日立鉱山煙害問題 製錬技術者の回想


1913年(大正2)頃の製錬所
井上真治『日立鉱山の絵葉書』より。左に神峰煙道、中央に八角煙突、右に阿呆煙突

日立鉱山の煙害については、農作物と山林樹木の被害とその補償及び大煙突に象徴される対策が主として話題にされてきた。大煙突だけでなく製錬技術の面からみるとどうだったのか。これまでに製錬技術者からの発言が断片的になされている。それらのうちから二人の回顧録3篇をここに紹介するが、両人とも共通して、排煙から硫酸を回収技術は当時もあって試みられたが、経済的に成功しなかったことをあげている。

目次


矢部兵之助 煙突こぼれ話

日本鉱業(株)総務部文書課が1956年に発行した『回顧録 創業五十周年記念社報特別号』に掲載された。

著者の矢部兵之助は、東京帝国大学工科大学冶金学科を1913年(大正2)に卒業し、同年久原鉱業株式会社に入社。1921年(大正10)5月1日から28年(昭和3)9月10日まで、日立鉱山製錬課長すなわち製錬部門のトップ地位にあった。銅熔鉱炉における粉砕炭の利用に関する研究で1927年に日本鉱業会第1回渡辺賞受賞[1]。佐賀関製錬所長、鎭南浦製錬所長を勤めたのち、1945年7月〜46年11月日本鉱業(株)常務取締役。1947年公職追放により離社。

製錬所に隣接する工場・住宅・学校にも亜硫酸ガスが満ち、製錬所が曹洞宗大雄院に移転した当時は深い緑に囲まれた地もまもなくして樹木の伐採と煙害で「萱のみ茂る」裸山と化したという描写には驚かされる(上に掲げた写真が雄弁に物語っている)。また「煙突は高きを以て尊しとせず、優秀なる製錬技術を以つて尊しとなす」「煙突無用の理想境」には、煙害は製錬技術によって解決されなければならないとする技術者としての自負が感じられる。

[凡例] 縦書きを横書きに改めたほかは、漢字、仮名づかいなどは原本どおり。なお[ ]と註と太字による強調は引用者。

一、日立の煙突

 私の入社は大正二年で、久原鉱業は事業の大発展期であり、日立は煙害問題の大苦悩期であつた。

 当時鉱煙は裏山の八角煙突と神峯煙道(長さ十五町で先端と両横の多数の孔から排煙し、俗称百足煙道)から排出した外に、その筋の指令に基づき硫煙を多量の空気で薄めて排出する径六十尺(この点世界一、俗称阿呆煙突)高さ百二十尺煙突が新たに通煙された。

 だが神峯煙道の分散排煙も効なく、学者の衆智を絞つた結論に基づく硫煙稀薄法[2]も亦効なく、外気混合で温度の低い重い煙は拡散せずに地上を低流して煙害は益々ひどく、多数の被害者は度々事務所に詰め寄り、時には地所係長の鏑木さんをかついで連れて行こうとした事などもあつた。工場、住宅、学校もしばしば硫煙に閉され、その中で児童は体操もすれば深呼吸もする。数年前迄欝蒼とした大雄院の神秘境も用材伐採と煙害で萱のみ茂る裸山と化し、頻々たる山火事には消防も随分と難渋した。

 遂に久原さんの英断で破天荒の五百尺煙突が山頂に建設された。竣工後私は煙突の頂上に上り、眼下に常陸の山野と見はるかす太平洋の壮観に打たれた。愈々使用許可が来て通煙したのが大正四年三月一日、煙が高く天上に昇るや角さん(庶務課長、後の所長)から電話で「製錬では煙突が余り高すぎて反つて煙が吐き出せまいといつた者があるそうだが、美事に排煙したじやないか。」といわれた。電話を承けたO氏が「そんな事いつた人はありません、通風はよろしいのです。」と応答した。蓋し煙道煙突が長く高くなるとガス温度は冷え、煙道抵抗は大きくなり、ドラフト[通風]は煙突(煙道共)の高さに比例して大きくはならない、また排煙量は高さに比例せず、高さの平方根に比例するなど私のいつた事が誤伝されて角さんが飛んだ心配されて居た事を恐縮に思つた。

 この煙突が当時米国グレイトフオールスの五百六呎より数呎高い五百十一呎で世界の第一位を獲得した。後年続々高煙突が出来たが、熔鉱炉水準からの排煙の高さ千二百四十尺は今でもなお世界の一位ではあるまいか。

