日立風流物の困難さ

島崎 和夫

目次 ── 観光資源として期待|観光資源としての景観|復元への取り組みと国指定|風流物の魅力|大型化がもたらしたもの|町並の景観


観光資源として期待

1976年に編纂された『日立風流物—歴史と記録—』(p.94)に次のような一節がある。

日立風流物の将来への展望を考える時、(中略)本誌に記録された古い伝統を考慮するとき、観光資源としての価値のみが重視され、古来の素朴な信仰あるいは庶民の民俗的な祭礼行事より遊離し、風流物の公開のみが先行しないように反省と努力の必要があろう。

日立風流物が観光資源として期待を寄せられているとしたら気の毒なことであるというのが、この文を読んだときの印象だった。

今年2018年5月20日発行の『日立市報』に日立市の「平成30年度主な施策や事業と予算」の記事が載っていた。そこに「日立風流物展示施設等整備事業」として次のような記事があった。

重点・新・地域創生 4,728千円 ユネスコ無形文化遺産に登録され、日本を代表する民俗文化財である「日立風流物」を未来に継承する取組として、展示施設などの整備検討を進めます。

この事業は「日立市総合計画後期基本計画」に位置づけられており、平成30年度の新規に取り組まれ、地域創生[1]事業の一環で、風流物の展示施設をつくるための検討にはいる。その予算として473万を計上したという。

日立市財政部「平成30年度日立市予算の概要」では「あるもの磨きによる「ひたちらしさ」についても予算を配分した」として風流物のこの事業を説明する。風流物が「あるもの」で、それに「磨き」をかけるための展示施設をという意である。近年各地でこうした山車の収納庫を兼ねた展示施設をみかけるので、それに類したものを建設するというのであろう。

風流物の公式記録と今回の市報の記事を読んで、思い浮かんだことを書こうと思う。

観光資源としての景観

日立市は観光地ではない。

日立市は、江戸時代から続く城下町あるいは在町の伝統を引き継いでいない。一農村が明治末に突如鉱工業都市として発展をはじめる。周辺にも工業化、都市化の波は及んでゆく。この歴史が現代の日立市を形成しているのである。

観光地に必要なのは自然あるいは歴史である。観光はハレ、日常を離れる行為のことである。そのためには自然か歴史のいずれかが舞台として必要である。人々は雄大な自然景観あるいは数百年にわたり築かれてきた景観に魅了される。それらは点で存在しない。面としての広がりをもつ。

日立市域の自然景観、とりわけ海岸線の美しさを田山花袋はつぎのように評価する[2]

これほど長い汀線に波に白く碎けてゐるさまを見るやうなところは、日本にもさう澤山はあるまいと思ふ。それに常陸の海岸の砂浜はいかにも平滑である。いかにも瀟洒である。いかにも繪のやうである。

大正時代に称賛された海岸線は、現在では国道バイパスが走り、あるいは防潮堤が高く築かれ、あるいは消波ブロックが波打ち際を埋め、海と人とは遠ざけられた。

農村的歴史的景観については、20世紀に入ってからの近代産業(日立鉱山と日立製作所)の急速な発展と1945年の戦災により失われた。

言いすぎかもしれないが、これまでもこれからも観光地となる要素を日立市域はもたない。

復元への取り組みと国指定


復元されたときの風流物
『日立風流物-歴史と記録-』より

祇園山鉾より早い指定 日立風流物は1958年に復元された1基が翌59年国指定重要民俗資料に指定された。重要民俗資料の第1号である。つづいて翌60年に高山祭屋台23基(岐阜県高山市)と高岡御車山7基(富山県高岡市)、62年に秩父祭屋台6基(埼玉県秩父市)と祇園祭山鉾29基(京都市)が指定される。祇園の山鉾より指定が早いのである。復元に取り組んできた人々にとって指定は大きな励みとなったであろうし、誇りにもなったことであろう。

風流物の魅力

鉱工業都市の祭り

風流物が演じられる宮田は城下町でも在町でもなく、宿場町でもなく、漁村でもない。都市的な要素がない一農村においてこれほどに都市的文化の香りがする祭りが盛行するのは、めずらしい。

現在の日立市は20世紀の工業都市である。徹底的に経済合理性に貫かれた町である。そこに農村の祭りが息づいている。信仰とか文化は経済合理性とは相容れない。この不思議さ、対照性が魅力である。

しかも日立風流物が大型化するのは、宮田の山奥から出発した日立鉱山が発展を遂げた明治末から大正期にかけてのことである。町は裕福になり[3]大型化も財政的に可能となり、一方で町に流入してきた鉱山・工場に働く人々の娯楽としての役割も期待される。

逆説的であるが鉱工業化のなかで風流物は発展してきたといえる。

大きい

山車は5層6階建て。15メートルの高さがある。5階建てのビルに相当する。そして舞台がゆっくりと広がり、人形が現われる。舞台は幅7メートル。これだけ大きい山車は外にない。この大きな山車が裏山をみせるためゆっくりと1回転する。大きいだけではない。動く。これだけで観衆にどよめきがおきる。


