油繩子村

島崎和夫

目次


なにもない小さな村

常陸国多賀郡油繩子(油縄子)村は岩城海道にそう小さな村です。

水戸藩が支配する村々から提出させた村況を紅葉組郡奉行小宮山楓軒に命じて編集させた文化4年(1807)の「水府志料」によれば以下のとおりです[史料1]

きわめて短い記述です。「水府志料」の調査項目が三十近くもあるのに、基本項目しか書いていません。楓軒の目には、なにもない村。それが水戸藩の認識でした。

それでは岩城海道を旅する人の目に油繩子村はどう映ったのでしょうか。享保15年(1730)に水戸彰考館員の川上礫斎が湯治のため湯本温泉を訪れたとき油繩子村を通りすぎました。そのときにつぎのように記録します[史料2]

水穴は上流の諏訪村にあります。宿駅でもなく、名所・旧跡があるわけでもありません。目にとまるのは寺と坂、川、橋だけでした。

江戸時代前期、寛永21年(1644)の村高は359.989石、うち田119.789石、畑240.2石、畑が67%をしめます[1]。田畑の割合はこの地域の平均的なところでしょうか。ただし溜池も見あたらず、天水にさえたよれない村です。田の水は諏訪川(鮎川)からとる以外にはありません。堰は村内にはなく諏訪村地内でした[2]。それらの堰を諏訪・成沢村と共同して設置運営していました[3]

村高は村の大きさをしめします。日立市域の村高の平均は約500石ですから、油繩子村は水戸領、ひいては日立市域のなかでも小さな村に属するといってよいでしょう。

村名以外にかわったところのない村でも、歴史はあります。

[註]

  1. [1]寛永21年(1644)正月「御知行割郷帳」(『茨城県史料 近世政治編I』所収)。
  2. [2]天保15年(1844)「諏訪村反別絵図」。堰は諏訪梅林とその少し下流の2箇所と上諏訪橋の下流から引きいれ、平和台霊園にあがる道の近くで流れはひとつになり、そこで3ヶ村に分けられていました。
  3. [3]文政4年(1821)水不足のこの年、上流にある堰から諏訪と油繩子村が水をひいてしまうので、成沢村分が不足して争いになりました(『日立市史』263頁)。

油繩子の読み

油繩子をなんと読むか。現在は「ゆなご」ですが、江戸時代には「ゆなわご」と読んでいました。明和9年(1772)の「水戸岩城道中覚」に「ゆなはこ」、寛政年間の「磐城浜街道中記」に「ゆなは箇」と表記され[4]、『新編常陸国誌』村落編の油繩子の条に「由奈波呉」すなわち「ゆなはご」と読みが示されています。したがって江戸時代の油繩子の読みは現代表記なら「ゆなわご」でした。難読地名であるその由来も語源もわかりません。
 ところで繩と縄。繩が正字です。俗字の縄が常用漢字となりました。

  1. [4]古文書学習会編『道中記にみる江戸時代の日立地方』所収。道中日記などには、油繩子と書いている例もあります。しかし上の2例は、地元の人々が言っている音をそのまま写したものと考えます。油繩子をゆなわごとすんなり読める人はいないでしょう。重箱読みですから。はじめてこの地名に接した人はとまどいます。だからあえてだれにでもわかるように「ゆなわご」とその読みを書いたのかもしれません。

油繩子村の小名(小字)

小豆洗 井之下 南江 中江 表原 二ノ表原 梶畑 北峯 坂上 坂下 澤目 西さんや 中さんや 東さんや さんや原 下原 二ノ下原 宿並 臺之下 たいら たいたら 高田 寺之下 並松 根からまり 南原

天保13年(1842)9月「多賀郡油繩子村田畑反別絵図」

  1. 「さんや」に漢字「散野」をあてている史料もあります。「散野」とは「散在野」のことで、農民がはいりこんで秣や薪をとる山のことだといいます(『国史大辞典』)。

これらの小名を現代の地図におとしてみました。Google map に山椒の会『日立市小字地図帳』を参考にしてつくりました。

東福寺と普済寺

油繩子村には村の旦那寺として江戸時代のはじめに真言宗の東福寺がありました[史料3]。友部村(日立市十王町友部)の法鷲院末寺で、山号を無量山、院号を慈眼院といいました。寺領は高3石5斗余。永正2年(1505)8月20日に宥傳という僧が開いたといいます。この東福寺は水戸藩の社寺改革によって元禄年間に河原子村の普済寺が移転した跡地に移ることになります。現在河原子町にある東福寺です。

そして、入れ替わるようにして河原子村にあった真言宗普済寺が油繩子村に移ってきます。

普済寺は応永19年(1412)に宥傳法印が開いたと伝えられ、山号は海岳山、院号が一心院。末寺5ヶ寺、門徒寺23ヶ寺[5]をかかえる有力寺院でした[史料4]。末寺・門徒寺は、久慈郡と多賀郡の13ヶ村にひろがっています[図]。とりわけ大久保・金沢村には12ヶ寺が集中します。この2ヶ村と河原子村とは宗教の上でのつよいつながりをうかがわせます。