 大煙突の効果は覿面であり偉大であつた。これにより日立は生きた。煙害は激減し、ドラフトは良くなり、工場附近の環境は一変した。旧来の諸煙突は無論廃止された。

 口さがない社員が皮肉にも命名した阿呆煙突は今もその名で山腹に残り「あれは何ですか、タンクですか。」の来客の質問は四十年過ぎた今日でも続いている事だろう。百足煙道は大正六七年鉄価暴騰時に鉄筋回収のため破壊されたが、回収した丸鉄代金は死傷者が出たので消えた。そこ迄は予算に見なかつたという。尤も五百尺煙突では百尺毎に死者一人総計五人を予算に見たが実際は二人の犠牲ですみ仕合せだつたと聞いたが果して本当か? 久原さんが小坂時代、春日うららかな草原に寝ころんで大空を眺めながら、ふと真直に昇つた煙突の煙が横に流れて行くを見て、地上を吹いて煙害を及ぼす風と無関係な上層気流の存在を看破し、群議を排し学者の衆智を集めた鉱煙稀釈命令に逆行して美事に難関を打開したのである。久原さんの活眼英断には真に敬服の外ない。又若き設計者宮長さんを初め施行に当つた土木の諸君、それに煙害問題の解決に当つた至誠の人角さんや地所の諸君の事は今も忘れ得ない。私は鉱煙を吐出す係なので、煙害が出ると被告の立場になり、地所から被害現状を見せつけられたもので印象も特別深い。昔幽邃なりし大雄院の神秘境を知つた人達が大正初期の全山裸化に驚嘆した如く、反対に大正初期に日立全山の禿山ばかり見ていた私は、先年ある荒廃地が欝蒼たる緑林と化したのを見て感慨深かつた。十数年に亘る全山の植林が成功したのだ。もとよりその後の製錬鉱石の含硫量減少、硫酸の製造等も与つているが、大煙突の成果を第一に挙げねばなるまい。当時「将来日立の鉱石が堀り盡されるに従つて、日立の林野の価値は偉大になる。」と孜々として植林した諸君の事も思い出される。今や山林は伐採期に入つたが、日立の埋蔵鉱量はまだまだ盡きない。結構な次第である。

〔附〕大正二年大槻如電翁が荒涼たる日立に来て賦した詩
 山樹不生芽 野草不看花 寒暖認風物 無乃是仙郷
は米国で昔恐るべき煙害を蒙つた町の惨状を賦した或る詩 “Grassless, flowerlesss, Godless town”(草もない花もない神も無い町)の一句と相通ずるものがある。彼の地でも今は立派な農地緑地と化した由。

二、佐賀関の煙突

[略]

三、鎭南浦の煙突

[略]

四、結び

 話は戻るが、米国でもその後一度高い煙突が建てられ、又時には一千呎の仮想煙突設計書が雑誌に出た事もあつたし、日本でも四日市に記録的な高煙突(尤もその後中途から折れた。)が建つた。だが今日になつて見ると「煙突は高きを以て尊しとせず、優秀なる製錬技術を以つて尊しとなす。」とでも叫び度い。今や戦時中のような大量の金鉱や粗精鉱を処理した生産第一主義の時代は過ぎ去つた。全浮選によつて硫化鉱は分別され、製錬扱鉱は少量の高品位となり、亜硫酸ガス及び有価揮発物は悉く回収し、滓も活用し、有害物は発生させないという方向に一歩一歩前進している。寺崎さん(佐賀関所長)のいうように最後は煙突無用の理想境に一日も早く到達して貰い度い。よく聞かされた「久原は○○の一つ覚えで、煙害対策は高煙突の外に知らない。」との酷評も解消する次第だから。

 日立では大正初年松原さん(試験係長)の下で既に小規模ながら排煙硫酸工場や二硫化炭素工揚も操業し、熔鉱炉で亜硫酸ガスを硫黄に還元する試験も行つたし、煙灰から硫黄を熔かし採る試験も行つたが、まだ化学工業の幼稚な時代の事とて、硫酸は新潟県の精油工湯に、二硫化炭素は穀倉の殺虫剤に売る程度で製産品の需要は乏しかつた。勿論化繊工場も硫安工場も日本にまだ無い時代の事である。後年日立、豊羽、佐賀関で硫安工揚が考慮されたが、資金やその他で実現に至らず、漸く戦後日立、佐賀関で排煙硫酸工場が出来上つた。次の岩国の河山鉱[3]処理は理想的にやって見せて貰い度いものである。

