光圀と斉昭の寺院破却
日立市域の場合

島崎和夫

名君の誉れ高い水戸藩主徳川光圀と斉昭が行った領内の寺院、仏教弾圧について日立市域の事例を紹介する。時期は寛文6年(1666)から元禄年間(1688—1704)の光圀の時代と天保13年(1842)から14年の斉昭時代のふたつである。

目次


光圀による寛文・元禄期の破却 — 神仏習合の否定

光圀は朱子学を信奉する儒学者林羅山の廃仏思想に影響をうけたと言われている。そして(1)神仏習合の否定(2)「迷信・邪信」の排除(3)神道の復興、をめざして寛文年間に社寺改革に着手した。

具体的に破却すべき寺院とされたのは(1)祈祷・葬祭共に行わない(2)禅宗・浄土宗・日蓮宗のうち祈祷を行っている(3)祈祷ばかり行い、葬祭をしない(4)檀家がいない(5)年貢地・屋敷地に建つ(6)掛け持ちの寺、である。

これにより日立市域では、真言宗の寺院が123ヶ寺から16ヶ寺へ、曹洞宗は15ヶ寺から8ヶ寺、天台宗は5ヶ寺から3ヶ寺、一向宗4ヶ寺から1ヶ寺に減少、浄土宗1ヶ寺には変化はなかった。なお10ヶ寺については処分状況が不明だが、その後の諸史料に表れてこないので、この時期に破却されたと考えた。

もともと真言宗が多かったから寺を潰すということは真言宗の寺院を破却することになるが、それだけではないだろう。減少の割合からみれば、真言宗→一向宗→曹洞宗・天台宗の順で破却がなされた。一向宗(浄土真宗)は由緒ある金沢村の覚念寺だけを残して破却した。光圀の生母が帰依する日蓮宗の寺院は寛文期においては日立市域になかったが、不受不施派の赤浜村(高萩市)妙法寺を由来を隠すようにして成沢村に移した。これだけから見ると、光圀は神仏習合の真言宗と一向宗をきらい、不受不施派ではない日蓮宗を庇護したことがうかがえる。

斉昭による天保期の破却 — 行く行くは無仏の国へ

光圀の寺院破却からおよそ150年がたった天保14年(1843)9月23日、新に任命した寺社奉行に対し斉昭は「寺院の儀ハ本より不好[中略]行々ハ無佛國に相成、神道引立候儀を眼目にいたし可申候」と述べた(『水戸藩史料 別記下』)

仏教は本から嫌い、ゆくゆくは佛のない領地にしたい、と斉昭は言う。

そこで(1)寺院の破却(2)僧侶の粛正(3)梵鐘・鰐口の没収(4)火葬禁止・自葬祭奨励(3)民間信仰の排除(6)神仏分離(7)神社の振興(8)神葬祭の推進、を寺社奉行に命じた。

この結果、真言宗16ヶ寺が1ヶ寺に、曹洞宗9ヶ寺→5ヶ寺、天台宗3ヶ寺→2ヶ寺、一向宗2ヶ寺と臨済宗1ヶ寺はそのまま、浄土宗1ヶ寺→0、日蓮宗1ヶ寺→0となった。破却を免れたのは以下の11ヶ寺である。

久慈村の千福寺・観照院(天台宗)、森山村の日輪寺(真言宗)、金沢村の覚念寺(一向宗)、助川村の鏡徳寺(曹洞宗)、宮田村の大雄院と耕養寺(曹洞宗)、滑川村の観音院(曹洞宗)、友部村の法鷲院(真言宗)・東泉寺(曹洞宗)・光円寺(一向宗)、東河内上村の玉簾寺(臨済宗)