山車の大きさ 『ガイドブック日立風流物』より

素朴さ

素人っぽさ 氏子つまりアマチュアが浄瑠璃の人形をつくり、衣装を整え、着せる。そして操作する。人形の動きは小さく弱い。ゆっくりとして、たどたどしい所作。それだけに人形が矢を放つと観客から歓声があがる。この操作の素人っぽさが村の人々の素朴さ純朴さを感じさせる。

1959年の国の重要民俗資料として高山・京都にさきがけて指定されたときの文部省の専門家のレポートを以下に引用する[4]

全長約五十尺、総重量約千二百貫と称せられる一大山車が老幼二百数十人の力によって曳き出されるさまは蓋し壮観であろうが、この構成、操作すべて素人(氏子)の手によって行われるということも特筆に値する。また、「あやつり人形」の頭も衣裳も素人が作りその作った人が人形をあやつり、その技術は父子相伝であるということも面白い。この「風流物」があくまでも素人芸の集積であるというところに、民俗資料として重要な価値が見出されるのである。

早返り 大正に入って早返りが普及する。大正5年の本町のだしものの忠臣蔵において全段にいる赤穂浪士全員が一斉に早返りして白装束の切腹画面に変わる。観衆の喝采を浴び、これを契機に早返りが他の山車に広がった。この早返りは動きを失った風流物を補完するはたらきをもつ。

かしら しかし早返りは人形の首(かしら)を痛めることになった。首の修理も限度がある。首の制作はもっとも技巧を凝らす。「素人芸」では作れない。しかし購入費にも限度がある。そこで首は購入からしだいに自作にすすむが、そのことで「表情にどうしても時代相が現われ、現代的な首」となってしまう事態が生じたという[5]

風流物は日立鉱山と日立製作所の発展の中で大きくなった。しかし山車にも人形にも職人芸的技巧をこらさなかったことは風流物が「素人芸」たる所以である。そこに農民的素朴さがよく現われているといえよう。

市民文化のさきがけ

日立市にとって芸術文化は大きな価値をもたない。市民が文化の担い手であることに市民も行政も誇りと自信をもっている。鉱山の吹奏楽団にはじまる企業のさまざまな文化活動は現代において市民○○といった文化活動に定着している。したがって市民文化の育成・発展に行政の焦点があてられる。かつて「市民創作美術館」建設計画があったほどなのだから。市民が担い手の風流物の振興はこの意味でも行政にとって重要な課題なのである。

大型化がもたらしたもの

広がる舞台 前屋形の開き、つまり舞台が3段から4段、5段と増えたことは、登場人物(人形)が増え、物語りに広がりと奥行きをもたせられるようになった。

人形が小さく見える 演じる人形が遠目にしかみえない。それは逆にプラスに働くこともある。優美さや精緻な動きは必要としない。それは素人でも製作し操作できるというプラス面があり、後継者育成が難しくない。

動きを消された 動くものに人は魅了される。明治末から大正初期にかけて屋形が3階から5階づくりと高くなり豪華になった。しかし高く大きくなることで身動きがとれなくなってしまった。見世物として動きは必須である。屋形が開く、人形が芝居をするという動きに限定されてしまった。魅力を減らしてしまった。

不安定 1959年に神峰公園で演じられたおり、山車の回転中に山車が転倒してけが人をだした。大型化して重心が高くなったことによるものであろう。各町の組立場所から神峰神社拝殿までおよそ数百メートルの間山車を曳きだすことをしなくなったのは、大型化が影響しているものと考えられる[6]。山車を町のなかを曳きまわすには多くの人びとの参加がいる。子どもも。そのことが人びとの祭りへの参加意識を高めていた。

京都祇園、飛騨高山、秩父。みな山車が動く。岸和田だんじり祭りは1層で高さは4メートルほどだけれども、曳きまわしの際の荒々しさ、スピード、躍動感がまつりの担い手と見る者を惹きつける。

組立と解体 山車や人形に技巧的な装飾はほどこされていない。そういう点で工芸品的魅力はない。したがって「展示」は風流物の魅力を減じるものである。これは工芸的装飾をほどこすには多額の経費が必要であることと、山車が大型化するにしたがって、山車の完成形態で保管ができず、祭りのたびに組立と解体を繰り返す方法がとられていたことによるものだろう。

不定期公演 大きくなった風流物の上演には人手と経費がかかる。ゆえに毎年開かれることはなかった[7]。さらに四町が一致しないと開かない。いつ見られるのかわからない。逆に言えば、それは強みでもあった。

1968年からの市主催の日立まつり、のちに市のさくら祭りで一台は公開されるようになった。これは風流物が行政に観光資源として期待されたことを意味する。そして四台一斉公開は七年に一度の神峰神社の大祭時に行われることになった。