 〔附〕(大正初期秋田で日本鉱業会総会が催された。会長渡辺博士(当時日本の採冶界の泰斗)[4]は秋田の宿に着くや直に県農務課に電話して米穀貯蔵中の穀象虫や鼠による被害の程度を聞いた。翌日総会の劈頭「近年における我国鉱業の進歩について」の講演の一節に、日本の米産額千万石、虫鼠の被害率○%、仍て被害金額千百万円に及ぶ、日立の副産物二硫化炭素はこの大損害を防止する有用事業である、云々とあった。だが今日製産される年何万瓲の二硫化炭素は九割以上が化繊用で、農倉の利用は殆どない。)最後に煙突を何呎か高くして世界一を競うは稚気に類すと冷やかす人もあった。だが一面久原日鉱マンが事業に当り如何に覇気横溢、冲天の意気を抱いていたかを物語るものではないか。

 久原日鉱創立以来正に半世紀、私はその三分の二を三つの高い煙突の下で過ごした。(第一次大戦の一年前から第二次大戦の一年後迄。)離社九年なお故郷は忘れ難し、だが老兵徒らに古戦場で夢と化した往事を追懐しても無駄な話。仍て世界一の煙突話しは止して、各位に御願いしたい事は、久原日鉱の過去及び現在を通じて技術上、経営上、その他何でも世界第一位又は世界唯一の誇るべき事項を数えて見れば、煙突の外に相当あるのではないかと思う。大いに稚気を発揮して此の際それ等を列挙して見せて頂き度い。御互に頗る愉快な事であり、また日本一位で安んずる事なく、常に目標を高めて世界一位の誇りを競う社風を馴致すれば、自ら社員の志気を鼓舞するよすがともなろうではないか。

(元常務取締役)  

[註]

  1. [1]一般社団法人資源・素材学会|学会賞(渡辺賞)受賞記録 2018年8月2日閲覧 https://www.mmij.or.jp/other/award/watanabe
  2. [2]学者の衆智を絞つた結論に基づく硫煙稀薄法:通称、命令煙突あるいはタンク煙突、阿呆煙突とも。
  3. [3]岩国の河山:現山口県岩国市美川町に所在した河山鉱山
  4. [4]会長渡辺博士(当時日本の採冶界の泰斗):渡辺渡。1886年(明治19)帝国大学工科大学採鉱冶金学科教授、1902年東京帝国大学工科大学長、1907年日本鉱業会第3代会長。矢部が受賞した渡辺賞はこの渡辺渡にちなむ。矢部は大正初年に日本鉱業会総会に出席した。会長の渡辺は講演で日立鉱山で亜硫酸を回収して、農業倉庫で用いれば穀象虫や鼠による米の被害を防げるので、回収を提言した。しかし矢部は、現代において生産されている二硫化炭素は化学繊維(レーヨン)の製造過程での需要はあるが、農業倉庫でのそれはない。つまり当時、大正初期においても亜硫酸ガスから有害物質を取り除いてもそれが有用なものとして需要はなかったと反論する。

矢部兵之助 大正期の煙害を出した元兇から

1964年に発行された関右馬允『煙害問題昔話 続編』に掲載された。関はその前年に刊行した『日立鉱山煙害問題昔話』を関係者に寄贈しており、読者からの返信をこの続編に収めた。そのうちの一篇がここに紹介するものである。著者は前出の矢部兵之助である。

[凡例] 縦書きを横書きに改めたほかは、漢字、仮名づかいなどは原本どおり。なお[ ]と註と太字による強調は引用者。

 地元の被害者代表として、一生を郷土のために闘われた、著者の深刻な実録「昔話」詳細拝読、四、五〇年昔に遡り懐旧の情に堪えません。私は、明治末期の惨状は跡を見、話を聞いて承知はしていますが、実際、製錬所で勤務したのは、大正初期から昭和初期までの一五ケ年で、内一〇年間は、製錬の首脳者であったから、此の間私が煙害を出した元兇という事になる。

 被害地の方々が、煙害に苦しまれたと同様、私の方でも苦しかった。煙害を出すまい、だが一屯でも多く製錬せねばならぬのが私の役目、天候や、作物の生育状況によって、神峯山から警戒報が出ると、熔鉱炉は直ぐ調合を変える、送風量を少くして扱量を減ず、一部の設備は停止する、悪天候が続くと熔鉱炉は死に瀕する。斯くして銅の生産は減り、経費は高まる。それでも、万一、煙害がひどく出ると、原告たるあなた方は、直ちに地所係に押しかけて来る。福田さん、武田さん、島村さんなどは、私を幾度も被害現地に引っ張り出して、状況斯くの如しと見せつける。私は全く被告の立場で辛かった。

 日進月歩の今日では丸で事情が違う。硫酸の需要激増と、選鉱の発達が製錬方式を一変させた。即ち、選鉱で鉱石の硫化鉄は、予め分離して、硫酸や製鉄の原料にするし、少量の高品位銅精鉱だけを、製錬で処理して、その硫黄も硫酸に回収するから、自然と煙害問題は解消する。往時あれだけの多数の熔鉱炉で、大量の鉱石を、多大の製錬費をかけて熔解し、やっと銅品位二割位の半成品を得たが、今は選鉱でそれ以上高品位の銅精鉱とし、少量製錬すればよい事になって来た。