これらは河原子村にあったときの普済寺の末寺・門徒寺です。

水戸藩の寛文から元禄期の寺社改革によって水木村の満泉寺を残して13ヶ村の末寺・門徒寺が潰されます。すべてを奪われて普済寺は油繩子村の若宮八幡跡へうつることになるのです(若宮八幡については後述)。漁業がさかんな河原子村(村高897石、戸数273)から小さな村へと。

ところで、普済寺は河原子村の前には大久保村にありました[史料5・6]

湊村(ひたちなか市)華蔵院の門弟宥傳が大久保村に一心院普済寺を創建し、不動尊を安置したのがはじまりとされます。普済寺が大久保村にあったことは、大久保鹿島神社の棟札からも裏付けられます[6]

二度目の移転先である油繩子村で普済寺は廃寺に追い込まれます。天保14年(1843)の藩主徳川斉昭による寺社改革によって「油繩子村の普済寺の場合は、その僧侶が積極的に還俗して、藩の方針に沿うべく努力したというので、前の住職寺沢堅次郎が、郷士並として特別の待遇を与えられ」たのです[7]

大久保村を中心に数多くの末寺・門徒寺をかかえた由緒ある普済寺が、水戸藩にきらわれた理由は、たとえば(1)大久保村は、佐竹氏の重臣大窪氏の根拠地で、佐竹氏移封の慶長7年に大窪城主大窪久光が幕府に反乱を起しました。その大窪氏と深くむすびついていたであろう普済寺(2)慶長14年の金山をめぐる大窪村と助川村との村境争論に普済寺が仲裁者となり、幕府の裁許にしたがわなかった(3)慶長期に河原子村に転じたあとでも大久保村の鹿島明神の祭祀をつづけた。こうした普済寺の宗教的政治的影響力を水戸藩がとりのぞこうとしたことに求められるかもしれません。推測です。

廃寺となった普済寺は、その後一心院として諏訪村に残りました[8]。かつて若宮八幡をつぶされたときに油繩子村の氏子をうけいれたように、このときも諏訪村は普済寺をひきうけたのでした(若宮八幡の項で説明します)

 地蔵菩薩堂

 普済寺僧侶墓地

油繩子の普済寺があった場所は、ひたち医療センターから八幡神社一帯です。病院の北東側に地蔵菩薩堂と墓地があります。墓地の奥まった一角に普済寺歴代住職の墓碑があります。そのなかに貞享5年(1688)6月21日の東福寺僧侶宥明の墓石がありました。河原子にうつるまでこの地にあった東福寺の遺物です。また元禄16年(1703)7月の「當寺開山中興法印海音」が建立した歴代僧侶の墓碑があります。宥傳(普済寺を開いた僧侶)を中央に20人ほどの僧侶の名を刻んでいます。油繩子へ移転したときをもって普済寺中興とし、海音はそのときの僧なのでしょう。

  1. [5]水戸藩「開基帳」をひらいてみると、普濟寺の末寺は3ヶ寺、門徒寺は23ヶ寺が確認できます。それらの分布を図にしました。末寺・門徒寺の多くは、15〜16世紀にかけて成立しています。普済寺をふくめた真言宗の日立市域での教線の拡大については、『新修日立市史』上巻393〜394頁、『十王町史 通史編』141〜143頁を参照してください。
  2. [6]『日立史苑』第8号(棟札特集号)
     慶長9年(1604)3月22日に日光月光弥陀如来像をあらたにつくったときに、遷宮導師として普済寺の住持定舜と別当の宥忠、神主かもの助がたずさわっています。その後いくたびもの神殿の修造に普済寺の僧侶が遷宮導師をつとめます。万治4年(1641)正月24日の棟札は境内の愛宕山社檀一宇を修造したさいに、入佛師として「河原子普済寺宥運」がつとめたこと記載し、これを最後に鹿島神社の棟札から普済寺の名前が消えます。寛文10年(1670)8月9日の棟札には普済寺の文字はないので、この30年の間に普済寺と大久保村のつながりが切れたのでしょう。
  3. [7]『日立市史』328頁
  4. [8]諏訪の一心院についてはふるさと諏訪編集委員会編『ふるさと諏訪』(1985年)を参照。諏訪町字若宮に「一心院」という庵と墓地があり、1955年まで尼僧が住んでいたという。1978年墓地は平和台霊園に移され、現在では町内会の倉庫と広場となり、仏像3躰のうち木造阿弥陀如来坐像は市指定文化財となり、日立市郷土博物館に展示されています。
  5.   余談ですが、油繩子村の水田の用水のすべてが諏訪村に依存していたこと、若宮八幡と普済寺が潰されたときにそのあとを諏訪村が引きついだことなどから、ふるい時代に諏訪村から油繩子村が分村したこと、つまり油繩子村の親村は諏訪村であることをうかがわせます。

若宮八幡

普済寺が河原子村から移転してきた八幡跡とは、元禄8年(1695)10月22日に水戸藩によって潰された若宮八幡があった地のことです。

若宮八幡は当時油繩子村にあった東福寺が祭祀をおこなっており、廃寺になったのち跡地はいったん諏訪村の神職高矢(高野・多賀野とも)摂津に預けられ、油繩子村の氏子たちは諏訪村の諏訪明神の氏子となるよう指示されました[史料7]

