日立鉱山の大煙突

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概要

茨城県日立市宮田町の山の中腹に大きな煙突が立っている。かつて日立鉱山の製錬所の煙をはきだしていて、現在の3倍の高さをもっていて、大煙突とよばれしたしまれていた。

日立鉱山の通称大雄院製錬所の排煙に含まれる亜硫酸ガスが、まわりの地域の山林の樹木や農作物に害をもたらした(煙害)。その補償金が企業の経営を圧迫し、操業中止を求める住民の声は強まる一方であった。そこで創業者久原房之助が部下たちの反対をおしきって1914年(大正3)に建設したのが日立鉱山の大煙突である。その結果被害は減り、地域ばかりでなく日立鉱山の経営も救った。

高さは155.7m。建設当時世界一をほこった。その大煙突も1993年2月19日、3分の1を残して倒壊した。

久原房之助の自信

日立鉱山の創業者である久原房之助(くはらふさのすけ)が、1952年(昭和27)発行の『日立鉱山史』序文で次のように述べている。

僕が赤澤銅山を買取つたのが、日露戦役の終つた明治三十八年、僕の三十六歳の時である。当時の赤澤はまだほんの小山でこれが後に東洋屈指の大日立にならうとは、世間では誰一人考えて見る者もなかつた。しかし僕には僕なりに、この鉱山は何とかなると云う確信があつた。[中略]幸い、赤澤の鑛量が見込通り豊富であつたこと、僕の身につけていた経営観乃至経営技術が当時として最も進歩的なものであったこと、日本の産業も今後鉱工業に重点が移っていくだろうと云う大局観が誤らなかったこと。

「確信」「見込通り」「大局観」に誤りはなかったという、回想にある久原の自信は、50年後の発言であるから多少割り引いておくにしても、秋田県の小坂鉱山を再生させた自信は久原のうちにあったし、日立鉱山の鉱量の豊かさ、先進的な技術の導入、この時期日本が第2次産業革命期に入っていたことが、久原を成功に導いたことは間違いない。

煙害問題

この成功の前提となったのは、煙害問題の解決である。

鉱石を溶かす際に排出される亜硫酸ガスが近隣の山林の樹木と農作物に被害をだした。久慈郡の葉たばこ生産地帯の農民たちが製錬中止を求めるなどひろく社会問題化し、1913年(大正2)に賠償金は23万円を超え、銅の売上高の5%に達しようとしていた。煙害問題の処理を誤ってはならない。足尾鉱毒事件の轍を踏むことになる。久原はそう考えたにちがいない。

排煙中の亜硫酸ガスをうすめようと大煙突の建設の前に二つの煙突がたてられた。

一つは神峰煙道である。製錬所から神峰山にむかう尾根沿いに這うようにしてつくられた延長15町(1635m)におよぶ神峰煙道(通称百足煙道)は、1911年(明治44)5月竣工し、15年(大正4)3月まで使用された。

もう一つは、阿房煙突(達磨煙突・タンク煙突・命令煙突とも)である。1913年(大正2)6月に完成した。14年(大正3)4月8日に使用認可。高さ120尺、口径59尺。

数字にみる大煙突

しかし煙害はおさまらなかった。そこで考えだされたのが大煙突である。煙害がさらに広まるとして部下たちは反対したが、久原は押し切った。1914年(大正3)3月13日工事は着手された。

高さ 510呎(呎=フィート)
これは設計図の数値で、完成時には511呎(155.75m)であった。
基礎高 13呎
上端内径 25呎6吋(吋=インチ)
下端内径 35呎6吋
上部厚み 8吋
下部厚み 2呎

*1フィートは30.48cm 1インチは2.54cm

同年(1914年)12月20日に当時世界第1の高さを誇る煙突が完成した。 

工事に足場用につかわれた丸太は3万1650本にのぼり、延べ3万6840人が工事に従事した。経費は 15万2218円。

そして翌15年(大正4)3月1日、大煙突の使用が認可され、通煙を開始した。

これ以後煙害が減少したことは、賠償金額の推移が物語っている。建設から12年後の1926年(昭和元)には7万円余、1913年の三分の一、売上高の0.5%にまで低下した。大正2年の賠償金が23万円を超えていたことを考えれば、大煙突の建設費は安くすんだといえる。

