日立風流物復元と指定へのあゆみ
復元第1号の風流物 昭和33年
『日立風流物—歴史と記録—』より
国指定の重要有形・無形民俗文化財であり、ユネスコ無形文化遺産となっている日立風流物は、かつて1945年の戦災で焼失した。宮田の町も一面焼野原と化してしまった。人々の暮しがようやく定まり、ゆとりが生まれた10年後に宮田風流物の復元の声があがる。そして1958年に1台を復元し、その後焼失した4台すべての復元には20年をかけた。その過程において国の指定文化財となる。そのあゆみを年表仕立てで紹介する。
1945年7月19日 | 茨城県日立市大字宮田には風流物の山車が従来四台あった。本町・東町・北町・西町のものである。米軍の空襲(焼夷弾攻撃)により本町・北町の風流物の山車が焼失した。東町のものは半焼。西町は焼失からまぬかれたが、老朽化していた。人形も多くを失った[1]。 |
1954年12月5日 | 宮田風流物保存会結成 |
1955年6月 | 茨城県教育委員会から宮田風流物保存会あてに「無形文化財」としての調査依頼がある。詳細な回答を行う[2]。 |
1957年1月12日 | 宮田風流物保存会、名称を日立郷土芸能保存会へ変更 |
1957年1月18日 | 日立郷土芸能保存会は茨城県教育委員会に対し日立風流物(笠鉾)祭礼山車4台の県文化財指定申請を行う[3]。 |
1957年5月13日 | 茨城県教育委員会は日立風流物を無形文化財として指定[4]。申請は「祭礼山車」つまり有形文化財として申請したのだが、県は無形文化財として指定した[5]。 |
1958年2月 | 日立郷土芸能保存会は茨城県教育委員会に対し日立風流物四台の復元費の補助申請をおこなう[6]。 |
1958年5月 |
|
1958年 | 茨城県教育委員会を経由して文部省文化財保護委員会宛に県指定無形文化財「日立風流物」を重要文化財(無形文化財)へ申請。しかし10月27日文部省文化財保護委員会記念物課主査祝宮静技官より「有形の民俗資料」として変更して申請するよう求められ、11月3日付で再申請[8]。 |
1959年3月 6〜7日 |
国の文化財専門審議会の西角井正慶専門委員と祝文部技官の現地調査が行われる[8]。 |
1959年5月6日 | 国の重要民俗資料(現在は、有形民俗文化財)に指定。指定書には「日立風流物 一基 五段屋形開閉式山車」とある[9]。 無形から重要民俗資料への変更には、当時の文部技官祝宮静の考え方「風流物となれば明かに有形のもの」が反映された。つまり「物」と書いて申請しているのだから、「風流物」の本質は有形だというわけである[10]。 この指定段階で復元されていた山車は1基である。これが重要民俗資料である。現在四台あるなかのどれなのだろうか。公式には発表されていない[11]。 |
1959年10月 | 2台が復元され、10月9〜11日に三台で演じられる。北町は北町交番前で組み立て、神峰神社前から本町の通りで公開。東町は若葉町十字路で組み立て、日立セメント軌道前広場・市民会館通り・天王町・市役所前と移動して公開。本町と西町連合の山車が神峰神社脇で組み立てられ、神峰公園広場で公開。この山車が転回中に転倒し、負傷者をだした[12]。この「不幸な事故のため一台を失ったので、…さらに二台を復元する必要があった」[13]。 |
1966年 | 2台を復元。ようやく四台の復元を果たした[14]。 |
1968年5月 3〜5日 |
神峰神社臨時大祭で戦後初めて四台がそろって出場[15] |
1974年12月4日 | 国選択の記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財として指定される。これを受けて1976年3月に『日立風流物—歴史と記録—』発刊[16] |
1977年5月17日 | 国の重要無形民俗文化財として指定 |
2001年12月21日 | 空襲による焼失をまぬかれた西町の人形かしら17個、北町のかしら21個が日立市指定文化財となる。 |
2009年 | ユネスコ無形文化遺産に登録。2016年に再登録 |
[註]
- [1]『日立風流物—歴史と記録—』pp.31-32
「保存されていた「宮田風流物」の笠鉾(やかた)も四台のうち、本町と北町の二台が全焼し、東町のそれも半焼した。同時に受け継がれてきた人形の首(かしら)二五八個も類焼し、わずかに七十七個が難を免れて残った」。また西町の山車ものちに(昭和27年7月)5段から3段に改造を受け、戦前段階の山車はなくなっていた。 - [2]『日立風流物—歴史と記録—』pp.40-46。詳細な記録であるので、機会があったら紹介したい。
- [3]茨城県教育委員会宛文化財指定申請書」(『日立風流物—歴史と記録—』p.49)。ここには「数量 現存二台 戦災焼失二台 計四台」とある。
- [4]『日立風流物—歴史と記録—』p.51