しかしいつの頃からか八幡は復活していました。文政6年(1823)の「年中諸祭事規式録」に八幡で祭事が行われている記録があり、また天保13年(1842)の「油繩子村田畑反別絵図」に現在の位置に描かれているのです。こうした八幡の復活は他村でもみられます。正八幡から吉田明神にかえさせられた森山村においては、寛政11年(1799)5月に八幡社は再建され、吉田と相殿(あいどの)となりました[9]

  1. [9]古文書学習会編『水戸領鎮守神名附』

米問屋

自由民権運動家であり当時茨城県会議長だった野口勝一が明治14年(1881)に水戸から磯原村にある生家をたずねました。そのとき油繩子村を人力車に乗って通過した野口は、油繩子村は「米商殊に多きの処」で、多賀郡北部の村々は米を油繩子村にやってきて売ることになっている。その理由は多賀郡北部は水田が多く、南部は畑地が多い。そのため南部では米を北部との境にある油繩子村に求める。その理由から油繩子は米穀流通の重要な場所となっている、と言うのです[史料8]。多賀郡南部は北部にくらべて畑地が多い、現代の感覚からはうなづけるのですが、江戸時代では様相がまったくことなることがあります。機会があったら、裏付けをとっておきます。

また1913年(大正12)発行の『多賀郡史』[10]は「明治維新の頃より南部油繩子村に米問屋ありて、郡内過半の産米を集散し、従て商店軒を並べ郡南の商業地たりしことあり」と過去形で述べています。

明治前期から大正期にかけて油繩子村に「米商」「米問屋」が多かったのです。その理由は江戸時代に多賀郡内でただひとつ油繩子村に米穀市場があったからでした。

米市場

時代を遡ります。

文化5年(1808)12月、石神組郡奉行所と水戸藩附家老の中山氏家中とのあいだでちょっとしたトラブルがもちあがりました。

中山氏の知行所(松岡領)の村々[11]の農民が米をはじめとする穀物を油繩子村などの市場に売るさいには庄屋の切手(売渡し伝票)が必要なのですが、その切手と市場の帳簿とを突合せると多数の切手不足がみられると石神組郡奉行所から中山氏の役人は指摘をうけました。それは禁止されている他領からの穀物移入を疑わせるものがあったからです。しかし調べてみるとたんに切手の不足でした。新たに定められた方法なので、村人たちにその方法が浸透しなかったのです[史料9]

また翌年8月に石神組郡奉行加藤孫三郎が中山氏家老の島村にあてて、油繩子村などにさしだした文化3年分の売穀切手と買入帳と突きあわせた結果、22枚の手形が紛失している。調査のうえ提出するようにと指示しています[史料10]

江戸時代をつうじて米は最大の商品です。年貢米と家臣団のほかに農民が売払う米があります。水戸藩の場合はやくから畑の年貢は金納でした。農民は米を売って金にかえる。そのためにも城下だけでなく農村部にも米穀市場が必要でした。その市場の運営は藩の管理下におかれていたのでした。

文政6年(1823)正月23日に石神の郡奉行所が中山氏家老の岡本戸大夫に油繩子村での米穀市の運営法の改正をつぎのように通知しました[史料11]

油繩子村の市場が毎日ではなくなったのは、毎日では農業に支障がでるということですが、それは表向きの理由でしょう。この時期、米の流通量が減るとか、経済的な事情があったはずですが、書かれていません。

ともかくこの達をうけて、中山氏の役人は管轄の村々に触をだしました。

ところが翌月中山氏知行の松岡領24ヶ村は三日に一度の市日では困るとして毎日の営業と小枡の使用を中山氏役人に願い出てきたのです。雨天がつづけば、油繩子村まで米を運ぶのに手間隙かかり、年貢の上納に支障がある、というのが理由です[史料12]

この願いは中山氏の役人(御用衆)たちに聞きいれられませんでした。しかし再度9月に中山氏の役人にだされました。これをうけて中山氏の役人は重い腰をあげます。石神郡奉行所と交渉に入りました[史料13]。その結果、石神郡奉行所(梶沢衛門)からつぎのような達しが中山氏の役人にもたらされました[史料14]

松岡領の村人のねばりがみのったのです。

多賀郡では油繩子村にだけ米市場があり、それは藩の選定にかかるもので、米商人に売買の記録を郡奉行所に提出させるなど藩の統制のもと運営されていたことがわかります。しかしそれ以上の米問屋の数や取扱量、市場の開設時期をふくめてくわしいことはわかりません[20]

  1. [10]多賀郡役所編 安達鑛太郎著 1923年(大正12)刊
  2. [11]松岡領は、手綱郷11ヶ村、中ノ郷14ヶ村、山中郷4ヶ村7新田の合計29ヶ村2万2700余石からなる。このうち山中郷と中ノ郷の大津村を除く24ヶ村から反対の意見がだされたのである。山中郷と大津村は他の市場を利用していたのであろう。
  3. [20]大正期のことだが、久慈郡中里村入四間の関右馬允・もと夫妻が「ここ[油繩子]に米市が立ったので遥々売りに行きました」と回想している〈こちら〉。[この項2020-01-05追加]

