史料 神職多賀野家の年中諸祭事規式録

徳川光圀が元禄8年(1695)に宮田村を訪れたことを示すものだと『新修日立市史 上巻』(以下『新修』と略)が引用する史料「年中諸祭故規式録」の成立時期が『新修』に示されていなかったので、原本にあたり確認したいと思っていた。なぜなら徳川光圀の行動についてはたしかな史料に基づいて記述されたものが多いなか、そうでないものは伝説として取り扱いに注意しなければならないからである。最近日立市郷土博物館でコピーを閲覧させてもらい、成立時期を確認した。文政6年(1823)である。

目的は果たしたのだが、光圀と斉昭の寺院破却 を補う史料であったので、徳川光圀と神職多賀野家とのかかわりにしぼって紹介する。

目次


史料について

本史料の内容は二つによって構成されている。
(A)多賀野高持が祭祀する神社の決まりごとを年間を通して記録したもの。諏訪村の諏訪明神以外にも、水木村泉明神、同村津明神、会瀬村津明神、助川村鹿島神社、そして宮田村の神峰権現の祭祀を兼帯しており、それらの文政6年(1823)の記録。
(B)数は少ないが、多賀野が神職をつとめることになったいきさつとその時期を明示するもの。延享5年(1748)3月に書きとめられた(後述)

本稿では(B)に属する記述を紹介する。

本史料の成立事情をうかがわせる文言が4月10日(宮田介川会瀬三ヶ村鎮守神峰権現祭礼)の条に次のようにある。

延寳年中先祖摂津高弘  源義公樣御取立ニ相成、社拜領以來、舊格之通年々相勤來候通延享五年辰三月留書ニ仕指置、後世ニ傳者也、大切ニ仕、子孫ニ相傳へき者也
                  多賀野摂津高持

──神峰権現の祭祀については、延宝年間(1673-81)に多賀野家先祖の摂津高弘が徳川光圀によって取り立てられ、神社の祭祀を行うようになってから、古いしきたりにしたがって毎年勤めてきた。このことを後世に伝えようと延享5年(1748)3月に書き留めたものである。したがって大切にして、子孫に伝えよ。

と述べている。神峰神社と神官多賀野家そして光圀との関係を示す延享5年の記録を文政6年(1823)に多賀野高持が写したのである。

翻刻文の凡例

徳川光圀が宮田村を訪れたのは

『新修』が「元禄八年に光圀が当地方を訪れたという記録は見当らない。ところが次の内容の史料が、神峰神社所蔵の「年中諸祭故式録」のなかにあることがわかった」(505頁)として引用しているのは、次の文章である。

神峰権現社元禄八年亥年、宮田へ御成遊ばされ候節、薩埵寺御召放  源義公様ヨリ御上意ヲ以テ多賀野摂津高弘拝領仕候

──光圀が退隠後の元禄8年(1695)に宮田へやって来たときに、神峰権現の祭祀は、光圀の命によりそれまでの村内の薩埵寺から多賀野摂津高弘に替えた。

というのである。この記述は上記(B)に属するもので、『新修』は「宮田へ御成被遊候」を「宮田へ御成遊ばされ候」と読み下している以外は原文通りである。

元禄8年から50年後の延享5年に記録されたものに載っていることになる。多賀野家の神社祭祀権についての記事である。史実とみてよいか伝説とみなすか。微妙なところである。

なお神社潰しおよび司祭者の僧侶から神職・山伏への変更は、元禄8年9月から11月にかけてに集中的に行われ、日立市域においては9ヶ村9社におよんだ。この点で元禄8年というのは意味のある年であった。

諏訪明神と多賀野家

4月8日の条に次のようにある。

諏訪神社の由来について、3行目中ほど「其後夫婦共ニ、水穴ニ入候而」までは従来から言われていることで、目新しいものはないが、その諏訪明神を多賀野家が祭祀するようになった経緯は初出であろう。以下に大意を示す。

──萬年大夫夫婦が水穴に姿を消し、子孫がなかったので、いつの頃からか社僧つまり別当として僧侶が祭祀を行っていた。延宝年間に徳川光圀公から高野孫六萬太夫と名乗るよう命じられ、さらに茨城郡の真家隼人の娘との縁組をすすめられ、多賀野と姓をかえ、萬年大夫の子孫に取り立ててくださった。そして諏訪村に居住し、諏訪神社の社職を命じられた。

──元禄2年秋(1689)に光圀公が帰国し、村を巡ったとき、諏訪明神にやってきて、神社の歴史を調査のうえ、信州を第一宮とするなら常陽第二宮とし、神鏡と扁額にも諏訪第二宮と書くよう命じられた。明神絵像を飾り、萬年大夫夫婦木像を新に作り、古像をその体内に納め、新像に裏銘をくださった。その後に他のいくつかの神社の司祭を兼ねることを命じられた。