 何ぶん、往時は硫酸の用途が極めて少なく、硫安さえも殆んど無かったし、選鉱は幼稚であったから、銅品位の低い硫黄分の多い鉱石を、その儘製錬で扱わねばならないから、大量の硫煙が煙突から吐き出される。生産は上げ度い、煙害は減し度い、かかる往時の実情を背景として、大煙突を創意した久原社長の卓見と、被害に対し真剣に取り組んだ角さん、鏑木さんの誠意は、本当に景仰すべきであり、福田さん以下熱心な地所係員の活動は今も私の瞼の裡に有って懐しいと共に、地元被害者代表として、よく鉱山側と協調し、遂に、今日の楽土を築き上げられ、功成り名遂げて悠々自適晩年を愉しみつつ健筆を揮われる、郷土民著者に絶大の敬意を表して、この上とも御健勝を御祈りいたします。

谷口昇 銅熔錬の進歩発展

日本鉱業(株)総務部文書課が1956年に発行した『回顧録 創業五十周年記念社報特別号』に掲載された。

著者の谷口昇は、東京帝国大学工科大学冶金学科を1917年(大正6)に卒業し、久原鉱業株式会社に入社。配属先は不詳。1945年11月日本鉱業(株)取締役、翌46年3月退任。

大煙突が稼働する前は、製錬所から東に約2キロメートル地点でも「亜硫酸の若干臭うていた」こと、「亜硫酸を有用化」しようとしたが「製品販路なく操業中止」となったことが記される。

[凡例] 縦書きを横書きに改めたほかは、漢字、仮名づかいなどは原本どおり。なお[ ]と註と太字による強調は引用者。

前記した黄鉄鉱の硫黄及銅と結合している硫黄の燃えて出来る亜硫酸は植物に対して有害で、空中にその含有多きときは之を枯死せしむるのである。吾等大学一年生の時冬休を利用して当時の先生に誘導されて日立製錬所を一日見学の際、焼結ポット工場にてポツト中にて昇華硫黄を伴うので亜硫酸ガスが黄焔となって立ち登りポツト外にもそれが漏れて亜硫酸ガスが鼻をつくのを痛感した。電錬所にも矢部氏[5]が東道され、杉本驛[6]より電錬所迄の途歩中、大雄院製錬所の風下にあつた関係にて亜硫酸の若干が臭うていた。それで此処迄臭うている旨不用意に口にしたところ、矢部氏より製錬家はこの臭が白粉のようによくならねばとの警句あり、肝に銘じ今に忘るることを得ない。これを高さ五百十尺の煙突から上層気流に放出して有害の度を極度に軽減することが久原房之助元社長より発案実施され、成果を得たので佐賀関に五百五十呎、鎮南浦にも六百呎のものが、これにならうて建設され其の高きを世に競うたものである。一方この硫黄乃至亜硫酸を有用化せんとして日立にては熔鉱炉より直接鉱煙を誘導し硫酸を作りたるも製品販路なく操業中止のやむなきに至つたことがある。佐賀関に於ても鉛室法によって硫酸を作り各種鉱石の焙焼、硫酸の試験をなし、日立にては熔鉱炉にて亜硫酸を還元して硫黄を採収する還元熔鉱炉一基を建設してその試験等をなしたるもそれが効を奏する迄には到らなかつた。戦後化学肥料の需要旺盛にして而も硫黄含有物の供給不足勝であつたのと又一方、煙害除去の目的よりして排ガス中の亜硫酸からの硫酸製造の慫慂が安本資源委員会[7]からも政府に勧告があつたので、日本鉱業に於ても綿密なる計画の下に排ガス中の亜硫酸の硫酸製造工場が両所に建設された[8]。これで日立、佐賀関は高き煙突とこの工場によって亜硫酸害は名実共に無害のもの、よき白粉となったのである。この硫酸製造によって亜硫酸の禍は変じて更生物となつて福となり、遺利もないことになつた。加えて作業現湯も環境のよい、外部より掣肘を受けざる起業となつた。
  1. [5]矢部氏:矢部兵之助
  2. [6]杉本驛:日立鉱山専用電気鉄道(鉱山電車)の駅のひとつ。製錬所から東に約2キロメートルの地点にあり、近くに電錬工場がある。
  3. [7]安本資源委員会:経済安定本部資源委員会。1947年12月設置、49年6月資源調査会と改称
  4. [8]日立の排煙硫酸製造工場は1951年1月に完成