稗御蔵と常平倉

水戸藩は備荒貯蓄策として領内各地に「稗御蔵」を建設しました。油繩子村にも文化6年(1809)に設置されました[史料15]。「御」がつくように藩の蔵ですから建設も運営も藩がおこないます。村の年貢米などを一時的に保管したりする村の蔵「郷蔵」とはことなります[12]

完成は文化6年の秋です。敷地7畝10歩(220坪)は藩が農民からその地域の相場で買上げ[史料16]、そこに長さ15間、横3間(45坪)の蔵二棟を建てました。建設費は藩の全額負担でした[13]。蔵は完成まもなく台風にあい破損しますが、藩費で修理がおこなわれました[史料17]。のちになって3棟が増築され、5棟になります[14]。この拡張は稗御蔵の機能拡張によるものだと考えます。この点は後述します。

なにもない村と認識された2年後に稗御蔵が設置されました。

稗御蔵は近隣では石神外宿村(東海村)と小木津村にありました。小木津村の稗御蔵は文化4年に建てられ、天保4年に一棟が増築、あわせて二棟となりました[15]。稗御蔵は水戸領内には時期によってことなるのですが、およそ三十ヵ村に設けられていました[16]

稗御蔵の運営については、『水戸藩史料 別記巻七』に収録された「舊水戸藩救荒蓄稗収支方法概記」が詳しく記しています[史料18]。ちなみに蔵番の給料は藩営にもかかわらず村の負担でした。

安政2年(1855)9月22日、この地を訪れた弘道館教職の青山延寿は『常北遊記』[17]に「廻趨油繩子。有常平倉」と記します。当時の水戸藩主徳川斉昭の発案で、米価の調節をおこなう常平倉を設置することが天保7年(1831)2月に決まりました[18]。これ以降天保13年までのある時点で油繩子村の稗御蔵は、常平倉の役割もになうことになったものと考えます。米市場がある油繩子村は常平倉をおくに適した村だったのです。

  1. [12]御稗蔵ではありません。御稗ではなく御蔵なのです。藩が運営します。それにたいし郷(むら)の蔵があります。郷蔵に村が稗をたくわえたことがあるのかもしれませんが、郷蔵は村が建設し、運営します。
  2. [13]『水戸藩史料 別記(上)』
  3. [14]天保13年「油繩子村田畑反別絵図」(『日立市史』283頁図版)
  4. [15]『新修日立市史』(上巻)
  5. [16]『水戸藩史料 別記巻七』によれば、天保初年の稗御蔵の所在は、鹿島郡海老沢村(茨城町ヵ)、行方郡上戸(潮来市)・芹沢村(行方市)、新治郡下玉里村(小美玉市)、茨城郡吉田・栗崎・堀(水戸市)・石塚・増井(城里町)の5ヶ村に、那珂郡では石神外宿(東海村)・戸村・菅谷(那珂市)・高野・長倉・上小瀬・小野・山方・大宮(常陸大宮市)の9ヶ村に、久慈郡は矢田(大子町)・瑞竜・幡・小菅・大里・高柿・中染(常陸太田市)の7ヶ村、多賀郡の小木津村(日立市)、下野国那須郡の久那瀬・大内(栃木県那珂川町)に設けられていた。多賀郡に小木津村のみがあげられているが、『水戸藩史料』は油繩子村を落としています。
  6. [17]明治2年(1869)刊。ここでは大森林造訳『常北遊記』(筑波書林)によった。
  7. [18]『水戸市史』(中巻3)448頁。運営については456頁。

天狗諸生の争い

天保期の藩主斉昭の登場から水戸藩内は斉昭たち藩政改革派と反改革派に二分されます。藩政改革派は村の医師、村役人、神職、修験たちをひきいれてふくれあがっていきます。幕末の元治元年(1864)、藩政改革派の一部が尊王攘夷を幕府に迫ろうと武装蜂起します。幕府は水戸藩と近隣の藩に追討を命じます。藩政改革派は武装蜂起した激派とそれに反対する鎮派に分裂します。尊王攘夷派を天狗派、追討軍に加わった人々を諸生派と大雑把にわけておきます。この天狗騒乱は水戸領内の村々を戦場としました。藩政は事態をコントロールできません。

諏訪村の諸生派の農民たちが降伏した天狗派の神官・修験・農民たちを村にとどめおきました。諏訪村13人、油繩子村8人。油繩子村の約半数は若者です。このことを諸生派の農民はとなり成沢村諸生派に報告しました。諸生派の拠点が成沢村にあったのでしょう。

捕えられた天狗派の人々がその後どうなったかはわかりません。

しかしこの4年後「御一新」で立場は逆転します。諏訪村の諸生派の鎌次郎たちは身をかくすほかなかったはずです。おそらく少なくとも10年は故郷にもどれなかったと推測します。

明治という新しい時代をむかえて、しかし村のなかで深刻な対立関係がどれほど生まれていたことか。この地域の人びとに大きなわざわいをもたらして水戸藩の支配はおわります。