助川の西上町舞屋台 この舞屋台は風流物に比べてはるかに小さいが、市の工芸品として指定されるほど屋台には美術的工芸的装飾が数多くほどこされていて、見飽きない。江戸時代にはこの舞屋台が風流物とよばれていた[8]。組立・解体をしないので、そのまま収められる収納庫が助川鹿島神社境内にある。だが普段は閉鎖されていて、見ることができない。


旧助川西上町舞屋台

町並の景観

日立風流物は観光資源となりうる可能性はもっていよう。しかし祭の日の上演時だけのものである。人形芝居を見物して終わる。これを観光とは言わない。一時の娯楽である。もともとそういうものとして神社の祭りの中で役割を果たしてきた。

こうした民俗的行事は伝統的なものである。山車も伝統的なつくりをしている。だがそれにふさわしい景観を風流物はもっていない。

さくら祭りが行われる平和通り。大祭で披露される大雄院通り。日立市の現代的景観[9]のなかに風流物をおいて、それはそれでシュールな魅力を発しているが、本意ではないだろう。

高山・高岡・秩父・京都と比較してみればいい。さらにたとえば。伊勢神宮の門前町におかげ横丁がある。ありふれた近代的な商店街を伝統的な町並みに復元したことで観光地としても復活した。一軒一軒の同意を取り付け、そして寂れていた門前を三十年かけて復活させた。

さくら祭りでは満開のサクラが背景を消すからいいとして、大祭の時の大雄院通り(この通りは戦災復興都市計画により造成された新しい街路である)の整備は必須である。公開場所となる大雄院通りの一部は数年前に電線の地中化がなされた。一歩踏み出している。つぎは大雄院通りを線から面に広げて伝統的景観を整備する。改築のたびに一軒ずつ伝統的な建物に変えてゆく。通りには建築上の制約を加える。南プロヴァンス風の住宅にしたい、デザイナーズハウスが好みだ、事務所なのだから機能さえ備えればいい、ブロック塀を廻したい…はゆるされない。30年かければできるというお手本がある。

風流物は伝統的景観の中においてはじめて生きる。

伝統的景観を再生していくことができれば、町並みと一体となって風流物は観光資源となる可能性をもつだろう。それでなくとも経済的合理性のみが追求される工業都市的風土にあって、日立風流物は日立市民の娯楽としての役割を十分に果たすことができよう。

景観の整備は一例である。風流物に期待されているのは、実は風流物自体のことではなく、周辺のいろいろのことなのであると思われる。

[註]

  1. [1]地方創生:この事業は多岐にわたる。一口では説明できない。内閣府の 「地方創生の専門家一覧」https://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/expert/index.html が参考となる。
  2. [2]『山水小記』より。日立市域については こちら を。
  3. [3]当時の日立村長佐藤仙三郎の発言に「煙毒の為め多少は山林の樹木も枯れ、耕地迄も被害はあるも、鉱山側に於て今日の処は善意的行動に出で、適当なる補償をなしつつある故、却て農家の懐具合は良く、当地方は鉱山の為め一大湿を蒙つて、金廻りも宜敷なる位である。鉱業地としての本村はまことに現時は全盛時代」とある。全文は こちら
  4. [4]祝宮静「日立「風流物」について」(『神社新報』第167号 1959年5月2日)。祝のこのレポートについては、『日立風流物の世界』(2001年 日立市郷土博物館編発行)あるいは『ガイドブック 日立風流物の世界』(2007年 日立市郷土博物館)が再録している。
  5. [5]『日立風流物—歴史と記録—』p.131
  6. [6]江戸時代元禄期以降、宮田村の鎮守神峰権現は隣り助川・会瀬とあわせて3ヶ村の鎮守された。そのおり神峰権現の祭礼行列で風流物の山車だけが2ヶ村をめぐらず、宮田村に残ることになった。これはこの時期に3層の山車になっていたことを意味しよう。つまり岩城海道を宮田川をこえて、その先にある二つの急坂をのぼることができなるほど風流物は大きくなっていたのである。
  7. [7]風流物が演じられた年は、史料的な裏付けをもつものに限ると、1900年(明治33)・1906年(明治39)・1910年(明治43)・1911年(明治44)、1915年(大正4)・1916年(大正5)、1931年(昭和6)・1936年(昭和11)である。この後は戦災による焼失から復元がなされる1958年(昭和33)までない(『日立風流物—歴史と記録—』)。
  8. [8]『新修日立市史 上巻』p.640。江戸時代の助川村は岩城海道で三本指のひとつにはいる大きな宿駅であった。宿の評判もよく、多くの旅人に利用された(『茨城県歴史の道調査事業報告書Ⅲ』p.18)。
  9. [9]日立市に限ったことではない。近代における都市計画の不徹底さ、法的しばりの弱さから全国の町並みも同じである(むしろ江戸時代のほうが都市計画的しばりはあった)。形も色もそれぞれが自己?主張していて……。

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