- [5]茨城県教育委員会が申請者の意向を無視して無形文化財として指定してきた理由はわからない。推測するほかない。おそらく県はないものは指定できない、と考えた。指定申請書に「現存二台 戦災焼失二台 計四台」とあるが、[1]での『日立風流物—歴史と記録—』記述は、現存する2台の内1台は半焼しており、もう1台は申請時には老朽化に加えて改造を受けていた、というのであるから、申請時において戦災前の古い山車はなかった。それゆえ有形での指定はできないと考えたのかもしれない。
また昭和30年6月に茨城県教育委員会は無形文化財として「風流物」の調査を行っており、この調査をふまえての指定であったと考えられる(『日立風流物—歴史と記録—』pp.40-46)。
しかも昭和11年に風流物がひきだされ、人形芝居が演じられて以来、昭和33年5月に1台が復元されるまで、風流物は催されることはなかった。茨城県教育委員会の調査が復元・公開前の32年2月9日に主として人形作者(演技者)8人ついて行われただけで、山車も山車上での演技を見たとの記録はないので、調査官(県文化財専門委員)たちは実物を見ずに指定したのである。そのようなことは現在では考えられないが、当時はありえたのであろう。[6]申請書は現状を次のように述べる。「昭和二十年六月〜七月中、日立市三たびの戦災により、日立風流物の屋形(笠鉾ともいう)四台のうち二台を焼失、他の二台も安政年間製作のため腐朽甚だしい」(『日立風流物—歴史と記録—』p.53)。なお安政年間製作というが、とくに根拠が示されているわけではなく、伝聞によったのであろう。[7]『日立風流物—歴史と記録—』pp.53–59;pp.196-197
ちなみに風流物が曳きだされる神峰神社の大祭は、不定期におこなわれる。「宮田村の東町・西町・北町・本町の四町内の意見が一致した時にはじめて開催されるものであった」(『日立風流物—歴史と記録—』p.13)。
なお翌1959年にこのときの復元最初の山車が国指定重要民俗資料となるのだが、この山車は四町合同のもので、『ガイドブック日立風流物』(2007年 日立市郷土博物館編発行)が「昭和33年に北町の山車が復元され、国指定…」と2頁で述べるが、北町の山車として復元されたのではない。2台、3台と復元されていく中で、最初に復元されたものを北町が管理するようになったのである。経緯はわからない。『ガイドブック』のこの説明は誤解をまねく表現である。[8]『日立風流物—歴史と記録—』p.61 昭和34年3月に行われた国の文化財専門審議会の専門委員と技官の現地調査の際、山車が組み立てられ、曳きだされたとの記録がない。風流物の部材や人形などを実地見分し、写真で完成形を見、関係者からの聞き取りなどが行われたのであろう。[9]『日立風流物—歴史と記録—』p.62
1959年の日立風流物の重要民俗資料指定につづいて、翌60年に高山祭屋台23基(岐阜県高山市)と高岡御車山7基(富山県高岡市)、62年に秩父祭屋台6基(埼玉県秩父市)と祇園祭山鉾29基(京都市)が指定される。[10]『日立風流物—歴史と記録—』p.62。祝宮静「日立「風流物」について」(『神社新報』第167号 昭和34年5月2日)。祝のレポートについては、『日立風流物の世界』(2001年 日立市郷土博物館編発行)あるいは『ガイドブック 日立風流物の世界』(2007年 日立市郷土博物館)が再録しており、また『日立風流物—歴史と記録—』も一部を引用している。物と書いているのだから形あるものでなければならないという祝の主張には驚くが、当時はそれが通ったのであろう。さらに祝は字面から重箱読みせずにフリュウ・ブツと読んだのかもしれない。宮田の人でない限りフリュウブツが一般的であろうから。[11]復元されたものが、有形文化財として指定されたのである。このようなことがあるのだろうか。老朽化していたとはいえ、焼失をまぬかれた西町の山車が指定されたのならわかるのだが、復元されたものが指定されたのである。現在の感覚では不思議なことが起きたと思えるのだが、当時は復元されたものでも、有形文化財としての価値を見いだされたのであろう。たしかに山車自体には工芸的な要素はないのだから。
なお北町の山車が復元第1号で、指定された重要民俗資料であるとの記述が『日立風流物—歴史と記録—』p.66にある。[12]『日立風流物—歴史と記録—』pp.65-66[13]『日立風流物—歴史と記録—』p.77[14]『日立風流物—歴史と記録—』p.77;p.81[15]『日立風流物—歴史と記録—』p.81[16]この本からたくさん引用させていただいた。日立風流物の歴史に関する文献としてこれ以上のものはない。ただし少々読みにくい。重複記事が少々表現を変えながらあちこちに現われる。項に相当する部分が目次にはないので記事を探すのにてまがかかり、資料の引用部分もわかりづらい。割付も少々乱れている。とっつきにくいが、それでもそれを補って余りある内容がある。