幕末に日立市域には村は37ヶ村あったから、三分のニの村から寺が消えたのである。水戸藩領内の他地域でも同様であった。異様な事態というべきであろう。

日立市域における寺院の弾圧状況

下記の表のとおり、元禄と天保期の弾圧によって日立市域49ヶ村中9ヶ村に10ヶ寺が残った。太字で示したものがそれである。

凡例

村名 寺院名 宗派 経緯 内容 時期
下土木内 東正院 真言宗 「潰レ」 破却 光圀
釈迦堂
(神田)
泉蔵院 真言宗
泉蔵院は明治4年(1871)の「各村舊高簿」に「廢跡泉藏院」とある。「各村舊高簿」に「廢跡」とある寺院は、大半が斉昭の時代に破却となっているので、泉蔵院も斉昭によって破却された可能性が高い。
勝蔵院 元禄4年住持死去「跡潰」 破却 光圀
外に、山伏1
留小島
妙蓮寺 真言宗 「元俗」 破却 光圀
行照院 住持死去「潰ル」 破却
茂宮
東福院 真言宗 「元俗」 破却
田中内
文珠院 真言宗 「元俗」 破却
外に、山伏1
大橋
龍寳院 真言宗 破却 光圀
正法院 曹洞宗 破却
正法院は、元禄13年に破却されたという(『日立みなみ風土記』)。
興谷寺 「無住、永無住」 破却 斉昭
興谷寺は、元禄13年大里村(常陸太田市)から正法院跡へ移転
石名坂
地蔵院 天台宗 「年来無住、白羽村(常陸太田市)大聖院へ寄寺」 破却 斉昭
外に、行人1人[還俗]
南高野 徳乗院 真言宗 「欠落」 破却 光圀
久慈
南蔵院 真言宗 破却
東光院 破却
千福寺 天台宗
宝徳院 破却 光圀
圓蔵院 破却
観照院
観照院は安政2年(1855)11月の「久慈村屋敷図」に描かれており、また明治4年(1871)の「各村舊高簿」に「廢跡觀照院」とあるので、明治初年の廃仏毀釈によって破却されたものであろう。
水木
満泉寺 真言宗 破却 斉昭
満泉寺は泉神社の別当をつとめていたが、斉昭の改革によって廃寺となり、その跡地に明治6年に水木小学校が開校したという(『みつきの郷』)。「各村舊高簿」に「廃跡滿泉寺」とある。
圓福院 「元俗」 破却 光圀
地福院 住持死去 破却
浄源坊 一向宗 「還俗」 破却
森山
真福寺 真言宗 破却
長楽寺 「死去」 破却
外に、行人1[還俗]、山伏1
日輪寺 真言宗
日輪寺は寛文〜元禄期に河原子村から真福寺跡に移転。元治元年(1864)8月28日、天狗書生の争乱で楼門を残して焼失。1930年(昭和15)本堂新築。その際の「日輪寺再興記念碑」によると、元禄期に真福寺のほか末院の水木満泉寺を合わせたという。
大沼
東輪寺 真言宗 元禄10年普済寺内へ移る 破却 光圀
千手院 不詳
金沢
瀧泉寺 真言宗 破却 光圀
金乗院 住持死去 破却
西光寺 「追放闕所」 破却
行善院 元禄2年芦倉村(大子町)南邊寺へ移る 破却
東照院 破却
覚念寺 一向宗
長清寺 曹洞宗 殿堂修覆不行届のため村願畳寺 破却 斉昭
河原子 普濟寺 真言宗 油繩子村若宮八幡社跡地へ 移転 光圀
宝蔵院 破却
文秀院 「元俗」 破却
日輪寺 「今ハ森山へ引」 移転
龍蔵院 貞享2年(1685)住持死去 破却
観行院 破却
外に、行人1[還俗]、山伏3
東福寺 真言宗 年来無住、殿堂大破のため村願畳寺 破却 斉昭
東福寺は寛文〜元禄期に油繩子村から河原子村普濟寺跡に移転。天保期に破却処分にあったものの建屋は残り、明治に入って小学校に利用されたが、1921年(大正10)焼失、1927年(昭和2)再興
大久保
神宮寺 真言宗 「追放闕所」 破却 光圀
庄嚴寺 破却
乗楽院 「元俗」 破却
尚福院 「元俗」 破却
自性院 「無住寺」 破却
長久院 元禄4年10月住持死去 破却
宝珠院 破却
常光寺 浄土宗 殿堂修覆不行届のため村願畳寺 破却 斉昭
鏡斎坊 一向宗 破却 光圀
正傳寺 曹洞宗 出奔のため村願畳寺 破却 斉昭
海蔵寺 三美村(常陸大宮市)慈眼寺へ移る 移転 光圀
外に、行人1[還俗]、山伏1
下孫 案楽寺 真言宗 「元俗」 破却 光圀
諏訪 常願寺 真言宗 不詳
外に、山伏2
油繩子 東福寺 真言宗 河原子村普濟寺跡へ 移転 光圀
普濟寺 還俗 破却 斉昭
普濟寺は寛文〜元禄期に河原子村から八幡社跡に移転
成沢 鏡徳院 真言宗 貞享4年(1687)住持死去「潰ル」 破却 光圀
蓮常院 住持死去 破却
宝珠院 「無住」 破却
宝塔寺 日蓮宗 女犯、出奔のため追院 破却 斉昭
宝塔寺は、赤浜村(高萩市)にあった大高山妙法寺(安国院)を元禄9年に成沢村に移し改称。天保期に追院後、弘化3年再興。
水戸領内の日蓮宗4ヶ寺、檜山村(常陸大宮市)妙蓮寺、赤浜村(高萩市)願成寺・妙法寺・長寿院は、法華経の信者でないものには施しをせず、また施しを受けないことを教義とする不受不施派に属していたので、寛文5年に破却を命じられた。しかし長寿院だけが破却となり、外の3ヶ寺は僧侶の追放と、本寺を変えることで破却を免れた。成沢村の宝塔寺はこの妙法寺に由来する。