幻の油繩子町 住居表示による地名改変

油繩子村は1889年(明治22)に町村制がしかれるまで制度的に存在しました。この年に成沢・諏訪との3村合併で鮎川村となります(茨城県多賀郡鮎川村大字油繩子)。1939年鮎川村は国分村・河原子町と合併して多賀町の一部(茨城県多賀郡多賀町大字油繩子)となります。1955年多賀町は日立市に吸収されます(茨城県日立市大字油繩子)。そして市の住居表示の実施により1960年代前半に300年以上つづいた油繩子の地名は公式上消失しました[19]。かわってつけられたのが鮎川町です。成沢・諏訪を含むひろい範囲をもち、しかも50年間しか存在しなかった名称に変わってしまったのです。諏訪鉱山や生活排水で汚れた川に鮎がもどってきてほしいという願いもわからないわけではありませんが、残念なことです。ですが小学校の名前に残っていました。統合前からの名称だからでしょう。鮎川町となってから誕生した交流センターに油繩子が残りました。地元の先賢に感謝しなければなりません。そして油繩子が公式地名として復活することを願うものです。鮎川町もたかだか数十年の歴史しかないのですから。

小豆洗城

鮎川町4丁目4番にかつて小豆洗城があった。鮎川にかかる大学橋の下流直線で150メートルほどの突端部分(小字で小豆洗という)に遺構がわずかに残っている。残っているのは十数メートルの土塁の一部である。

城主は佐藤右馬亮秀信と伝えられ、秀信は小野崎義昌(義政)の家臣で、義昌付五館主のひとりとされる。明徳元年(1390)から油繩子村に居住したという[20]。この佐藤氏については法鷲院の大般若経に佐藤豊後の名が見え、また秋田藩家蔵文書にも佐藤豊後をはじめ佐藤を名乗る武士が存在することがわかっている。

  1. [19]助川浩「日立の住居表示行政の歴史と住民意識」『日立の現代史の会通信』第19号
  2. [20]『日立市史』p.182。なおこの項「小豆洗城」については、市村高男氏の日立市域の中世城郭跡調査中間報告(1991年)に拠っています。

史料

テキスト化にあたって

[史料1]文化4年(1807) 小宮山楓軒「水府志料」油繩子村の条

 石神組 油繩子村 戸凡七十一 水戸迄六里三十町

村境、東に下孫村、西南は諏訪村、北に成澤村あり。岩城道筋なり。東西十一町三十間、南北八町拾間あり。

『茨城県史料 近世地誌編』

[史料2]享保15年(1730) 川上櫟斎「岩城便宜」

 油繩子   民家あり
宿の右の方普済寺真言宗有。宿末坂下ニ流有。土橋かゝる。諏訪河と云。川上は水穴也。左ノ方諏訪村見ゆる

古文書学習会編『道中記にみる江戸時代の日立地方』

[史料3]寛文3年(1663) 水戸藩「開基帳」真言宗油繩子村の条

  油繩子村
 高三石五斗四升  先高無、中野七藏御繩ニ見捨、郷高之外 寺内  無量山 慈眼院  東福寺友部村法鷲院末寺 平僧
  同 断高二石二斗四升      八幡免
  同 断高壱石一斗三升五合    阿彌陀免
寺永正弐乙丑年八月二十日宥傳と申僧開基、當卯迄百五拾九年
 御目見仕候、旦那三百二十六人也

  1. *開基帳は、水戸藩が領内社寺改革のため寛文3年(1663)に領内社寺の調査のため村々に書上げを命じたもの。同5年寺社奉行を設置、寛文6年寺院整理に着手する。元禄年間(1688-1704)まで続く。
  2. *永正二乙丑年は西暦1505年

[史料4]寛文3年(1663) 水戸藩「開基帳」真言宗河原子村の条

   河原子村
 高壱石壱斗弐升七合 先高無、彦坂少刑部御繩之時見捨、郷高之外寺内  海岳山 一心院  普濟寺 醍醐山無量壽院末寺能化
  同 断高拾石七斗弐升三合    寺領
  同 断高三斗九升六合      天神免
應永拾九壬辰年宥傳法印開基、當卯迄弐百五拾弐年、代々師之
禪定之床上ニ法衣密教之恵命、信心之觀座ニ祈国郡之繁茂、
故祖師曰眞言密教為國忠也、於家孝也、 御目見仕候、
末寺五ケ寺、門徒二十三ケ寺、旦那七百拾人

  1. *彦坂少刑部御繩:幕府代官彦坂元正による検地
  2. *見捨:朱印地や除地以外の無年貢地
  3. *醍醐山無量壽院:真言宗醍醐派の総本山醍醐寺(京伏見)の塔頭無量壽院
  4. *能化:一山の総主
  5. *応永19年:1412年

[史料5]『新編常陸国誌』「村落篇」油繩子村の条

《普濟寺》〔真言宗、醍醐松橋無量壽院末、海岳山一心院ト號ス〕事佛寺篇ニアリ、延享元年鐘銘云、常州多賀郡海岳山普濟寺者、應永中密乘沙門宥傳、創建一宇於大久保邑、安置不動尊、勸修有年、靈應亦著焉、慶長中、有故遷瓦子濱、不幾依水戸義公命、移油繩子村八幡社舊趾、既而佛宇僧房爰備、朝懺夕誦無懈、密場在河根凡十有四、海岳亦其一也、然而現住乘譽闍梨、恨梵鐘猶虧、病微力不能、於是勸奬四方緇素、購得於施財若干、乃命鳧氏、華鯨新成云云、