制限溶鉱と気象・煙流観測

煙害の減少は大煙突の効果だけではない。半径20キロ以内に気象と煙流の観測網をしき、煙害が出そうなる気象条件になると製錬量を調整する制限溶鉱という手法をあわせてとることによって煙害をおさえこんだのである。

制限溶鉱については、中沢稔・井原聰「日立鉱山煙害事件の技術史的再考」(『茨城大学教養部紀要』第15号 1983年)を参照。

制限溶鉱を主張したのは、日立鉱山第4代所長となる角弥太郎である。当時は日立鉱山の庶務課長の任にあった。日本鉱業の創業50年記念誌である『回顧録』に「日立鉱山とわたくし」と題する回想文を寄せている。出版は1956年である。その中で角は次のように述べている。

 大正二年には煙害地も著しく拡大して、其解決も次第に困難となつた。何とか工夫して、幾分でも、被害の軽減を計らなければならぬ時が来た。私は一策を思ひついた。それは被害の出ない好天気の日には無制限に、成るべく多量の鉱石を熔鉱し、悪天候の日には、出来る限り熔鉱量を減ずる、即ち制限熔鉱のことである。早速青山課長[1]に此ことを相談して見た。ところが青山課長は、色をなして、そんな馬鹿なことが出来るものか、君のやうな机上の空論は実行出来る筈がない。殊に他のどこの鉱山でも、そんなことをやつて居るところは断じてない、とのことで一言の下に断わられた。一両日を経て再び何とか考へて呉れと頼んで見た、また同じ答へを繰り返へされた。そこで私は予め打合せて置いて、或悪天候の日に而も煙突の煙りが、久慈、那珂両郡方面の地上に流れて居る、その状態を望見するために、青山君を伴ひ、神峯山の頂上に登つて、親しく視察して貰つた。そして各大鉱山の煙害問題が、社会問題となつて、如何に困つて居るか、また当鉱山は操業以来まだ間もない。地方的にもまだ余り知られて居らずまた地方民に利益も恩恵も与へて居ない。それに広大の区域に渉り、多数の人々に、多大の被害を与へるに於ては、他の大鉱山よりも、より以上に大問題となることは、火を見るよりも明かなことである。君も鉱山の幹部として、一課のことのみにとらはれず、総体的に考へて、良き智恵を絞つて、万全の策を立てて貰ひたい云々。現状を観察しながら熱心に懇談した。青山君も此時釈然として私の提議を快よく容れて呉れた、私は青山君に抱きついて喜んだ。間もなく青山課長は操業上の万難を排して,実行に移されたが、青山君の友情と協調的態度には大に敬服した。此制限に依りどれだけ被害が減じたかは、数字に現はすことは出来ない。けれども其操作に因り、被害軽減に多大の効果があつたことは信じて疑はない。青山君今や亡し、語るを得ず鳴呼。

角は制限溶鉱を思いついたのは1913(大正2年)のこととして語っている。また青山も「他のどの鉱山でも、そんなことをやつて居るところは断じてない」しかし、愛媛県の別子銅山では、制限溶鉱を少なくとも1910年(明治43)の11月に始めていた。それは被害者・加害者・自治体の3者が農商務省大臣の仲介によって東京の大臣官邸で協議し、制限熔鉱の実施で決着をみていたのである[2]。このことを日立鉱山が知らなかったとは考えにくい。しかもこの別子銅山の制限要項の実施について、翌11年6月初旬に多賀郡煙毒被害農民は知るところとなった(こちら 当時の新聞記事)。当然被害農民は郡や県にこの件を伝えただろうし、日立鉱山に対し制限熔鉱の実施を要求していたに違いない。したがって日立鉱山が制限熔鉱のことを知らなかったというのは、考えにくい。

角が制限溶鉱1913年に突然思いついたように回想し、かつ製錬課長に実施例がない、と言わせている。疑問の残る角の回顧である。

  1. [1]青山課長:青山隆太郎。初代製錬課長(1907〜20年)。角と共に小坂勢の一人。1869年(明治2)12月現在の秋田県北秋田市阿仁の真木沢鉱山に生まれ、1931年(昭和6)歿(『広報こさか』第983号 2008年4月)。
  2. [2]末岡照啓「近代日本の環境問題と別子鉱山の煙害克服」『住友史料館報』第48号

参考文献