外に、行人1[還俗]
会瀬
(相賀)
福聚寺 真言宗 出奔のため畳寺 破却 斉昭
修往院 不詳
福性院 元禄4年住持死去 破却 光圀
成就院 住持死去 破却
外に、行人1[還俗]、山伏1
助川 大聖寺 真言宗
大聖寺は明治4年(1871)の「各村舊高簿」に「廢跡大聖寺」とある。斉昭によって破却されたか。
正宝院 住持死去 破却 光圀
金蔵院 「火事」 破却
長蔵院 「無住」 破却
行善院 不詳
正善院 住持死去「子ニ潰」 破却
鏡徳寺 曹洞宗
永秀寺 破却 光圀
外に、山伏2、行人1
宮田 薩埵寺 真言宗 年来無住、殿堂大破のため村願畳寺 破却 斉昭
吉祥院 天和3年(1683)住持死去 破却 光圀
地藏院 「無住」 破却
寿光院 「元俗」 破却
證誠院 破却
大雄院 曹洞宗
耕養寺
善應寺 破却 光圀
外に、山伏3、行人1
滑川 長寿院 真言宗 岩城領へ他出 破却 光圀
鏡智院 住持死去 破却
観音院 曹洞宗
昌泉院 「還俗」 破却 光圀
外に、行人1[還俗]、山伏1
田尻 観音寺 真言宗 「闕所寺」 破却 光圀
東照院 「無住寺」 破却
勧泉寺 殿堂大破、再建不行届に付村願畳寺 破却 斉昭
(勧とも)泉寺は寛文〜元禄期に破却された観音寺の跡へ移転
外に、山伏1
小木津 東光寺 真言宗 「欠所寺」 破却 光圀
稲峯寺 出奔、村願畳寺 破却 斉昭
徳成院 「無住寺」 破却 光圀
甚與坊 「元俗」 破却
千寿院 破却
自性院 「元俗」 破却
地蔵院 「元俗」 破却
正寿院 住持死去 破却
長久院 住持死去 破却
泉福寺 曹洞宗 「大中村へ引」 移転
外に、行人1[還俗]、山伏6
砂沢 宝善院 真言宗 破却 光圀
外に、行人1[還俗]
折笠 福善院 真言宗 破却 光圀
行善院 住持死去 破却
外に、山伏1
川尻 宝幢寺 真言宗 女犯、出奔のため村願畳寺 破却 斉昭
吉祥院 元禄4年住持死去 破却 光圀
満藏院 「無住」 破却
泉福院 破却
蓮光院 破却
長音坊 破却
外に、山伏3、行人1
伊師 泉蔵院 真言宗 住持死去 破却 光圀
密蔵院 元禄8年「小野村へ引」 移転
舜識坊 「元俗」 破却
長印坊 破却
地福院 不詳
外に、山伏3
山部 禅定院 真言宗 住持死去 破却 光圀
宝珠院 「無住寺」 破却
林蔵院 破却
外に、山伏1
長楽寺 真言宗 無住のため村願畳寺 破却 斉昭
長楽寺は元禄期において友部村から林蔵院跡へ移転
友部 法鷲院 真言宗
遍照院 延宝6(1678)「新町へ引」 破却 光圀
普門寺
普門寺は明治4年(1871)の「各村舊高簿」に「廢跡普門寺」とある。斉昭によって破却されたか。
密教院 「元禄七火事ニ逢候、本寺[法鷲院]へ引込」 破却 光圀
正福院 「元俗」 破却
観照院 破却
徳善院 不詳
長楽寺 山部村林蔵院跡へ 移転 光圀
光正寺 一向宗 破却
光円寺 元禄11年(宝永元年とも)光正寺跡へ開く
光円寺は明治4年(1871)の「各村舊高簿」友部村の条に朱印地・除地高の記載がない。
東泉寺 曹洞宗
平善寺 永年無住、畳寺 破却 斉昭
正泉寺 「元俗」 破却 光圀
外に、山伏1、行人1
高原 西福院 真言宗 住持「死去」 破却 光圀
久性院 「元俗」 破却
誠性院 破却
外に、山伏1
黒坂 尭音坊 真言宗 不詳
笹目 西光院 真言宗 破却 光圀
入四間 正覚院 真言宗 破却
地蔵院 破却
円鏡院 「欠落」 破却
照蔵院 [御岩山権現別当] 破却
 [以下は御岩山権現先達]
東福院
宝珠院
正覚院
宗心坊
宝福院
成就院
鏡乗院
宝蔵院
長圓坊
千手院
円鏡院
地蔵院
西光院
成性院
正東院
外に、山伏1、行人5[内1は死去後に潰し]
赤根  [開基帳に赤根村の項なし]
悦子
地玄院 真言宗 「欠落」 破却 光圀
呉坪 圓鏡院 真言宗 「無住寺」 破却
 [開基帳に菅村の項なし]
延命院 真言宗 年来無住、修覆不行届のため畳寺 破却 斉昭
岩折 定照院 真言宗 破却 光圀
地蔵院 破却
岡町 西福院 真言宗 不詳
外に、行人1
西上淵 西照院 真言宗
東上淵 東養院 真言宗 「無住寺、欠所」 破却 光圀
油ヶ崎 成徳院 真言宗 「元俗」 破却
外に、行人1
下深荻 西照院 真言宗 年来無住、大破のため村願畳寺 破却 斉昭
下深荻村は、天保5年(1834)に岩折・岡町・西上淵・東上淵・油ヶ崎の5村が合併。西照院は旧西上淵村に所在
東河内上 千手院 真言宗 不詳
常泉院 破却 光圀
玉簾寺 臨済宗 [延宝6年(1678)創建]
平山 成就院 真言宗 不詳
水瀬 鏡福院 真言宗 元禄3年住持死去「跡潰」 破却 光圀
良子 照蔵院 真言宗 破却
鏡寿院 破却
東福院 破却
宝珠院 住持死去 破却
外に、行人1