《東福寺》〔真言宗、友部法鷲院末、無量山慈眼院ト琥ス〕除地七石、

  1.  *『新編常陸国誌』は普済寺の歴史について、延享元年(1744)の鐘銘によっています。今、その鐘はないので確認できません。水戸藩は天保14年3月に大砲鋳造のため撞鐘の没収をおこなっており(『新修日立市史 上巻』694p)、そのときに失われたのかもしれません。
    その鐘銘に「慶長中、有故遷瓦子濱」。慶長年間(1596-1615)に故あって河原子浜にうつしたとあります。どんな事情だったのでしょうか。表にはだせない負の理由とは、水戸藩政とのかかわりのなかで移転させられことを推測させます。

[史料6]『新編常陸国誌』「佛寺篇」普済寺の条

【普濟寺〔多賀郡油繩子村、本寺醍醐松橋無量壽院〕】

除地二十三石、海岳山一心院ト號ス、モト河原子村ニアリ、末寺一ケ寺アリ、血脉云、湊花藏院宥待附法宥傅大窪一心院開法、即今川原子普濟寺開山祖、

  1. *附法とは「師が弟子に教法を伝授して、後に伝えさせること。また、それを伝授された門弟」と『日本国語大辞典』にあります。つまり湊の花蔵院の宥待から教法を伝授された弟子の宥傳が大窪に一心院をひらいたと言うのです。
  2. *なお湊村の花(華)蔵院の開基を『茨城県の地名』(平凡社)は「戒珠山華蔵院沿革誌」によって応永22年(1415)としていますが、[史料4]にあるように「開基帳」は、普濟寺の開基を応永19年としています。華蔵院より普濟寺の方が古くなってしまいます。『新編常陸国誌』の佛寺篇華蔵院の条に「血脉云、宥尊〔宗俊上人〕、附法宥待〔湊戸華藏院應永廿二年附法〕」という記述があります。これは華藏院を開基したのが宥尊で、宥尊は弟子宥待に附法を応永22年にさずけた、と理解します。応永22年は華藏院の開基を意味するものではありません。「戒珠山華蔵院沿革誌」の誤りと考えます。成立のはっきりしない「沿革誌」より寛文3年成立の「開基帳」を優先させます。華蔵院の開基のはっきりしたことはわかりません。「開基帳」に華蔵院が脱け落ちているからです。
  3. *華蔵院を開いた「宥尊」については、宮内教男「開基帳にみる中世常陸北部の真言宗」(『茨城県立歴史館報』第34号 pp.42-43)を参照。

[史料7]文政期「御領鎮守神名附」油繩子村の条

   油繩子村

一 若宮八幡     元禄八亥十月廿二日御潰し被成候               同村福寺
   神躰幣
   跡地ハ攝津ニ御預ケ也。氏子ハ諏訪村諏訪明神氏子ニ可
   相成申渡候

古文書学習会編『水戸領鎮守神名附』

[史料8]明治14年(1881)8月 野口勝一「多賀紀行」

此日[明治14年8月11日]は本路に従ひ泉川に遊ハす大沼、金沢、大久保等を過きて下孫に一休。油繩子に至る頃には日西に傾き、日光斜めに傘簷内に入て、人を照し車上甚た困む。此村ハ米商殊に多きの処、郡の北部の産米ハ多來て茲に賣るを常とす。是れ北ハ水田に富、南部は陸田多く、南の需要皆茲に仰くを以て是此地米穀の咽喉を扼するか為めなり。

  1. 畑および畠は国字です。中国の漢字に「はたけ」に該当するものはありません。ですから日本で畑・畠という漢字がつくりだされました。中国では水田も畑も田です。そんなことから野口が水田に対応して陸田と言っているのは、畑をさしています。畑に井戸を掘り、その水で稲を育てる今いう陸田ではありません。

『茨城日日新聞』(茨城県立歴史館蔵)

[史料9]文化5年(1808)12月 島村孫衛門書状(別高松岡領村々より油縄子村等へ穀物売出しにつき)

以書付致啓上候。別高村々より穀物賣出候節村々庄屋より切手指出候所、去卯十一月廿日より同十二月廿九日迄之分御取揃御廻被成候付、爲突合候得別冊之通リ扱下より切手指出不足ニ有之由申出候所、別高村々賣高相過候儀ハ違、入穀之疑心も無之候様存候へ共、切手不足ニ付此段得御意候。尤御新法之儀故村々小人共へも精々申含候由ニ候へ共、大勢之儀不行届事と相見廻申候。別冊之内ニも何村誰へ賣渡候旨申出候者も有之、又ハ村名計申出賣渡候者之名前相分り兼候分も相見申候。委細ハ別冊ニ御承知可被下候。旦御扱下村々へ指出候賣高書付、是又別紙之通御座候。右旁可得御意如斯御座候。以上
  十二月廿七日          島村孫衛門
    加藤孫三郎様
     覺
一、籾千三拾弐俵弐斗壱升
一、米千弐百七拾弐石三斗八升
   内 籾百三拾七俵
     米四拾四石弐斗五升
   是油繩子村等へ賣穀分合判手形不足ニ相見候分
別高村々去卯十一月廿日より同十二月廿九日迄油繩子村等へ賣穀分、前書之通御座候、以上
  辰十二月
村々糺書付ハ略ス
  1.  *この文書は、水戸藩附家老中山氏の家老島村孫衛門が石神組郡奉行加藤孫三郎にあてた返答書

