常陸の海 田山花袋『山水小記』から
さびしい海だ。北国の海よりももつとさびしい海だ。何故なら、此處ではせめて一時なりとも美しく輝く落日の色彩を見ることが出来ないから……。
従つて常總、磐城の海の夕暮れの色は、暗い碧の色をしてゐることが多い。影が多い。旅客の暗愁をそゝるやうな氣分が多い。これはずつと下つて、銚子の海岸あたりに行つても矢張りさうだが、つまり日を後に帯びた海を持つたさびしさと暗さである。これに比べたら、相模の海岸、東海道の海岸は、何んなに晴々した明るい色で塗られてゐるであろうか。此處にはあの冴々した富士の白雪もなければ、帆影の無数に重なり合つた賑やかさもない。また漁村の空気に雜る美しい都會の娘の色彩もない。しかし、淋しさを好む旅客のためには、この沿海十数里の間は、他に求むることの出來ない澤山な「詩」と「繪」とを持つてゐるのであつた。松原の中に昔からさびし埋もれた他郷の難船者の墓、波濤の爲に洗はれて一つはやがて海に陥没して了ふであらうと思はれる夫婦島、楊柳の緑で美しく蔽はれた漁師の町、一時盛に流行つてやがて衰へて行つた海水浴場、ある松原からは細い路がひろびろとした海へと下りて行つて、海の地平線には、怪鳥の翼に似た雲がさびしく一帆の影と相ひ映對した。
平潟から磯原あたりは、殊にさうした気分に富んでゐた。例の畫家の村と言はれた五浦の徙崖の上は、中でも殊にこのさびしい夕暮の海を眺めるのに適してゐた。後に落ちた夕日、その餘照が遠く微かに地平線の上に残つてゐて、それが海に反映した色のさびしさを、私はまだ何處の海に見出すことが出來るであらうか。
助川は松の多い處だ。曾てこの常磐線の出來たときには、東北の大磯と言われて、都會から人が多く集まつて來たが、今ではもうさうした趣はなく、たまたま汽車を下りて一夜を其処に静かに過ごさうとする旅客があつても、多くは失望して歸つて行つて了ふものが多かつた。そこには東海道の茅ヶ崎ほどの設備すらもなかつた。
しかしこの附近にある川尻の町は面白い魚蟹の町だ。風景としても助川よりはぐつとすぐれてゐる。濱街道を歩いていくと、水戸以北、最初に海の見えるところは、久慈川を渡つて、その向うの臺地にかゝつて行く石無坂だが、そこからは弓弦を張つたやうな常陸の砂濱がずつと一目に遠く打渡されて見えるが、波打際近く、波の白く高く碎けてゐるの眼のあたり見るのは實にこの川尻町が最初であつた。私は薄暮の色の中に長く前に突出した徙崖と、その徙崖に打寄せてゐる波と、一帆のさびしくたゞよつてゐるさまと、波の音に雜つた漁村の夕の市の賑はひとを見た。私は何とも言はれない氣がした。
河原子にある海水浴場は、この沿線では、一番心持ちの好い處であつた。設備もかなりに行届いてゐる。
石無坂から常陸の海浜を望んだ眺望はこの沿線中忘れても見なければならないものである。これほど長い汀線に波に白く碎けてゐるさまを見るやうなところは、日本にもさう澤山はあるまいと思ふ。それに常陸の海岸の砂浜はいかにも平滑である。いかにも瀟洒である。いかにも繪のやうである。坂の上には小さな宮が祀られてあつて、古い大きな松の並木を通して遠い遠いその海が眺められた。
湊町、平磯、つゞいて大洗、この一區劃は都會の人に多く知られてゐるだけ、それだけ俗氣に満たされて、感じがやゝ派手すぎ淺すぎる。しかし海は決して平凡ではなかつた。湊町と祝町の間にかゝつた大きな橋を前にして、静かな那珂川の流れを下つていくペンキ塗の小蒸気も、この海岸のすぐれた「繪」の一つであつた。
凡例
- (1)『山水小記』は1917年(大正6)出版された。その中から常陸の海辺の記事をぬきだした。
- (2)「常陸の海」は編者が付した題である。原本に題はなく、「八」という数字が置かれているのみである。なお目次には、「常陸磐城の海」「助川」「大洗」とあるものの、それらの題は本文にはない。
- (3)縦書きを横書きに改め、ルビを一部分に残したほかは、漢字・仮名遣いとも原本(国会図書館デジタルライブラリー)通りとした。写真は『山水小記』の扉。