真言宗と曹洞宗

上記の表は、寛文3年(1663)作成された「開基帳」に掲載された日立市域の寺院のすべてを網羅している。つまり江戸初期において日立市域にあった寺院のすべてと考えてよい(調査漏れがないとは言いきれない)

寛文期に真言宗の寺院が123ヶ寺、曹洞宗が15ヶ寺、天台宗5ヶ寺、一向宗4ヶ寺、浄土宗1ヶ寺があったが、それらが光圀と斉昭によって破却され、さらに明治政府の廃仏毀釈によって、現代に残った江戸初期由来の寺院は10ヶ寺のみになった。そのために日立市域、ひいては水戸藩領域の庶民の信仰は異様な様相を呈しているのではないか、ということがこの表に言わせたいことである。水戸領外の一般的な地域の様相を示せれば、より客観的な記述となるのでしょう。時間の余裕があるときに果たしましょう。

真言宗の寺院が多かった理由は、(1)中世において布教に熱心な僧侶がいたこと(2)佐竹氏の庇護をうけたこと(3)真言宗とか天台宗など密教系の寺院に共通する神仏習合思想が当時の民衆に受け入れられたからである。

ついで多いのは曹洞宗である。禅宗が室町、戦国時代の武士の支持を得たことによろうか。殺し合いに無常観をいだき、あるいは疑問をもつ武士たちにとって、仏典をよまずにひたすら座禅をして瞑想することで心の平安がもたらされるという禅宗の教えは受け入れやすかっただろう。当地方では佐竹氏一族が曹洞宗を信仰し、日立市域では宮田村の大雄院、友部村の東泉寺が山尾小野崎氏の菩提寺であった。

語意

斉昭の仏教観

斉昭は、天保15年(1844)5月幕府から退隠を命ぜられ、謹慎処分を受けて駒込の別邸に幽閉されたが、その主たる理由は、排仏、寺院破却政策の実施にあった。このとき幕府から「寺院破却之義如何」と問われた斉昭は次のように答えた。