石神組御用留研究会編『水戸藩郡奉行所 文化六年石神組御用留』

[史料10]文化6年(1809)8月28日 加藤孫三郎書状(別高松岡領村々より油縄子村等への去辰年分売穀手形を送付するにつき)

以書付致啓達候。御別高村々より扱下油繩子等村々指出候去ル辰年[文化3 1820]分賣穀手形別紙ヲ添相廻申候間、宜御取扱可被成候。尤手形之内弐拾弐枚紛失いたし候ニ付、爲相糺候も相分兼候所、買入帳之面ハ相違無之候間、相尋跡より指出候様申達候事ニ御座候。右之段得御意度如此御座候。以上
  八月廿八日           加藤孫三郎
   島村孫衛門様

前出『水戸藩郡奉行所 文化六年石神組御用留』

[史料11]文政6年(1823)正月23日 油繩子村穀問屋市定日并斗枡之事

文政六未正月石神御郡奉行所中より申來ル
  正月廿三日           梶澤衛門
     岡本戸大夫様
右之趣村々へ相触候事

文政5〜9年 御郡方御用留類聚(松岡中山家中高橋家文書 茨城県立歴史館蔵)

[史料12]文政6年(1823)2月 油繩子村穀問屋仕法変更に付松岡領村々願

同年二月村々より願出ル   文政六年未二月           二十四ヶ村役人連印
                     御山横目三人 末印
[朱書]「外ニ山中郷并大津村ハ除ク」
右願書三月十日御用衆へ指出候

前出「御郡方御用留類聚」

[史料13]文政6(1823)年9月 油繩子村穀問屋仕法変更に付松岡領村々再願

同年九月再願
                    二拾四ヶ村惣役人連印
                     御山横目三人 末印
右願書十月朔日御用衆へ指出候
石神御陣屋へ御懸合ニ相成候旨御達

前出「御郡方御用留類聚」

[史料14]文政6年(1823)10月 油繩子村米賣買仕法に付石神組郡奉行所達

同年十月石神御郡奉行中より申來ル
  十月廿二日           梶澤衛門
      岡本戸大夫様
      山口六郎衛門様
右之通申來候ニ付支配支配之村々相達候様御山横目共へ相達候事