以上である。なお光圀が萬年大夫夫婦像を新につくるよう命じ、完成したのは、元禄3年10月のことである。萬年大夫と夫婦像については こちら を参照。

参考までに、元禄期に光圀が帰国したのは2年6月から翌年5月までの1回きりで[1]、元禄3年10月に63歳で致仕、同13年12月歿。

絵図師萬太夫のこと

『村絵図にみる日立』[2]に2枚の村境争論の絵図が掲載されている。ともに滑川村と宮田村の境をめぐって村同士の争いが起こり、両村の話し合いの結果合意された境を絵図に仕立てた。一枚は延宝6年(1678)年12月7日のもの、二枚目は11年後の元禄2年(1689)3月のもの。論所は異るが、村境争論が立て続けに起こった。

この絵図を描いたのは「繪圖師 諏訪 萬太夫」「諏訪村 繪圖師 萬太夫」。多賀野家のはじまり「高野孫六萬太夫」のことである。絵図師という特殊な技能をもつ立場で宮田・滑川村の争論にかかわったことが元禄8年の神峰権現の司祭者に命じられるきっかけとなったのかもしれない。6ヶ所もの神社の司祭者となるのは多賀野家だけである。多くとも2ヶ所である[3]。この特別な待遇は萬太夫の絵図師という職能と結びついていたかもしれない。

神職多賀野家の兼帯神社

多賀野家が神社の司祭者となった時期を本史料その他によってまとめると次のようになる。

村名 神社名  司祭開始時期 以前の司祭者
諏訪 諏訪明神 延宝年間(1673-81) 村内の常願寺[4]
水木 泉明神 元禄4年(1691)11月 村内の満泉寺[5]
水木 津明神 元禄5年2月15日
宮田 神峰権現 元禄8年 村内の薩埵寺[6]
助川 鹿島明神 元禄8年[7] 村内の正善院[8]
会瀬(相賀) 津明神 元禄9年 山伏の光明院[9]

泉明神について4月8日の条に

泉大明神別當満泉寺[5]御召放、元禄四年辛未十一月より  源義公様多賀野摂津高弘拜領被仰付候

とある。水木村満泉寺から泉明神の祭祀権をとりあげ、多賀野家にゆだねられたことがわかる。

(1)諏訪明神をのぞく5社の祭祀はいずれも光圀の退隠後に命じられている。

(2)諏訪明神をはじめ泉明神、神峰権現、助川鹿島明神、会瀬津明神いずれも真言宗の寺院あるいは山伏が祭祀していたものを解き、あらたに多賀野家が任じられた。

以上の神職多賀野家のとりたては、本地垂迹説にもとづく神仏混淆の排除という水戸藩宗教政策の一環であることは言うまでもない。

史料成立の背景

(1)この時期(文政期)に神社での祭祀、行事の進め方に氏子内に異論がだされたか。たとえば座論。本史料にも祭事での席次がいくつもの絵によって示されるのは、村落社会内部に秩序の変動があったことをうかがわせる。

(2)多賀野家による神社祭祀が揺らぎはじまったか。それに対し、司祭の正当性を示すために徳川光圀との深いかかわりをもちだし、あるいは光圀の命令によって司祭者となったことを強調し、再確認する必要があった。

この2点については、まったくの推測です。本史料の読み込みと他の事例調査が必要です。

[註]

  1. [1]『水戸市史 中巻1』
  2. [2]日立市郷土博物館特別展示図録。2004年刊。
  3. [3]『新修日立市史 上巻』表3-4によって一例をあげると、日立市域では会瀬(相賀)村と成沢村の鹿島明神を司祭する成沢村瀬谷家がある。
  4. [4]『新修日立市史 上巻』527頁に、真言宗常願寺が祭祀していたとある。常願寺は河原子村真言宗普濟寺末、元禄期に水戸藩によって破却処分となる。
  5. [5]満泉寺は真言宗で、河原子村(のち油繩子村)普濟寺の末寺。天保期に破却。
  6. [6]薩埵寺は真言宗六反田村(水戸市)六蔵寺の末寺。天保期に破却。
  7. [7]助川村鹿島明神の司祭者に多賀野家が任じられる時期について本史料に記載はないが、『新修日立市史 上巻』527頁によった。
  8. [8]『新修日立市史 上巻』527頁。正善院は河原子村真言宗普濟寺の門徒寺で、元禄期に破却とある。
  9. [9]『新修日立市史 上巻』527頁