解は、気象観測主任の責任で、つまり私が、熔鉱炉を支配した[中略](此の警報発解の機密は、初めて発表したもの)。

気象観測をふまえ被害がでそうなときは溶鉱量を削減したが、それは社外秘だったというのである。

二代めの製錬課長をつとめた矢部兵之助の回想「大正期から煙害を出した元凶から」がさらに次のように制限熔鉱の内容を語っている[4]〈こちら 日立鉱山煙害問題 製錬技術者の回想>矢部兵之助 大正期の煙害を出した元兇から〉

天候や、作物の生育状況によって、神峯山から警戒報が出ると、熔鉱炉は直ぐ調合を変える、送風量を少くして扱量を減ず、一部の設備は停止する

武田と矢部の回想はいずれも1964年、さらに角の回想は1956年のことである。すでに亞硫酸ガスの多くは1951年に完成した排煙硫酸工場によって回収されており、制限溶鉱の必要はなくなり、制限溶鉱は企業秘密ではなくなっていた。だから角、武田、矢部も制限溶鉱のことは語りえたということであろう。

[註]

  1. [1]『茨城大学教養部紀要』第15巻 1983年
  2. [2]日本鉱業株式会社編『回顧録』 1956年
  3. [3]関右馬允編『続篇 煙害問題昔話』 1964年
  4. [4]同上。なお矢部は『回顧録』において日立鉱山時代のことを回想しているが、制限溶鉱のことにふれていない。

『郷土ひたち』第62号(2019年12月1日)に加筆