前出「御郡方御用留類聚」

[史料15]文化6年(1809)正月 油繩子村稗御蔵新規御普請御入目積大図

     油繩子村稗御藏新規御普請御入目積大圖
一、稗御藏壱棟 長弐拾間 横三間
   惣礎、萱葺、板敷、中ニ弐ケ所仕切、戸口三ケ所付、大坪
   打錠鑰共内より大壁外通押廻候、割竹にて渋気除、打柱ハ松
   丸太之儘山刀鎌剥キ、戸付或ハ穴掘候所計斧ヲ以打落、其外
   根太梁等迄山刀鎌剥
一、惣地形弐百弐拾五坪
   但、松竹雜木等不殘根掘リ、壱尺より弐尺迄土ヲ盛築立、石
   鈎突にて堅メ
一、囲くね
   但、五尺間宛ニ松柱打、竹柵
       右御入目
一、中竹五百五拾本  一、小竹弐千本
一、佐良竹八百本   一、太繩四百房
一、細繩六十房    一、五寸錠三ツ 大坪鑰共
一、三寸釘五把    一、足五寸釘百弐拾把
一、足六寸釘弐拾五把 一、指詰四寸釘七拾本
一、指詰五寸釘    一、同六寸釘三拾六本
 〆鐚[以下記載缺]
 金〆[以下記載缺]
   但金壱分ニ鐚[以下記載缺]
 付札
  錠前并釘代等都高直ニ有之段、御付札ニ相見申候所、右之分
  ハ何候も入札物ニ御座候間、何ニも落札之面ニ申付候様致度
  候
 御付札錠并大坪鍵共積リ之書候間此分相渡可申候、幅かきかね等寸合可被
 申出事
一、萱九百束   但五尺結繩
   此代金[以下記載缺]
     但金壱分ニ萱・鐚前同断
 弐口〆金[以下記載缺]
一、下大工三百弐拾五工
   此御扶持米三石弐斗五升
     但壱工ニ付米壱升ツヽ
 付札
  内大工七拾五工先積リ過
     是ハ丸杭ニ相成候ハ墨曲尺甚六ツケ敷相成、其上最初
     面ヲ付候所墨曲尺仕元山ニ為打落、又候穴墨致候間弐
     度之墨曲罷成、板敷切はめ候ニも丸柱江壱本切ニ丸之切
     はめ候故、工数相過候趣御座候。扨又内より大壁ニ罷成
     候所、丸柱之儘ニ候ハ柱ニ曲も大ニ出這入有之、壁二
     まい持兼可申趣ニ御座候、外通ハ押廻シ割竹ニ渋氣除
     仕候所、是以甚出這入有之工数も相掛リ、且ハ持兼可申
     趣ニ御座候
一、下萱手七拾工
   此御扶持米七斗
     但壱工ニ付右同断
一、元山弐百六拾弐工
   此御扶持米三石九斗三升也
     但壱工ニ付米壱升五合ツヽ
   付札
    外元山工数先積リニ参拾四工程減
     是ハ、根太梁指ス人足山刀鎌剥ニ相成候ニ付、減柱ハ穴
     掘候所、面付候得ハ柱ニハ左迄之違ニも無之趣ニ御座
     候
一、人足千八百八拾人
   此御扶持米九石四斗也
     但壱人ニ付米五合ツヽ
   付札
    内人足三百八拾人程先積リニ過
     是ハ根太梁指ス等柱立人足山刀鎌剥キニ相成、其上丸木
     之儘にて山出仕候得ハ、大圖前書之通相過申候
 〆米拾七石弐斗八升
右油繩子村稗御藏新規御普請御入目積前書之通御座候所、松柱之儀
杉と違干揚候随狂付木症曲勝ニ、職人とも其品ニ當リ不申候
ハ積指支候由、誠ニ大圖積之趣申出候間、此上減過御座候儀ト奉
存候得共、前書付札之通先申出より大工人足相過申候、殊梁根太等
山刀鎌剥ニ致候ハ再皮残リ虫付ニ罷成年數保兼可申趣ニも候得ハ、
何レ御了簡之上早速御達御座候様仕度此段申出候、以上
 以付札追之積リ却御入用相過候付、初發積リ之通被仰付候、尤右積リ
 候内土台ハ相止メ礎ニ致候様可被取計事
(文化6年)正月                加藤孫三郎
釘之儀ハ入札ニ候共別口ニ分リ候品故、入札之方相止御普請方御買
上之品相用候様、右役所へ懸合請取、追代払可被致候事、右二月
朔日御達
  1.  *長々と建築見積書を紹介しました。史料17も同様なのですが、当時の建築方法が具体的に知りえる史料だと思ったからでした。なかなかこういう史料はありません。

前出『水戸藩郡奉行所 文化六年石神組御用留』

[史料16]文化6年(1809)7月 油繩子村稗御蔵地所買上請取手形裏判依頼状

     覺
 文金壱両壱分小粒
  此山七畝拾歩
右、油繩子村稗御藏壱棟當巳年中新規相建候付、土地所相場ヲ以御
買上代被下置候付、請取手形仕出候条、御裏判相濟候様致度奉存候、
尤此段吟味方へも御断可被下候、以上

前出『水戸藩郡奉行所 文化六年石神組御用留』

[史料17]文化6年(1809)10月 石神外宿・油繩子村稗御蔵修繕見積書

     覺
外宿村
 稗御藏弐棟     但、長拾五間 横三間
 [中略]
油繩子村  稗御藏弐棟 但、長拾五間 横三間    是壱棟ハ押ほこ出渋氣除等迄相破候付、表之方丸葺替、其    外ぐし取替、所々繕指萱之積        右御入目 一、萱弐百六拾束  但、五尺〆縄    代金弐両弐分  但、金壱分ニ弐拾六束積 一、太繩百三拾房  但、五拾尋手組 一、細繩弐拾房   但、右同断 一、中竹百弐拾本 一、小竹百本 一、さら竹三百本 一、萱手四拾三工    此御扶持米四斗三升 但壱人ニ付米壱升□□ 一、人足百人    此御扶持米五斗 但壱人ニ付米五合ツヽ 右、石神外宿・油繩子兩村稗御藏四棟當秋□嵐之節、家上所々相破 候付御修覆申出候間、支配見分爲仕候所誠ニ及大破、外宿村御藏之 儀、弐棟共下地より不殘葺替不申候ハ御修覆相届兼、油繩子村 之儀、壱棟ハ軒口下リ家上押ほこ出渋氣除共相破候付、表ノ方 御面不殘葺替、外壱棟もぐし其外大破ニ相成雨漏候、場所指萱不仕 候ハ雨洩之程難計候旨、見分之支配前書之通、御入用大圖ニ積申 出候間、當暮御修覆仕度奉存候付、早速御達御座候様致度、此段申 出候、以上   [文化6年]十月          加藤孫三郎

前出『水戸藩郡奉行所 文化六年石神組御用留』

[史料18]旧水戸藩救荒蓄稗収支方法概記

  1.  *この史料は水戸藩役人であった塙重任が廃藩置県後に政府に提出したもの。なお天保2年に藩主斉昭が常平倉の設置をすすめようとしたが、郡奉行たちは稗の貯蔵を優先させるべきと進言し、斉昭は受けいれた。その2年後大飢饉が東日本を襲う。郡奉行たちの現実をみる眼はたしかだった。斉昭と郡奉行たちのやりとりが『水戸藩史料 別記巻七』に収録されている。機会があったら紹介しましょう。

『水戸藩史料 別記巻七』