是は近來僧侶共の風義惡しく、破戒不如法の者不少所、義公の御代寛文之度には、寺院夥敷破却申付、又品によりては、逐々引立に相成、一統別而相愼、寺法を守りたる所、又々近來愚民を欺、金錢を貪るのみならす、或は肉食博奕女犯等之類多、常々の樣に成行、百姓共難儀に及、政事之大害に相成のみならす、彼の本山宗門へ對し而も、不相濟事に付、破戒不如法之者共逐院等申付、同宗へ寄寺等申付、又宗法堅く守り、徳行等有之者は、夫々褒美致候義にて、無譯破却致候には無之也、

徳川斉昭「不慍録」

近年僧侶どもの風儀が悪く、戒律を守らない者が少なくない。義公(光圀)のときに、数多くの寺院を破却したが、場合によっては取り立てもした。それからというもの寺院は寺法を守ってきたが、近頃ふたたび民をあざむき、金銭をむさぼるだけでなく肉食、妻帯、博奕をする僧が多くなり、政治に害をおよぼすだけでなく本山や宗門に迷惑をかけており、破戒・不如法の者には追院を言い渡し、寄せ寺を申付けた。宗法を守り、道義にかなった行いをした者には褒美をとらせており、理由なく破却しているわけではない、と弁明している。

しかしそれは斉昭の一方的な言い分である。それだけでなく僧侶の堕落を主張する記録はすべて為政者の側のものである。当時の僧侶に不心得者はいなかったというのではない。寺院と民衆の主張を聞いてみなければならないと考えるだけである。したがって斉昭の主張・弁明は割り引いて受けとる必要がある。

水戸学原理主義者

同じく「不慍録」から。

我か臣子國民たらん者は、僧侶を国賊と思ひ定て、我か家有ん限りは、一切佛道信し申間敷事也、若臣子國民みたりに佛法信するか、又は剃髪して、神主墓所へ來るにおきては、我か泉客と成る萬年の後たり共、其者の末、只は置ましき也、夢々呉々我敵は出家也、臣子國民永世國賊の出家は可惡事也、

徳川斉昭「不慍録」

「わが家中や領民であろうとするならば、僧侶を賊徒と思い、いっさい仏教を信じてならない。もし仏教を信じたり、頭を剃って神主の墓所にまいるなどしたら、自分の死後万年の後もその者の子々孫々にいたるまでただではすまさない」。

斉昭の仏教、僧侶への憎悪にみちたはげしい怒りには驚かされる。

政治にたずさわる者に儒教は必須である。儒教は為政者にとって民の安寧を実現する思索と実践の場である。一方民衆ひとりひとりにとって生きる基準となったのは仏教であり、自然を崇拝する神道はひとりひとりに安心をもたらした。仏教は元から嫌いだと感情で言われても、仏教を信仰している者にとっては言いがかりでしかない。民衆の心を理解しようとしたのか。為政者とは思えない斉昭の発言である。斉昭が儒教から学んだのはそういうことだったのか。

水戸藩の後期水戸学の学者たちは廃仏論者である。著名なところでは会沢正志斎、藤田東湖、豊田天功。その彼らに強く影響されたいわゆる天狗の「志士」たちは桜田門外で大老井伊直弼を死にいたらしめ、東禅寺の英国假公使館を襲い、坂下門外で老中安藤信正を襲撃した。今風に言えばテロリストである彼らを水戸学原理主義者と呼んでおこう。

排仏毀釈の跡

日立市内のK町の山道を歩いているときに、急に視界がひろがって、墓地があらわれた。真新しい墓石もある墓域の手前の道端の風景に背筋が冷たくなった。それは建並ぶ石仏のほとんどに首がないのである。 異様な風景である。数えると21体。上半身だけを見せているのが3体。壊されていない石仏が4体あったことに安堵はしたが、それでも胸はざわついたままだった。

K町がとりわけ排仏毀釈が激しかったのだろうか。一途な(神道)原理主義者が少数でもいたのか。わからない。だが幕末の徳川斉昭による仏教弾圧の直接的影響であることはたしかである。そういえば入四間町の御岩神社にも、かつて首の落とされた石仏がたくさん並んでいた。しかしこの墓地では明治初年の民衆みずからの手による信仰弾圧のすさまじい歴史を、今、目のあたりにすることができる(この項は2019-05-24追記)


排仏毀釈について内田樹がブログでコメントしている。こちら → 内田樹の研究室「排仏毀釈について」(この項は2019-06-07追記)


参照文献

史料について